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ラムキャンディスコーヒー

 坂本探偵事務所の所在地は都心のターミナル駅から徒歩十五分。その近所はそこそこの家賃がするが、この家は事故物件だし、家賃補助も出ているから以蔵の懐はそこまで痛まない。緊急の案件が発生する場合もあるだろう、という龍馬の配慮である。
 探偵事務所に駆け込む客は曜日を問わない。むしろ、休日を費やして依頼に来るケースも多い。
 だから以蔵の勤務日はシフト制になっている。今日は日曜日だから当然出勤だ。
 八時半に鳴る目覚まし時計を止めれば、寝室のドアの向こうから食事の香りが漂ってきた。朝からご苦労なことじゃのう、と思いながら起き上がり、肩を超える癖毛をくくる。襟がだるだるに伸びたTシャツとよれたジャージ姿のまま、以蔵は寝室を出た。
 広くはないダイニングキッチンのコンロに向かっていた立香が、振り返って顔をほころばせた。

「以蔵さん、おはよう」
「おはようさん」

 毎週のことだから、以蔵も右手を挙げて応える。

「今日は洋風にしたの。和食もいいけどたまにはね」
「えいよ」

 どちらかというと白米の方が好きだが、ひどい時は菓子パンで朝食を済ませていたこともあった以蔵だ。出されたものは残さず食べる。

「食パンは二枚でいい?」

 以蔵がうなずくと、立香はトースターに六つ切りの食パンを二枚入れてつまみをひねった。その隙に、と電気ケトルからマグカップへお湯を注ぎ、インスタントコーヒーを淹れる。

「今日のコーヒーは以蔵さんも気に入ると思うんだ」
「徳用コーヒーに味の違いらぁてないろう」

 以蔵の言葉に立香は「うふふ」と笑う。何か企んでいるのだろうが、種明かしを楽しんでいる立香を邪魔したくはないので追及はしない。
 立香は料理をお盆に載せて運んできた。今朝は巣ごもり卵とポテトサラダと、根菜のコンソメスープという献立だ。
 ポテトサラダとスープの具は昨夜のうちに自宅で下ごしらえをして、この家で完成させたものであるらしい。
 その熱量を何か他のことに活かした方がいいとも思うのだが。

「スープは小分けにして冷凍するから、ごはんの時にチンしてね」
「ほにほに」

 適当にうなずく以蔵の向こうで、トースターが高く鳴る。手早くマーガリンを塗り、立香はトーストとコーヒーを以蔵の前に差し出した。

「はい、召し上がれ」
「いただきます」

 以蔵は両手を合わせた。

「以蔵さんってそういうとこ真面目だよね」
「当たり前のことしゆうだけじゃ」
「それを当たり前だって思うとこ、好き」
「ほうかほうか」

 まともに取り合わず、以蔵は巣ごもり卵から箸をつける。半熟の黄身を崩して土台の千切りキャベツと混ぜて口に運ぶと、塩こしょうのみの味わいがする。普段好むでもなく食べている酒のつまみと較べれば淡白だが、朝食ならこれくらいの方がいい。
 根菜のスープはれんこんのしゃきしゃきした食感とだいこんのほろほろした柔らかさのメリハリがいい。コンソメの味つけも、飲みすぎで胃をやられた時は優しく感じられるだろう。
 ポテトサラダはあえてごろごろのじゃがいもを使っているという。ほどよい大きさにカットされたにんじんときゅうりと一緒に頬張って、スープで飲み下す。
 すっかり器を綺麗にして、マグカップを取る。口をつけようとして、普段とは違う香りに気づいた。このふくよかな香りは洋酒――それも、

「ラムか?」
「さすが以蔵さん」

 立香は得意げに微笑んだ。
 確かに、特価で買ったインスタントコーヒーには出せない風味がある。
 以蔵を喜ばせようとした工夫は認めるが、その行動には不可解なところもある。

「おまん、ラムらぁてどこでうた。おまんは未成年やき、年齢確認されるろう」

 少し咎めのニュアンスがあったかもしれない。しかし立香は笑顔で答えた。

「そう思うでしょ。でもね」

 立香が取り出したのは、以蔵の手のひらで握れる程度の大きさの瓶詰めだった。その中身は茶色っぽい。

「なんじゃそりゃ」
「氷砂糖のラム漬け。以蔵さんが好きそうだなって思って」

 ネットで評判を見て、わざわざカルディまで買いに行ったらしい。
 にこにことこちらを見る立香は、以蔵の感想を待っているのだろう。
 以蔵はコーヒーをすする。
 香りがいい。ラムの重厚さがコーヒーの苦味を埋め合わせ、味わいを数段ランクアップさせている。普段以蔵は砂糖入りコーヒーを飲まないが、氷砂糖の控えめな甘さは悪くない。
 しかし以蔵は言葉を繰るのが得意ではない。だから、

「うまいの」

 という短い形容詞を伝えるに留まる。
 それでも立香は表情から以蔵の機微を察したようで、

「よかった」

 と、小声で喜んだ。
 自分の分のトーストを焼き、以蔵の正面に座って同じ献立を食べ始める立香に、以蔵は言った。

「氷砂糖、いくらやった」

 立香はトーストを手にしたまましばし固まり、以蔵から視線を逸らす。
 洒落たものとは縁のない以蔵でも、輸入食材店の相場は知っている。

「えーと、言わなきゃダメ?」
「言いや」
「……一二〇〇円」
「安うはないの。飯食うたら出すき、待っちょれ」

 立香は承服できないと言いたげに片手を振った。

「いや、いいから! わたしが勝手にいいなって思っただけだから! プレゼントだと思って」
「えいか立香。大人の男が未成年の女に毎週朝メシ作らいて、その上プレゼントまでもらうわけにはいかんがよ」
「でもでも、わたしが好きでストーカーしてるだけだし」
「びっとはわしの言い分も聞きい」

 以蔵が言うと、立香は困り果てた表情を浮かべている。
 困るのはこちらだというのに。
 以蔵と立香は交際しているわけではない。立香は以蔵のストーカーだ。
 ちょっとしたきっかけで以蔵に惚れ込んだ立香は、持ち前の熱心さで以蔵の行動範囲や生活習慣を調べ尽くした。
 家の合鍵の場所を探り当ててからは、このように毎週日曜日に上がり込んで朝食を振る舞う。
 この習慣に、以蔵は困っている。
 厭なら厭だと言えばいい。
 厭ではないから困るのだ。
 以蔵への好意を隠さず、その一挙一動でくるくると表情を変え、嬉しさも悲しさも表現する少女が可愛くてしかたない。
 しかし、二十七歳の男が未成年へ手を出すことは、以蔵の乏しい倫理観に照らしても許されることではない。
 以蔵の感情を知ったら、立香はますます密着の度合いを強めるだろう。そうなれば、耐えられなくなる瞬間がきっと来る。
 第一、十九歳の恋愛など、ウイルス性の感冒のようなものだ。治ればけろりとして、想っていたことも忘れるに違いない。
 そうなることを避けるためにも、今立香の想いには応えられない。
 ――と伝えたら、告白しているのと同じだ。だから以蔵はストーカーの被害者のふりをしている。

「えいから、払わせぇ」
「はぁい」

 立香はしょげた顔でフォークを繰る。以蔵の気持ちを知らず、ただ自分の方が圧倒的な愛着を持っていると誤解している顔だ。
 絶対に手を出さない、と決めてから、立香との距離の取り方がわからなくなっている。己の考えがとても莫迦莫迦ばかばかしいものだとも思える。
 正面には立香の顔がある。
 ポテトサラダを食べる唇の柔らかさ。
 触れたい。吸いたい。息が止まるほどむさぼりたい。

(――あぁっ!)

 以蔵はテーブルの上の煙草箱を持って立ち上がった。

「ちっくと、吸うてくる」
「うん、行ってらっしゃい 」

 以前は室内で煙草を吸っていた。立香が上がり込むようになってから、ベランダに灰皿を置くようになった。
 手すりに肘を置き、一本取り出してライターで火を点ける。肺に煙を行き渡らせて、吐く。

「はぁ……」

 もう一度煙を吸って吐いても、まだ落ち着きを取り戻すのは難しい。振り返れば、掃き出し窓の向こうで立香がスープを飲んでいる。
 まるで夫婦のようだ。
 その想いを必死に振り払いたくて、くくった髪をかき混ぜた。
 吸い終わった一本を灰皿に押しつけ、ダイニングへ戻る。立香は立ち上がって食器をシンクに持って行こうとしていた。

「そろそろ支度しないと間に合わないよね」
「ほうじゃの」
「なんならわたし、以蔵さんが帰って来るまで待っててもいいけど」
「わしがようないわ。わしと一緒に出ぇよ」

 そう言い置き、以蔵は洗面台に立った。
 鏡の前の男は襟がだるだるに伸びたTシャツを着て、その上に無精髭の生えた顔を載せている。前髪が右目にかかり、飴色の左目はとげとげしく光る。よく言えば野性的、悪く言えば粗雑だ。

「ほんまに、こがな男のどこがえいがじゃ」

 顔は言うほど悪くはないが、身なりに気を遣わない(立香は「ちゃんとすればめちゃくちゃいい男だよ」と言うが)。性格も易きに流れやすい。職には就いているものの、恋人の親に胸を張って言える職種ではない。

「ほんまに……」

 だからこそ、魔法の解ける日が来るのが怖い。それは今日かもしれない。
 もやもやした、言葉にしがたい感情を持て余す。しかし、何はともあれ出勤しなければ龍馬が困る。
 蛇口をひねれば、冷水が出る。まだ冷たさが苦にならない季節だ。
 湧き上がる立香への恋情を少しでも振り捨てようと、以蔵は洗面台にかがんで顔を洗った。
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