第3部 変生者
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
5年の月日が流れた。
レウウィスはそれまでの間、ヘルガが目を覚まさないことに心を痛めながらも、決して彼女を喰らおうとはしなかった。
鬼の血を取り込んだ彼女は、かろうじて命を繋いだものの、5年の間、目を覚ますことはなかった。彼女の体はあまりにも静かで、まるで死んだかのように冷たく感じられた。しかし、彼の胸の中には、どこかで彼女が帰ってくるという予感が強くあった。
レウウィスは、時折血を与えながら待ち続けた。彼は焦りや絶望を抱えながらも、彼女が必ず目を覚ますと信じて疑わなかった。
ラフィや邸宅の鬼たちは、彼の行動を見守ることしかできなかった。
季節が巡り、邸宅の庭には新たな花が咲き誇るようになった。ある晩、レウウィスがヘルガの手を取って血を与えようとしたその時、微かな変化が彼女に訪れた。
ヘルガの唇がわずかに動き、目を開けようとする兆しが見えた。その瞬間、レウウィスは胸を高鳴らせ、手を震わせながら彼女を見つめた。
「おはよう、レウウィス」
彼女はかすれた声でそう言うと、弱々しく微笑んだ。
「なんだか長い夢を見ていた気がするの。私が雪の中、倒れて……。誰かが助けてくれたのだけど」
彼女はゆっくりと瞬きをして、記憶を辿るように天井を見上げた。その視線が宙をさまよい、やがて焦点を結んだ時、彼女はハッとして起き上がろうとした。しかし、体が重くて動かないのか、すぐに苦しそうな表情を浮かべて顔を歪めた。レウウィスは息を呑んだ。彼女の声が、こんなにも温かく、力強く響くことに驚き、そして喜びを感じた。彼女は間違いなく生きているのだ。
レウウィスはベッドの横に駆け寄り、彼女の手を握った。
「無理をするな。5年も寝ていたのだぞ。まだ動くのは難しいはずだ」
彼はヘルガを安心させるように笑みを見せると、彼女の手を強く握り締めた。ヘルガは不思議そうにレウウィスの顔を見ると、わずかに眉を寄せて目を細めた。
「……そんなに、長く? まるで御伽噺の眠り姫のようね」
「ああだが、お前は帰ってきた」と囁いた。
「え?」
「おかえり、ヘルガ」
「ただいま……レウウィス」
二人はお互いの瞳をじっと見つめた。レウウィスはずっと恐れていたことがあった。それは彼女が再生しないかもしれないということだった。彼女が再び目を開けるまで、希望を持ち続けることができなかった。彼女のいない日々はあまりにも長すぎたのだ。
「私は、君がいない間、地獄のような時間を過ごしたよ」
レウウィスはヘルガの体に顔を埋めると、彼女の香りを吸い込んだ。ヘルガは彼の背中に腕を回すと、ぎこちなく抱きしめ返した。
ヘルガはその様子をじっと見つめていた。あんなに強く、恐ろしく大公という身分を持つ男が、今は一人の女、人間にすがっている。その光景は不思議なものに思えた。
しかし、彼女はその感情に嫌悪感は抱かなかった。むしろ、自分よりも遥かに強い存在であるはずの生き物に対して、愛しささえ感じ始めていた。
「ヘルガ、君に伝えなければならないことがある」
レウウィスはヘルガの手を握りしめ、真剣な眼差しを向けた。彼の胸は締め付けられるような痛みでいっぱいだった。こんなにも彼女が目を覚ましてくれたことが嬉しいのに、その一方で告げなければならないことがある。その苦しみをどう伝えればよいのか、言葉が見つからなかった。
「君の身について話さなければ」
レウウィスは、彼女の頬に触れ、その温もりを確かめるように撫でた。彼の手のひらは震えていたが、ヘルガの肌の感触に安心感を覚えつつも、心の中で苦悩が膨らんでいった。
「君の身体には、鬼の血が流れている。君は、私の血を受け入れたんだ。おそらく、それは私の血が混ざっているせいだろう」
言葉が重く、部屋の空気が静まり返る。ヘルガはその言葉に驚き、手を自分の胸に当てた。しばらくその場に立ちすくんだまま、彼女は言葉を失っていた。思いもよらぬ告げられた事実に、何をどう受け入れればよいのか、戸惑いが顔に浮かんでいた。
「鬼の血……?」
ヘルガはゆっくりと問いかけた。彼女の視線は、レウウィスの目を見つめたまま、困惑の色を隠せない。
「どうして私が、そんなものを受け入れることになったの?」
「私がお前を見つけたとき、お前は既に瀕死の状態になっていた、止む無く血を与えたのだ」
レウウィスは歯切れ悪く答えた。
レウウィスは、言葉を選びながら続けた。
「私が与えた血でお前は生きているのだろう。お前は、私と同じ血を持っているのだ」
「……同じ血? どういうこと? 私は鬼じゃないわ」
「そうだ、お前は人間だ。しかし、私と同じ血が混じっている。手を見たまえ」
ヘルガは自身の手を見ると、うすだいだい色から色素薄くなったような、白っぽい肌をしていた。特に爪が変化を象徴していた。爪は以前よりも少し硬質で光沢があり、鬼の特徴に近いものとなっていた。色味もやや黒みがかり、普通の人間の爪とは一目で異なるのが分かる。
「ヘルガ、私を許してくれ。お前を助けようと、血を与えてしまったことを」
彼女は言葉を詰まらせた。レウウィスの言葉が嘘だとは思ってはいない。しかし、彼が自分にした行為は、到底受け入れられることではなかった。
「レウウィス、ありがとう。でも、どうしてあなたが謝る必要があるの? 私は、自分が助かっただけで充分」
彼女はレウウィスの手を握ると、大丈夫だというように、微笑んだ。
**
ヘルガの体には、明らかな変化が生じていた。まず、人間特有の匂いがほとんど消えてしまったことだ。彼女が血を流しても、その香りは以前よりもはるかに薄くなり、レウウィスが言うには、完全に鬼のものとは異なるが、どこか中間のような不思議な気配がするという。もっとも、血そのものの「味」は人間とほとんど変わらないらしい。
さらに、彼女の体には再生能力が備わっていた。鬼のように瞬時に全ての傷が治るわけではないが、浅い傷や小さな怪我であれば数時間のうちに自然に癒えてしまう。それは、普通の人間では考えられない速さだった。ヘルガ自身も、体の変化を感じていた。以前なら傷を負えば痛みが長く続いたはずなのに、今は痛みすらすぐに消え、傷跡もほとんど残らない。
以前のヘルガは、人間であることが露見しないよう、常に手袋をして生活していた。手指が傷ついて血が流れれば、周囲も混乱し、人間だと知られる危険があったからだ。彼女にとって、手袋は自分を守るための一種の鎧のようなものだった。
「手袋をしなくてもいいって、ずいぶん楽ね」
ヘルガは小さく笑いながら、レウウィスに目を向けた。その笑顔はどこか吹っ切れたようにも見える。ヘルガは、もう一度自分の手を見下ろした。意識をすれば、柔らかな人間の手に戻れるようになったとしったとき、彼女は安堵したものだった。身体能力の向上も実感する瞬間が増えていた。特に瞬発的な動きや反射神経は、人間だった頃とは比べ物にならないほど鋭敏だった。以前はの彼女では、レウウィスの動きを察知するのがやっとだったが、今はその姿を捉えることすらできる。
そして時が流れる――
それからまた十年。ヘルガの外見は、死を彷徨ったとき、あの時から全く変わっていなかった。二十後半の若さを保ったまま、彼女の身体は老いという現象を拒み続けていた。鬼の血の影響なのか、それとも彼女の身体が持つ特異性によるものなのか、その理由は未だに解明されていない。ヘルガは鏡を見つめ、そこに映る自分の姿にふと苦笑した。十数年という歳月が経ったにもかかわらず、肌には皺ひとつなく、髪も艶を失わない。普通ならば三十代半ばを迎える年齢だが、その実感はまるで湧かない。
「本当に、時間が止まってしまったみたいね」
彼女の声には諦めとも、ある種の受け入れとも取れる響きがあった。
周囲の人々は、彼女の変わらない姿に驚き、時には羨望の眼差しを向けた。しかしその一方で、人間らしい老いを経験しないことが、ヘルガに孤独を感じさせる瞬間もあった。
「ヘルガ、ここにいたのか」
振り返るとそこには、レウウィスが立っていた。十年の時を経た鬼の彼もまた変わらない姿をしていた。
「レウウィス」
ヘルガは微笑みながら彼を迎えた。その笑顔は相も変わらず、柔らかく温かい。しかし、その笑顔の裏にあるものを、レウウィスは理解していた。
――変わらない姿を見るたびに思うよ。この不変というものが、祝福なのか、それとも……。
レウウィスは言葉を途切れさせ、空を見上げた。その瞳には、彼自身の複雑な感情が渦巻いているのが見て取れた。レウウィスの心には、愛と狂気が混じり合った深い渦が渦巻いていた。ヘルガが苦悩し、戸惑う姿を目にするたび、胸の中で湧き上がるのは、罪悪感ではなく、異常なまでの歓喜だった。
君はもう私のものだ。他の誰の手にも渡さない。たとえそれが君自身の手であっても。ヘルガが鏡を見つめ、変わり果てた自分の体に触れる指先が震える様子、そして深く溜め息をつくその声。救ってもらった、レウウィスに引け目を感じてか、彼女は彼の前では決して公開の言葉を口にすることはない、気丈さ。どれもが彼にとって、甘美でたまらない響きに感じられた。
ヘルガが変わり果てた自分を受け入れられず、目を伏せて涙を流す時、レウウィスはその涙をじっと見つめ、胸の鼓動が高鳴るのを止められなかった。悲しむ彼女を慰めたいという思いが確かにあった。しかし、その涙が彼にだけ許された特権であるかのように感じてしまう歪んだ感情を抑えきれない。決まって、涙を流す彼女は美しく、その姿をもっと見たいと願ってしまうのだ。
レウウィスは、彼女の頬を伝う雫を舐め取った。
「あなたは、またそういうことを……」
恥ずかしさと困惑が入り混じったような顔で見上げる彼女に構わず、彼はさらに彼女の体を引き寄せた。
「泣かないでくれ」
キスをされているのだと気づいた彼女は顔を赤らめた。今までの彼女であれば、レウウィスの胸を押し返し、拒否していただろう。しかし、今の彼女は、拒まなかった。それどころか、彼の背中に腕を回し、自分の方へと抱き寄せた。レウウィスは驚いたように彼女を見たが、すぐに口元を緩ませた。彼女の唇は少し冷たく、柔らかかった。彼女はまだ戸惑っているようだったが、やがてレウウィスの背を優しく撫で始めた。その仕草はまるで子供をあやす母親のようで、心地よかった。
彼女の細い腰を抱き寄せると、そのままベッドへ押し倒した。
――君が戸惑う姿も、美しいだろうなぁ。
**
ヘルガはレウウィスと何度かの夜の情事を重ねていた。
夜になると、彼女はレウウィスの部屋を訪れる。シャワーを浴びてから、二人は互いの温もりを分け合う。最初は緊張して強張っていた体も、次第に慣れていったのか、素直に受け入れるようになっていた。初めてのヘルガとの営みは、彼女が人間であったからこそ無理なことはできなかったが、今のヘルガは、鬼の血の影響か体力があり、痛みを感じることはなかった。ただ、彼女の体を傷つけないようにするのが大変だったくらいだ。
初めはぎこちなかったが、今ではレウウィスもすっかりと慣れて、彼女も自ら求めてくることも増えた。そんな様子の変化を見ると、レウウィスの中に言い知れぬ満足感と独占欲が生まれるのだった。
レウウィスは己の醜い支配欲求が満たされていくのを感じた。
彼女はとても従順だった。
初めの頃こそ恥じらいを見せていたが、最近では自ら服を脱いで誘うこともあった。彼女の肌は柔らかく、滑らかで吸い付くようであった。触れるたびに熱を帯びて上気していく様子はとても美しく、何度噛みつき血を味わっても飽きることはない。
ヘルガも、レウウィスが求めれば求めるほど、彼に対する想いは強くなっていく。
ヘルガは性欲のはけ口にされているのかと思っていたが、レウウィス言葉や行動に愛や執着を感じることが増えてきた。寒ければガウンでヘルガを包み、髪を撫でる。愛を囁くようにキスをして、時には体を愛撫する。そんな時のレウウィスの声色は甘く、優しいものだった。夜の営みも無理強いはしない、ヘルガが嫌だと思えば止める。
でも、私が愛してもいいのかな……。食用児である私がこんなに幸せな思いをしても良いのだろうか……?
独り、バスタブにお湯を張って入るヘルガは、湯面に浮かぶ泡を見つめながら物思いにふける。
「ヘルガ、まだ入っているのかね?」
レウウィスの声が扉の向こうから聞こえてきた。
「もうすぐ終わるわ、先に休んでて」
バスタブの湯が波立ち、天井から滴り落ちる水音が部屋に響く。彼女は静かに立ち上がり脱衣場に出た。
鏡の前に立った彼女は、白いレースの下着をつけ、上からバスローブを羽織った。
「お待たせ、レウウィス。髪が乾かなくて時間がかかってしまったのよ、レウウィス?」
レウウィスはソファの上で横になり、寝息を立てていた。空のワインボトルが床に転がっていた。度数の高い果実酒は、レウウィスの喉を焼き、酔いが回ったようだった。
彼はいつものように彼女を待っていたが、待ち疲れたようだ。
彼女は起こさないようにゆっくりと近づき、彼が起きないことを確認すると、彼女は彼の面を外し頬にそっと触れた。
「……レウウィス、良い夢を」
レウウィスの膝にブランケットをかけながら、彼女は小さく呟いた。
そして、彼の隣に腰かけると、寄り添うようにして眠りについた。
