第2部 新天地
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「ねぇ、レウウィス。マチルダから聞いたの。冬になる果実があるんですって。取りに行きたいのだけれど、外に出てもいいかしら」
「冬になる果実、か」
レウウィスは少し考えるように言った。その声には、微かな躊躇が混じっていたが、彼女の無邪気な願いを止める理由にはならなかった。彼は、ヘルガの純粋な欲望を大切にしたいと感じていた。
「外に出ても構わない。ただし、無理はしないように。寒さが厳しいから、気をつけろ」
ヘルガはその答えに嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見たレウウィスの心の中で、あの切ない欲望がまたひとしずくずつ深まっていくように感じた。
「ありがとう、レウウィス」
「いいんだ。ただし、パルウィスを連れて行くように」
「えぇ」
ヘルガは軽く手を振り、ペットのパルウィスを呼んで部屋を出て行った。レウウィスはその後ろ姿を見送り、静かにため息をついた。その表情は、どこか物憂げだった。
ヘルガは部屋を出るとすぐにパルウィスに声をかけ、手に持っていた小さな包みを広げた。中には新しく作った洋服が丁寧に包まれている。パルウィスはその包みを見た瞬間、嬉しそうに小さく声をあげ、すばやく駆け寄ってきた。
「お洋服、気に入ってくれるかしら?」
ヘルガは微笑みながら、優しくパルウィスに服を着せた。猿を模した鬼の姿のパルウィスは、きょとんとした顔でじっと彼女の手元を見つめている。服を着せると、パルウィスは「キキッ!」と返事をし、嬉しそうに手足を動かした。
その姿を見たヘルガは満足げに微笑んだ。
「よかった、似合ってる。これでお外に行けるわね」
パルウィスは元気よく「キキッ!」と返事をし、彼女の足元を跳ねながら歩き出した。ヘルガはその後ろ姿を見つめ、心の中で微笑んだ。目の前にある小さな幸せに、胸がいっぱいになった。
「じゃあ、行こうか」
ヘルガはそう言って、パルウィスと共に屋敷の外に出る準備を整えた。
屋敷の外に出ると、ヘルガは早速行動を開始した。まずは近くの林に入り、食料になりそうなものを探し始める。森は静まり返り、遠くの木々が風に揺れる音が聞こえるだけだった。ヘルガの耳に届くのは、自分の足音と、小鳥のさえずりだけだった。
「少し寂しい場所ね」
ヘルガはひとりごとのように呟き、足元に生えていたキノコを拾った。それは食用のもので、彼女のお気に入りのひとつだ。
しばらく森の中を歩き回ったヘルガは、静かな森の中に、少しだけ心を和ませながらも、次に何を探そうかと考えていた。
ヘルガは静かな森の中を歩きながら、周囲の様子に目を凝らしていた。それは枝からぶら下がっていた小さな実で、見た目には少し凍りかけたように見えるが、艶やかな赤色が印象的だった。
「これが、冬の果実?」
ヘルガは思わず声を漏らし、手を伸ばしてその実をつまんだ。冷たい風にさらされていたためか、少し硬く感じられたが、手に取ってみると、甘い香りがほのかに漂ってきた。果実の表面は凍ったように硬く、その中に小さな氷の粒が閉じ込められているが、しっかりとした実が内側に詰まっているのがわかる。
ヘルガはその実を慎重に外して、手のひらにのせた。
「パルウィスも食べる?」
ヘルガが声をかけると、パルウィスは「キィッ」と答え、彼女の肩に飛び乗った。ヘルガの手の上にある赤い果実に興味津々の様子で、小さな鼻をひくつかせている。
ヘルガは微笑みながら、実を少しだけ割ってみせた。
「ほら、ちょっとだけね」
果実の中から果汁が溢れ、甘い香りが広がると、パルウィスはさらに興奮した様子で、それを受け取った。パルウィスは嬉しそうに果実を小さな手で握りしめ、一口頬張った。その表情は満足げで、ヘルガの方を見上げて「キキッ!」と喜びの声を上げる。
「おいしい?」
ヘルガは優しく問いかけると、パルウィスは満足げにうなずく。ヘルガもまた嬉しそうに微笑んだ。
「それは良かった」
ヘルガはパルウィスが喜ぶ姿を見て、自分の中に満ちていく幸福感を感じた。その感情はまるで、全身を暖かく包むような安心感をもたらしてくれる。
ヘルガは手の中にある果実を眺め、再び口に運んだ。甘く爽やかに弾ける果実の味が、心の中に広がっていく。
「本当に美味しいわ」
ヘルガはそう言いながら、もう一度果実を口に運ぶ。
「それにしても、こんなにも美味しくて栄養があるなら、もっと早くに気がつけばよかった。ケーキとよく合うわ」
ヘルガは独り言をつぶやくと、次の果実を探すために立ちあがった。
「でも、もうそろそろ帰らないと」
ヘルガはそう言うと、名残惜しそうに立ち上がった。そして、パルウィスを連れて屋敷へ戻ろうとした時だった。突然、頭上からバサバサという大きな羽音が聞こえてきた。
ヘルガは空を見上げ、羽音の正体を探るように目を凝らした。その空には、寒さにもかかわらず何羽かの大きな鳥が翼を広げて飛んでいるのが見えた。しかし、その姿にただならぬものを感じ取った。
「不思議ね、まるで何かから逃げているような」
その言葉が口をついて出た瞬間、ヘルガの胸に一抹の不安がよぎった。鳥たちが飛び立つ様子に、不吉な予感が重なっているような気がしてならなかった。
パルウィスも不安げに空を見上げ、耳を立てている。その様子に、ヘルガはさらに警戒心を強めた。何かが起きる予感がする。
「急いで帰らないと」
ヘルガは声を低くして呟き、足元をしっかりと踏みしめながら、ゆっくりと屋敷へと向かって歩き出した。パルウィスもその後ろにぴったりとついてきた。
速足で歩く彼女は、雪に足を取られてしまうことが何度かあった。雪は思った以上に深く、足元を不安定にする。歩くたびに足が沈み込み、歩幅を狭めなければならなかった。
雪に足を取られた瞬間、足元が崩れ、バランスを崩して崖の縁から滑り落ちた。
――雪で足場が隠れてたんだ!見えなかった。
冷たい風が顔を切り裂くように吹き、あっという間に足元が空虚になった。雪に埋もれた地面が消え、急激に落ちていくのを感じた。目の前に広がる暗い空間が、彼女を包み込んだ。
その先に見えたのは、崖の下の岩場。ヘルガは無意識に手を伸ばし、なんとか身体を支えようとするが、身体は滑り落ちる勢いに抗うことができなかった。次の瞬間、鋭い衝撃が背中を打ち、痛みが一気に広がった。悲鳴も上げられないまま、冷たい岩に叩きつけられた。
「うっ……!」
ヘルガはうめき声を上げ、体を起こそうとするが、肩と脚にひどい痛みが走る。見下ろすと、手のひらに赤い液体が広がっているのが見えた。血が、彼女の体から漏れ出している。雪に染み込んでいく赤い跡が、目の前の現実をひどく鮮明に感じさせる。
「……パルウィス!」
声を絞り出すが、答えるものはない。どこかでパルウィスともはぐれてしまったらしい。
その時、背後で不穏な足音が近づいてくるのを感じた。振り返る暇もなく、ヘルガは恐怖に満ちた目で周囲を見渡す。黒い影が迫り、視界に入り込んできた。それは、形の不確かな野良鬼だった。目が血走り、唸り声をあげながら、彼女に向かってゆっくりと近づいてきていた。
ヘルガは槍を握りしめ、必死にその先を相手に向けた。
野良鬼を処理していくも、その数が多すぎて、なかなか逃げることができない。
――せめて、背中から血が流れなければ。
野良鬼はヘルガの血の匂いに誘われて、じりじりと彼女に近づいてきた。その動きはまるで獲物を見つけたかのように、ゆっくりとした確実なものだった。今まさに襲いかかろうとしている。
――動いて、私の身体。
ヘルガは必死にそう願いながら、肩と足の傷を抑えつつ、無意識に後ずさりを始めた。しかし、すぐに壁が彼女の行く手を遮った。逃げ道を失った彼女は、目の前に迫る野良鬼を前に、呆然と立ち尽くしていた。
「助けて……レウウィス」
ヘルガはかすれた声で助けを求めたが、その言葉に応える者はいない。
**
パルウィスが一人で戻ってきた。普段の穏やかな鳴き声ではなく、切迫した異常を感じさせる鳴き声を上げながら。小さな体は震え、焦りと恐怖を隠せない目が、ヘルガに何かが起こったことを知らせていた。
従者すべてにヘルガの捜索を命じた。
胸の中で不安が膨らみ、レウウィスは森へ足を速めた。パルウィスの鳴き声が彼をさらに急かすように響き渡る。
邸宅を飛び出したレウウィスの心臓は激しく鼓動し、冷たい雪を踏みしめながら、必死にヘルガの元へ向かう。彼女が無事でいることを信じたかった。
――そして、見つけた。
目の前に広がるのは、ヘルガの足を食べる野良鬼の姿だった。あまりの光景に、レウウィスの怒りが爆発し、目の前の野良鬼を無惨に引き裂いた。正確には、爪を鋭く突き立てて腸を引き裂き、容赦なくその肉を切り裂いていった。
「…………」
レウウィスは言葉を発することなく、息を荒げてヘルガの元に駆け寄った。そして、その身体を抱き上げた。
ヘルガの心臓はまだ止まっていなかったものの、既に瀕死。背中からはおびただしい量の血液が溢れ出し、左足と右足が欠損していた。
その傍には、レウウィスが与えた槍は、修復が不可能なほど折れていることから、彼女が最後まで抵抗したのだと悟った。
「どうしてこんなことに」
ヘルガの表情は驚くほど穏やかで、瞳は閉じられていた。まるで眠っているかのように。その様子に、レウウィスは全身から力が抜け、地面に膝をついた。目の前の現実を受け入れられないように、彼はゆっくりと呟いた。
「ヘルガ……起きろ」
その呼びかけに、ヘルガは一切応えない。彼女の身体から温もりが消えていくのを感じ、絶望が胸を突き刺した。
「頼む……目を開けてくれ」
懇願の声は虚しく響き、心の中でその答えを知りながらも、レウウィスは手を伸ばす。彼の目の前で、ヘルガはもう無理だろうと思わせるほど無力に見えた。だが、彼はそれでも諦められなかった。せめて……
――せめて、彼女が安らかに眠れるように。
仮面を外し、彼女を喰らおうとしたとき。パルウィスが必死にレウウィスの襟元を噛み、引っ張った。
「ここで殺さないと、他の誰かが彼女を殺すことになるのだよ」
諭すような口調だったが、パルウィスには通じなかった。パルウィスはただ首を横に振り、必死に主人を守ろうとしていた。レウウィスの肩にしがみつき、喉が壊れるような嗚咽を漏らす。
「よかろう、亡骸は邸宅に運ぼう。彼女は人間それが早まっただけだ」
レウウィスは自らの歯を噛みしめ、血を感じる。その痛みが、かろうじて現実を繋ぎ止めていた。だが、それでも胸の中に広がる虚しさと絶望感は消えることはない。
彼は無理にでも冷静であろうとし、ヘルガの亡骸を抱える手を震わせながら邸宅に向けて歩き出す。顔の血を拭うと、レウウィスは一瞬、ヘルガの口にそっと舌を触れた。
ヘルガを邸宅に運び込んだレウウィスの姿を見て、邸宅中の鬼たちは一瞬の沈黙に包まれた。彼の後ろに続くヘルガの姿、そしてその血が床に広がる光景は、まるで死を告げるかのように静寂を支配した。
ヘルガの召使であるマチルダは、その光景を見て思わず悲鳴を上げた。息を呑む間もなく、目の前に広がる無惨な状況に心が引き裂かれるような感覚を覚えた。ヘルガの血が床に広がり、その傍らには血まみれになったレウウィスが佇んでいた。
「大公様!一体何があったのです!?」
マチルダは急いでレウウィスに駆け寄り、その腕に抱かれたヘルガを見つめた。目の前の光景が現実であることが信じられず、声を上げることすらできなかった。
「すぐに手当てをしなければ!」
マチルダは焦りながらも、ヘルガを助ける方法を模索した。傷が深すぎる、いや、あまりにも致命的すぎる。まだ若く、経験不足の彼女は、この状況に対処できる自信がなかった。しかし、冷静さを取り戻し、必死に手当てをしようとする。
「無駄だ」
レウウィスの声は低く、冷たく響いた。
「彼女は死ぬ。我々とは違うのだ。再生することはない。」
その言葉に、マチルダは言葉を失った。レウウィスの口から発せられたその言葉が、まるで彼女の全ての希望を打ち砕くように響いた。再生を期待し、回復を信じていた彼女にとって、これほどの絶望的な言葉は無情でしかなかった。
マチルダは思わず涙をこぼし、ヘルガの顔を見つめる。彼女の無防備な姿、まだ息をしているその微かな温もりを感じて、どうしても諦めることができなかった。しかし、レウウィスの言葉が頭をよぎる。彼女は、もう再生しない。鬼としての力を持たぬ人間の体は、あまりにも脆弱すぎる。
「ではせめて、ヘルガ様を綺麗にしましょう」
ラフィが静かに言い、ヘルガの遺体を丁寧にベッドに寝かせた。彼女の顔には悲しみがにじんでいたが、それでも手際よく清めの準備を進める。香油を手に持ってレウウィスに差し出すと、彼は言葉を発さず、それを黙って受け取った。
「ヘルガ様……」
ラフィがその言葉を口にした瞬間、彼女がヘルガから離れようとしたその時、奇妙なことが起こった。ヘルガの肌がわずかに動いたのだ。最初は気のせいだと思ったが、すぐにそれが確かな変化であることに気づいた。皮膚の色が僅かに、そして微かに変わり始めている。まるで死んだはずの身体が、何かの力で動き出したかのようだった。
「大公様、今のを……」
「ああ、間違いない」
レウウィスは目を細めると、ヘルガの身体をじっと見つめ、そのわずかな変化を見逃さなかった。その現象が何なのかはわからないが、ヘルガの身体は確かに生きている。それは確信できた。
あの時――ヘルガを抱きかかえて、彼女の死に顔を見た時。絶望に沈みながらも、レウウィスは無意識にその口をそっとヘルガの唇に触れさせていた。そして、思い出す。自身の口の中は、血だらけだった。それはただの血ではなく、邪血である。
その時、彼の頭の中に一瞬だけ、奇妙な思考がよぎった。もしも、ヘルガが鬼の血を摂取していたとしたら、その血液が彼女の体に融合し、何らかの変化を引き起こしているのではないか?
レウウィスは無意識にヘルガの首筋に爪先を当て、脈動を感じる。心臓は微弱だが、まだ動いてはいる。しかし、この鼓動もいずれは止まるだろう。
「……」
レウウィスは自分の血をヘルガに与えようとしていた。もし仮にヘルガの体内に自分の血が流れ込んだとしても、その効果がどれほど続くのかはわからなかった。そもそも、ヘルガの体がその血を吸収するかどうかも不明だ。それでも、レウウィスはヘルガが助かる可能性に賭けたかった。
「大公様、何をなさっているのですか?」
レウウィスは答えず、首から鎖骨にかけて爪を立てた。皮膚が裂け、血が流れ出す。その血をヘルガの口、そしてあらゆる出血口にかけた。しかし、ヘルガに変化は見られなかった。瞳は閉じたままで、呼吸は止まっている。
「やはり、駄目か……」
レウウィスが呟くと、彼の血がかかった場所の流れが止まった。しかし、その速度は遅く、傷がふさがる前に新たな流血が始まる。
「大公様、もうお止めください。これ以上は……!」
ラフィはレウウィスの肩を掴むと、必死に引き止めた。
彼はヘルガの顔を見つめ、無力感に苛まれながらも、その体がまだ温かいことに気づいた。
――彼女は生きている、生きているのだ。
「冬になる果実、か」
レウウィスは少し考えるように言った。その声には、微かな躊躇が混じっていたが、彼女の無邪気な願いを止める理由にはならなかった。彼は、ヘルガの純粋な欲望を大切にしたいと感じていた。
「外に出ても構わない。ただし、無理はしないように。寒さが厳しいから、気をつけろ」
ヘルガはその答えに嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見たレウウィスの心の中で、あの切ない欲望がまたひとしずくずつ深まっていくように感じた。
「ありがとう、レウウィス」
「いいんだ。ただし、パルウィスを連れて行くように」
「えぇ」
ヘルガは軽く手を振り、ペットのパルウィスを呼んで部屋を出て行った。レウウィスはその後ろ姿を見送り、静かにため息をついた。その表情は、どこか物憂げだった。
ヘルガは部屋を出るとすぐにパルウィスに声をかけ、手に持っていた小さな包みを広げた。中には新しく作った洋服が丁寧に包まれている。パルウィスはその包みを見た瞬間、嬉しそうに小さく声をあげ、すばやく駆け寄ってきた。
「お洋服、気に入ってくれるかしら?」
ヘルガは微笑みながら、優しくパルウィスに服を着せた。猿を模した鬼の姿のパルウィスは、きょとんとした顔でじっと彼女の手元を見つめている。服を着せると、パルウィスは「キキッ!」と返事をし、嬉しそうに手足を動かした。
その姿を見たヘルガは満足げに微笑んだ。
「よかった、似合ってる。これでお外に行けるわね」
パルウィスは元気よく「キキッ!」と返事をし、彼女の足元を跳ねながら歩き出した。ヘルガはその後ろ姿を見つめ、心の中で微笑んだ。目の前にある小さな幸せに、胸がいっぱいになった。
「じゃあ、行こうか」
ヘルガはそう言って、パルウィスと共に屋敷の外に出る準備を整えた。
屋敷の外に出ると、ヘルガは早速行動を開始した。まずは近くの林に入り、食料になりそうなものを探し始める。森は静まり返り、遠くの木々が風に揺れる音が聞こえるだけだった。ヘルガの耳に届くのは、自分の足音と、小鳥のさえずりだけだった。
「少し寂しい場所ね」
ヘルガはひとりごとのように呟き、足元に生えていたキノコを拾った。それは食用のもので、彼女のお気に入りのひとつだ。
しばらく森の中を歩き回ったヘルガは、静かな森の中に、少しだけ心を和ませながらも、次に何を探そうかと考えていた。
ヘルガは静かな森の中を歩きながら、周囲の様子に目を凝らしていた。それは枝からぶら下がっていた小さな実で、見た目には少し凍りかけたように見えるが、艶やかな赤色が印象的だった。
「これが、冬の果実?」
ヘルガは思わず声を漏らし、手を伸ばしてその実をつまんだ。冷たい風にさらされていたためか、少し硬く感じられたが、手に取ってみると、甘い香りがほのかに漂ってきた。果実の表面は凍ったように硬く、その中に小さな氷の粒が閉じ込められているが、しっかりとした実が内側に詰まっているのがわかる。
ヘルガはその実を慎重に外して、手のひらにのせた。
「パルウィスも食べる?」
ヘルガが声をかけると、パルウィスは「キィッ」と答え、彼女の肩に飛び乗った。ヘルガの手の上にある赤い果実に興味津々の様子で、小さな鼻をひくつかせている。
ヘルガは微笑みながら、実を少しだけ割ってみせた。
「ほら、ちょっとだけね」
果実の中から果汁が溢れ、甘い香りが広がると、パルウィスはさらに興奮した様子で、それを受け取った。パルウィスは嬉しそうに果実を小さな手で握りしめ、一口頬張った。その表情は満足げで、ヘルガの方を見上げて「キキッ!」と喜びの声を上げる。
「おいしい?」
ヘルガは優しく問いかけると、パルウィスは満足げにうなずく。ヘルガもまた嬉しそうに微笑んだ。
「それは良かった」
ヘルガはパルウィスが喜ぶ姿を見て、自分の中に満ちていく幸福感を感じた。その感情はまるで、全身を暖かく包むような安心感をもたらしてくれる。
ヘルガは手の中にある果実を眺め、再び口に運んだ。甘く爽やかに弾ける果実の味が、心の中に広がっていく。
「本当に美味しいわ」
ヘルガはそう言いながら、もう一度果実を口に運ぶ。
「それにしても、こんなにも美味しくて栄養があるなら、もっと早くに気がつけばよかった。ケーキとよく合うわ」
ヘルガは独り言をつぶやくと、次の果実を探すために立ちあがった。
「でも、もうそろそろ帰らないと」
ヘルガはそう言うと、名残惜しそうに立ち上がった。そして、パルウィスを連れて屋敷へ戻ろうとした時だった。突然、頭上からバサバサという大きな羽音が聞こえてきた。
ヘルガは空を見上げ、羽音の正体を探るように目を凝らした。その空には、寒さにもかかわらず何羽かの大きな鳥が翼を広げて飛んでいるのが見えた。しかし、その姿にただならぬものを感じ取った。
「不思議ね、まるで何かから逃げているような」
その言葉が口をついて出た瞬間、ヘルガの胸に一抹の不安がよぎった。鳥たちが飛び立つ様子に、不吉な予感が重なっているような気がしてならなかった。
パルウィスも不安げに空を見上げ、耳を立てている。その様子に、ヘルガはさらに警戒心を強めた。何かが起きる予感がする。
「急いで帰らないと」
ヘルガは声を低くして呟き、足元をしっかりと踏みしめながら、ゆっくりと屋敷へと向かって歩き出した。パルウィスもその後ろにぴったりとついてきた。
速足で歩く彼女は、雪に足を取られてしまうことが何度かあった。雪は思った以上に深く、足元を不安定にする。歩くたびに足が沈み込み、歩幅を狭めなければならなかった。
雪に足を取られた瞬間、足元が崩れ、バランスを崩して崖の縁から滑り落ちた。
――雪で足場が隠れてたんだ!見えなかった。
冷たい風が顔を切り裂くように吹き、あっという間に足元が空虚になった。雪に埋もれた地面が消え、急激に落ちていくのを感じた。目の前に広がる暗い空間が、彼女を包み込んだ。
その先に見えたのは、崖の下の岩場。ヘルガは無意識に手を伸ばし、なんとか身体を支えようとするが、身体は滑り落ちる勢いに抗うことができなかった。次の瞬間、鋭い衝撃が背中を打ち、痛みが一気に広がった。悲鳴も上げられないまま、冷たい岩に叩きつけられた。
「うっ……!」
ヘルガはうめき声を上げ、体を起こそうとするが、肩と脚にひどい痛みが走る。見下ろすと、手のひらに赤い液体が広がっているのが見えた。血が、彼女の体から漏れ出している。雪に染み込んでいく赤い跡が、目の前の現実をひどく鮮明に感じさせる。
「……パルウィス!」
声を絞り出すが、答えるものはない。どこかでパルウィスともはぐれてしまったらしい。
その時、背後で不穏な足音が近づいてくるのを感じた。振り返る暇もなく、ヘルガは恐怖に満ちた目で周囲を見渡す。黒い影が迫り、視界に入り込んできた。それは、形の不確かな野良鬼だった。目が血走り、唸り声をあげながら、彼女に向かってゆっくりと近づいてきていた。
ヘルガは槍を握りしめ、必死にその先を相手に向けた。
野良鬼を処理していくも、その数が多すぎて、なかなか逃げることができない。
――せめて、背中から血が流れなければ。
野良鬼はヘルガの血の匂いに誘われて、じりじりと彼女に近づいてきた。その動きはまるで獲物を見つけたかのように、ゆっくりとした確実なものだった。今まさに襲いかかろうとしている。
――動いて、私の身体。
ヘルガは必死にそう願いながら、肩と足の傷を抑えつつ、無意識に後ずさりを始めた。しかし、すぐに壁が彼女の行く手を遮った。逃げ道を失った彼女は、目の前に迫る野良鬼を前に、呆然と立ち尽くしていた。
「助けて……レウウィス」
ヘルガはかすれた声で助けを求めたが、その言葉に応える者はいない。
**
パルウィスが一人で戻ってきた。普段の穏やかな鳴き声ではなく、切迫した異常を感じさせる鳴き声を上げながら。小さな体は震え、焦りと恐怖を隠せない目が、ヘルガに何かが起こったことを知らせていた。
従者すべてにヘルガの捜索を命じた。
胸の中で不安が膨らみ、レウウィスは森へ足を速めた。パルウィスの鳴き声が彼をさらに急かすように響き渡る。
邸宅を飛び出したレウウィスの心臓は激しく鼓動し、冷たい雪を踏みしめながら、必死にヘルガの元へ向かう。彼女が無事でいることを信じたかった。
――そして、見つけた。
目の前に広がるのは、ヘルガの足を食べる野良鬼の姿だった。あまりの光景に、レウウィスの怒りが爆発し、目の前の野良鬼を無惨に引き裂いた。正確には、爪を鋭く突き立てて腸を引き裂き、容赦なくその肉を切り裂いていった。
「…………」
レウウィスは言葉を発することなく、息を荒げてヘルガの元に駆け寄った。そして、その身体を抱き上げた。
ヘルガの心臓はまだ止まっていなかったものの、既に瀕死。背中からはおびただしい量の血液が溢れ出し、左足と右足が欠損していた。
その傍には、レウウィスが与えた槍は、修復が不可能なほど折れていることから、彼女が最後まで抵抗したのだと悟った。
「どうしてこんなことに」
ヘルガの表情は驚くほど穏やかで、瞳は閉じられていた。まるで眠っているかのように。その様子に、レウウィスは全身から力が抜け、地面に膝をついた。目の前の現実を受け入れられないように、彼はゆっくりと呟いた。
「ヘルガ……起きろ」
その呼びかけに、ヘルガは一切応えない。彼女の身体から温もりが消えていくのを感じ、絶望が胸を突き刺した。
「頼む……目を開けてくれ」
懇願の声は虚しく響き、心の中でその答えを知りながらも、レウウィスは手を伸ばす。彼の目の前で、ヘルガはもう無理だろうと思わせるほど無力に見えた。だが、彼はそれでも諦められなかった。せめて……
――せめて、彼女が安らかに眠れるように。
仮面を外し、彼女を喰らおうとしたとき。パルウィスが必死にレウウィスの襟元を噛み、引っ張った。
「ここで殺さないと、他の誰かが彼女を殺すことになるのだよ」
諭すような口調だったが、パルウィスには通じなかった。パルウィスはただ首を横に振り、必死に主人を守ろうとしていた。レウウィスの肩にしがみつき、喉が壊れるような嗚咽を漏らす。
「よかろう、亡骸は邸宅に運ぼう。彼女は人間それが早まっただけだ」
レウウィスは自らの歯を噛みしめ、血を感じる。その痛みが、かろうじて現実を繋ぎ止めていた。だが、それでも胸の中に広がる虚しさと絶望感は消えることはない。
彼は無理にでも冷静であろうとし、ヘルガの亡骸を抱える手を震わせながら邸宅に向けて歩き出す。顔の血を拭うと、レウウィスは一瞬、ヘルガの口にそっと舌を触れた。
ヘルガを邸宅に運び込んだレウウィスの姿を見て、邸宅中の鬼たちは一瞬の沈黙に包まれた。彼の後ろに続くヘルガの姿、そしてその血が床に広がる光景は、まるで死を告げるかのように静寂を支配した。
ヘルガの召使であるマチルダは、その光景を見て思わず悲鳴を上げた。息を呑む間もなく、目の前に広がる無惨な状況に心が引き裂かれるような感覚を覚えた。ヘルガの血が床に広がり、その傍らには血まみれになったレウウィスが佇んでいた。
「大公様!一体何があったのです!?」
マチルダは急いでレウウィスに駆け寄り、その腕に抱かれたヘルガを見つめた。目の前の光景が現実であることが信じられず、声を上げることすらできなかった。
「すぐに手当てをしなければ!」
マチルダは焦りながらも、ヘルガを助ける方法を模索した。傷が深すぎる、いや、あまりにも致命的すぎる。まだ若く、経験不足の彼女は、この状況に対処できる自信がなかった。しかし、冷静さを取り戻し、必死に手当てをしようとする。
「無駄だ」
レウウィスの声は低く、冷たく響いた。
「彼女は死ぬ。我々とは違うのだ。再生することはない。」
その言葉に、マチルダは言葉を失った。レウウィスの口から発せられたその言葉が、まるで彼女の全ての希望を打ち砕くように響いた。再生を期待し、回復を信じていた彼女にとって、これほどの絶望的な言葉は無情でしかなかった。
マチルダは思わず涙をこぼし、ヘルガの顔を見つめる。彼女の無防備な姿、まだ息をしているその微かな温もりを感じて、どうしても諦めることができなかった。しかし、レウウィスの言葉が頭をよぎる。彼女は、もう再生しない。鬼としての力を持たぬ人間の体は、あまりにも脆弱すぎる。
「ではせめて、ヘルガ様を綺麗にしましょう」
ラフィが静かに言い、ヘルガの遺体を丁寧にベッドに寝かせた。彼女の顔には悲しみがにじんでいたが、それでも手際よく清めの準備を進める。香油を手に持ってレウウィスに差し出すと、彼は言葉を発さず、それを黙って受け取った。
「ヘルガ様……」
ラフィがその言葉を口にした瞬間、彼女がヘルガから離れようとしたその時、奇妙なことが起こった。ヘルガの肌がわずかに動いたのだ。最初は気のせいだと思ったが、すぐにそれが確かな変化であることに気づいた。皮膚の色が僅かに、そして微かに変わり始めている。まるで死んだはずの身体が、何かの力で動き出したかのようだった。
「大公様、今のを……」
「ああ、間違いない」
レウウィスは目を細めると、ヘルガの身体をじっと見つめ、そのわずかな変化を見逃さなかった。その現象が何なのかはわからないが、ヘルガの身体は確かに生きている。それは確信できた。
あの時――ヘルガを抱きかかえて、彼女の死に顔を見た時。絶望に沈みながらも、レウウィスは無意識にその口をそっとヘルガの唇に触れさせていた。そして、思い出す。自身の口の中は、血だらけだった。それはただの血ではなく、邪血である。
その時、彼の頭の中に一瞬だけ、奇妙な思考がよぎった。もしも、ヘルガが鬼の血を摂取していたとしたら、その血液が彼女の体に融合し、何らかの変化を引き起こしているのではないか?
レウウィスは無意識にヘルガの首筋に爪先を当て、脈動を感じる。心臓は微弱だが、まだ動いてはいる。しかし、この鼓動もいずれは止まるだろう。
「……」
レウウィスは自分の血をヘルガに与えようとしていた。もし仮にヘルガの体内に自分の血が流れ込んだとしても、その効果がどれほど続くのかはわからなかった。そもそも、ヘルガの体がその血を吸収するかどうかも不明だ。それでも、レウウィスはヘルガが助かる可能性に賭けたかった。
「大公様、何をなさっているのですか?」
レウウィスは答えず、首から鎖骨にかけて爪を立てた。皮膚が裂け、血が流れ出す。その血をヘルガの口、そしてあらゆる出血口にかけた。しかし、ヘルガに変化は見られなかった。瞳は閉じたままで、呼吸は止まっている。
「やはり、駄目か……」
レウウィスが呟くと、彼の血がかかった場所の流れが止まった。しかし、その速度は遅く、傷がふさがる前に新たな流血が始まる。
「大公様、もうお止めください。これ以上は……!」
ラフィはレウウィスの肩を掴むと、必死に引き止めた。
彼はヘルガの顔を見つめ、無力感に苛まれながらも、その体がまだ温かいことに気づいた。
――彼女は生きている、生きているのだ。