知らない過去から来た男
「今日私が来たのは、君にお願いをするためだ」
新兵衛はかたわらのブリーフケースから封筒を一封取り出し、立香の前に置いた。手に取らなくても、なかなかの厚さに見える。
「これ、なんですか」
「これで、以蔵から手を引いてもらえないだろうか」
数秒、意味を取りかねた。
「君のような大学生に満足してもらえる程度の額が入っている」
額、という言葉に、ようやく合点が行く。
と同時に、頭に血が上った。
「手切れ金、ですか……」
「そうとも言う」
「ふざけないで!」
思わず、テーブルを叩いて立ち上がってしまった。他に客のいない時間でよかった、などと考える余裕もない。
目の前の男が憎らしい。
そんな立香の気持ちなど読み取りもせず、新兵衛は続けた。
「最近はちょっとしたことが致命的なスキャンダルになり得 る。勤王党は今勢いがあるが、それだけに足を引っかけ、引っ張ろうとする者も後を絶たない。武市の幼馴染みの元党員が君のような少女を慰みものにしている、などと世間に知られては都合が悪いのだ」
「だから! どうしてそんなことばっかり言うんです!? あなたは以蔵さんの何を知ってるっていうんですか!」
立香の剣幕に、新兵衛は立香へ視線を向けた。眉一本動かしていないのが腹立たしい。
「以蔵のことか? あの男のことなら君より知っている。身なりがだらしなく、頭がだらしなく、財布がだらしない。全身から腐った性根がにじみ出ている。あの男のために武市先生がどれだけ骨を折ってきたか……君は知らないからかばえるのだ」
一瞬たじろぐ。漏れ聞いている以蔵の過去から、そう言われるのもわかってしまうからだ。
しかし――。
「以蔵さんはそれだけの人じゃない。あなたは知らないんだ、以蔵さんの優しさ、強さ、かっこよさを」
そう。
初めて護ってくれた時の、背中のたくましさ。実際の背丈よりも何倍も大きく、頼もしく感じられた。
ストーカーの立香に閉口しつつ、ちょっとしたところで見せる気配り。根が不器用なのを知っているからこそ、その程度には想ってもらえていることが立香をこの上なく嬉しくさせる。
立香はそんな以蔵が大好きなのだ。
こんな風に想いを莫迦にされるいわれはない。
「あなたの知ってる以蔵さんと、わたしが知ってる以蔵さんは違う……!」
立香の切ない声音に、新兵衛は呆れを含んだ息を吐いた。
「ならばはっきり言わせてもらおう、君はあの男に騙されている」
言い切る新兵衛に、立香は疑問をぶつける。
この男はたいそう武市を信奉しているようだ。そんなに立派な男も、以蔵を誤解しているのだろうか。
「武市先生も同じことを考えてるんですか」
「いや、今日のことは私の一存だ。しかし、私は誰よりも近くで武市先生のことを見ている。先生の思いは誰より汲み取れているつもりだ」
「ふぅん」
鼻で笑ってしまった。立香はひどく攻撃的になっている。
「以蔵さんのよさがわからないなんて、武市先生もずいぶん人を見る目がないんですね」
「なっ……小娘が、つけ上がりおって……!」
新兵衛の声に怒りが含まれた。
しかし今の立香の脳内からはエンドルフィンが湧き出ている。以蔵を誤解し、中傷する人間がいれば、立香は徹底的に悪意から護らなければならない。
以蔵は立香を護ってくれたのだ。これくらいのことは、全然苦にならない。
「帰ってください! これも持って帰って! わたしにはあなたに話すことなんて何もない!」
「貴様こそろくに先生を知らんくせに! 先生の苦悩や努力を知らずに愚弄するな!」
新兵衛は声を荒らげた。
もはや蔑 みを隠さない新兵衛の視線を、まっすぐ打ち返す。
このままでは、最後のリミッターも外れてしまいそうだ。いつも以蔵がお世話になっているカフェにこれ以上迷惑をかけたくないが――。
「いいから! 帰って!」
「このっ……いや、そうだな……」
一度激した新兵衛だったが、すぐに自分の大人げなさに気づいたようだ。深呼吸し、半分以上残っていたアイスコーヒーを一口吸い込む。
「君は冷静ではない。恋に恋しているから、以蔵をけなされて必要以上に腹を立てている」
「違っ……わたしはちゃんと以蔵さんを見てます! この感情も一時 の気の迷いなんかじゃない……」
「そうであろうと思い込んでいる者はそういうことを言う。今日はこれも持って帰るが、以蔵に騙されていると気づいたらいつでも連絡してほしい。武市も私も決して無碍 にはしない。無礼な発言も許そう。知人に困らされている子のことは救いたい」
「だから、わたしは」
「邪魔をした。連絡、待っているぞ」
新兵衛は封筒をしまい伝票を取り、窮屈そうに立ち上がって立香の前から立ち去った。
新兵衛はかたわらのブリーフケースから封筒を一封取り出し、立香の前に置いた。手に取らなくても、なかなかの厚さに見える。
「これ、なんですか」
「これで、以蔵から手を引いてもらえないだろうか」
数秒、意味を取りかねた。
「君のような大学生に満足してもらえる程度の額が入っている」
額、という言葉に、ようやく合点が行く。
と同時に、頭に血が上った。
「手切れ金、ですか……」
「そうとも言う」
「ふざけないで!」
思わず、テーブルを叩いて立ち上がってしまった。他に客のいない時間でよかった、などと考える余裕もない。
目の前の男が憎らしい。
そんな立香の気持ちなど読み取りもせず、新兵衛は続けた。
「最近はちょっとしたことが致命的なスキャンダルになり
「だから! どうしてそんなことばっかり言うんです!? あなたは以蔵さんの何を知ってるっていうんですか!」
立香の剣幕に、新兵衛は立香へ視線を向けた。眉一本動かしていないのが腹立たしい。
「以蔵のことか? あの男のことなら君より知っている。身なりがだらしなく、頭がだらしなく、財布がだらしない。全身から腐った性根がにじみ出ている。あの男のために武市先生がどれだけ骨を折ってきたか……君は知らないからかばえるのだ」
一瞬たじろぐ。漏れ聞いている以蔵の過去から、そう言われるのもわかってしまうからだ。
しかし――。
「以蔵さんはそれだけの人じゃない。あなたは知らないんだ、以蔵さんの優しさ、強さ、かっこよさを」
そう。
初めて護ってくれた時の、背中のたくましさ。実際の背丈よりも何倍も大きく、頼もしく感じられた。
ストーカーの立香に閉口しつつ、ちょっとしたところで見せる気配り。根が不器用なのを知っているからこそ、その程度には想ってもらえていることが立香をこの上なく嬉しくさせる。
立香はそんな以蔵が大好きなのだ。
こんな風に想いを莫迦にされるいわれはない。
「あなたの知ってる以蔵さんと、わたしが知ってる以蔵さんは違う……!」
立香の切ない声音に、新兵衛は呆れを含んだ息を吐いた。
「ならばはっきり言わせてもらおう、君はあの男に騙されている」
言い切る新兵衛に、立香は疑問をぶつける。
この男はたいそう武市を信奉しているようだ。そんなに立派な男も、以蔵を誤解しているのだろうか。
「武市先生も同じことを考えてるんですか」
「いや、今日のことは私の一存だ。しかし、私は誰よりも近くで武市先生のことを見ている。先生の思いは誰より汲み取れているつもりだ」
「ふぅん」
鼻で笑ってしまった。立香はひどく攻撃的になっている。
「以蔵さんのよさがわからないなんて、武市先生もずいぶん人を見る目がないんですね」
「なっ……小娘が、つけ上がりおって……!」
新兵衛の声に怒りが含まれた。
しかし今の立香の脳内からはエンドルフィンが湧き出ている。以蔵を誤解し、中傷する人間がいれば、立香は徹底的に悪意から護らなければならない。
以蔵は立香を護ってくれたのだ。これくらいのことは、全然苦にならない。
「帰ってください! これも持って帰って! わたしにはあなたに話すことなんて何もない!」
「貴様こそろくに先生を知らんくせに! 先生の苦悩や努力を知らずに愚弄するな!」
新兵衛は声を荒らげた。
もはや
このままでは、最後のリミッターも外れてしまいそうだ。いつも以蔵がお世話になっているカフェにこれ以上迷惑をかけたくないが――。
「いいから! 帰って!」
「このっ……いや、そうだな……」
一度激した新兵衛だったが、すぐに自分の大人げなさに気づいたようだ。深呼吸し、半分以上残っていたアイスコーヒーを一口吸い込む。
「君は冷静ではない。恋に恋しているから、以蔵をけなされて必要以上に腹を立てている」
「違っ……わたしはちゃんと以蔵さんを見てます! この感情も
「そうであろうと思い込んでいる者はそういうことを言う。今日はこれも持って帰るが、以蔵に騙されていると気づいたらいつでも連絡してほしい。武市も私も決して
「だから、わたしは」
「邪魔をした。連絡、待っているぞ」
新兵衛は封筒をしまい伝票を取り、窮屈そうに立ち上がって立香の前から立ち去った。