第2部 新天地
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塔に近づくにつれ、レウウィスの鼻腔に血の匂いが漂ってきた。
ただの血ではなく、ヘルガのものだ。
嫌な予感がして、レウウィスは駆け出した。
塔に侵入された形跡はない、ということは中にいるはずだ。
塔の扉を開けて中に入ると、そこに広がっていた光景に絶句した。
そこには、床一面に広がる鮮紅色が広がっていた。そして、その中心に誰かが倒れていた。
「ヘルガっ!!」
レウウィスは慌てて彼女に近づいた。
ヘルガの腹部からは、大量の血が流れ出していた。その近くには、血の入った瓶が転がり、ヘルガはその瓶に手を伸ばして血を集め続けていた。意識は薄れつつあるようだが、まだかろうじて呼吸は感じられる。だが、明らかに命に関わる状態だ。
「どうしてこんなことに……」
レウウィスは必死に自分の服を引き裂き、ヘルガの傷口に当てて血を止めようと試みるが、無力さが胸を締め付ける。
「ヘルガ、目を覚ませ!」
彼女の肩を揺らしながら叫ぶ。しかし、反応はない。
「ヘルガ、死ぬな!」
その手を取ると、彼女の手はまるで氷のように冷たかった。心臓が冷えるような感覚に包まれ、レウウィスは必死に呼びかけ続ける。
「ヘルガ」
「……ん?」
かすかな声が聞こえ、ヘルガは薄く目を開ける。その瞳が自分を映しているのを見た瞬間、レウウィスは深く安堵の息を吐いた。
「レウ……ウィス……」
「そうだ」と答え、ヘルガの体をそっと抱き上げる。彼女の震える体を支えながら、目の前でまだ血が流れ続ける傷口を見つめる。
だが、ヘルガはそこで手を止めることなく、血だらけの布を絞り、その中に血を集めていた。レウウィスはその様子を見て、驚きと同時に一抹の恐れを感じる。
「……何をしているんだ?」
「……血を集めていたんです」
ヘルガは、額に汗を浮かべながらも、淡々と答える。
「最近、知能が低下してきた従者たちがいて……人肉の供給が足りなくて、皆が苦しんでいるんです」
その言葉に、レウウィスは心の中で深く理解した。食糧難が続いていること。上の階級は変わらぬ贅沢を享受し、下級の者たちは飢えに苦しんでいる現実。ヘルガの行動も、それに対する無言の抗議だったのだろう。
「私の人肉、評価は……特上ですよ。知能低下を防ぐためなら、これくらいは……」
その言葉を聞いたレウウィスは、一瞬、言葉を失った。ヘルガがそれほどまでに彼女の決断に自信を持ち、誰にも頼らずに行動したことに、彼の心は複雑な感情で満たされた。彼女の決意は、まるでその痛みさえも背負い込むような覚悟を感じさせた。
「私ならできると思ったから」
ヘルガの言葉は、まるで自分を奮い立たせるかのようだ。だが、その瞳に浮かぶ不安を、レウウィスは見逃さなかった。
「……誰かに指示されたのか? その者の名は? 」
ヘルガは少しだけ苦笑し、弱々しい声で答える。
「いいえ、私が判断しました。でも、大丈夫。従者たちなら、きっとわかってくれるはずです」
微笑む彼女の表情に、レウウィスは一瞬、言葉を失った。ヘルガがそれほどまでに自分の決断に自信を持ち、誰にも頼らずに行動したことに、彼の心は複雑な感情で満たされた。彼女の決意は、まるでその痛みさえも背負い込む覚悟を感じさせた。
「レウウィス……このままでは皆、退化してしまう。それは嫌なの」
ヘルガは懇願するように言った。
「…………」
その言葉に、レウウィスは答えられなかった。ヘルガは、聡明で理知的な女性だ。しかし、時々彼女は驚くほど愚かになり、身を引き換えにすればすべて解決すると思い込んでしまうことがあるのだろうか。いや、違う。ヘルガは、そんな単純な考え方をする人ではない。彼女は、他人のためならどれだけ自分が傷ついても、平然と犠牲にできる生き物だ。それが、レウウィスにはどうしても耐えられなかった。
彼は、思わずヘルガの唇を奪った。
彼女は驚いたような表情を浮かべたが、抵抗することはなかった。レウウィスが自分の意思を込めて、彼女に少しでも伝えたかったのだ。
しばらくして口を離すと、ヘルガは困惑した表情をしていた。レウウィスの行動の意図が理解できなかったのだろう。
「君がそんなに我々のことを考えていたとは思わなんだ」
レウウィスは低い声で、まるで呟くように言った。
彼は、思わずヘルガの唇を奪った。
彼女は驚いたような表情を浮かべたが、抵抗することはなかった。レウウィスが自分の意思を込めて、彼女に少しでも伝えたかったのだ。
しばらくして口を離すと、ヘルガは困惑した表情をしていた。レウウィスの行動の意図が理解できなかったのだろう。
「君がそんなに我々のことを考えていたとは思わなんだ」
レウウィスは低い声で、まるで呟くように言った。
レウウィスは、ヘルガから顔をそらし、シルクハットを深く被る。
「君の望みは、私が叶えよう」
その言葉を発した後、レウウィスは静かに立ち上がり、瞬時に自身の爪を使って皮膚に傷をつけた。
ポタポタと血が流れ落ちる。
「この血は“邪血”と世間では呼ばれている。しかし、この血を呑めば、人間を食べなくとも退化することはないのだよ」
ヘルガは、レウウィスの掌に滴り落ちた血をじっと見つめた。
「そのようなものがあれば、なぜ今まで使わなかったのです?」
レウウィスは、しばらく沈黙した後、ゆっくりと答える。
「……鬼の社会にも色々あるのだよ。手当てをしながら、少し話そうではないか」
彼は傷口にハンカチを当て、そのままヘルガの傷口の上を軽く押した。
「っ……」
ヘルガは顔を歪め、痛みに耐えながらも、その目はレウウィスを見つめ続ける。
「すまないね」
「いえ、大丈夫です」
「さて、まずは邪血についてだ。どこから話すべきなのか――」
レウウィスは静かに話し始めた。
「邪血とは、鬼の力を永続的に保持する血だ。この血を飲んだ者は、鬼の能力を持ち続けることができる」
ヘルガは驚きながらも、彼の言葉を真剣に受け止めていた。レウウィスは視線を遠くに向け、続けた。
「だが、この血は王族や貴族たちにとって危険でもある。民衆が邪血を得れば、彼らの支配が脅かされるからだ。その結果、邪血の鬼は排除され、その血は彼ら自身の力として吸収されてきた」
ヘルガは言葉を失った。レウウィスが語る話は、ただの歴史ではなく、生々しい現実のように響いた。
「邪血の一派は、逆賊として処刑された。それが600年か、700年前のことだ」
彼の声には冷徹な響きがありながら、どこか深い悲しみも混じっているように感じられた。
「それでも、その一族は完全には滅びなかった」
レウウィスの声が低くなる。彼の瞳が鋭く光を宿し、ヘルガを見据えた。
「私の気まぐれで末弟と邪血の少女を助けてやった」
「気まぐれ……?」
ヘルガの声には戸惑いが混じっていたが、彼女は言葉の裏に隠された意味を探ろうとしていた。
レウウィスは短い沈黙の後、穏やかに語った。
「気まぐれだったのかもしれない。だが、あの時の選択がどれほど重大だったか、今ではよく分かる。私は後悔していない。」
その言葉には、彼の苦悩と覚悟がにじみ出ていた。ヘルガは彼の心の奥底に触れたような気がした。
「もし、それが本当なら……王族や貴族は、鬼を食べて力を得てきたということですね?」
レウウィスは静かにうなずいた。
「そうだ。そして、私も邪血の一派の脳を食べた。だから、もう人間を食べる必要はない」
その言葉に、ヘルガは衝撃を受けながらも、彼の体の異常が見られない理由に納得がいった。彼は事実を隠すことなく、彼女に語っているようだった。
「どうしてそのことを黙っていたのですか?」
ヘルガの問いに、レウウィスは淡々と答えた。
「言えば信じてもらえないし、権力闘争に巻き込まれるのはごめんだ。それに、私以外の王族は女王によって全て抹殺された」
ヘルガは彼の言葉を反芻しながら、その重さに圧倒されていた。彼が自らの血を使って自分を救ったことの意味が、少しずつ彼女の胸に響いてくる。
「レウウィス、ありがとうございます。」
彼は穏やかに微笑んだ。
「礼には及ばない。それよりも、これからどうするかだ。」
ヘルガは少し考え込み、静かに答えた。
「この血を……私自身の血だと言います。そうしないと、混乱を招くだけですから」
その決意を示すように、彼女は強い視線をレウウィスに向けた。
レウウィスは手に付いた血を布で拭いながら、静かに頷いた。
「なるほど。君自身の判断に委ねよう。ただし、無理はするな。」
彼はふと、ヘルガの顔色を見つめた。
「熱があるようだね。」
「え? そうですか?」
ヘルガは驚いて自分の額に手を当てるが、自覚症状はない様子だった。
「こんな場所では休めない。屋敷に戻るべきだ」
レウウィスは、ヘルガをじっと見つめると、小さくため息をついた。
「無理はいけない。君は熱があるんだ」
「でも、自分で歩けます!」
ヘルガは立ち上がろうとするが、膝が震えてその場に崩れそうになる。
「ほら、見たまえ」
レウウィスは迷うことなく膝をつき、彼女の体を支えた。冷静な目で彼女の顔色を確認すると、力強く言い切った。
「もういい。君をここに放っておくわけにはいかない。」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ヘルガが慌てて言う間もなく、彼はすっと立ち上がり、彼女の体を軽々と横抱きにした。
「……重くないですか?」
戸惑いながらも、ヘルガは小声で尋ねる。
レウウィスは薄く笑い、彼女を見下ろした。
「これくらい、全く問題ないよ」
その笑みには、彼の余裕とどこか温かな思いやりが感じられた。
ヘルガは必死に抗議したが、レウウィスの腕は頑なだった。
ヘルガは顔を赤らめながら、抵抗しようとする。
「でも、私は歩け――」
ヘルガの言葉は途中で途切れた。彼の腕に抱かれたままでは、どうにも説得力がない。
「ほら、大人しくしていてくれ。君を落とすつもりはないよ。」
ヘルガは渋々ながらも抗議をやめ、顔を逸らした。
「……子ども扱いしないでください」
その言葉に、レウウィスは思わず小さく笑った。
「君がもう少し大人しくしてくれたら、考えなくもない。」
彼は彼女をしっかりと支えながら、軽やかな足取りで屋敷へ向かう。ヘルガは彼の胸に頬を寄せたまま、小さく息をついた。どこか悔しい気持ちが胸に込み上げ、ヘルガは思わず唇をかみしめた。
言い返す言葉を探したかったが、次第に力が抜けていく。レウウィスの足取りは驚くほど安定していて、揺れ一つない抱えられ方が、むしろ彼女の疲れ切った体を心地よく包み込む。
悔しさと安堵が入り混じり、ヘルガはわずかに眉を寄せながら小さく息を吐いた。
「……今日はありがとう。でも、もう二度とこのようなことはしないから、降ろして?」
小さな声でつぶやくと、レウウィスは軽く笑った。
「聞けぬ願いだ、大人しくしていることだな」
彼の言葉に、ヘルガの胸の奥で再び悔しさがかすかに波打った。しかし、それ以上何も言い返すことはなかった。
瞼が重く感じられ、彼の胸元から伝わる心地よい鼓動が、静かな眠りへと誘うように彼女を包み込んでいった。
**
朝の光が薄くカーテンを通り抜け、部屋に柔らかな明るさをもたらしていた。ヘルガは目を覚まし、すっかり落ち着いた気分で周りを見渡した。
昨晩、レウウィスが彼女をここに運んだこと、そして静かな夜の間に感じた彼の存在が、まだ心の中で温かく残っていた。
体の疲れは取れ、ほっとした気持ちが広がっていたが、同時にまだどこかで気持ちが整理できない部分もあった。
ベッドの脇に立つレウウィスの姿を見つけると、彼はまるで昨日の出来事が何事もなかったかのように、穏やかな表情で彼女を見守っていた。
「おはよう。調子はどうかね?」
ヘルガの返事を待たずに、レウウィスは彼女に近づき、額に手を添える。
「……熱は下がったようだね。」
ヘルガは戸惑っていたが、彼は構わず続けた。
「水をもってこよう。寝ていなさい。」
彼はそう言うと、部屋を出て行った。
ヘルガはしばらく出て行った扉を眺め、ふとため息をついた。静かな部屋と、見慣れない空間。大きなベッドに寝転びながら、レウウィスの寝室に自分がいるという事実に、少し驚きと共に不思議な感覚が湧き上がってきた。心の中で整理できない感情が交錯し、何もかもが新しく感じられた。
その時、部屋の扉が静かに開かれる音が響き、ヘルガは顔を上げた。
「失礼いたします、レウウィス様のお手伝いを…」
入ってきたのは、レウウィスの執事、ラフィだった。背筋を伸ばし、冷静な表情で部屋を見渡していたが、ヘルガの姿を見るや、その目が一瞬驚きに大きく見開かれた。
「ヘルガ様…!? なぜここに」
彼の視線は、ヘルガが寝ているベッドと、その周囲に広がる静けさに注がれていた。すると、ふと何かに気づいたように、彼の目がベッドのシーツに留まる。
「ヘルガ様……!」
ラフィの声には焦りがにじんでいた。彼は素早く足元に近づき、シーツの端をそっとめくる。その瞬間、ヘルガの心臓が強く跳ねた。視線を追うと、腹部から広がる血の痕がシーツに赤い跡を残していた。冷たい汗が背筋を伝う。
「まさか……大公様の仕業ですか?」
ラフィの顔が一変し、怒りの色を帯びた。
「無垢なあなたにこんな仕打ちをするなど、到底許されません!」
彼の声は怒りを抑えきれず震えている。ヘルガは慌てて首を振った。
「違います! 大公様は何もしていません!」
「しかし、この状況は――」
「これは、私が……勝手にやったことです!」
言葉に詰まりながらも、ヘルガは必死にラフィの誤解を解こうとした。彼女は咄嗟に手を伸ばしたが、ラフィはそれを振り払うと数歩距離を取り、顔を覆った。
「ヘルガ様…血の匂いが……とても美味しそうで」
その声にはかすかな震えが混じり、抑えきれない衝動と戦う様子が見て取れた。ヘルガは驚きと不安が入り混じる中、息を呑んだ。ラフィの肩が微かに震えている。
「ラフィさん…?」
不安げに声をかけると、彼の肩が微かに震えた。
彼女が恐る恐る声をかけると、ラフィはぎこちなく息を吸い込んだ。そして絞り出すように言葉を紡ぐ。
「申し訳ありません…。ですが、この血の匂いを嗅いでしまうと…理性が揺らいで今すぐあなた様を食べたくて仕方がないのです」
彼はゆっくりと深呼吸し、拳を固く握りしめた。指先が白くなるほどの力で、必死に抑え込んでいるのがわかる。
――レウウィスは、いつもこの状態に耐えられていたのか……。
その考えがヘルガの胸を締め付けた。血の匂いに抗うことが、どれほどの苦痛を伴うのか――今までは想像すらしていなかった。
彼の穏やかな微笑み、どんな時でも崩れない落ち着き。それは単なる生まれ持った気質ではなく、こうした衝動を日々抑え続けている結果なのだと、今ようやく気づいた。
ヘルガは震える手でシーツを掴み、わずかに目を伏せた。
「ラフィさん、しばらく部屋を離れていてください。これくらいの傷ならすぐに止血しますから」
「しかし……」
「お願いします」
ヘルガは有無を言わさぬ口調で言った。
ラフィは一瞬、迷うようにヘルガを見つめたが、その瞳にはまだ渇望の色が残っている。それでも彼は、鋭い歯をぎりぎりと食いしばりながら深く頭を下げた。
「かしこまりました。どうかご無理なさらぬよう。何かありましたら、お呼びください」
そう言い残し、静かに部屋を出て行った。扉が閉まると、ヘルガは深く息をついた。
ヘルガはシーツを握りしめながら、自分の軽率さに心の中で苛立ちを覚えた。
――そう、私はただの人間で、彼らにとっては食料にすぎない。
それを忘れかけていた自分に腹が立つと同時に、ラフィの苦しげな表情が脳裏をよぎった。あの抑えきれない本能に抗いながら、彼は最後まで理性を保ち、部屋を去った。ヘルガの胸に不安だけでなく、奇妙な感謝の念が芽生える。
だが、それでも現実は変わらない。自分が彼らと対等ではないという事実は、消えることはないのだ。
――レウウィスも、あの衝動を毎日耐えているのだろうか?
彼のいつも穏やかな表情が頭をよぎり、胸が少し痛んだ。血の匂いに抗いながらも、彼は一度としてそれを表に出したことがない。あれはただの優しさではなく、凄まじい自制心の賜物だと、今になってわかる。
ヘルガは布で腹部の傷を押さえながら、深く息を吸い込んだ。
――もっと気を引き締めなければ。自分を守れるのは、自分だけだ。
彼らの好意に甘えてはいけない。無防備でいることの危険を、今回の出来事が身をもって教えてくれた。
ヘルガがベッドのシーツをそっとはがしていると、不意に扉が静かに開く音がした。
振り返ると、そこにはレウウィスが立っていた。彼の鋭い目がシーツに滲む血痕を捉え、次いでヘルガの表情をじっと見つめる。
「何をしている?」
低く落ち着いた声だったが、その中に隠しきれない緊張感が含まれているのをヘルガは感じた。
「……シーツを取り替えようと思って。ただ、それだけです。」
ヘルガは自分の声が微かに震えているのに気づき、悔しさを覚えた。冷静に振る舞いたかったが、目の前の彼の圧倒的な存在感にどうしても圧倒されてしまう。
レウウィスはゆっくりと部屋に入り、ベッドの横に立つと、軽く眉をひそめた。
「傷が開いたか?」
「もう平気です。無理な動きをしなければ止まりますから」
レウウィスは少し考えた後、静かに頷いた
彼は、食事とシーツを持って部屋を出ようとした時、ヘルガは思わず彼を呼び止めた。
「ちょっと、待ってください、レウウィス様」
その瞬間、ヘルガは自分でも驚くほど咄嗟に声を出していた。無意識に呼び止めてしまったことに、心の中で小さな戸惑いが広がる。
どうしてこんなことをしてしまったのか…と一瞬頭をよぎるが、すぐにその思いを振り払った。
レウウィスは少し驚いた様子で振り返ったが、すぐに冷静に尋ねた。
「どうした?」
ヘルガは慌てて答えた。
「なんでもないです。呼び止めてごめんなさい」
「そうか」
レウウィスはゆっくりと頷き、何も言わずに部屋を出て行った。扉が閉まるとヘルガはいそいそとシーツを取り換え始めた。
ただの血ではなく、ヘルガのものだ。
嫌な予感がして、レウウィスは駆け出した。
塔に侵入された形跡はない、ということは中にいるはずだ。
塔の扉を開けて中に入ると、そこに広がっていた光景に絶句した。
そこには、床一面に広がる鮮紅色が広がっていた。そして、その中心に誰かが倒れていた。
「ヘルガっ!!」
レウウィスは慌てて彼女に近づいた。
ヘルガの腹部からは、大量の血が流れ出していた。その近くには、血の入った瓶が転がり、ヘルガはその瓶に手を伸ばして血を集め続けていた。意識は薄れつつあるようだが、まだかろうじて呼吸は感じられる。だが、明らかに命に関わる状態だ。
「どうしてこんなことに……」
レウウィスは必死に自分の服を引き裂き、ヘルガの傷口に当てて血を止めようと試みるが、無力さが胸を締め付ける。
「ヘルガ、目を覚ませ!」
彼女の肩を揺らしながら叫ぶ。しかし、反応はない。
「ヘルガ、死ぬな!」
その手を取ると、彼女の手はまるで氷のように冷たかった。心臓が冷えるような感覚に包まれ、レウウィスは必死に呼びかけ続ける。
「ヘルガ」
「……ん?」
かすかな声が聞こえ、ヘルガは薄く目を開ける。その瞳が自分を映しているのを見た瞬間、レウウィスは深く安堵の息を吐いた。
「レウ……ウィス……」
「そうだ」と答え、ヘルガの体をそっと抱き上げる。彼女の震える体を支えながら、目の前でまだ血が流れ続ける傷口を見つめる。
だが、ヘルガはそこで手を止めることなく、血だらけの布を絞り、その中に血を集めていた。レウウィスはその様子を見て、驚きと同時に一抹の恐れを感じる。
「……何をしているんだ?」
「……血を集めていたんです」
ヘルガは、額に汗を浮かべながらも、淡々と答える。
「最近、知能が低下してきた従者たちがいて……人肉の供給が足りなくて、皆が苦しんでいるんです」
その言葉に、レウウィスは心の中で深く理解した。食糧難が続いていること。上の階級は変わらぬ贅沢を享受し、下級の者たちは飢えに苦しんでいる現実。ヘルガの行動も、それに対する無言の抗議だったのだろう。
「私の人肉、評価は……特上ですよ。知能低下を防ぐためなら、これくらいは……」
その言葉を聞いたレウウィスは、一瞬、言葉を失った。ヘルガがそれほどまでに彼女の決断に自信を持ち、誰にも頼らずに行動したことに、彼の心は複雑な感情で満たされた。彼女の決意は、まるでその痛みさえも背負い込むような覚悟を感じさせた。
「私ならできると思ったから」
ヘルガの言葉は、まるで自分を奮い立たせるかのようだ。だが、その瞳に浮かぶ不安を、レウウィスは見逃さなかった。
「……誰かに指示されたのか? その者の名は? 」
ヘルガは少しだけ苦笑し、弱々しい声で答える。
「いいえ、私が判断しました。でも、大丈夫。従者たちなら、きっとわかってくれるはずです」
微笑む彼女の表情に、レウウィスは一瞬、言葉を失った。ヘルガがそれほどまでに自分の決断に自信を持ち、誰にも頼らずに行動したことに、彼の心は複雑な感情で満たされた。彼女の決意は、まるでその痛みさえも背負い込む覚悟を感じさせた。
「レウウィス……このままでは皆、退化してしまう。それは嫌なの」
ヘルガは懇願するように言った。
「…………」
その言葉に、レウウィスは答えられなかった。ヘルガは、聡明で理知的な女性だ。しかし、時々彼女は驚くほど愚かになり、身を引き換えにすればすべて解決すると思い込んでしまうことがあるのだろうか。いや、違う。ヘルガは、そんな単純な考え方をする人ではない。彼女は、他人のためならどれだけ自分が傷ついても、平然と犠牲にできる生き物だ。それが、レウウィスにはどうしても耐えられなかった。
彼は、思わずヘルガの唇を奪った。
彼女は驚いたような表情を浮かべたが、抵抗することはなかった。レウウィスが自分の意思を込めて、彼女に少しでも伝えたかったのだ。
しばらくして口を離すと、ヘルガは困惑した表情をしていた。レウウィスの行動の意図が理解できなかったのだろう。
「君がそんなに我々のことを考えていたとは思わなんだ」
レウウィスは低い声で、まるで呟くように言った。
彼は、思わずヘルガの唇を奪った。
彼女は驚いたような表情を浮かべたが、抵抗することはなかった。レウウィスが自分の意思を込めて、彼女に少しでも伝えたかったのだ。
しばらくして口を離すと、ヘルガは困惑した表情をしていた。レウウィスの行動の意図が理解できなかったのだろう。
「君がそんなに我々のことを考えていたとは思わなんだ」
レウウィスは低い声で、まるで呟くように言った。
レウウィスは、ヘルガから顔をそらし、シルクハットを深く被る。
「君の望みは、私が叶えよう」
その言葉を発した後、レウウィスは静かに立ち上がり、瞬時に自身の爪を使って皮膚に傷をつけた。
ポタポタと血が流れ落ちる。
「この血は“邪血”と世間では呼ばれている。しかし、この血を呑めば、人間を食べなくとも退化することはないのだよ」
ヘルガは、レウウィスの掌に滴り落ちた血をじっと見つめた。
「そのようなものがあれば、なぜ今まで使わなかったのです?」
レウウィスは、しばらく沈黙した後、ゆっくりと答える。
「……鬼の社会にも色々あるのだよ。手当てをしながら、少し話そうではないか」
彼は傷口にハンカチを当て、そのままヘルガの傷口の上を軽く押した。
「っ……」
ヘルガは顔を歪め、痛みに耐えながらも、その目はレウウィスを見つめ続ける。
「すまないね」
「いえ、大丈夫です」
「さて、まずは邪血についてだ。どこから話すべきなのか――」
レウウィスは静かに話し始めた。
「邪血とは、鬼の力を永続的に保持する血だ。この血を飲んだ者は、鬼の能力を持ち続けることができる」
ヘルガは驚きながらも、彼の言葉を真剣に受け止めていた。レウウィスは視線を遠くに向け、続けた。
「だが、この血は王族や貴族たちにとって危険でもある。民衆が邪血を得れば、彼らの支配が脅かされるからだ。その結果、邪血の鬼は排除され、その血は彼ら自身の力として吸収されてきた」
ヘルガは言葉を失った。レウウィスが語る話は、ただの歴史ではなく、生々しい現実のように響いた。
「邪血の一派は、逆賊として処刑された。それが600年か、700年前のことだ」
彼の声には冷徹な響きがありながら、どこか深い悲しみも混じっているように感じられた。
「それでも、その一族は完全には滅びなかった」
レウウィスの声が低くなる。彼の瞳が鋭く光を宿し、ヘルガを見据えた。
「私の気まぐれで末弟と邪血の少女を助けてやった」
「気まぐれ……?」
ヘルガの声には戸惑いが混じっていたが、彼女は言葉の裏に隠された意味を探ろうとしていた。
レウウィスは短い沈黙の後、穏やかに語った。
「気まぐれだったのかもしれない。だが、あの時の選択がどれほど重大だったか、今ではよく分かる。私は後悔していない。」
その言葉には、彼の苦悩と覚悟がにじみ出ていた。ヘルガは彼の心の奥底に触れたような気がした。
「もし、それが本当なら……王族や貴族は、鬼を食べて力を得てきたということですね?」
レウウィスは静かにうなずいた。
「そうだ。そして、私も邪血の一派の脳を食べた。だから、もう人間を食べる必要はない」
その言葉に、ヘルガは衝撃を受けながらも、彼の体の異常が見られない理由に納得がいった。彼は事実を隠すことなく、彼女に語っているようだった。
「どうしてそのことを黙っていたのですか?」
ヘルガの問いに、レウウィスは淡々と答えた。
「言えば信じてもらえないし、権力闘争に巻き込まれるのはごめんだ。それに、私以外の王族は女王によって全て抹殺された」
ヘルガは彼の言葉を反芻しながら、その重さに圧倒されていた。彼が自らの血を使って自分を救ったことの意味が、少しずつ彼女の胸に響いてくる。
「レウウィス、ありがとうございます。」
彼は穏やかに微笑んだ。
「礼には及ばない。それよりも、これからどうするかだ。」
ヘルガは少し考え込み、静かに答えた。
「この血を……私自身の血だと言います。そうしないと、混乱を招くだけですから」
その決意を示すように、彼女は強い視線をレウウィスに向けた。
レウウィスは手に付いた血を布で拭いながら、静かに頷いた。
「なるほど。君自身の判断に委ねよう。ただし、無理はするな。」
彼はふと、ヘルガの顔色を見つめた。
「熱があるようだね。」
「え? そうですか?」
ヘルガは驚いて自分の額に手を当てるが、自覚症状はない様子だった。
「こんな場所では休めない。屋敷に戻るべきだ」
レウウィスは、ヘルガをじっと見つめると、小さくため息をついた。
「無理はいけない。君は熱があるんだ」
「でも、自分で歩けます!」
ヘルガは立ち上がろうとするが、膝が震えてその場に崩れそうになる。
「ほら、見たまえ」
レウウィスは迷うことなく膝をつき、彼女の体を支えた。冷静な目で彼女の顔色を確認すると、力強く言い切った。
「もういい。君をここに放っておくわけにはいかない。」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ヘルガが慌てて言う間もなく、彼はすっと立ち上がり、彼女の体を軽々と横抱きにした。
「……重くないですか?」
戸惑いながらも、ヘルガは小声で尋ねる。
レウウィスは薄く笑い、彼女を見下ろした。
「これくらい、全く問題ないよ」
その笑みには、彼の余裕とどこか温かな思いやりが感じられた。
ヘルガは必死に抗議したが、レウウィスの腕は頑なだった。
ヘルガは顔を赤らめながら、抵抗しようとする。
「でも、私は歩け――」
ヘルガの言葉は途中で途切れた。彼の腕に抱かれたままでは、どうにも説得力がない。
「ほら、大人しくしていてくれ。君を落とすつもりはないよ。」
ヘルガは渋々ながらも抗議をやめ、顔を逸らした。
「……子ども扱いしないでください」
その言葉に、レウウィスは思わず小さく笑った。
「君がもう少し大人しくしてくれたら、考えなくもない。」
彼は彼女をしっかりと支えながら、軽やかな足取りで屋敷へ向かう。ヘルガは彼の胸に頬を寄せたまま、小さく息をついた。どこか悔しい気持ちが胸に込み上げ、ヘルガは思わず唇をかみしめた。
言い返す言葉を探したかったが、次第に力が抜けていく。レウウィスの足取りは驚くほど安定していて、揺れ一つない抱えられ方が、むしろ彼女の疲れ切った体を心地よく包み込む。
悔しさと安堵が入り混じり、ヘルガはわずかに眉を寄せながら小さく息を吐いた。
「……今日はありがとう。でも、もう二度とこのようなことはしないから、降ろして?」
小さな声でつぶやくと、レウウィスは軽く笑った。
「聞けぬ願いだ、大人しくしていることだな」
彼の言葉に、ヘルガの胸の奥で再び悔しさがかすかに波打った。しかし、それ以上何も言い返すことはなかった。
瞼が重く感じられ、彼の胸元から伝わる心地よい鼓動が、静かな眠りへと誘うように彼女を包み込んでいった。
**
朝の光が薄くカーテンを通り抜け、部屋に柔らかな明るさをもたらしていた。ヘルガは目を覚まし、すっかり落ち着いた気分で周りを見渡した。
昨晩、レウウィスが彼女をここに運んだこと、そして静かな夜の間に感じた彼の存在が、まだ心の中で温かく残っていた。
体の疲れは取れ、ほっとした気持ちが広がっていたが、同時にまだどこかで気持ちが整理できない部分もあった。
ベッドの脇に立つレウウィスの姿を見つけると、彼はまるで昨日の出来事が何事もなかったかのように、穏やかな表情で彼女を見守っていた。
「おはよう。調子はどうかね?」
ヘルガの返事を待たずに、レウウィスは彼女に近づき、額に手を添える。
「……熱は下がったようだね。」
ヘルガは戸惑っていたが、彼は構わず続けた。
「水をもってこよう。寝ていなさい。」
彼はそう言うと、部屋を出て行った。
ヘルガはしばらく出て行った扉を眺め、ふとため息をついた。静かな部屋と、見慣れない空間。大きなベッドに寝転びながら、レウウィスの寝室に自分がいるという事実に、少し驚きと共に不思議な感覚が湧き上がってきた。心の中で整理できない感情が交錯し、何もかもが新しく感じられた。
その時、部屋の扉が静かに開かれる音が響き、ヘルガは顔を上げた。
「失礼いたします、レウウィス様のお手伝いを…」
入ってきたのは、レウウィスの執事、ラフィだった。背筋を伸ばし、冷静な表情で部屋を見渡していたが、ヘルガの姿を見るや、その目が一瞬驚きに大きく見開かれた。
「ヘルガ様…!? なぜここに」
彼の視線は、ヘルガが寝ているベッドと、その周囲に広がる静けさに注がれていた。すると、ふと何かに気づいたように、彼の目がベッドのシーツに留まる。
「ヘルガ様……!」
ラフィの声には焦りがにじんでいた。彼は素早く足元に近づき、シーツの端をそっとめくる。その瞬間、ヘルガの心臓が強く跳ねた。視線を追うと、腹部から広がる血の痕がシーツに赤い跡を残していた。冷たい汗が背筋を伝う。
「まさか……大公様の仕業ですか?」
ラフィの顔が一変し、怒りの色を帯びた。
「無垢なあなたにこんな仕打ちをするなど、到底許されません!」
彼の声は怒りを抑えきれず震えている。ヘルガは慌てて首を振った。
「違います! 大公様は何もしていません!」
「しかし、この状況は――」
「これは、私が……勝手にやったことです!」
言葉に詰まりながらも、ヘルガは必死にラフィの誤解を解こうとした。彼女は咄嗟に手を伸ばしたが、ラフィはそれを振り払うと数歩距離を取り、顔を覆った。
「ヘルガ様…血の匂いが……とても美味しそうで」
その声にはかすかな震えが混じり、抑えきれない衝動と戦う様子が見て取れた。ヘルガは驚きと不安が入り混じる中、息を呑んだ。ラフィの肩が微かに震えている。
「ラフィさん…?」
不安げに声をかけると、彼の肩が微かに震えた。
彼女が恐る恐る声をかけると、ラフィはぎこちなく息を吸い込んだ。そして絞り出すように言葉を紡ぐ。
「申し訳ありません…。ですが、この血の匂いを嗅いでしまうと…理性が揺らいで今すぐあなた様を食べたくて仕方がないのです」
彼はゆっくりと深呼吸し、拳を固く握りしめた。指先が白くなるほどの力で、必死に抑え込んでいるのがわかる。
――レウウィスは、いつもこの状態に耐えられていたのか……。
その考えがヘルガの胸を締め付けた。血の匂いに抗うことが、どれほどの苦痛を伴うのか――今までは想像すらしていなかった。
彼の穏やかな微笑み、どんな時でも崩れない落ち着き。それは単なる生まれ持った気質ではなく、こうした衝動を日々抑え続けている結果なのだと、今ようやく気づいた。
ヘルガは震える手でシーツを掴み、わずかに目を伏せた。
「ラフィさん、しばらく部屋を離れていてください。これくらいの傷ならすぐに止血しますから」
「しかし……」
「お願いします」
ヘルガは有無を言わさぬ口調で言った。
ラフィは一瞬、迷うようにヘルガを見つめたが、その瞳にはまだ渇望の色が残っている。それでも彼は、鋭い歯をぎりぎりと食いしばりながら深く頭を下げた。
「かしこまりました。どうかご無理なさらぬよう。何かありましたら、お呼びください」
そう言い残し、静かに部屋を出て行った。扉が閉まると、ヘルガは深く息をついた。
ヘルガはシーツを握りしめながら、自分の軽率さに心の中で苛立ちを覚えた。
――そう、私はただの人間で、彼らにとっては食料にすぎない。
それを忘れかけていた自分に腹が立つと同時に、ラフィの苦しげな表情が脳裏をよぎった。あの抑えきれない本能に抗いながら、彼は最後まで理性を保ち、部屋を去った。ヘルガの胸に不安だけでなく、奇妙な感謝の念が芽生える。
だが、それでも現実は変わらない。自分が彼らと対等ではないという事実は、消えることはないのだ。
――レウウィスも、あの衝動を毎日耐えているのだろうか?
彼のいつも穏やかな表情が頭をよぎり、胸が少し痛んだ。血の匂いに抗いながらも、彼は一度としてそれを表に出したことがない。あれはただの優しさではなく、凄まじい自制心の賜物だと、今になってわかる。
ヘルガは布で腹部の傷を押さえながら、深く息を吸い込んだ。
――もっと気を引き締めなければ。自分を守れるのは、自分だけだ。
彼らの好意に甘えてはいけない。無防備でいることの危険を、今回の出来事が身をもって教えてくれた。
ヘルガがベッドのシーツをそっとはがしていると、不意に扉が静かに開く音がした。
振り返ると、そこにはレウウィスが立っていた。彼の鋭い目がシーツに滲む血痕を捉え、次いでヘルガの表情をじっと見つめる。
「何をしている?」
低く落ち着いた声だったが、その中に隠しきれない緊張感が含まれているのをヘルガは感じた。
「……シーツを取り替えようと思って。ただ、それだけです。」
ヘルガは自分の声が微かに震えているのに気づき、悔しさを覚えた。冷静に振る舞いたかったが、目の前の彼の圧倒的な存在感にどうしても圧倒されてしまう。
レウウィスはゆっくりと部屋に入り、ベッドの横に立つと、軽く眉をひそめた。
「傷が開いたか?」
「もう平気です。無理な動きをしなければ止まりますから」
レウウィスは少し考えた後、静かに頷いた
彼は、食事とシーツを持って部屋を出ようとした時、ヘルガは思わず彼を呼び止めた。
「ちょっと、待ってください、レウウィス様」
その瞬間、ヘルガは自分でも驚くほど咄嗟に声を出していた。無意識に呼び止めてしまったことに、心の中で小さな戸惑いが広がる。
どうしてこんなことをしてしまったのか…と一瞬頭をよぎるが、すぐにその思いを振り払った。
レウウィスは少し驚いた様子で振り返ったが、すぐに冷静に尋ねた。
「どうした?」
ヘルガは慌てて答えた。
「なんでもないです。呼び止めてごめんなさい」
「そうか」
レウウィスはゆっくりと頷き、何も言わずに部屋を出て行った。扉が閉まるとヘルガはいそいそとシーツを取り換え始めた。