第2部 新天地
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ヘルガは重たい足取りで歩いていた。歩けば歩くほど足元の石が擦り切れ、踵に穴が空きそうだった。
それでも、彼女は立ち止まることを許されなかった。身につけた衣服は鬼たちの文化に合わせたものだが、心地よいとは言えない。布の粗さが肌に触れるたび、彼女は自分が「異質な存在」であることを痛感する。
後ろから聞こえる足音。振り返るとラフィが微笑んでいた。彼はいつも穏やかで、彼女の不安を察してそっと寄り添ってくれる存在だ。
「無理はいけません、ヘルガ様。ここでの暮らしに慣れるには時間がかかります」
ラフィの声は柔らかく、どこか安心感を与えてくれる。
「ありがとう。でも、慣れなきゃいけないの」
ヘルガは短く答えた。慣れることが、生き残る唯一の方法だと彼女は思いこむようにしていた。
その日の夜、食卓に集まる鬼たちの姿を眺めながら、ヘルガは自分の居場所がどこにもないように感じた。鬼たちの話す言葉や笑い声が彼女を取り巻き、まるで見えない壁のようだった。
なんだか、孤独だわ。
まるで、私の場所はここにはないと突きつけられているようで。
**
2週間後のことだった。
ヘルガは広々とした図書室の静寂の中にいた。高い天井から柔らかな光が降り注ぎ、無数の書棚が影を落としている。一人で過ごす時間にもすっかり慣れた彼女は、邸宅内を歩き回る自由を手にしていた。
最初の頃は、奇異の目で彼女を見つめる鬼の従者たちに戸惑いを覚えたが、今では気にすることもなくなった。それどころか、ヘルガの堂々とした態度が、彼らの視線を変えつつあるように感じられた。
彼女の前には分厚い本がいくつも積まれている。少し埃の匂いがする中で、一冊を手に取り、慎重にページをめくった。
「鬼について……」
彼らの文化、歴史、そして……弱点。書物に記された文字は無機質なはずなのに、ヘルガにはそれがまるでこの異世界の核心に触れる手がかりのように思えた。
彼女の瞳が鋭く光る。
この世界に流されるだけの存在にはならない――。
そう決意した日から、ヘルガは自分の力で意味を見出す道を模索し始めていた。レウウィスの厳しい言葉が、今も胸に深く刻み込まれている。
その時、背後からふと声が聞こえた。
「こんにちは、ヘルガ様」
低く落ち着いた声に驚いて顔を上げると、そこには執事長のラフィが立っていた。整った姿勢に、柔らかい微笑みを浮かべながらも、その目は彼女の手元の書物に鋭く注がれていた。その表情には、どこか含みのあるものが感じられる。
「ラフィさん……?」
ヘルガは分厚い本をそっと閉じ、彼の意図を探るようにじっと見つめた。ラフィは彼女の視線を受け止めると、ほんの少し口元を緩めた。
「何を読んでいらっしゃるんですか?」
その問いかけは穏やかだが、まるで答えの先を期待しているような響きがあった。
「鬼についての記述です。この世界を知りたくて……」
ヘルガが少し躊躇いながら答えると、ラフィの目がわずかに細まり、感心したようにうなずいた。
「なるほど……。ここまで鬼語を読めるようになったのですね」
そう言って彼は彼女の前に積まれた本に目を落とし、指先で一冊を軽く叩いた。
「この言語は既に失われつつあります。邸内の者たちの中でも、読むことができるのはほんの一握りです」
ラフィの声には感心の色が混じっていたが、その奥には何か別の意図が隠されているようだった。
「失われつつある……?どうして?」
ヘルガの問いに、ラフィは一瞬答えを迷うように視線を彷徨わせた後、微笑みを深めた。
「ですが、鬼語は今も使われている言葉でしょう?」とヘルガは問いかけた。
かつてのシスター時代、鬼同士が何かを話している姿を見たことがあった。意味は分からなかったが、その響きには人間の言語とは異なる深い抑揚と、独特の力強さが感じられたのを覚えている。
ラフィはその問いに一瞬目を細め、興味深げに彼女を見つめた。
「それは、おそらく上級の鬼ではありませんでしたか?」
ラフィの声は穏やかだが、どこか冷静に分析する響きがあった。
「上級の鬼は、古い言語や文化を保持している者が多い。しかし、下級鬼のほとんどは鬼語を話すことができません。知能が低下していますしね。それに、鬼語での会話よりも、人間の言葉を使う方がずっと簡単なのでしょう」
「そうなのですか……」
ヘルガは肩を落とし、どこか残念そうに言葉を漏らした。古い言語に特別な価値を感じていた彼女にとって、それが次第に忘れられ、実用性に取って代わられる現実は寂しいものだった。
ラフィはそんな彼女の様子を見て、少しだけ微笑みを浮かべた。
「ですが、ヘルガ様のように興味を持つ方がいれば、鬼語も完全に消え去ることはないでしょう。知識を受け継ぐ者がいれば、それだけでその存在には意味があります」
その言葉は慰めのようにも聞こえたが、同時に何か深い期待を込めたもののようにも思えた。
淡々とラフィは言った。その声には感情の起伏がほとんどなく、冷静さだけが漂っていた。
ヘルガは彼の言葉を一度噛みしめるようにしてから、静かにうなずいた。そして、ふと視線を窓の外へと向けた。
そこには、白い雪が静かに舞い降りていた。ちらつく雪の粒が、青白い空気の中でふわりと漂いながら地面へと落ちていく。
「もう、冬なんですね……」
ヘルガは誰に言うでもなく、独り言のように呟いた。その声は小さく、しかし不思議と部屋全体に染み渡るようだった。
ラフィは少しの間、何も言わずに彼女の横顔を見つめていた。そして、まるでその沈黙を埋めるかのように、柔らかい声で言葉を紡いだ。
「冬は厳しい季節ですが、同時に静かに物事を整える時期でもあります。雪がすべてを覆い隠し、春を迎える準備を進めるように」
その言葉に、ヘルガは小さく微笑んだ。冷たい雪の景色を見つめながら、心のどこかに少しだけ温かさを感じていた。
**
鬼たちにとってヘルガは、どこか奇妙な存在だった。鬼語を話し、彼らが普段食べているはずの人間でありながら、全く恐れることなく接してくる。その姿勢に従者たちは戸惑いながらも、次第に彼女の存在を受け入れ始めていた。
ある日、従者の一人がヘルガに声をかけた。その鬼は、従者の中でも一番の古株で、料理の腕がずば抜けていた。彼は慎重に、そして少し躊躇いながら言った。
「厨房では、人肉も扱っております。ヘルガ様は、ご不快な思いをしているのではないかと……。それで、もしご気分が悪いようでしたら、ここではなく、別の場所で調理をさせていただくこともできますが……」
その鬼は恐る恐る尋ねた。彼の目には、ほんの少しの不安と、ヘルガに対する気遣いが浮かんでいた。厨房には、瓶詰めにされた人間の頭部や内臓などが並べられており、それらの多くは血が滴り落ちていた。
ヘルガはその光景を見て、特に驚くこともなく、静かにじっと見つめていた。しばらくの沈黙が続いた後、彼女はゆっくりと口を開いた。
「知っています、皆さんは人間を食べなければ、お姿を維持できないと大公様から伺いました。ならば、仕方ないのでしょう。貴方たちを責めるつもりはありません」
ヘルガは静かに言った。その言葉には、重い決意が込められていた。
「私は人間です。寿命も短い。けれど、墓に埋められてしまうくらいなら、皆さんに食べられた方が幸せだと思うのです」
ヘルガは少し悲しげに微笑んだ。
その言葉を聞いた従者たちは動揺した。自分たちが食べているのは、人間なのだ。それなのに、ヘルガは平然とした顔でそれを受け入れようとしている。
従者たちは最初、ヘルガを特別扱いしていた。レウウィスのお気に入りだからと、彼女を傷つけないよう細心の注意を払っていた。しかし、それが間違いだったのだ。ヘルガは人間であり、彼らとは違う存在なのだ。
従者たちの心には、無意識に積もっていた罪悪感が芽生え始めた。その罪悪感は、彼女が受け入れる姿勢を示すことで、さらに強まった。
「……でも、もし人間を食べなくとも、皆さんがヒトの姿のままでいられる方法があれば、どんなに素晴らしいことかと思ったこともあります」
ヘルガは続けた。その発言に、従者たちの間にどよめきが広がった。
「……そうすれば、人肉の供給問題も解決すると思います」
ヘルガは、まるで夢を語るように静かに続けた。その言葉には、彼女の深い願いが込められていた。
その言葉に、従者たちは深い静寂に包まれた。彼女の提案は、もはや単なる空想ではない。彼女は本気で、鬼たちと人間の間に新たな道を見出そうとしているのだ。
それがどれほど難しいことであろうと、ヘルガはそれを希望の一つとして信じていた。
**
邸宅内で生活を始めたヘルガは、厨房だけにとどまらず、庭師や洗濯係とも親しくなるようになった。彼女は毎日のように屋敷内を行き来し、そのどこにでも自然に溶け込んでいた。
庭師たちは、ヘルガが花や草木に興味を持ち、彼女が庭を歩きながら植物を観察したり、手入れの方法を尋ねることを嬉しく思っていた。ヘルガが手にする小さな花や草を、興味深く見つめる姿は、どこか優雅で、鬼たちが持つ荒々しい印象とは対照的だった。
洗濯係の女性たちも、最初は戸惑いを感じていたが、次第にヘルガとの会話を楽しむようになっていた。彼女はよく、洗濯物を手伝ったり、軽いおしゃべりを交わしたりして、従者たちの疲れを癒すように振る舞った。その優しさに、彼女が人間でありながら鬼の世界に溶け込む姿に、徐々に敬意を抱く者も増えていった。
ヘルガは、その柔らかな笑顔で、邸宅のどこにいても人々の心を温かく包み込む存在となった。鬼たちは初めて見た人間に対して、最初は警戒心を抱いていたが、ヘルガの自然な姿勢と物腰の優しさに、次第に心を開いていった。
時折、彼女が庭師たちと一緒に庭の片隅で静かに話している姿が目に留まると、従者たちはそれを見てほっとしたように感じることがあった。
ヘルガが屋敷内で一つ一つの仕事を丁寧にこなしていく姿には、単なる人間という枠を超えた何かが感じられ、彼女自身の内に秘められた強さや、どこか謎めいた魅力が浮き彫りになっていた。
**
そして、最近夜が訪れると、ヘルガは誰にも告げずに一人で出かけるようになった。最初は偶然かと思っていたが、数日続けて夜になると彼女が邸宅内を静かに歩き出すのを目撃した。従者たちもその行動に疑問を抱き、こっそりと後をつけてみることにした。
ヘルガが向かっていたのは、邸宅内の中庭にある古びた塔だった。塔はかつて使用されていたものの、今ではほとんど人が近づくこともなく、ひっそりと佇んでいる場所だった。その姿は、まるで誰かが何かを隠し持っているかのように、時間に取り残された遺物のように静まり返っていた。
邸宅の執事であるラフィは、最近のヘルガの様子に疑念を抱いていた。最初はただの気まぐれかと思い、特に気に留めなかったが、彼女が塔に向かう回数が増えてくると、次第に心配の念が強くなっていった。
「何かがある……」
彼の直感は、何かがヘルガに起きていることを告げている。だが、ヘルガ自身がそのことを口にすることはなく、彼の問いかけにもいつも曖昧に笑って答えるばかりだった。
ラフィは心の中で、ヘルガに何か隠し事があるのではないかと疑い始めた。彼女が隠しているのはただの秘密ではなく、もっと深い事情があるのではないかと感じ始めていた。
しかし、彼女に直接尋ねることはできない。なぜなら、ヘルガがあまりにも大公レウウィスに信頼されているからだ。彼の心の中でヘルガを疑うこと自体が、大公に対する裏切りのように感じられ、葛藤が生じていた。
それでも、彼は諦めるわけにはいかない。あの塔に一体何があるのか、そしてヘルガの行動の本当の理由を突き止める必要があった。
「もし、何か本当に危険なことがあるのなら…」
ラフィは心の中でつぶやく。これ以上は見過ごせない。この不安な気持ちを抱えたままでは、何も始まらない。彼は決意を固めて、ヘルガの動向を見守り続けることにした。
「ラフィ、ちょっといいかい?」
声をかけられて振り向くと、そこには主人であるレウウィスが立っていた。
「何でしょうか、大公さま?」
「ヘルガのことだ。最近、何をしているんだろうね。君は知っているのだろう?」
「申し訳ありませんが、存じ上げません。私も何度か尋ねましたが、何でもないと仰るばかりで……」
ラフィは一瞬の沈黙の後、冷静に答える。
「そうか……まぁ、いい。彼女のことは君に任せよう」
レウウィスは言った。ラフィは頭を下げた。
大公様はヘルガ様のことを大切に思っている。しかし、それは恋愛感情ではない。あくまで、娘のように可愛がっているのだろうと、ラフィは思っていた。
「ところで、その手巾はどうしたんだい?」
はて? と首を傾げる。自分の足元を見ると、白いレースのハンカチが落ちていた。どうやら、いつの間にか落としてしまったらしい。
「失礼いたしました」
「初めて見る意匠だな」
「えぇ、ヘルガ様が作ってくださったものです。とても素晴らしいのです。模様が美しく、縁取りのレースが非常に精緻で……。それに、色使いも実に優雅で……」
他の従者たちにも、ヘルガは贈り物をしていた。食用児を育てるシスターとやらは、このようなことも訓練で教えていたと話していたことを、レウウィスは思い出した。以前、糸と布を欲しがっていたが、それが本当だったのかと彼は考えた。
「へぇー、ヘルガがねぇ……」
レウウィスは呟いた。彼は、ヘルガがどんなものを作るのかに興味を持っていた。
「この前は編み物をしておりました。ヘルガ様は非常に器用であられますね」
「ふぅん」
「その前は、何を作っていたか……」
ラフィは少し考えた。
「ヘルガ様は料理も得意でいらっしゃいます。大公様、ヘルガ様が作られた料理を召し上がったことがありますか?」
レウウィスは軽く苦笑して答えた。
「あるよ」
彼女は気配りの行き届いた人で、誰に対しても分け隔てなく接した。それは、通常であれば敵意を抱かれて当然の「鬼」に対しても同様だった。
鬼たちはそんな彼女の態度に戸惑い、言葉を失うことさえあった。
「差し出がましいことと存じますが、ヘルガ様はよく塔にお出かけになられております」
ラフィが言った。
「そうか」
レウウィスは短く答えた。
それでも、彼女は立ち止まることを許されなかった。身につけた衣服は鬼たちの文化に合わせたものだが、心地よいとは言えない。布の粗さが肌に触れるたび、彼女は自分が「異質な存在」であることを痛感する。
後ろから聞こえる足音。振り返るとラフィが微笑んでいた。彼はいつも穏やかで、彼女の不安を察してそっと寄り添ってくれる存在だ。
「無理はいけません、ヘルガ様。ここでの暮らしに慣れるには時間がかかります」
ラフィの声は柔らかく、どこか安心感を与えてくれる。
「ありがとう。でも、慣れなきゃいけないの」
ヘルガは短く答えた。慣れることが、生き残る唯一の方法だと彼女は思いこむようにしていた。
その日の夜、食卓に集まる鬼たちの姿を眺めながら、ヘルガは自分の居場所がどこにもないように感じた。鬼たちの話す言葉や笑い声が彼女を取り巻き、まるで見えない壁のようだった。
なんだか、孤独だわ。
まるで、私の場所はここにはないと突きつけられているようで。
**
2週間後のことだった。
ヘルガは広々とした図書室の静寂の中にいた。高い天井から柔らかな光が降り注ぎ、無数の書棚が影を落としている。一人で過ごす時間にもすっかり慣れた彼女は、邸宅内を歩き回る自由を手にしていた。
最初の頃は、奇異の目で彼女を見つめる鬼の従者たちに戸惑いを覚えたが、今では気にすることもなくなった。それどころか、ヘルガの堂々とした態度が、彼らの視線を変えつつあるように感じられた。
彼女の前には分厚い本がいくつも積まれている。少し埃の匂いがする中で、一冊を手に取り、慎重にページをめくった。
「鬼について……」
彼らの文化、歴史、そして……弱点。書物に記された文字は無機質なはずなのに、ヘルガにはそれがまるでこの異世界の核心に触れる手がかりのように思えた。
彼女の瞳が鋭く光る。
この世界に流されるだけの存在にはならない――。
そう決意した日から、ヘルガは自分の力で意味を見出す道を模索し始めていた。レウウィスの厳しい言葉が、今も胸に深く刻み込まれている。
その時、背後からふと声が聞こえた。
「こんにちは、ヘルガ様」
低く落ち着いた声に驚いて顔を上げると、そこには執事長のラフィが立っていた。整った姿勢に、柔らかい微笑みを浮かべながらも、その目は彼女の手元の書物に鋭く注がれていた。その表情には、どこか含みのあるものが感じられる。
「ラフィさん……?」
ヘルガは分厚い本をそっと閉じ、彼の意図を探るようにじっと見つめた。ラフィは彼女の視線を受け止めると、ほんの少し口元を緩めた。
「何を読んでいらっしゃるんですか?」
その問いかけは穏やかだが、まるで答えの先を期待しているような響きがあった。
「鬼についての記述です。この世界を知りたくて……」
ヘルガが少し躊躇いながら答えると、ラフィの目がわずかに細まり、感心したようにうなずいた。
「なるほど……。ここまで鬼語を読めるようになったのですね」
そう言って彼は彼女の前に積まれた本に目を落とし、指先で一冊を軽く叩いた。
「この言語は既に失われつつあります。邸内の者たちの中でも、読むことができるのはほんの一握りです」
ラフィの声には感心の色が混じっていたが、その奥には何か別の意図が隠されているようだった。
「失われつつある……?どうして?」
ヘルガの問いに、ラフィは一瞬答えを迷うように視線を彷徨わせた後、微笑みを深めた。
「ですが、鬼語は今も使われている言葉でしょう?」とヘルガは問いかけた。
かつてのシスター時代、鬼同士が何かを話している姿を見たことがあった。意味は分からなかったが、その響きには人間の言語とは異なる深い抑揚と、独特の力強さが感じられたのを覚えている。
ラフィはその問いに一瞬目を細め、興味深げに彼女を見つめた。
「それは、おそらく上級の鬼ではありませんでしたか?」
ラフィの声は穏やかだが、どこか冷静に分析する響きがあった。
「上級の鬼は、古い言語や文化を保持している者が多い。しかし、下級鬼のほとんどは鬼語を話すことができません。知能が低下していますしね。それに、鬼語での会話よりも、人間の言葉を使う方がずっと簡単なのでしょう」
「そうなのですか……」
ヘルガは肩を落とし、どこか残念そうに言葉を漏らした。古い言語に特別な価値を感じていた彼女にとって、それが次第に忘れられ、実用性に取って代わられる現実は寂しいものだった。
ラフィはそんな彼女の様子を見て、少しだけ微笑みを浮かべた。
「ですが、ヘルガ様のように興味を持つ方がいれば、鬼語も完全に消え去ることはないでしょう。知識を受け継ぐ者がいれば、それだけでその存在には意味があります」
その言葉は慰めのようにも聞こえたが、同時に何か深い期待を込めたもののようにも思えた。
淡々とラフィは言った。その声には感情の起伏がほとんどなく、冷静さだけが漂っていた。
ヘルガは彼の言葉を一度噛みしめるようにしてから、静かにうなずいた。そして、ふと視線を窓の外へと向けた。
そこには、白い雪が静かに舞い降りていた。ちらつく雪の粒が、青白い空気の中でふわりと漂いながら地面へと落ちていく。
「もう、冬なんですね……」
ヘルガは誰に言うでもなく、独り言のように呟いた。その声は小さく、しかし不思議と部屋全体に染み渡るようだった。
ラフィは少しの間、何も言わずに彼女の横顔を見つめていた。そして、まるでその沈黙を埋めるかのように、柔らかい声で言葉を紡いだ。
「冬は厳しい季節ですが、同時に静かに物事を整える時期でもあります。雪がすべてを覆い隠し、春を迎える準備を進めるように」
その言葉に、ヘルガは小さく微笑んだ。冷たい雪の景色を見つめながら、心のどこかに少しだけ温かさを感じていた。
**
鬼たちにとってヘルガは、どこか奇妙な存在だった。鬼語を話し、彼らが普段食べているはずの人間でありながら、全く恐れることなく接してくる。その姿勢に従者たちは戸惑いながらも、次第に彼女の存在を受け入れ始めていた。
ある日、従者の一人がヘルガに声をかけた。その鬼は、従者の中でも一番の古株で、料理の腕がずば抜けていた。彼は慎重に、そして少し躊躇いながら言った。
「厨房では、人肉も扱っております。ヘルガ様は、ご不快な思いをしているのではないかと……。それで、もしご気分が悪いようでしたら、ここではなく、別の場所で調理をさせていただくこともできますが……」
その鬼は恐る恐る尋ねた。彼の目には、ほんの少しの不安と、ヘルガに対する気遣いが浮かんでいた。厨房には、瓶詰めにされた人間の頭部や内臓などが並べられており、それらの多くは血が滴り落ちていた。
ヘルガはその光景を見て、特に驚くこともなく、静かにじっと見つめていた。しばらくの沈黙が続いた後、彼女はゆっくりと口を開いた。
「知っています、皆さんは人間を食べなければ、お姿を維持できないと大公様から伺いました。ならば、仕方ないのでしょう。貴方たちを責めるつもりはありません」
ヘルガは静かに言った。その言葉には、重い決意が込められていた。
「私は人間です。寿命も短い。けれど、墓に埋められてしまうくらいなら、皆さんに食べられた方が幸せだと思うのです」
ヘルガは少し悲しげに微笑んだ。
その言葉を聞いた従者たちは動揺した。自分たちが食べているのは、人間なのだ。それなのに、ヘルガは平然とした顔でそれを受け入れようとしている。
従者たちは最初、ヘルガを特別扱いしていた。レウウィスのお気に入りだからと、彼女を傷つけないよう細心の注意を払っていた。しかし、それが間違いだったのだ。ヘルガは人間であり、彼らとは違う存在なのだ。
従者たちの心には、無意識に積もっていた罪悪感が芽生え始めた。その罪悪感は、彼女が受け入れる姿勢を示すことで、さらに強まった。
「……でも、もし人間を食べなくとも、皆さんがヒトの姿のままでいられる方法があれば、どんなに素晴らしいことかと思ったこともあります」
ヘルガは続けた。その発言に、従者たちの間にどよめきが広がった。
「……そうすれば、人肉の供給問題も解決すると思います」
ヘルガは、まるで夢を語るように静かに続けた。その言葉には、彼女の深い願いが込められていた。
その言葉に、従者たちは深い静寂に包まれた。彼女の提案は、もはや単なる空想ではない。彼女は本気で、鬼たちと人間の間に新たな道を見出そうとしているのだ。
それがどれほど難しいことであろうと、ヘルガはそれを希望の一つとして信じていた。
**
邸宅内で生活を始めたヘルガは、厨房だけにとどまらず、庭師や洗濯係とも親しくなるようになった。彼女は毎日のように屋敷内を行き来し、そのどこにでも自然に溶け込んでいた。
庭師たちは、ヘルガが花や草木に興味を持ち、彼女が庭を歩きながら植物を観察したり、手入れの方法を尋ねることを嬉しく思っていた。ヘルガが手にする小さな花や草を、興味深く見つめる姿は、どこか優雅で、鬼たちが持つ荒々しい印象とは対照的だった。
洗濯係の女性たちも、最初は戸惑いを感じていたが、次第にヘルガとの会話を楽しむようになっていた。彼女はよく、洗濯物を手伝ったり、軽いおしゃべりを交わしたりして、従者たちの疲れを癒すように振る舞った。その優しさに、彼女が人間でありながら鬼の世界に溶け込む姿に、徐々に敬意を抱く者も増えていった。
ヘルガは、その柔らかな笑顔で、邸宅のどこにいても人々の心を温かく包み込む存在となった。鬼たちは初めて見た人間に対して、最初は警戒心を抱いていたが、ヘルガの自然な姿勢と物腰の優しさに、次第に心を開いていった。
時折、彼女が庭師たちと一緒に庭の片隅で静かに話している姿が目に留まると、従者たちはそれを見てほっとしたように感じることがあった。
ヘルガが屋敷内で一つ一つの仕事を丁寧にこなしていく姿には、単なる人間という枠を超えた何かが感じられ、彼女自身の内に秘められた強さや、どこか謎めいた魅力が浮き彫りになっていた。
**
そして、最近夜が訪れると、ヘルガは誰にも告げずに一人で出かけるようになった。最初は偶然かと思っていたが、数日続けて夜になると彼女が邸宅内を静かに歩き出すのを目撃した。従者たちもその行動に疑問を抱き、こっそりと後をつけてみることにした。
ヘルガが向かっていたのは、邸宅内の中庭にある古びた塔だった。塔はかつて使用されていたものの、今ではほとんど人が近づくこともなく、ひっそりと佇んでいる場所だった。その姿は、まるで誰かが何かを隠し持っているかのように、時間に取り残された遺物のように静まり返っていた。
邸宅の執事であるラフィは、最近のヘルガの様子に疑念を抱いていた。最初はただの気まぐれかと思い、特に気に留めなかったが、彼女が塔に向かう回数が増えてくると、次第に心配の念が強くなっていった。
「何かがある……」
彼の直感は、何かがヘルガに起きていることを告げている。だが、ヘルガ自身がそのことを口にすることはなく、彼の問いかけにもいつも曖昧に笑って答えるばかりだった。
ラフィは心の中で、ヘルガに何か隠し事があるのではないかと疑い始めた。彼女が隠しているのはただの秘密ではなく、もっと深い事情があるのではないかと感じ始めていた。
しかし、彼女に直接尋ねることはできない。なぜなら、ヘルガがあまりにも大公レウウィスに信頼されているからだ。彼の心の中でヘルガを疑うこと自体が、大公に対する裏切りのように感じられ、葛藤が生じていた。
それでも、彼は諦めるわけにはいかない。あの塔に一体何があるのか、そしてヘルガの行動の本当の理由を突き止める必要があった。
「もし、何か本当に危険なことがあるのなら…」
ラフィは心の中でつぶやく。これ以上は見過ごせない。この不安な気持ちを抱えたままでは、何も始まらない。彼は決意を固めて、ヘルガの動向を見守り続けることにした。
「ラフィ、ちょっといいかい?」
声をかけられて振り向くと、そこには主人であるレウウィスが立っていた。
「何でしょうか、大公さま?」
「ヘルガのことだ。最近、何をしているんだろうね。君は知っているのだろう?」
「申し訳ありませんが、存じ上げません。私も何度か尋ねましたが、何でもないと仰るばかりで……」
ラフィは一瞬の沈黙の後、冷静に答える。
「そうか……まぁ、いい。彼女のことは君に任せよう」
レウウィスは言った。ラフィは頭を下げた。
大公様はヘルガ様のことを大切に思っている。しかし、それは恋愛感情ではない。あくまで、娘のように可愛がっているのだろうと、ラフィは思っていた。
「ところで、その手巾はどうしたんだい?」
はて? と首を傾げる。自分の足元を見ると、白いレースのハンカチが落ちていた。どうやら、いつの間にか落としてしまったらしい。
「失礼いたしました」
「初めて見る意匠だな」
「えぇ、ヘルガ様が作ってくださったものです。とても素晴らしいのです。模様が美しく、縁取りのレースが非常に精緻で……。それに、色使いも実に優雅で……」
他の従者たちにも、ヘルガは贈り物をしていた。食用児を育てるシスターとやらは、このようなことも訓練で教えていたと話していたことを、レウウィスは思い出した。以前、糸と布を欲しがっていたが、それが本当だったのかと彼は考えた。
「へぇー、ヘルガがねぇ……」
レウウィスは呟いた。彼は、ヘルガがどんなものを作るのかに興味を持っていた。
「この前は編み物をしておりました。ヘルガ様は非常に器用であられますね」
「ふぅん」
「その前は、何を作っていたか……」
ラフィは少し考えた。
「ヘルガ様は料理も得意でいらっしゃいます。大公様、ヘルガ様が作られた料理を召し上がったことがありますか?」
レウウィスは軽く苦笑して答えた。
「あるよ」
彼女は気配りの行き届いた人で、誰に対しても分け隔てなく接した。それは、通常であれば敵意を抱かれて当然の「鬼」に対しても同様だった。
鬼たちはそんな彼女の態度に戸惑い、言葉を失うことさえあった。
「差し出がましいことと存じますが、ヘルガ様はよく塔にお出かけになられております」
ラフィが言った。
「そうか」
レウウィスは短く答えた。