第2部 新天地
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「大公様、ちょうどよかった。ヘルガ様が…」
ラフィが言いかけたその瞬間、レウウィスは冷静に言葉を遮った。
「その話は知っている」
レウウィスの声には、一瞬の沈黙が漂う。まるで、ラフィが言おうとしていることをすでに察しているかのようだった。
ラフィは少し驚きながらも、続けた。
「なぜ、あのような血を流されていたのですか?」
レウウィスは一呼吸おいてから、静かに答えた。
「自分の血を分けるために、腹部に怪我をしていた」
その言葉に、ラフィはしばらく無言でレウウィスを見つめた。心の中で何かが整理され、混乱が少しずつ収まっていくのを感じる。やがて、ラフィは安堵の表情を浮かべて、言った。
「よかった…ヘルガガ様に手を出されたのかと思っておりましたが、違ったのですね。」
レウウィスは一瞬、目を閉じ、深いため息をついた。
「いや、一度手を出した」
その言葉に、ラフィの表情が硬直した。
「ラフィ、彼女を食べたのでなく、交わったのだよ」
レウウィスはそう言って苦笑したが、ラフィは一瞬その意味を理解することができなかった。
「交わる……?それは、どういう意味でございますか?」
ラフィはわずかに困惑しながら聞き返した。
「交わるというのは、つまり……」
「ああ、ヘルガを抱いた」
「抱くとは、つまり……」
「皆まで言わせるな」
レウウィスの言葉に、ラフィは目を大きく見開き、信じられないという表情で口を半開きにした。
「そんな、まさか、あり得ないことです!人間と交わるなど!」
その言葉に、ラフィの表情が硬直した。目を見開き、思わず一歩後ずさる。心の中で混乱が広がり、何も言えずに立ち尽くす。だが、レウウィスはその反応を見ても、特に表情を変えなかった。いつも通りの冷静さで、静かな口調で続ける。
ラフィは、自分がいかに愚かな質問をしたのかを急に実感し、顔を紅潮させながらも、言葉を絞り出す。
「失礼しました、大公様」
その言葉に、胸の中で抑えきれない動揺を感じつつ、頭を深く下げる。
「どうかお許しください。」
レウウィスは軽く首を横に振った。
「謝る必要はない。私も驚いているのだ。」
そう言って、レウウィスは自分の椅子に腰掛け、目を少し閉じてから続ける。
「だが、あのようなことを質問してきた君が愚かであるとすれば、それは君の純粋さ故だろう」
ラフィはその言葉に驚きながらも、少しだけ安堵の表情を浮かべた。
その後、しばらく沈黙が続く。ラフィはレウウィスの言葉を反芻し、何度も自分の中でその意味を確かめる。
ラフィが再び口を開いた。
「では、大公様が……その、ヘルガ様をお抱きになったのも、ただそういう気分だったからということですか?」
レウウィスは少しだけ間を置き、冷徹に答える。
「そうだ」
「それなら、ヘルガ様を愛されているのではないのですか?」
ラフィはその問いに、自分でも意外なくらい力を込めて聞いた。だが、レウウィスの答えは短く、冷徹だった。
「愛していない」
その言葉がラフィの心に響き、思わず言葉を失う。
「でも、なぜ…?」
ラフィはその疑問を抑えきれずに口にする。
レウウィスは微かに苦笑し、目を開ける。
「惹かれたわけではない。ただ、あの時は、欲という感情に従っただけだ」
その言葉に、ラフィは一瞬息を呑んだ。レウウィスが感じていたのは、愛情ではなく、純粋な欲望だったという事実に、彼は言葉を失った。だが、すぐにラフィはふと考えた。
――欲に従っただけだなんて、少しおかしい
心の中でラフィは反芻する。レウウィスがあのような行動に出るまでには、何かしらの感情があるはずだ。
――衣食住を与え、面倒を見ている。少なくとも、その程度には情が移っているのではないか。
自分でも驚くほどその考えが頭をよぎった。ラフィは無意識に、レウウィスとヘルガの関係に、愛情というものがないわけではないと感じ始めていた。
それでも、ラフィはその気持ちを胸の中にしまい込んだ。何も言わずにただ、レウウィスを見つめることしかできなかった。
**
ヘルガは、怪我も治り自室に戻った。いつものように顔を洗おうと水汲みを始め、身支度を整えようとしたその時、コンコンとノックの音が響いた。
念のため、面をつけ「はい」と返事をしながら扉を開けると、そこには女の召使が立っていた。彼女は手に桶を持ち、にこやかにヘルガを見つめている。
「おはようございます。お湯をお持ちしました」
丁寧に挨拶をする彼女に、ヘルガは少し驚きながらも礼を言った。
部屋に彼女を招き入れ、ヘルガは心の中で疑問が浮かぶ。今まで、自分の世話をしようとした召使は一人もいなかったはずだ。もしかしたら、レウウィスの指示でここに来たのか。それとも、別の理由があるのだろうか。
ヘルガの視線は、召使の面に向けられた。穏やかな表情をしているものの、その目には何か隠された意図があるように感じられ、彼女の行動を観察することにした。ヘルガには、まだその意図が明確には見えなかった。
もしかすると、彼女が自分に何かを求めているのではないか—そう感じた一瞬、ヘルガはその可能性に少し警戒心を抱く。
「大丈夫、私がします」と、言おうとしたが、従者はすぐに桶を持って優雅に近づいてきた。そして、「失礼」と言って、ヘルガの服を脱がせ始めた。
突然のことに、ヘルガは抵抗しようとしたが、一瞬にして面を外され、顔を拭かれた。冷たい感触が肌をなでる間に、彼女は完全に下着姿にされ、再び清潔な服を着せられていた。髪もきちんと整えられ、召使の動きは全く無駄がない。ヘルガは、抗う間もなく全てが進んでしまった事実に驚き、同時にその巧みさに感嘆すら覚えていた。
「はい、できあがりです」
召使の声に我に返ったは、鏡の前に立つ自分の姿を見た。顔の汚れはすっかり取れ、服は整然と着付けられ、清潔感が漂っている。
「ありがとうございます」
ヘルガは小さく頭を下げて感謝の意を示した。その言葉に、召使は微笑みながら答える。
「いえ、これが私の務めですから」
「でも、こんなことまでしていただいたのは初めてで……」
ヘルガは言いかけた言葉をのみ込んだ。どこか申し訳ない気持ちと、理由の分からない違和感が胸の内に広がっていたからだ。
召使はその様子に気付いたのか、優しく微笑みながら言葉を添えた。
「ヘルガ様は、もっとご自愛なさるべきです。これからもお手伝いさせていただきますね」
その穏やかな声色に、ヘルガは一瞬返答を迷った。
「ヘルガ様、朝食はいかがなさいましょうか?」
召使の落ち着いた声が響く。彼女は相変わらず柔らかな笑みを浮かべ、礼儀正しく立っていた。その態度はどこか隙がなく、ヘルガは自然と慎重になった。
「えっと……お願いできるかしら?」
ヘルガは一瞬言葉を迷わせたものの、結局彼女に従うことにした。召使の態度から何も読み取れない以上、下手に断るよりも状況を見極める方が得策だと考えたのだ。
「承知しました。では、こちらへどうぞ」
召使は優雅な動作でヘルガを促し、部屋の外へと案内した。ヘルガはその後を慎重に歩きながら、廊下を進む。足元の絨毯が歩く音を吸い込み、ただ静けさだけが広がっていた。
そして扉を開けた先に広がっていたのは、豪華な食卓だった。広々とした空間の中央に長いテーブルが置かれ、その上には精巧な装飾が施された食器や花が並んでいる。そして、そのテーブルの端に座っていたのは、レウウィスだった。
彼は片肘をつきながら、ヘルガに気付くと軽く視線を投げる。表情は相変わらず読みにくく、どこか余裕を感じさせるものだったが、その瞳にはほんの僅かに興味を示す色が見えたようにも感じられた。
「おはよう、ヘルガ」
短い挨拶が静かな空間に響く。
「お、おはようございます」
ヘルガはぎこちなく返事をすると、促されるままレウウィスの向かいの席に座った。彼女の前に、召使が手際よく朝食のプレートを運んでくる。
「どうぞ、ごゆっくりお召し上がりください」
召使は一礼すると、静かにその場を離れた。
ヘルガはテーブルに並べられた料理を見下ろした。見た目にも美しい品々が並んでいたが、緊張で胃が縮こまり、食べる気にはなれない。そんな彼女の様子を、レウウィスはじっと見つめていた。
「食べないのか?」
彼の声は低く、だがどこか含みがある。
「いえ、その……いただきます」
ヘルガは慌ててフォークを手に取り、目の前の料理に手をつけた。しかし、その視線の先にいるレウウィスの存在が気になり、食事に集中することはできなかった。
レウウィスはそんな彼女を観察するかのように、興味深げに微笑んだ。そして、何かを探るような口調で言った。
「どうだ、ここでの生活には少しは慣れたか?」
「えぇ、少しずつですが。ところで、私室に従者の方がいらっしゃったのですが……」
レウウィスはヘルガの言葉を聞きながら、ゆっくりと背もたれに体を預けた。彼の口元には依然として薄い笑みが浮かんでいる。
「ふむ、マチルダのことだな」
彼は淡々とした口調で続けた。
「彼女は、ヘルガの世話をしたいと自ら立候補したのだ。珍しいことだが、信頼して構わない」
ヘルガは、その言葉をすぐに受け入れることができなかった。彼女の行動は確かに丁寧で気遣いがあったものの、その完璧さがかえって不安を煽る。
「ですが……」
ヘルガはためらいながら口を開く。
「安心したまえ、彼女は人間を食べることに対して、あまり固執しない」
レウウィスがあっさりとそう告げると、ヘルガの肩から力が抜けた。そして、無意識のうちに安堵のため息をつく。
「まあ、気になることがあれば直接彼女に聞いてみるといい」
レウウィスは再び穏やかな笑みに戻り、話題を切り替えるかのようにテーブルの上のカップを手に取った。
「ところで、このスープは美味だと思わないか?」
その唐突な話題転換に、ヘルガは少し戸惑いながらも返答を絞り出した。
「……はい、とても美味しいです」
ヘルガはスプーンを置き、改めて料理を見た。スープは透き通るような黄金色に輝き、食欲を刺激する香りを放っている。
「それはよかった」
レウウィスは満足そうに言うと、カップを軽く傾けながらヘルガの反応を見守った。ヘルガの反応を楽しむように見つめながら、ゆっくりとテーブルから立ち上がった。その動きは優雅で、まるで時間が彼のためだけに流れているかのようだった。
「ヘルガ、少し散歩でもどうだろうか?」
彼は穏やかな声で提案した。外の風を感じながら、少しリラックスするのもいいだろうと思ったのだろう。
ヘルガは一瞬戸惑いながらも、外の景色を思い浮かべ、少し心が温かくなった。散歩をして心を落ち着けることができるかもしれない、そんな期待が湧き上がった。しかし、彼の誘いに対してすぐに答えることができず、少し躊躇した。
「散歩……ですか?」
彼女は確認するように尋ねる。
レウウィスは優しく微笑みながら頷いた。
「そうだ。少し外の空気を吸うのもいいだろう。」
ヘルガはその言葉に少し安心した。彼の不安を煽るような態度や言動は今のところなく、穏やかな気配がただただ広がっている。心の中で、自分の気持ちに素直に従うことに決めた。
「じゃあ、少しだけ……お付き合いします」
ヘルガは立ち上がり、軽く微笑んだ。
ヘルガが外に出る準備をしていると、マチルダが静かに部屋に入ってきた。彼女の手には、暖かいオートや防寒具がしっかりと準備されていた。マチルダはヘルガに優しく微笑みながら、まるで彼女の世話をするのが当然のように言った。
「外は非常に冷え込んでいますから、お着替えください」
ヘルガは一瞬、その気配りに驚きながらも、無意識にマチルダが差し出す防寒具を受け取った。心地よい柔らかな生地に包まれながら、ヘルガはその温かさを感じ取る。まだ冬の厳しい冷気を感じる前に、マチルダの配慮が身体を優しく温めてくれるようだった。
「ありがとう、マチルダ」
ヘルガは穏やかな声で感謝の気持ちを伝えた。マチルダは一瞬頷くと、ヘルガが防寒具を身につけるのを手伝いながら、やはり何も言わずにその手際よく動き続けた。彼女はヘルガの袖をきちんと整え、フードをかぶせると、最後にもう一度全体を確認して言った。
「これで大丈夫です。行ってらっしゃいませ」
レウウィスは満足げにうなずき、ヘルガの隣に歩み寄る。
冬の冷たい空気が二人を迎える。透き通るように冷たく、息を吐くたびに白い霧が立ち上る。足元には新雪が薄く積もり、歩くたびにサクサクと音を立てている。周囲の木々は枝を丸めるように雪を抱え、重くなった枝が風に揺れるたびに、ふわりと雪が舞い落ちる。空は澄んだ青さを帯び、遠くの山々は雪化粧を施されたかのように白く輝いていた。日の光が雪を照らし、雪面がキラキラと輝く様子が、まるで宝石を散りばめたようだ。
木々の間から時折、寒風が吹き抜け、その冷たさが頬にしみ込む。しかし、それは心地よく、ヘルガの中にある緊張や不安を少しずつ和らげていくようだった。歩きながら、ヘルガは周囲の静けさに包まれていく。
レウウィスはヘルガの歩調に合わせ、静かな笑みを浮かべて歩き続けていた。彼の歩みも、雪の上に音を残すことなく、静かで穏やかだった。彼は一度、ヘルガの方を見てから、優しく言った。
「冬の空気も、たまには良いものだろう? 体が引き締まり、心も軽くなるような気がするのだ」
ヘルガは少し肩をすくめながらも、彼の言葉に頷いた。確かに、冬の冷たい風は身も心も引き締めてくれるように感じる。
「ええ、気持ちがすっきりします」
ヘルガは小さく笑いながら答える。
ヘルガは深呼吸をし、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、その清々しさに心が少し軽くなったような気がした。二人の歩みは静かに続き、周囲の音は雪の中で吸い込まれるように消えていく。まるで時間が一時停止したかのような、静寂に包まれた散歩だった。
「ところで、ヘルガ」
突然、レウウィスが話しかけた。ヘルガはその声に振り返り、彼の顔を見た。
「こうして二人で過ごす時間、あまり悪くないだろう?」
その問いかけには、少しだけ遊び心が感じられた。ヘルガはその言葉に少し驚きながらも、ほんの少しだけ顔を赤らめて答える。
「ええ、確かに……悪くないですね。」
心の中で、彼の言葉が不意に胸に響いた。それは温かな感情ではなく、どこかほのかな安心感を感じさせる言葉だった。
二人はさらに歩を進め、雪の中で時折視線を交わしながら歩き続けた。冬の空気と、二人だけの静かな時間が、少しずつヘルガの心を解きほぐしていくようだった。
ラフィが言いかけたその瞬間、レウウィスは冷静に言葉を遮った。
「その話は知っている」
レウウィスの声には、一瞬の沈黙が漂う。まるで、ラフィが言おうとしていることをすでに察しているかのようだった。
ラフィは少し驚きながらも、続けた。
「なぜ、あのような血を流されていたのですか?」
レウウィスは一呼吸おいてから、静かに答えた。
「自分の血を分けるために、腹部に怪我をしていた」
その言葉に、ラフィはしばらく無言でレウウィスを見つめた。心の中で何かが整理され、混乱が少しずつ収まっていくのを感じる。やがて、ラフィは安堵の表情を浮かべて、言った。
「よかった…ヘルガガ様に手を出されたのかと思っておりましたが、違ったのですね。」
レウウィスは一瞬、目を閉じ、深いため息をついた。
「いや、一度手を出した」
その言葉に、ラフィの表情が硬直した。
「ラフィ、彼女を食べたのでなく、交わったのだよ」
レウウィスはそう言って苦笑したが、ラフィは一瞬その意味を理解することができなかった。
「交わる……?それは、どういう意味でございますか?」
ラフィはわずかに困惑しながら聞き返した。
「交わるというのは、つまり……」
「ああ、ヘルガを抱いた」
「抱くとは、つまり……」
「皆まで言わせるな」
レウウィスの言葉に、ラフィは目を大きく見開き、信じられないという表情で口を半開きにした。
「そんな、まさか、あり得ないことです!人間と交わるなど!」
その言葉に、ラフィの表情が硬直した。目を見開き、思わず一歩後ずさる。心の中で混乱が広がり、何も言えずに立ち尽くす。だが、レウウィスはその反応を見ても、特に表情を変えなかった。いつも通りの冷静さで、静かな口調で続ける。
ラフィは、自分がいかに愚かな質問をしたのかを急に実感し、顔を紅潮させながらも、言葉を絞り出す。
「失礼しました、大公様」
その言葉に、胸の中で抑えきれない動揺を感じつつ、頭を深く下げる。
「どうかお許しください。」
レウウィスは軽く首を横に振った。
「謝る必要はない。私も驚いているのだ。」
そう言って、レウウィスは自分の椅子に腰掛け、目を少し閉じてから続ける。
「だが、あのようなことを質問してきた君が愚かであるとすれば、それは君の純粋さ故だろう」
ラフィはその言葉に驚きながらも、少しだけ安堵の表情を浮かべた。
その後、しばらく沈黙が続く。ラフィはレウウィスの言葉を反芻し、何度も自分の中でその意味を確かめる。
ラフィが再び口を開いた。
「では、大公様が……その、ヘルガ様をお抱きになったのも、ただそういう気分だったからということですか?」
レウウィスは少しだけ間を置き、冷徹に答える。
「そうだ」
「それなら、ヘルガ様を愛されているのではないのですか?」
ラフィはその問いに、自分でも意外なくらい力を込めて聞いた。だが、レウウィスの答えは短く、冷徹だった。
「愛していない」
その言葉がラフィの心に響き、思わず言葉を失う。
「でも、なぜ…?」
ラフィはその疑問を抑えきれずに口にする。
レウウィスは微かに苦笑し、目を開ける。
「惹かれたわけではない。ただ、あの時は、欲という感情に従っただけだ」
その言葉に、ラフィは一瞬息を呑んだ。レウウィスが感じていたのは、愛情ではなく、純粋な欲望だったという事実に、彼は言葉を失った。だが、すぐにラフィはふと考えた。
――欲に従っただけだなんて、少しおかしい
心の中でラフィは反芻する。レウウィスがあのような行動に出るまでには、何かしらの感情があるはずだ。
――衣食住を与え、面倒を見ている。少なくとも、その程度には情が移っているのではないか。
自分でも驚くほどその考えが頭をよぎった。ラフィは無意識に、レウウィスとヘルガの関係に、愛情というものがないわけではないと感じ始めていた。
それでも、ラフィはその気持ちを胸の中にしまい込んだ。何も言わずにただ、レウウィスを見つめることしかできなかった。
**
ヘルガは、怪我も治り自室に戻った。いつものように顔を洗おうと水汲みを始め、身支度を整えようとしたその時、コンコンとノックの音が響いた。
念のため、面をつけ「はい」と返事をしながら扉を開けると、そこには女の召使が立っていた。彼女は手に桶を持ち、にこやかにヘルガを見つめている。
「おはようございます。お湯をお持ちしました」
丁寧に挨拶をする彼女に、ヘルガは少し驚きながらも礼を言った。
部屋に彼女を招き入れ、ヘルガは心の中で疑問が浮かぶ。今まで、自分の世話をしようとした召使は一人もいなかったはずだ。もしかしたら、レウウィスの指示でここに来たのか。それとも、別の理由があるのだろうか。
ヘルガの視線は、召使の面に向けられた。穏やかな表情をしているものの、その目には何か隠された意図があるように感じられ、彼女の行動を観察することにした。ヘルガには、まだその意図が明確には見えなかった。
もしかすると、彼女が自分に何かを求めているのではないか—そう感じた一瞬、ヘルガはその可能性に少し警戒心を抱く。
「大丈夫、私がします」と、言おうとしたが、従者はすぐに桶を持って優雅に近づいてきた。そして、「失礼」と言って、ヘルガの服を脱がせ始めた。
突然のことに、ヘルガは抵抗しようとしたが、一瞬にして面を外され、顔を拭かれた。冷たい感触が肌をなでる間に、彼女は完全に下着姿にされ、再び清潔な服を着せられていた。髪もきちんと整えられ、召使の動きは全く無駄がない。ヘルガは、抗う間もなく全てが進んでしまった事実に驚き、同時にその巧みさに感嘆すら覚えていた。
「はい、できあがりです」
召使の声に我に返ったは、鏡の前に立つ自分の姿を見た。顔の汚れはすっかり取れ、服は整然と着付けられ、清潔感が漂っている。
「ありがとうございます」
ヘルガは小さく頭を下げて感謝の意を示した。その言葉に、召使は微笑みながら答える。
「いえ、これが私の務めですから」
「でも、こんなことまでしていただいたのは初めてで……」
ヘルガは言いかけた言葉をのみ込んだ。どこか申し訳ない気持ちと、理由の分からない違和感が胸の内に広がっていたからだ。
召使はその様子に気付いたのか、優しく微笑みながら言葉を添えた。
「ヘルガ様は、もっとご自愛なさるべきです。これからもお手伝いさせていただきますね」
その穏やかな声色に、ヘルガは一瞬返答を迷った。
「ヘルガ様、朝食はいかがなさいましょうか?」
召使の落ち着いた声が響く。彼女は相変わらず柔らかな笑みを浮かべ、礼儀正しく立っていた。その態度はどこか隙がなく、ヘルガは自然と慎重になった。
「えっと……お願いできるかしら?」
ヘルガは一瞬言葉を迷わせたものの、結局彼女に従うことにした。召使の態度から何も読み取れない以上、下手に断るよりも状況を見極める方が得策だと考えたのだ。
「承知しました。では、こちらへどうぞ」
召使は優雅な動作でヘルガを促し、部屋の外へと案内した。ヘルガはその後を慎重に歩きながら、廊下を進む。足元の絨毯が歩く音を吸い込み、ただ静けさだけが広がっていた。
そして扉を開けた先に広がっていたのは、豪華な食卓だった。広々とした空間の中央に長いテーブルが置かれ、その上には精巧な装飾が施された食器や花が並んでいる。そして、そのテーブルの端に座っていたのは、レウウィスだった。
彼は片肘をつきながら、ヘルガに気付くと軽く視線を投げる。表情は相変わらず読みにくく、どこか余裕を感じさせるものだったが、その瞳にはほんの僅かに興味を示す色が見えたようにも感じられた。
「おはよう、ヘルガ」
短い挨拶が静かな空間に響く。
「お、おはようございます」
ヘルガはぎこちなく返事をすると、促されるままレウウィスの向かいの席に座った。彼女の前に、召使が手際よく朝食のプレートを運んでくる。
「どうぞ、ごゆっくりお召し上がりください」
召使は一礼すると、静かにその場を離れた。
ヘルガはテーブルに並べられた料理を見下ろした。見た目にも美しい品々が並んでいたが、緊張で胃が縮こまり、食べる気にはなれない。そんな彼女の様子を、レウウィスはじっと見つめていた。
「食べないのか?」
彼の声は低く、だがどこか含みがある。
「いえ、その……いただきます」
ヘルガは慌ててフォークを手に取り、目の前の料理に手をつけた。しかし、その視線の先にいるレウウィスの存在が気になり、食事に集中することはできなかった。
レウウィスはそんな彼女を観察するかのように、興味深げに微笑んだ。そして、何かを探るような口調で言った。
「どうだ、ここでの生活には少しは慣れたか?」
「えぇ、少しずつですが。ところで、私室に従者の方がいらっしゃったのですが……」
レウウィスはヘルガの言葉を聞きながら、ゆっくりと背もたれに体を預けた。彼の口元には依然として薄い笑みが浮かんでいる。
「ふむ、マチルダのことだな」
彼は淡々とした口調で続けた。
「彼女は、ヘルガの世話をしたいと自ら立候補したのだ。珍しいことだが、信頼して構わない」
ヘルガは、その言葉をすぐに受け入れることができなかった。彼女の行動は確かに丁寧で気遣いがあったものの、その完璧さがかえって不安を煽る。
「ですが……」
ヘルガはためらいながら口を開く。
「安心したまえ、彼女は人間を食べることに対して、あまり固執しない」
レウウィスがあっさりとそう告げると、ヘルガの肩から力が抜けた。そして、無意識のうちに安堵のため息をつく。
「まあ、気になることがあれば直接彼女に聞いてみるといい」
レウウィスは再び穏やかな笑みに戻り、話題を切り替えるかのようにテーブルの上のカップを手に取った。
「ところで、このスープは美味だと思わないか?」
その唐突な話題転換に、ヘルガは少し戸惑いながらも返答を絞り出した。
「……はい、とても美味しいです」
ヘルガはスプーンを置き、改めて料理を見た。スープは透き通るような黄金色に輝き、食欲を刺激する香りを放っている。
「それはよかった」
レウウィスは満足そうに言うと、カップを軽く傾けながらヘルガの反応を見守った。ヘルガの反応を楽しむように見つめながら、ゆっくりとテーブルから立ち上がった。その動きは優雅で、まるで時間が彼のためだけに流れているかのようだった。
「ヘルガ、少し散歩でもどうだろうか?」
彼は穏やかな声で提案した。外の風を感じながら、少しリラックスするのもいいだろうと思ったのだろう。
ヘルガは一瞬戸惑いながらも、外の景色を思い浮かべ、少し心が温かくなった。散歩をして心を落ち着けることができるかもしれない、そんな期待が湧き上がった。しかし、彼の誘いに対してすぐに答えることができず、少し躊躇した。
「散歩……ですか?」
彼女は確認するように尋ねる。
レウウィスは優しく微笑みながら頷いた。
「そうだ。少し外の空気を吸うのもいいだろう。」
ヘルガはその言葉に少し安心した。彼の不安を煽るような態度や言動は今のところなく、穏やかな気配がただただ広がっている。心の中で、自分の気持ちに素直に従うことに決めた。
「じゃあ、少しだけ……お付き合いします」
ヘルガは立ち上がり、軽く微笑んだ。
ヘルガが外に出る準備をしていると、マチルダが静かに部屋に入ってきた。彼女の手には、暖かいオートや防寒具がしっかりと準備されていた。マチルダはヘルガに優しく微笑みながら、まるで彼女の世話をするのが当然のように言った。
「外は非常に冷え込んでいますから、お着替えください」
ヘルガは一瞬、その気配りに驚きながらも、無意識にマチルダが差し出す防寒具を受け取った。心地よい柔らかな生地に包まれながら、ヘルガはその温かさを感じ取る。まだ冬の厳しい冷気を感じる前に、マチルダの配慮が身体を優しく温めてくれるようだった。
「ありがとう、マチルダ」
ヘルガは穏やかな声で感謝の気持ちを伝えた。マチルダは一瞬頷くと、ヘルガが防寒具を身につけるのを手伝いながら、やはり何も言わずにその手際よく動き続けた。彼女はヘルガの袖をきちんと整え、フードをかぶせると、最後にもう一度全体を確認して言った。
「これで大丈夫です。行ってらっしゃいませ」
レウウィスは満足げにうなずき、ヘルガの隣に歩み寄る。
冬の冷たい空気が二人を迎える。透き通るように冷たく、息を吐くたびに白い霧が立ち上る。足元には新雪が薄く積もり、歩くたびにサクサクと音を立てている。周囲の木々は枝を丸めるように雪を抱え、重くなった枝が風に揺れるたびに、ふわりと雪が舞い落ちる。空は澄んだ青さを帯び、遠くの山々は雪化粧を施されたかのように白く輝いていた。日の光が雪を照らし、雪面がキラキラと輝く様子が、まるで宝石を散りばめたようだ。
木々の間から時折、寒風が吹き抜け、その冷たさが頬にしみ込む。しかし、それは心地よく、ヘルガの中にある緊張や不安を少しずつ和らげていくようだった。歩きながら、ヘルガは周囲の静けさに包まれていく。
レウウィスはヘルガの歩調に合わせ、静かな笑みを浮かべて歩き続けていた。彼の歩みも、雪の上に音を残すことなく、静かで穏やかだった。彼は一度、ヘルガの方を見てから、優しく言った。
「冬の空気も、たまには良いものだろう? 体が引き締まり、心も軽くなるような気がするのだ」
ヘルガは少し肩をすくめながらも、彼の言葉に頷いた。確かに、冬の冷たい風は身も心も引き締めてくれるように感じる。
「ええ、気持ちがすっきりします」
ヘルガは小さく笑いながら答える。
ヘルガは深呼吸をし、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、その清々しさに心が少し軽くなったような気がした。二人の歩みは静かに続き、周囲の音は雪の中で吸い込まれるように消えていく。まるで時間が一時停止したかのような、静寂に包まれた散歩だった。
「ところで、ヘルガ」
突然、レウウィスが話しかけた。ヘルガはその声に振り返り、彼の顔を見た。
「こうして二人で過ごす時間、あまり悪くないだろう?」
その問いかけには、少しだけ遊び心が感じられた。ヘルガはその言葉に少し驚きながらも、ほんの少しだけ顔を赤らめて答える。
「ええ、確かに……悪くないですね。」
心の中で、彼の言葉が不意に胸に響いた。それは温かな感情ではなく、どこかほのかな安心感を感じさせる言葉だった。
二人はさらに歩を進め、雪の中で時折視線を交わしながら歩き続けた。冬の空気と、二人だけの静かな時間が、少しずつヘルガの心を解きほぐしていくようだった。