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知らない過去から来た男

 レジでの会計が終わり、完全に店から新兵衛の気配が去った後、

「はぁぁっ……」

 と、大きくため息を吐く。
 話を聞かない人だった。立香が以蔵に騙されている、という結論ありきで話を組み立て、目の前の立香の言い分は一切考慮に入れなかった。
 それだけ『武市先生』が大事で、彼を邪魔しかねない以蔵の存在が忌々しい――というのは伝わったが。
 理解できるからといって共感もできるわけではまったくない。

「勝手だよ」

 第一、以蔵は立香のストーカー行為の被害者だ。以蔵にとっては、一方的につきまとわれた上に淫行の濡れ衣も着せられるのは理不尽でしかない。
 ――そんな理不尽を以蔵に強いているのは立香なのだが。

「……そう、勝手なのは、わたしもだ」

 女性から男性へのストーカー行為では、被害者の心身へのダメージがしばしば矮小化される。男なら本気で抵抗すれば振り払えるに違いないという理屈だが、すべての者が力ずくで解決できるわけではない。
 以蔵はいかにも腕っぷしで障害を排除するタイプに見えるけれど、実際に立香が暴力に訴えられたことは一度もない。
 以蔵の優しさに甘えている――それはわかっている。
 このままでは以蔵に不名誉をこうむらせてしまうことになる。
 だが、意志の力で制御できれば、そもそもストーカーなどしていない。
 以蔵のことが好きだから、迷惑をかけたくない。
 以蔵のことが好きだから、ずっと一緒にいたい。
 二十歳にもなっていない立香が、簡単に答えを出せるものではない。

「今日もお勤めご苦労さん」

 恋しい声に振り向くと、よれたスーツ姿の以蔵が立っていた。やはり外回りだったのだろう、額にうっすらと汗をかいている。
 どっかりと指定席に座ってから、目の前に置かれた飲みさしのアイスコーヒーに気づいたようだ。

「先客がおったがかえ」

 答えあぐねたが、隠しきれるものではない。立香は迷いながら口を開いた。

「以蔵さんの知り合いの、田中さんって人が」
「知り合いに田中はようけおる。下の名前は言わざったか」
「田中、新兵衛さん」

 その名を聞いて、以蔵は固まった。
 数秒後潤滑油の足りない機械のようにぎこちなく前髪をかき上げ、飴色の瞳で立香を見た。

「ほうか――ほうか。新兵衛のやつ、おまんに何吹き込んだ」
「以蔵さんと別れて、姿を消すように、って」

 詳しい内容は話せなかった。嘘をついているわけではない。

「おかしいよね。わたしたち、つき合ってるわけでもないのに」

 立香は笑顔を作るが、声の震えは隠せない。
 以蔵はいたわるように言った。

「……おまん、なんぞおとろしい目には遭わざったか」

 その言葉に、立香はまばたきをする。
 大柄な男から圧をかけられるのは怖かった。しかし精いっぱい投げられた球を打ち返したし、具体的な危害を加えられたわけでもない。

「特に――何も」
「こらえるがはやめぇよ」
「大丈夫」
「ならえい――けんど」

 トレイを持ったウェイトレスが新兵衛のグラスを下げに来た。以蔵はアイスコーヒーを注文し、出されたおひやをグラス半分ほどあおる。

「あいつは……ほがにわしが気に食わんか。ほがにわしを許せんか。ほがに武市を――」
「なに?」
「なんちゃぁない。過去からは逃げられんっちゅうことじゃ」

 以蔵の表情は繊細だった。胸のつかえで息苦しく喘いでいるような、まぶしい光を見つめているような、ひとことでは表現できない感情が渦巻いていた。
 そのつらさを解きほぐしたくなるが、立香は以蔵の恋人でもなんでもない。むしろストーカーは苦悩の種になるだろう。
 なぜ、以蔵は立香を引きはがさないのか。
 前から気になっていることではある。
 しかしそれを追及しては、あいまいな感情が明らかになってしまう。そのことで以蔵のそばにいられなくなるのは厭だ。

「以蔵さん……好き」

 胸からこぼれた言葉に、

「知っちゅう」

 以蔵は柔らかい笑みを作った。
 被害者がストーカーにこんな顔を見せるだろうか。
 期待が胸を圧迫する。
 いや、立香は以蔵に迷惑ばかりかけている。以蔵がこちらを向くなどと、自分に都合よく考えてはいけない。
 苦しい気持ちをため息で逃す。
 この笑顔ひとつで以蔵の足にすがってしまう。引きずられても、渾身の力でしがみつき続けている。
 いくら滑稽でもやめられない。以蔵が好きだから。

「ほがな顔、しなや」
「どんな顔?」
「えいき、笑え」

 以蔵は飴色の左目を細めた。

「無理だよ」

 かちゃり、と胸の内側で鎖が絡んで鳴った。
 わずかに忍び込む、身動きの取れない不快感。
 それが何なのか、知りたくない。知ってしまっては、以蔵の近くにいられない――そんな気がしている。
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