第2部 新天地
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1か月後、レウウィスは戻ってきた。
「さて、あの人間はどうしているだろうか」
彼は扉を開けるなり、何かが違うことに気づいた。空気が静かすぎる。
「……いない?」
不審に思い、2階へと足を進める。寝室の扉を開けると、そこは誰もいない空間だった。
レウウィスはベッドのシーツをめくり、部屋を隅々まで調べた。彼女の姿どころか、彼女が使っていた道具や小物すら残されていない。
「逃げたのか……?人間が、私の目を盗んで」
怒りと驚きが交錯する中、下階から物音がした。
**
1階に降りると、彼のペットである猿型の鬼、パルウィスが現れた。
「パルウィス、彼女の居場所を知らないか?」
レウウィスが優しく問いかけると、パルウィスは外に向かって走り出した。その行動に確信を得たレウウィスは、すぐさま後を追った。
**
外は冬の名残が漂い、冷たい風が吹き抜けていた。パルウィスは森へと入ると、一心不乱に匂いを追い始める。
「痕跡を辿れ。どんな手を使っても彼女を見つけるのだ」
レウウィスの言葉に、パルウィスは軽くうなずき、さらに奥へと進む。
森の中は薄暗く、木々の枝が風に揺れるたび、影が踊り、どこか不気味な雰囲気が漂っていた。枯葉を踏む音がやけに大きく響く中、レウウィスは足音すら殺し、静かに前進する。
やがて、空気が湿り気を帯びてきた。近くに川があるのだろう。音をたどり、周囲を警戒しながら進むと、川辺で人影が見えた。
茂みの陰から覗くと、そこにはヘルガがいた。
彼女は川辺で体を洗っている。その手際の良さと落ち着いた様子からは、ここでの生活にすっかり慣れているのが見て取れる。
彼レウウィスは茂みの中で動きを止めた。彼女の様子をしばらく観察する。
(ここまで逃げ延びていたとはな……だが、もう逃げ場はない)
近くにいた猿鬼のパルウィスが低く唸る。それを手で制し、レウウィスは低く呟いた。
「まだだ。もう少し様子を見よう……」
その目は冷徹で、次の一手を探るように鋭く光っている。
パルウィスが小さく唸り声を上げた。それを制するように、レウウィスが手を上げる。
**
ヘルガは冷たい水の中で震えながらも、周囲への警戒を怠らなかった。手の届く場所にナイフを置き、身を清める動作はどこか習慣的で、それでも注意深い。
彼女がふと動きを止めるのを見て、レウウィスは茂みの陰で息を潜めた。だが、それは一瞬のことで、再び水浴びを再開する彼女に、彼の存在が気づかれていないのは明らかだった。
(なぜそこまでして必死に生き延びる?)
レウウィスの頭に疑問が浮かぶ。安全な塔を用意し、あらゆる物を与えた。それでも彼女は逃げた。命のためか、それとも別の理由があるのか?
突然、ヘルガが振り返り、その目がレウウィスを捉えた。驚きと緊張がその顔に浮かび、次の瞬間、彼女はナイフを手に取った。
**
「どうして、あの怪物がここに……?」
ヘルガの心臓が激しく脈打つ。冷たい汗が背を伝い、レウウィスの冷たい目が彼女を射抜くように見つめていた。
「逃げられると思ったのか?」
レウウィスの声は鋭く、空気を切り裂くようだった。
彼の低い声に、ヘルガは震える手でナイフを構えた。その目には恐怖だけでなく、微かな怒りが宿っている。
「私は……自由になりたかっただけよ」
彼女の声は震えていたが、その目には鋭い光が宿っていた。レウウィスは冷ややかな笑みを浮かべ、一歩前に出る。
「自由か……君はその言葉の意味を知っているのか?」
ナイフを構え、レウウィスに向かって一歩踏み出した。
「ならば、見せてみろ。自由のためにどこまで足掻けるかを――」
二人の間に緊張が走り、静寂が辺りを包んだ。ヘルガはナイフを握りしめ、次の一手を考えながら、レウウィスの動きを見逃さないようにしていた。レウウィスは微動だにせず、ただヘルガの様子を観察していた。
先に動いたのはヘルガだった。レウウィスの懐に入り込み、ナイフを振りかざす。レウウィスは難なくかわすと、ヘルガの腕を掴み、まるで羽根のように投げ飛ばした。
地面に叩きつけられた衝撃に、ヘルガの口から小さな悲鳴が漏れる。起き上がろうとする彼女を、レウウィスは足で押さえつけ、喉元にナイフを突き付けた。
「これで終わりか?」
彼女の息は乱れ、頬にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「まるでパルウィスに噛まれたような気分だよ」
レウウィスは笑いながらも、冷たい声で言い放った。ヘルガは必死に抵抗しようとしたが、力の差は歴然としていた。彼女の目には恐怖と悔しさが入り混じっていた。
「君の負けだよ。さぁ帰ろう」
レウウィスの言葉を聞き、ヘルガの目から涙がこぼれ落ちた。そして、彼女は抵抗をやめ、静かに目を閉じた。
レウウィスが手を放すと、ヘルガはゆっくりと体を起こした。彼女は立ち上がることができず、膝をついたまま泣いている。
レウウィスはしばらくの間、無防備に泣き崩れるヘルガの姿を見下ろしていた。その瞳には冷たさと興味が入り混じり、表情には微かな変化すら見られなかった。だが、彼の内心では妙な感覚が渦巻いていた。
「なぜそこまで泣く?」
静寂を切り裂くように、レウウィスが低く問いかけた。
ヘルガはその言葉に反応することなく、嗚咽を漏らし続ける。震える肩、雪に落ちる涙の雫。レウウィスはその様子を見て、ふと違和感を覚えた。彼の知る限り、人間とは恐怖に震えながらも生存本能に従い、ただ命を繋ぎ止めようとする生き物だった。だが、目の前のこの人間――ヘルガは、ただ涙を流している。まるで何か大切なものを失ったように。
「言え、何のためにそこまで必死になる? 自由など、弱者が望むにはあまりにも大きすぎるものだ」
彼は膝を曲げ、彼女と同じ目線に降りてその顔を覗き込む。冷たい目が彼女の涙に反射し、微かに輝いた。
ヘルガはようやく顔を上げた。その瞳には恐怖だけではなく、微かな怒りと、深い悲しみが宿っている。震える声で彼女は呟いた。
「色褪せるかどうかなんて、関係ない!」
その言葉に込められた強い意志に、レウウィスは一瞬、意外そうに目を細めた。彼女の反応に少しだけ感心したような表情を浮かべながらも、冷ややかな声で言葉を続けた。
「よくぞ、1か月逃げた。見事だ」
そう言って、レウウィスはヘルガを抱き上げた。ヘルガは驚き、すぐに抵抗しようとしたが、体力が尽きてしまったのか、力なく腕を振り回すばかりで、ただ慌てふためいていた。冷たい雨が肩を打つ中、彼女の顔には疲れと絶望の色が浮かび、唇がかすかに震えていた。
「暴れると落としてしまうからね。道具はどこかな?」
ヘルガはうなだれ、しばらく沈黙してから指を差した。指先がわずかに震えているのが見える。
「……あっちよ」
彼女が指し示した先には、荒れた地面に散らばった荷物が無造作に置かれていた。レウウィスはその中を物色し、目を細めた。雨が強くなる中、荷物の中を次々と手でかき分けていく。
「銃とやらがないようだが?」
「森の怪物に取られてしまったの」
レウウィスは少し考える様子を見せ、再び荷物を漁り始めた。そのとき、空がさらに暗くなり、冷たい雨が容赦なく降り注いだ。
「まずいな、濡れるのは困る」
ヘルガも同意するように無言でうなずき、慌ただしく手を動かしながら、地面に並べられた火打石を取り出した。彼女は慣れた手つきで火を起こし、火花が飛ぶ音とともに小さな炎が立ち上る。鍋に水を注ぎ、手際よく食材を刻んで入れていく。しばらくして鍋が煮立ち、食材の匂いが周囲に広がった。
「何をしているのかね?」
「ご飯を作ってます。……あなたも食べられますか?その、ペットにも」
レウウィスは無言でうなずくと、近くの岩に腰を下ろし、黙って見守った。ヘルガは、「待っていてください。もう少しでできあがります」と告げ、パルウィスには木の実を渡した。猿型の鬼は、実を受け取ると嬉しそうにそのまま食べ始め、しっぽを振りながらヘルガを見上げた。
ヘルガは微笑んだ。一生懸命食べるその姿がどこか愛おしく、少し安心した気持ちになった。
レウウィスはその様子を静かに見守りながら、ヘルガが作る食事を待った。雨音が静かに響く中、彼の目線は遠くの山々に向けられ、時折、木の実を食べるパルウィスの小さな動きに目を戻す。
「……若いころを思い出すよ」
レウウィスはふと呟くと、視線を落として黙り込んだ。雨音が静かに響く中、彼の顔には過去の記憶が蘇るような一瞬が見えた。ヘルガは不思議そうな顔で彼を見つめたが、何も言わずに料理を続けた。
しばらくして、スープが出来上がり、ヘルガはそれをお椀に盛り、レウウィスに差し出した。蒸気が立ち上り、暖かな匂いが広がる。
彼はそれを受け取ると、一口すくって口に入れた。ヘルガはじっと見守っていたが、レウウィスの表情には変化がなかった。静かな雨の中、彼の目だけがわずかに見開かれた。
「……どうかしら?」
恐る恐る尋ねると、レウウィスは驚いたように目を見開き、ゆっくりと答えた。
「……懐かしい味だ。人間狩りの際はこうして野宿をしていた」
レウウィスの言葉に、ヘルガは一瞬驚きの表情を浮かべたが、その後、すぐにその言葉の重さを感じ取った。彼の過去には、どれほど多くの人間が犠牲になったのだろうか。彼女は少し黙り、深い思索に沈んだ後、慎重に言葉を選びながら尋ねた。
「昔とは?」
レウウィスはしばらく沈黙し、遠い目をして思い出を辿るようにしていた。
「昔というのは、我々が人間と同じ世界にいた時代のことだ」
ヘルガは彼の言葉に耳を傾けながら、彼の過去に何があったのかに興味を持ち始めた。レウウィスは一瞬、ヘルガの意図を探るように見つめたが、やがて微笑を浮かべた。
「君が本当に知りたいのであれば、少し話してやろう。ただし、すべてを知る必要はない」
そしてレウウィスは語りだす。
「人間も鬼も、互いに共存するどころか、生き残るために絶えず争っていた時代だった」
彼女はレウウィスの話に集中し、彼の過去の断片を知ることで、自分自身の立場を理解しようとしていた。
「その頃、我々は体を維持するために人間を食べていた。まぁ、私はもっぱら狩りを楽しんでいたがね。人間もまた、鬼を退けるために必死だったが、多くの血が流れた」
レウウィスは、どこか遠くを見ながら話し続けている。
「しかし、あの日すべてが変わってしまった。私がやつを父上の元へ連れて行かなければ、あの忌々しい約束もなかったかもしれぬのに」
レウウィスの言葉に、ヘルガはさらなる疑問を抱いた。その忌々しい約束とは何だったのか、彼が言及している"やつ"とは誰なのか。
「その約束と“やつ”……について教えてくれますか?」
ヘルガの問いに、レウウィスは一瞬沈黙したが、やがて重々しく口を開いた。
「それは……人間との和平協定だ。やつは人間側の使者だった。私はその使者に言われるがまま父上の元へ連れて行った。その結果、我々は人間との戦いをやめ、共存を模索することになった。しかし、それは同時に我々の自由を奪うことにもなったのだ」
レウウィスの言葉には深い後悔と怒りが込められていた。レウウィスの言葉には深い後悔と怒りが込められていた。ヘルガはその思いを感じ取りながら、静かにうなずいた。
「話し過ぎてしまったようだな。そろそろ休んだ方がいい」
レウウィスに促され、ヘルガは荷物の中から毛皮を取り出し、藁の上にそれを敷いた。彼女は静かに毛皮に身を包み、レウウィスの言葉を反芻しながら横になった。毛皮は、大きなものが一枚だけだった。仕方ないと思ったのか、レウウィスはため息をつき、ヘルガと同じようにその毛皮を使うことにした。
「すまないね、わたしに譲ってくれたのだろう」
「大丈夫よ、私にはあなたからもらった外套があるから」
外套の厚みと重みが、彼女に心地よい安らぎをもたらしてくれた。冷えた体が徐々に温まっていくのを感じながら、彼女は微笑んだ。
「君の、名前を教えてくれないか」
少しの沈黙があり、ヘルガは視線を逸らす。だが、心のどこかで温かさを感じて、無意識にその問いに答えていた。
「ヘルガよ」
その瞬間、名前を口にしてしまったことに気づき、ヘルガは思わず手で口元を覆った。しかし、レウウィスはその動きに気づくと、優しく笑いながら少し近づいてきた。
「……ヘルガ、良い夢を」
その言葉に、彼女が振り返ると、すでにレウウィスの顔は反対側に向けられ、視線は交わることはなかった。
「おやすみ」
小さな声で返すと、再び外套に包まって目を閉じる。しばらくの間、静かな夜が二人を包み込んだ。お互いの存在が、ただそばにあるだけで安らぎを与えているような不思議な感覚に包まれた。
**
しばらくしてヘルガが眠りにつくと、レウウィスはすぐに目を覚ました。少し距離をおいて寝ている彼女が、寒さで震えているのに気づいた。彼女は、この気候に慣れていないようだった。彼はヘルガが寒がっていることに気づいたが、かける言葉を持ち合わせていなかった。ただ、彼女が寒がらないようにと、自分の外套を少しだけかけてやった。
「無防備だな、けれど、それがどうした?」
ヘルガは体を丸くして眠っていた。まるでパルウィスのようだと思ったが、それを口にすることはなかった。しばらくするとヘルガは落ち着きを取り戻し、再び規則正し呼吸を始めた。彼女は深く眠っているようで、全く起きる気配がない。
レウウィスは彼女の手をそっと握ってみた。体温は低く、とても冷たかった。彼は彼女を抱き寄せ、自らの体温を分け与えることにした。彼女の腹は、薄くて、とても脆く感じたのだった。