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見えない地雷を的確に

 以蔵にとってそれらは色の着いた液体や粉の塊にしか見えない。ライトベージュとピンクベージュの違いを説かれても、それぞれの用途に思いを致すこともない。
 しかし立香は何本ものブラシを手に、それらを縦横無尽に使い分けている。
 化粧を楽しんでいること自体は理解できるのだが――

「おい立香」
「ちょっと待って……」

 待ちかねている以蔵の呼びかけに、テーブルに着く立香は苦しそうな声で応えた。

「もうちょっとだから」
「買い物行きたいうたがはおまんじゃぞ。はようせんと飯も混むろう。わしは待つがは嫌いじゃ」
「すぐ終わるから……」

 立香はヘアクリップで前髪を留めて、目の辺りにブラシを滑らせる。
 毎朝手厳しく以蔵を起こす鬼と同一人物だとは思えない。白い手を振り払って布団にくるまる以蔵と大差のないことを言っている。
 怠惰ごくどうでしかない以蔵とは違い、自分を磨くことに時間を費やす立香の方が前向きではある。
 しかし、と以蔵は思う。
 顔に粉や液体を塗りつけることで粗を隠し、部品を引き立てるという理屈はあるのだろう。
 しかしそれは隠すべき粗があるような女にしか必要ないのではないか。
 立香は可愛い。
 きらきらと好奇心に輝く金色の瞳は、今まで見てきたどんな女よりも以蔵の気を惹く。
 つるんとした額も長いまつ毛もすっきりした鼻筋も柔らかい頬も少し肉厚の唇も、腕の中に閉じ込めて思うさま味わいたくなる。
 そこに手を加えても、立香の持つ天性の魅力は損なわれもつけ加わりもしない。
 だから、以蔵は立香に言葉を投げた。

「化粧らぁてせいでも変わらんろう。ざんじ行くぜよ」

 当たり前のことを言ったつもりの以蔵に、立香は鏡から顔を上げた。

「え……えっ」
「顔になんやら塗りつけても同じじゃ言いゆう。時間がもったいないき、ざんじ支度しぃ」

 立香は数秒時間が止まったかのように固まり、急に顔色を変えた。

「何それ!」

 いきなり怒声を浴びせられ、以蔵は困惑する。
 何もおかしなことは言っていないはずだが――しかし立香は片方だけ彩られたまなじりを決して以蔵を見ている。

「お化粧してもしなくても同じって言いたいの!?」
「ほ、ほうじゃ……」

(おまんは何ぃしようが可愛かいらしいき)

 それは以蔵にとってあまりに当然の前提なので、わざわざ口にするという知恵は働かない。
 以蔵の首肯に、立香はますます激する。

「お化粧映えしない彼女でごめんね! わたしなんて連れて歩いても嬉しくないよね!」

 立香は飛躍したこと――以蔵にはそうとしか思えない――を言う。

「お、おまん、何ぃ言いゆうがか」
「……以蔵さんのためにお化粧してるわけじゃないけど……可愛いって思われたいのはそんなに変!?」
「変も何も、おまんは最初から――」
「今日出かけるのやめる!」

 可愛らしい、と言うことも許されない。以蔵はすっかり浮き足立った。

「何や知らんが、どくれなや……」

 うまく言葉を選べない。
 胸をかきむしる以蔵をよそに、立香は言い募る。

「わかんないんだ!? わかんないよね、以蔵さんそういうとこあるよね!」

『以蔵さんそういうとこある』という、普段ポジティブな意味合いで使われる言葉にも、今は棘が生えている。

「落ち着き、落ち着きぃ立香」
「もう知らない!」

 立香は化粧道具もそのままに寝室へ駆け込み、音を立ててドアを閉めた。
 残された以蔵は、ただただ呆然としてしまう。
 自分の何がよくなかったのかわからない。しかし事実として立香は怒っている。
 好きな女にはいつも笑っていてほしい、と思うのに。
 以蔵はいつもままならない。よくも悪くも不器用だという自覚はある。
 だから謝るしかないと思うのだが、立香は以前も、

『何が悪いかわからないなら謝らなくていい』

 と言った。やみくもな謝罪では許してくれないだろう。

(ほんまに、どいてこがぁなことになったがじゃ)

 とはいえ、喧嘩になった場合は八割がた以蔵が悪いということも学習している。
 以蔵はしばしその場で頭を抱えた。
 やがて思い直して電気ケトルを手に取り、ダイニングキッチンのシンクで二人分の水をいで台座に置く。
 スイッチを入れると、ケトルがしゅんしゅんと音を立て始めた。
 立香が少し機嫌を直して寝室から出てきた時、何を飲みたいと言ってもいいようにしたい。コーヒーでもハーブティーでもココアでも。立香の魔法のような手つきにはかなわないが、その程度の甲斐性はある男だと思われたい。
 以蔵は煙草の箱を手に取り、ベランダで一服する。
 口から漂う煙を目で追いながら、先ほど伝えられなかったことを思う。

(わしん彼女さんはどがぁな女もかなわんばぁ可愛らしいがじゃ)

 何が悪いかわからない。その上、このような軽口めいたことを言ってもとうてい許されないはずだ。
 だが、言わなければ伝わらない。
 すぅ、と煙を吐き、ふぅ、と吐き出す。白い煙が午前の晴天に溶けゆく。
 一本吸い終わってダイニングへ戻ったタイミングで、ぱちり、とケトルのスイッチが鳴った。
 以蔵は食器置きから自分のマグカップを取り、インスタントコーヒーの粉をスプーンにひと匙入れて湯を注ぐ。
 散らばった化粧道具の正面に座ってコーヒーをすすった。やはり、立香の手になるものに較べたら雑味が強い気がする。
 いや、それは独りで飲んでいるせいかもしれない。
 早く立香の笑顔が見たい。
 この先、ろくでなしの以蔵をこれほど好きになってくれる女と出逢えるとは思えない。あれほど魅力的な女ならなおさら。
 だから以蔵は立香を追うしかない。
 どうあっても捨てられないように。
 そのためにはまず、立香が機嫌を損ねた理由を理解しなければならない。
 たとえ難解極まりなくても、きちんとした理由はあるはずだ。立香は言語化できない感情をそのままぶつけるほど愚かな女ではない。

「りつかぁ」

 聞かせるでもなく名前がこぼれる。

「簡単には許さないんだから」

 ドアの向こうから返事が聞こえた。
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