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知らない過去から来た男

 行きつけのカフェの指定席に、以蔵の姿はない。今日の仕事は外回りだろうか。
 既に常連と言ってもいい立香は流れるように以蔵が普段座る席の手前に座り、ホットのオレンジペコを注文し、温かいおしぼりで手をぬぐった。
 末端を温めると気分がよくなる。自律神経の働きが整うからだという。
 スマホを取り出しLINEを開き、以蔵へ『着きました』とメッセージを送るが、しばらく経っても未読のままだ。反応の鈍いのはいつものことでも、淋しさがなくなるわけではない。
 とはいえ立香は以蔵のストーカーでしかないのだから、密な連絡を求める方が間違っている。LINEを交換していることを奇跡と思うしかないのだ。
 以蔵の欠落は以蔵で埋めよう。
 カメラロールの『以蔵さん』フォルダを開き、隠し撮りした写真をスクロールしては甘いため息を吐く。
 居眠りした時のあどけない表情。飴色の瞳が隠れると、感情の起伏が消えて可愛らしくすらある。案外長いまつ毛が荒れ気味の頬に影を作っているのを観賞するだけで、優に三十分は過ごせる。ストーカーの前で隙を見せるのはどうかと思うが、嬉しさには勝てない。
 起きている時の写真は撮るのが難しい。雑誌に目を落としている時の、細められた瞳と引き結ばれた大きな口は、比較的うまく撮れた方だ。シャッター音と同時に顔を上げた以蔵から「やめぇ、こんべこのかぁ」と叱られて、もう以蔵に迷惑をかけるのはやめようといつも思う。『いつも』思ってしまう辺りで回数は察してほしい。
 サーブされた紅茶に砂糖を入れ、少しずつすすりながら以蔵を反芻していたら、視界に影が差した。

「以蔵さ……」

 呼びかけて、途中で口をつぐむ。
 以蔵とは似ても似つかない大男が立香を見下ろしていたからだ。
 既製品ではないであろうスーツは、それでもはち切れそうな胸をボタンが辛うじて抑えている。オーダーしてからもまた胸が成長したのかもしれない。
 長い赤毛を後ろでひとつにくくり、ストレートの前髪が左目をすだれ状に覆っている。立香を見下ろす視線はどこか咎めるようだ。

「藤丸立香さんか」

 低い声で呼ばれ、人違いなどでないことを理解する。

「は、はい」
「岡田以蔵を待っているな?」

 予想外のことに、うなずきしか返せない。
 男は驚きに萎縮する立香の正面に座った。以蔵がだらしなく座るチェアにぴっちりと姿勢よく座るのは、そうしなければ身体を収められないからだろう。
 注文票を片手にやってきたウェイトレスへアイスコーヒーを頼み、男は立香の顔を見た。

「ふむ……以蔵が……」

 品定めされている。そのことに気づくと、無性に腹が立った。
 腕力ではとてもかなわない男性相手でも、言うべきことは言わなければ落ち着かない。こちらが無力な子供だからといって侮るのは間違っている。

「わたしに、何か」

 思ったよりも不機嫌な声が出た。
 男は己の不躾さに気づいたようで、

「これはすまない、私はこういう者だ」

 と、胸ポケットの名刺入れから名刺を一枚取り出して立香の目の前に差し出した。
 大きく印字された、見覚えのあるロゴを読み上げる。

「勤王党……」

 地方出身の政党が地元だけでなく広く支持を集め、昨今国政へと進出した、というニュースを見た覚えがある。
 名刺には勤王党のロゴが飾られ、中央に男のものとおぼしき名前があった。

「田中新兵衛さん……わたしに何のご用ですか」

 見上げると(それだけ座高に差がある)、田中新兵衛は鋭い眼光を向けてきた。
 気圧されそうになっても、こらえなければ。立香は丹田に力を込めて踏みとどまる。
 ウェイトレスがアイスコーヒーを持ってきた。新兵衛は広い肩をすぼめて、体躯の大きさには不似合いな動きでガムシロップとミルクをグラスに入れてかき混ぜる。

「今、以蔵さんの名前が聞こえましたけど」
「藤丸さん、君は以蔵の交際相手ということで間違いはないか」
「間違ってます」

 反射で答えてしまった。
 そうであればとても嬉しいけれど、現実はそうではない。以蔵は立香のような子供には興味なんてない。ただなぜか拒むこともせず、まとわりつかせているだけだ。
 立香の言葉に、新兵衛は二度まばたきした。そして、まなじりをつり上げて立香に食いつかんばかりに前傾した。

「以蔵めっ……こんな年端もいかない子供をたぶらかしているというのか……!」

 たぶらかす? 誰が、誰を?
 文脈を繋げて理解し、立香はあわてて反論した。

「以蔵さんはそんなことしません! 第一、田中さんは以蔵さんのなんなんですか!?」

 立香の言葉に、新兵衛はひとつ息を吐いた。

「どうも私は説明が足りない……私は勤王党の党首、武市瑞山の秘書をしている。見たことはあるだろうか、裏の写真の人物だ」

 立香は名刺を裏返した。
 そこに印刷されている男は端正な顔立ちで、瞳に信念の強さを秘めている。肉の削げた頬や結ばれた口からも、男の背負っている使命感がわかる。
 言われてみれば、ニュース映像でこの男が大勢の観衆を前に演説しているのを見たことがある。
 しかし同時に、もっと近しい、切実な既視感――既聴感?――に襲われた。

(武市……武市先生、どいて……)

 酔っ払った以蔵の声が、脳裏に響く。
 思わず新兵衛を見た。

「武市先生って」
「以蔵から聞いているなら話は早い。それなら、以蔵も勤王党の一員だったことも聞いているか?」

 新兵衛が重ねて問う。それは知らなかったので首を横に振った。
 新兵衛は苦虫を噛みつぶしたような顔で立香を見た。

「実は武市と以蔵は幼馴染みで……歳上の武市はできの悪い以蔵の面倒をよく見ていたという。その頃に知己を得ていたら、私は絶対止めていたが」

 どうもこの人は先ほどから以蔵をおとしめるもの言いをする。好きな人をそう言われるのは、大変に気分が悪い。
 反論しようとしたら、新兵衛は更に言葉を畳みかけてきた。

「以蔵は武市に後ろ脚で砂をかけて堕落の限りを尽くし、今ではいかがわしい職に就いている。あんな男がかつて勤王党の末席を汚していたと思うだけで腹立たしいのに、今度は若い娘に手を出した」
「だから、手は出されてません。わたしが勝手につきまとってるだけです」
「かばい立てをするとかえっていい印象を与えないものだ」

 立香が何か言おうとするたびに、硬い言葉が返ってくる。
 以蔵が立香に淫行を働いているなどと、どうして決めつけるのか。

「あなたは以蔵さんの何を知ってるっていうんです」

 言い募る立香を無視して、新兵衛はいきなり頭を下げた。
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