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優しくしないで、好きだから

 財布と化粧ポーチ、タブレットと充電器を入れたトートバッグを、以蔵が持ってくれる。支えられながらアパートの階段を降りて、徒歩一分の駐車場に停めてあった車に乗り込む。坂本探偵事務所所有の軽バンを、以蔵はしばしば私用する。

「あげそうになったらこれ使え」

 以蔵が渡してくれたのは、先ほど差し入れを持ち込むのに使ったビニール袋だろう。
 五分ほどで内科医院に着く。受付で初診の旨を伝えた以蔵へ、事務職員がクリップボードに挟んだ問診票を渡した。

「書けるか? 書けんならわしが書いちゃる」
「いや……書く」

 住所氏名、症状といつ発症したか、処方薬やアレルギーの有無の下に、『妊娠していますか』という問いがあった。これは以蔵には見せられないし、聞かれたくない。
 記入した問診票を、以蔵が受付へ提出してくれた。自然に立香の隣に座り、こちらを覗き込んでくる。

「うるさかったら肩貸しちゃる」
「以蔵さん、どうして今日は優しいの」
「病人気にかけるがは人として当たり前じゃ」
「もっと好きになっちゃうよ」
「惚れちょき惚れちょき、ほんでおまんののうがようなるならえい」

 静かに笑う以蔵から離れられるわけがない。立香は身を傾げ、以蔵の肩に頭を載せた。

「これ以上優しくしないで……」

 口から本音が転げ出た。
 以蔵はことあるごとに立香の恋愛感情を若気の至りだと断じる。これは本当の恋ではない、ただ危機を救われたことで吊り橋効果に陥ってしまったのだ、と。
 そんな以蔵が、今日は甲斐甲斐しく面倒を見てくれている。

「優しゅうされとうないならざんじ体調治しぃ」

 以蔵は笑い含みに言った。
 これは夢ではないだろうか。
 しばらく以蔵を感じていたら、「藤丸さんどうぞ」と名を呼ばれた。
 立香の母親よりは少し若いくらいの女性医師が、診察台に横たわった立香の腹を触診した。女性医師がいる病院を、以蔵が選んでくれたのだろうか。
 医師からは胃腸炎と診断され、過労などで免疫力が落ちていたのかもしれない、と指摘された。確かに最近は以蔵へのストーキングを優先していた。嘔吐して軽い脱水と栄養不良状態になっているらしく、点滴を打つことになった。
 奥の処置室できびきびした看護師の指示を受けてベッドへ上り、腕の裏側に針を刺される。スタンドに固定された点滴バッグを見上げていたら、以蔵が処置室に入ってきた。

「どうしたの」
「『藤丸さんのお連れの方』ち呼ばれての」

 以蔵は点滴を打たれていない方から近くに立てられていたパイプ椅子を引き寄せ、組み立てて座る。

「うるさい時は先生の言うこと聞くに限る」

 そう言うと、スラックスのポケットからスマホを取り出した。そういえば、と立香は思い至る。

「以蔵さん、今日、仕事は」

 立香のせいで休ませたのなら申し訳ない。しかし以蔵は首を振った。

「おまんが気にすることやない。今日は外回りはないし、スマホでできる仕事もあるきに」

 詳しく教えてくれたわけではないが、探偵は身元調査や浮気調査の際にターゲットのSNSを見ることもあるらしい。リプライ相手やそのフォロワーのタイムラインをたどって、より深い情報を得るのだそうだ。以前、『パパ活だの裏垢だの、げにぞうくそ悪いぜよ。裏垢なら裏垢らしゅう鍵でもかけちょき』と言っていた。
 眉間に皺を寄せてスマホ画面をスワイプする以蔵に、立香は思い切って声をかけた。

「以蔵さん、手、繋いでくれる?」

 お腹痛くてつらくて……と続けようとした立香の手を、以蔵は迷いなく握った。断られるだろうと思っていたから、立香は言葉をなくした。

「ちっくと危ないかもしれんが、動かさなけりゃかまんろう」
「どうして」
「言うたろう、病人に優しくするがは当たり前じゃ」

 ごつごつした男らしい手から伝わる体温が、痛みと悪心にこわばった心身をほぐしてくれる。
 嬉しいのに悲しい。悲しいのに嬉しい。

「ねぇ、以蔵さん」
「なんじゃ」
「わたしが治っても、こんな風にしてくれる?」
「するわけないろう」
「だよね……」

 わかっていた答えに、鼻の奥が痛くなる。
 以蔵は時たま、立香に期待させる。
 職場や行きつけのカフェについて行き、勝手に部屋へ上がり込んで押しかけ女房面をする立香を煙たがっていても、ごく普通の顔でカバンを持ってくれる。車道側を歩いてくれる。とりとめなくその日のできごとを話す立香に、穏やかな相槌を打ってくれる。
 まったく手応えがなかったら、さすがの立香も折れていただろう。
 以蔵が垣間見せる愛情のようなものにすがって、立香はストーキングを繰り返している。
 一般的なストーカーは、相手の言うことを都合よく曲解して愛情を錯覚するのだそうだ。
 立香はどうなのだろうか。以蔵の迷惑を顧みず、困らせているのは間違いないが。
 脈がないなら突っぱねてほしい、と思うのと同時に、この優しさに可能性を見出してしまう。
 愚かな恋をしている。
 それでも、飴色の目に己を映したいと願うことを止められない。

「以蔵さん……好き」

 つぶやく声は、涙で湿っていた。

「泣きな……こがなもんしかないけんど、使いや」

 以蔵はハンドタオルを取り出し、点滴を打たれていない側の手に握らせた。
 こぼれる涙を拭う立香に、

「わしもまっこと卑怯な男じゃ」

 と以蔵は小声で言った。
 意味を測りかねて見上げる立香へ、以蔵は微笑みを向けた。普段の尖った目つきとはかけ離れた、落ち着いた飴色の光が、立香の涙をあふれさせる。

「今日はプリンとゼリーと桃の缶詰買うてきたき、食えるもんだけ口に入れや。明日また来ちゃる。りんごも持っての」

 華奢な手を包んでくれる以蔵の手を、立香はそっと握り返した。
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