第2部 新天地
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「マチルダ、どうなの?人間と大公様は?」
マチルダは窓越しに外の様子を伺っていた。マチルダの背後では、他の召使いたちが同じように耳をそばだてている。
「ヘルガ様には特に問題なさそうです。散歩に出る前は少し緊張されていましたが、今はリラックスされている様子でした」
マチルダは冷静な口調で答えた。
「それにしても、あの噂は本当だったのかしら。レウウィス大公様がヘルガ様に対して、特別な感情を抱いていらっしゃるという話」
他の召使たちは小さく息をのんで、そっと視線を交わした。
「まさか……」
マチルダは微動だにせず、冷静に答えた。
「ええ、噂はおそらく事実です。ヘルガ様がこちらにいらっしゃるようになってから、レウウィス大公様があの方を気にかけていることは、確かに見受けられます。最近は、特に頻繁にお会いになり、一夜を過ごされたという話も耳にします」
「そんなことが……信じられません」
他の召使の一人が驚きの声を漏らす。マチルダはその反応に微笑みを浮かべることなく、淡々と続けた。
「あくまで噂ですし、確証はありません。でも、レウウィス大公様は普段、誰とでも頻繁に接することが少ない方です。だからこそ、ヘルガ様の存在が特別であると感じておられるのかもしれません」
レウウィスに仕える、侍女はソワソワとしていた。彼に対する感情を胸に秘めている者が多かった。レウウィスの容姿や気品、そして威厳ある立ち振る舞いは、周囲の女性たちを魅了してやまなかった。しかし、彼の心には誰も入り込むことはなかった。彼が誰かに特別な感情を抱いている様子は見られず、どの女性もその真意を知ることはなかった。上流階級の令嬢たちも何度もアプローチを試みた。彼の隣に座り、華やかなドレスを揺らしながら笑顔を見せてみたり、微笑みを向けながらお話しをしようとしたり。
一夜を共にすることは多くあったが、長続きすることはなかった。
「私は、ヘルガ様が羨ましいです。レウウィス大公様のお側に居られて、ご寵愛を受けているなんて……」
別の召使がポツリとつぶやいた。マチルダは静かに首を振り、諭すように言った。
「誰かに心を許す理由は、私たちには理解できないものかもしれません。私たちはただ、大公の意志を尊重し、仕事を全うするのみです」
マチルダの言葉は、どこか冷徹に響いた。しかし、それは真実でもあった。召使たちはその場に沈黙を漂わせ、少しずつ、無駄な憶測を排除し、与えられた役目に戻らなければならないことを自覚していた。
**
雪は細かな結晶となって舞い降り、二人の肩や髪をうっすらと覆っていた。
やがて、歩みは次第に遅くなり、ついには完全に止まった。ヘルガはその場でゆっくりと振り返り、レウウィスの顔を見上げた。彼女の息が白く霧となって空気に溶ける。
その瞳は深い静寂を湛え、言葉にできない感情が宿っていた。
一方、レウウィスもまた彼女の目をじっと見つめていた。
レウウィスはそっと手を伸ばし、ヘルガの手を取った。その温もりが伝わってくる。
「大公様……?」
ヘルガは戸惑いがちに彼の顔を見た。その表情は穏やかで、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。彼はヘルガの手を両手で包み込むように握りしめると、静かに語り始めた。
「君と出会ってから、もう数年か。最初は、君をどう扱えばいいか、正直よくわからなかったよ。君の境遇も、君の気持ちも、何もかも」
ヘルガの瞳が揺れた。レウウィスの言葉は、彼女の胸の奥に触れるように響いていた。
(だめ、そんな優しい言葉をかけないで!)
鬼の温もりが伝わる手を咄嗟に話したくなってしまったヘルガだが、レウウィスは手首まで握っていて、離すことなぞできなかった。
「あのとき、君を抱いてしまったことを後悔していた」
レウウィスの言葉に、ヘルガの胸が一瞬締め付けられるように痛んだ。彼女は自分の手を彼の手から引こうとしたが、レウウィスは優しくそれを止めた。その瞳には、決して責めるような色はなく、むしろ深い慈愛と後悔の色が浮かんでいた。
「後悔……ですか?」
ヘルガは恐る恐る問いかけた。その声は震えていて、彼女の中に湧き上がる不安を隠すことができなかった。
「君が私を恐れ、私を遠ざけるようになったのも当然だと思っている。怖かったろう」
ヘルガはその言葉を聞いて、胸の中に複雑な感情が渦巻くのを感じた。
怖かったかどうか。
確かに、あのときは恐れを感じたかもしれない。
しかし、それ以上に彼の行動の真意がわからず、不安と戸惑いに苛まれていたのだ。
「……わかりませんでした」
彼女は小さな声で答えた。その瞳はレウウィスをまっすぐに見つめていたが、そこには迷いが浮かんでいた。
「なぜ、あのようなことをなさったのか。私にとっては突然すぎて……」
「君の痛みを癒やすどころか、余計に深い傷を与えてしまったのではないかと、ずっと悩んでいた」
レウウィスの声には誠実な響きがあった。それはヘルガの心に届き、長い間閉じ込めていた感情を呼び覚ますようだった。ヘルガは一瞬言葉を詰まらせた。何を言うべきか、どう伝えるべきか、自分でも整理がつかない。
ヘルガの心は揺れていた。
目の前のレウウィスは鬼――人間の天敵であり、恐怖の象徴。しかし、彼の言葉には偽りのような冷たさも、圧迫するような威圧感もなかった。ただ純粋に彼女への後悔と、償いの意が込められているように感じられた。
レウウィスは彼女の目を見つめ続けた。その瞳には、鬼である彼の威厳がありながらも、どこか人間味のある温かさが宿っていた。
ヘルガは拳をぎゅっと握りしめ、胸の奥に渦巻く感情と向き合おうとした。彼の手に触れられている感覚は、不思議なほど心地よかった。それが恐怖ではなく、安心感すら与えるものだということに戸惑いを覚える。
「私は……」
ヘルガは震える声でようやく言葉を紡ぎ始めた。しかしその先に続く言葉は、何かが喉に詰まったかのように出てこない。恐れと希望、憎しみと赦し、そのすべてが胸の内でぶつかり合っていた。
ヘルガは胸の奥が震えるのを感じながら、小さくうなずいた。
「もしも……私の言葉に耳を傾けてくれる日が来たなら、そのときはもう一度、君の気持ちを教えてほしい」
レウウィスの声は深く、どこか優しい響きがあった。それを聞いた瞬間、ヘルガの心の中で何かが少しずつ変わり始めているのを、彼女自身も感じていた。
レウウィスがヘルガの肩を抱き寄せる。ヘルガは彼の腕の中で、小さく体を震わせた。
「大丈夫かい?」
レウウィスが心配そうに尋ねる。
「はい……少し、寒いだけです」
ヘルガはかすかに微笑んで答えた。
「そう、ならよかった。もう少し、歩けるかな?」
レウウィスの問いに、ヘルガは少し間をおいて答える。
「……ええ、もちろんです」
ヘルガはレウウィスの腕の中で、そっと彼の服を掴んだ。彼の温もりが、体全体に広がっていくような気がした。
「そう、それじゃあ行こうか」
レウウィスはヘルガの腰に手を回して引き寄せ、再び歩き始める。ヘルガも足を踏み出し、一歩ずつ前に進む。二人の足跡が、真っ白な雪の上に刻まれていく。
レウウィスとヘルガは、二人並んで歩き続けた。レウウィスの瞳は優しく、ヘルガの顔をじっと見つめている。その視線に気づいたのか、ヘルガはレウウィスの顔を見上げ、はにかみながら問いかける。
「……どうなさったのですか?レウウィス様」
「二人きりの時は、名指ししてほしい。敬語も外して構わない」
レウウィスの声は静かで、それでいてどこか温かみがあった。
ヘルガは驚いたように彼を見上げ、すぐに目をそらした。
これ以上彼に心を許してしまえば、自分の中の何か大切なものが壊れてしまうような気がした。初めてあったころ、彼の名前を気楽に呼べていたのは、考えなしだったら。いまでは、そんな気楽に呼ぶことなんて、ヘルガには難しいことだったのだ。
彼の優しさが偽物であるとは思えない。
それでも、鬼である彼と人間である自分――その違いが、どうしても彼女の心に影を落としていた。
「……レウウィス、さん」
ヘルガは消え入りそうな声で彼の名を呼んだ。レウウィスはそれを聞き逃さなかった。ヘルガはまた何かを言おうとしたが、言葉が続かなかった。彼女の心はまだ恐れと混乱に支配されていたが、同時に、彼の言葉にほんの少しだけ救われた自分もいた。
「焦らなくていい」
レウウィスは再び歩き出しながら、静かに言った。
「君の心が少しずつ私に向くなら、それでいい」
彼の後に続いて歩き出すヘルガの胸には、確かに何かが芽生え始めていた。
それが希望か、それとも新たな迷いか――その答えは、まだ彼女自身にもわからなかった。
**
ヘルガが変わった――。
レウウィスがそのことを確信したのは、ヘルガが自分からレウウィスのもとへやってきたのだ。
ヘルガは手に持っていたバスケットをレウウィスに差し出した。
「外套が切れていたから、洗濯ついでに直したの。でも、丈が変わってしまったかと思って」
レウウィスは目を細め、ヘルガの差し出すバスケットに視線を落とした。その中には彼の外套が丁寧に畳まれて収められていた。新しい縫い目が走り、布地は完璧に修繕されている。
「……ありがとう」
レウウィスは短く礼を言い、外套を受け取った。
レウウィスとヘルガの関係は、まるで冬の凍てついた湖面が春の陽射しに溶かされていくように、少しずつ、だが確実に変わっていった。
最初は互いに遠巻きに観察するような関係だった。ヘルガは彼の鋭い瞳と威圧的な存在感におびえ、レウウィスは彼女の不安げな態度に触れることを躊躇していた。しかし、時が経つにつれて、二人の間に小さな変化が生まれた。
ヘルガが彼のために衣服を修繕したり、彼が何気ない気遣いを彼女に示すような、些細でいて心のこもった行動が、その変化を形作っていた。会話の中で互いのことを少しずつ知り、冗談や軽い笑い声が二人の間に生まれることも増えていった。
レウウィスにとって、ヘルガの慎ましさと真心は、新鮮で心地よいものだった。鬼である自分に対して恐れだけでなく、理解しようとする姿勢を見せてくれる彼女の姿勢に、彼の中の孤独が和らいでいくのを感じた。一方で、ヘルガもまた、彼の行動の裏にある誠実さと優しさに触れることで、徐々に心を開いていった。
時折、二人で雪道を歩きながら交わす短い会話や、暖炉の前で静かに過ごす時間が、彼らにとっては何よりも大切な瞬間になっていった。言葉にならない思いやりが、言葉以上に二人の距離を縮めていく。
雪解け水が小さな流れを作り、それがやがて川へと成長するように、二人の関係もまた、自然で穏やかな流れの中で深まっていった。それは、一見するとささやかな変化の連続でありながら、二人にとっては確かな絆となっていった。
しかし、レウウィスにはある欲があった。
――彼女が我々と同じ種族であったら……
その思いは、彼自身が気づかぬうちに心の奥底に根を張り、時折静かに顔を覗かせた。ヘルガの無垢な笑顔や、どこか不器用でありながらも心からの優しさが滲む仕草を見るたび、その欲望は抑えがたい切望となり彼を揺さぶった。
彼女が鬼であれば、共に過ごす時間をもっと長くできる。彼女の命の灯火が、人間のものではなく鬼の永遠に近いものだったならば。彼は、そんな考えが頭をよぎるたびに、自分の心を厳しく律した。
「……彼女は彼女のままで美しい」
そう言い聞かせるように、自らの中で芽生えた欲望を押し込めた。しかし、その欲が消えることはなかった。それは彼が抱え続ける矛盾であり、人間と鬼という種族の違いがもたらす、越えがたい壁の象徴でもあった。
マチルダは窓越しに外の様子を伺っていた。マチルダの背後では、他の召使いたちが同じように耳をそばだてている。
「ヘルガ様には特に問題なさそうです。散歩に出る前は少し緊張されていましたが、今はリラックスされている様子でした」
マチルダは冷静な口調で答えた。
「それにしても、あの噂は本当だったのかしら。レウウィス大公様がヘルガ様に対して、特別な感情を抱いていらっしゃるという話」
他の召使たちは小さく息をのんで、そっと視線を交わした。
「まさか……」
マチルダは微動だにせず、冷静に答えた。
「ええ、噂はおそらく事実です。ヘルガ様がこちらにいらっしゃるようになってから、レウウィス大公様があの方を気にかけていることは、確かに見受けられます。最近は、特に頻繁にお会いになり、一夜を過ごされたという話も耳にします」
「そんなことが……信じられません」
他の召使の一人が驚きの声を漏らす。マチルダはその反応に微笑みを浮かべることなく、淡々と続けた。
「あくまで噂ですし、確証はありません。でも、レウウィス大公様は普段、誰とでも頻繁に接することが少ない方です。だからこそ、ヘルガ様の存在が特別であると感じておられるのかもしれません」
レウウィスに仕える、侍女はソワソワとしていた。彼に対する感情を胸に秘めている者が多かった。レウウィスの容姿や気品、そして威厳ある立ち振る舞いは、周囲の女性たちを魅了してやまなかった。しかし、彼の心には誰も入り込むことはなかった。彼が誰かに特別な感情を抱いている様子は見られず、どの女性もその真意を知ることはなかった。上流階級の令嬢たちも何度もアプローチを試みた。彼の隣に座り、華やかなドレスを揺らしながら笑顔を見せてみたり、微笑みを向けながらお話しをしようとしたり。
一夜を共にすることは多くあったが、長続きすることはなかった。
「私は、ヘルガ様が羨ましいです。レウウィス大公様のお側に居られて、ご寵愛を受けているなんて……」
別の召使がポツリとつぶやいた。マチルダは静かに首を振り、諭すように言った。
「誰かに心を許す理由は、私たちには理解できないものかもしれません。私たちはただ、大公の意志を尊重し、仕事を全うするのみです」
マチルダの言葉は、どこか冷徹に響いた。しかし、それは真実でもあった。召使たちはその場に沈黙を漂わせ、少しずつ、無駄な憶測を排除し、与えられた役目に戻らなければならないことを自覚していた。
**
雪は細かな結晶となって舞い降り、二人の肩や髪をうっすらと覆っていた。
やがて、歩みは次第に遅くなり、ついには完全に止まった。ヘルガはその場でゆっくりと振り返り、レウウィスの顔を見上げた。彼女の息が白く霧となって空気に溶ける。
その瞳は深い静寂を湛え、言葉にできない感情が宿っていた。
一方、レウウィスもまた彼女の目をじっと見つめていた。
レウウィスはそっと手を伸ばし、ヘルガの手を取った。その温もりが伝わってくる。
「大公様……?」
ヘルガは戸惑いがちに彼の顔を見た。その表情は穏やかで、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。彼はヘルガの手を両手で包み込むように握りしめると、静かに語り始めた。
「君と出会ってから、もう数年か。最初は、君をどう扱えばいいか、正直よくわからなかったよ。君の境遇も、君の気持ちも、何もかも」
ヘルガの瞳が揺れた。レウウィスの言葉は、彼女の胸の奥に触れるように響いていた。
(だめ、そんな優しい言葉をかけないで!)
鬼の温もりが伝わる手を咄嗟に話したくなってしまったヘルガだが、レウウィスは手首まで握っていて、離すことなぞできなかった。
「あのとき、君を抱いてしまったことを後悔していた」
レウウィスの言葉に、ヘルガの胸が一瞬締め付けられるように痛んだ。彼女は自分の手を彼の手から引こうとしたが、レウウィスは優しくそれを止めた。その瞳には、決して責めるような色はなく、むしろ深い慈愛と後悔の色が浮かんでいた。
「後悔……ですか?」
ヘルガは恐る恐る問いかけた。その声は震えていて、彼女の中に湧き上がる不安を隠すことができなかった。
「君が私を恐れ、私を遠ざけるようになったのも当然だと思っている。怖かったろう」
ヘルガはその言葉を聞いて、胸の中に複雑な感情が渦巻くのを感じた。
怖かったかどうか。
確かに、あのときは恐れを感じたかもしれない。
しかし、それ以上に彼の行動の真意がわからず、不安と戸惑いに苛まれていたのだ。
「……わかりませんでした」
彼女は小さな声で答えた。その瞳はレウウィスをまっすぐに見つめていたが、そこには迷いが浮かんでいた。
「なぜ、あのようなことをなさったのか。私にとっては突然すぎて……」
「君の痛みを癒やすどころか、余計に深い傷を与えてしまったのではないかと、ずっと悩んでいた」
レウウィスの声には誠実な響きがあった。それはヘルガの心に届き、長い間閉じ込めていた感情を呼び覚ますようだった。ヘルガは一瞬言葉を詰まらせた。何を言うべきか、どう伝えるべきか、自分でも整理がつかない。
ヘルガの心は揺れていた。
目の前のレウウィスは鬼――人間の天敵であり、恐怖の象徴。しかし、彼の言葉には偽りのような冷たさも、圧迫するような威圧感もなかった。ただ純粋に彼女への後悔と、償いの意が込められているように感じられた。
レウウィスは彼女の目を見つめ続けた。その瞳には、鬼である彼の威厳がありながらも、どこか人間味のある温かさが宿っていた。
ヘルガは拳をぎゅっと握りしめ、胸の奥に渦巻く感情と向き合おうとした。彼の手に触れられている感覚は、不思議なほど心地よかった。それが恐怖ではなく、安心感すら与えるものだということに戸惑いを覚える。
「私は……」
ヘルガは震える声でようやく言葉を紡ぎ始めた。しかしその先に続く言葉は、何かが喉に詰まったかのように出てこない。恐れと希望、憎しみと赦し、そのすべてが胸の内でぶつかり合っていた。
ヘルガは胸の奥が震えるのを感じながら、小さくうなずいた。
「もしも……私の言葉に耳を傾けてくれる日が来たなら、そのときはもう一度、君の気持ちを教えてほしい」
レウウィスの声は深く、どこか優しい響きがあった。それを聞いた瞬間、ヘルガの心の中で何かが少しずつ変わり始めているのを、彼女自身も感じていた。
レウウィスがヘルガの肩を抱き寄せる。ヘルガは彼の腕の中で、小さく体を震わせた。
「大丈夫かい?」
レウウィスが心配そうに尋ねる。
「はい……少し、寒いだけです」
ヘルガはかすかに微笑んで答えた。
「そう、ならよかった。もう少し、歩けるかな?」
レウウィスの問いに、ヘルガは少し間をおいて答える。
「……ええ、もちろんです」
ヘルガはレウウィスの腕の中で、そっと彼の服を掴んだ。彼の温もりが、体全体に広がっていくような気がした。
「そう、それじゃあ行こうか」
レウウィスはヘルガの腰に手を回して引き寄せ、再び歩き始める。ヘルガも足を踏み出し、一歩ずつ前に進む。二人の足跡が、真っ白な雪の上に刻まれていく。
レウウィスとヘルガは、二人並んで歩き続けた。レウウィスの瞳は優しく、ヘルガの顔をじっと見つめている。その視線に気づいたのか、ヘルガはレウウィスの顔を見上げ、はにかみながら問いかける。
「……どうなさったのですか?レウウィス様」
「二人きりの時は、名指ししてほしい。敬語も外して構わない」
レウウィスの声は静かで、それでいてどこか温かみがあった。
ヘルガは驚いたように彼を見上げ、すぐに目をそらした。
これ以上彼に心を許してしまえば、自分の中の何か大切なものが壊れてしまうような気がした。初めてあったころ、彼の名前を気楽に呼べていたのは、考えなしだったら。いまでは、そんな気楽に呼ぶことなんて、ヘルガには難しいことだったのだ。
彼の優しさが偽物であるとは思えない。
それでも、鬼である彼と人間である自分――その違いが、どうしても彼女の心に影を落としていた。
「……レウウィス、さん」
ヘルガは消え入りそうな声で彼の名を呼んだ。レウウィスはそれを聞き逃さなかった。ヘルガはまた何かを言おうとしたが、言葉が続かなかった。彼女の心はまだ恐れと混乱に支配されていたが、同時に、彼の言葉にほんの少しだけ救われた自分もいた。
「焦らなくていい」
レウウィスは再び歩き出しながら、静かに言った。
「君の心が少しずつ私に向くなら、それでいい」
彼の後に続いて歩き出すヘルガの胸には、確かに何かが芽生え始めていた。
それが希望か、それとも新たな迷いか――その答えは、まだ彼女自身にもわからなかった。
**
ヘルガが変わった――。
レウウィスがそのことを確信したのは、ヘルガが自分からレウウィスのもとへやってきたのだ。
ヘルガは手に持っていたバスケットをレウウィスに差し出した。
「外套が切れていたから、洗濯ついでに直したの。でも、丈が変わってしまったかと思って」
レウウィスは目を細め、ヘルガの差し出すバスケットに視線を落とした。その中には彼の外套が丁寧に畳まれて収められていた。新しい縫い目が走り、布地は完璧に修繕されている。
「……ありがとう」
レウウィスは短く礼を言い、外套を受け取った。
レウウィスとヘルガの関係は、まるで冬の凍てついた湖面が春の陽射しに溶かされていくように、少しずつ、だが確実に変わっていった。
最初は互いに遠巻きに観察するような関係だった。ヘルガは彼の鋭い瞳と威圧的な存在感におびえ、レウウィスは彼女の不安げな態度に触れることを躊躇していた。しかし、時が経つにつれて、二人の間に小さな変化が生まれた。
ヘルガが彼のために衣服を修繕したり、彼が何気ない気遣いを彼女に示すような、些細でいて心のこもった行動が、その変化を形作っていた。会話の中で互いのことを少しずつ知り、冗談や軽い笑い声が二人の間に生まれることも増えていった。
レウウィスにとって、ヘルガの慎ましさと真心は、新鮮で心地よいものだった。鬼である自分に対して恐れだけでなく、理解しようとする姿勢を見せてくれる彼女の姿勢に、彼の中の孤独が和らいでいくのを感じた。一方で、ヘルガもまた、彼の行動の裏にある誠実さと優しさに触れることで、徐々に心を開いていった。
時折、二人で雪道を歩きながら交わす短い会話や、暖炉の前で静かに過ごす時間が、彼らにとっては何よりも大切な瞬間になっていった。言葉にならない思いやりが、言葉以上に二人の距離を縮めていく。
雪解け水が小さな流れを作り、それがやがて川へと成長するように、二人の関係もまた、自然で穏やかな流れの中で深まっていった。それは、一見するとささやかな変化の連続でありながら、二人にとっては確かな絆となっていった。
しかし、レウウィスにはある欲があった。
――彼女が我々と同じ種族であったら……
その思いは、彼自身が気づかぬうちに心の奥底に根を張り、時折静かに顔を覗かせた。ヘルガの無垢な笑顔や、どこか不器用でありながらも心からの優しさが滲む仕草を見るたび、その欲望は抑えがたい切望となり彼を揺さぶった。
彼女が鬼であれば、共に過ごす時間をもっと長くできる。彼女の命の灯火が、人間のものではなく鬼の永遠に近いものだったならば。彼は、そんな考えが頭をよぎるたびに、自分の心を厳しく律した。
「……彼女は彼女のままで美しい」
そう言い聞かせるように、自らの中で芽生えた欲望を押し込めた。しかし、その欲が消えることはなかった。それは彼が抱え続ける矛盾であり、人間と鬼という種族の違いがもたらす、越えがたい壁の象徴でもあった。