これは果たして愛情なのか?
今日も人の暗部を覗き見るような仕事だった。
手書きのタイムシートを龍馬に提出し、くさくさした気分を晴らそうとスーパーで砂肝と発泡酒を買った。レジ袋を有料にした政治家を軽く呪いながら家路をたどり、郵便受けから折り込みチラシを抜き取った。十中八九捨てられるもののための仕事もある、と己を慰める。
以蔵は昭和時代に建てられた三階建てマンションに住んでいる。マンションとはいえ、たたずまいは団地に近い。
劣化しつつあるコンクリートの階段を上り、端に錆の浮いた鉄製のドアを開け、申し訳程度の廊下を抜けてダイニングキッチンの冷房を点けた。
部屋が涼しくなる前に酒とおつまみを冷蔵庫にしまい、寝室に入る。
電気を消した室内の、ベッドの上にはタオルケットをかぶったまんじゅう状の物体があった。それに向かって、以蔵は声をかけた。
「なーにてんごしゆう」
物体は答えない。以蔵は更に言葉を重ねた。
「ま、わしはなーんも見やせんき、今日はあっちで寝ようかの。替えの毛布もあるき」
「待って」
まんじゅうが声を上げた。
「以蔵さん、床で寝ると身体痛くなるよ? 疲れ取れないよ」
以蔵はわざと大きなため息を吐いた。
「ようよ喋ったの」
「以蔵さん、『なんじゃぁぁぁぁっ!』って言ってくれたの、初めての時だけだよね」
「もう慣れたわ。郵便受けの合鍵の位置が変わっちょったら、どがなアホでもわかる」
「ちゃんと元の場所に戻しといたのに……」
「わしをごまかすらぁて百年早い」
以蔵はベッドサイドの、まんじゅうのそばに腰かけた。まんじゅうは以蔵の太腿に身体を押しつけてくる。
「おう、触りな触りな。触る前にそんタオルケット取ったらどうじゃ」
以蔵の言葉に、まんじゅうはふるふると震える。
「その……以蔵さんが、取ってください」
「ストーカーがわしに指図するがか」
「うん……ウェディングドレスのヴェールみたいに」
本当にこの娘は手間をかけさせる……と思いながら隙間のできたタオルケットに手を入れて、めくり上げる。
タオルケットまんじゅう――改め藤丸立香は伸びやかな肢体を折り曲げて、祈りを捧げるように伏せていた。
「以蔵さん、おかえり」
見つけられた立香は伸び上がって上体を起こし、微笑みを向ける。
まず胸の谷間が目に飛び込んできた。
ベビードールと言うのか、正座した太腿まで隠すシースルー地のキャミソールは、立香の髪と同じオレンジ色だった。襟ぐりは大きく開かれ、着痩せする二つの膨らみがよく目立つ。カップは二重のレースで彩られ、みぞおちから裾にかけて同色の刺繍の花が散っている。薄い生地から透けるブラジャーも揃いのデザインで、こちらにはより大きな花が咲いていた。おそらくショーツも揃いなのだろう。
以蔵は感情の波を気取られないように息を吸い、笑声とともに吐き出した。
「は! とんだ花嫁がおったもんじゃ」
「以蔵さん……わたし、どう?」
立香は薄闇の中で赤面した。わずかに触れる肌からも、体温の上がったのがわかる。
「ほにほに、可愛 らしゅうて見ちょられんわ」
以蔵は立香の肩から落ちたタオルケットを引き寄せ、肩を覆うようにかぶせる。
「なっなにするの!?」
「冷 やいろう、冷えは女の天敵じゃ」
「そうじゃなくて!」
鮮やかな手つきで二重にタオルケットを巻きつけられた立香は不満の声を上げた。しかし以蔵は取り合わない。シュシュを避けて頭を撫でてやる。
「どいて今日はベッドにおる」
以蔵が言うと、立香は金色の瞳をまっすぐに向けてきた。
自宅を特定され、合鍵のありかを突き止められてから、以蔵は立香の押しかけ女房攻撃に晒されている。
気づけば冷蔵庫の中に知らない調味料が増え、休日に洗おうと考えていた洗濯物がベランダに干され、汚れてもいいワイシャツにアイロンがかけられていた。そもそも以蔵は、上京時に母が贈ってくれたアイロンの存在を忘れていた。
そんな風に以蔵に尽くす立香だったが、ベッドに潜り込んでくることも、下着姿を見せることも今まではなかった。
何かしらの異変を感じ取った以蔵に、立香は籠もった声でつぶやく。
「だって以蔵さん……女の人がいるお店に行くんでしょ? わたしが代わりになればいいのかなって」
「どいてそれを知りゆう」
「坂本さんが教えてくれた」
「あん……くそがっ……!」
思わず悪態が口をつく。
幼馴染みの親切のつもりだろうが、余計なことを教えてくれる。
今龍馬のことを考えてもしかたがない。以蔵は下から覗き上げてくる立香のつややかな頬から目を逸らした。
「別にわしとおまんはつき合 うちゅうわけでもないき、ほがなこと言われる筋合いらぁてない」
正論を言うと、金色の瞳がわずかに潤んだ。
「そうだけど……わたしじゃ以蔵さんを満足させてあげられないのかな……」
「ほうじゃ、おまんじゃ代わりにならん」
以蔵は抱きすがられる前に立ち上がり、タオルケットにくるまれた女を見下ろした。
「終わりじゃ終わり。おまんははよ着替えぇ。晩酌終わったら駅まで送っちゃる」
「ダメなの?」
「ダメじゃ。諦めや」
悲しみに肩を落とす少女を無視して、以蔵はドアに手をかける。
「以蔵さん……好き」
「知っちゅう」
冷たく聞こえることを意識して言い、追いかけてくる視線を無視してドアを閉めた。
そしてそのままドアに寄りかかり、座り込む。
「――勘弁しとうせ……」
ぐしゃぐしゃと、くくった髪をかき混ぜる。
「どいてこがな苦行をせんといかんがじゃ」
以蔵は頑張った。とても頑張った。もっと褒められるべきだ。
好きな女が己のベッドに潜り込んでいる――それも、ひどく煽情的な下着姿で――のに耐えたのだ。『たいへんよくできました』というスタンプを押されてもいい。
立香にはまず、『普通被害者はストーカーを駅まで送ったりはしない』ということから自覚してほしい。
自分がキャバクラの代わりになることはできないのか、と立香は言った。
なるわけがない。
以蔵にとってキャバクラは、見栄えのする女に仕事の愚痴を言い、いい気分にさせてもらえる店だ。聞き上手の女たちは守秘義務に触れないよう気を遣いつつ、以蔵の心に溜まった澱をすくい取って流してくれる。ついでに着飾った女に奉仕される優越感も味わわせてくれる。
立香にそんなものは求めていない。
以蔵は太陽の下の立香を見ている。立香はひたむきに以蔵を慕い、その一挙手一投足に笑い、頬を膨らませ、嘆く。その素直さ、わかりやすさが、以蔵を満たす。
立香には『聖域』から移動してほしくない。立香に聞かせる愚痴などはない。立香は立香であってくれればいい。
立香の稚 さを理由に手も出さず、ストーキングされるに任せている男が身勝手なことを言う、と自分でも思う。迫られて触れもせず、余裕のある大人の男のふりをして受け流し、ただ立香の若さを浪費している己に、立香をどうこうする資格はない。
ただ、好いた女が己に執着するのを振り切ることもできない。
以蔵は両腕で輪を作り、重ねた手のひらを見る。
「立香」
背後の部屋に聞こえない声量でつぶやき、そのまま空っぽの腕を引き寄せる。
腕の中にあるべき存在が愛おしく、虚空に頬をすりつける。立香は「無精髭が痛い」と笑うだろうか。一方的に触れられているだけでも石鹸と立香自身の香りを嗅げるのだから、肩口に頬を埋めれば肺いっぱい吸い込めるに違いない。
それでも立香に触れない理由は。
大人の余裕を見せつけたい。
もう三十に近い大人として、責任能力の乏しい年齢の少女を心身ともにもてあそぶのは避けたい。
そして――怖い。
自分でもわかっている通り、以蔵は綺麗な人間ではない。
人に迷惑ばかりをかけてきた。今も腐臭漂う人の業を覗き込んでは吐き気を覚え、酒に逃避する。好いてもいない女に話を聞かせたがり、とりあえずの満足を得る。
心が弱いのだ。
その上、依頼ありきの探偵業の収入は振れ幅が大きい。
そんな男が好きな女と一緒にいたいと言うのを聞いたら、以蔵は「アホか」と鼻で笑うに違いない。
今後立香もそう思うかもしれない。今は恋という愚かしい感情に支配されているが、本当の以蔵に気づいてしまったら、さすがに醒めるはずだ。心の中に作り上げた虚像と実際のギャップが激しいほど、本物の以蔵へは攻撃的になるだろう。
あの金色の瞳から軽蔑の光を向けられたら、次の瞬間から生きていける自信がない。ますます酒を頭から浴び、金で言うことを聞かせられる女に溺れるのが、ありありと見える。
そんな理由で踏み込めないことすら知ってほしくない。
自分のどうしようもなさは、自分がいちばんよくわかっている。
「りつか……」
以蔵は再度呼んで立ち上がり、冷蔵庫から出した砂肝をレンジにかけた。三人は座れないダイニングテーブルに就き、発泡酒を開ける。酔うために飲むものの味はどうでもよく、むしろ下手に美味な方がみじめさを感じさせられるので避けたい。
レンジが鳴ったので砂肝を取り出し、パックのまま箸をつける。歯ごたえがあるので、今の悩みごと咀嚼できる気になれてありがたい。
缶を半分ほど開けた頃合いで、立香が寝室から出てきた。白いカットソーと細身のジーンズとのコーディネートは、少女の持つ清潔さを引き立たせている。
(やけんど、こん下にはあげなエロい下着を着けゆう……)
あふれそうになる唾を、発泡酒で飲み下す。
そのことを知っているのは以蔵だけだ。好きな男を誘うあでやかさも、そうせざるを得ないほどの必死さも。
そんな姿を他の男には見せたくないと思いつつ――宙ぶらりんにさせることで、以蔵はこの若く魅力的な女を縛っている。
容易には許されない罪だ。
立香は以蔵の正面に立った。
「以蔵さん、コップ持ってくるよ。缶のままよりもおいしいでしょ」
「こんままでえい。おまん、酌するつもりじゃろ。おまんはほがなことせいでえい」
「でもそういうお店だとお客さんに――」
「しわい。わしがえい言 うたらえいがじゃ」
立香は肩を落とし、以蔵の正面に腰かけた。目尻がほんのり赤い。
「元気ないのう」
「色じかけに失敗したんです。泣きたくもなります」
「ほうか、ならこれに懲りてこがなことはやめぇよ」
「でも、わたし、どうしたら以蔵さんが振り向いてくれるかわかんなくて」
「気にしなや」
以蔵が発泡酒をあおると、立香は悲しげに以蔵を見た。
(これ以上おまんに釘づけになったら困るがよ! 自覚せぇ!)
(そもそも、どいてわしは立香を独りで泣かいゆうがか? 好いちゅう女を胸で泣かすこともできんやつが、男やらぁて名乗ってえいがか?)
吐き出すことのできない感情が胸を渦巻く。
立香の悲しみと、以蔵の悩みを減らす方法がひとつある。
合鍵の保管場所を変えることだ。
防犯上の問題ももちろん、仕事で逆恨みを買って襲われる危惧もある。合鍵をわかりやすいところに置くのは褒められたことではない。実際このように不審者が家に上がる。
しかし、それでも以蔵は合鍵を動かすことはないだろう。
合鍵をコピーして渡すこともない。その代わり、いつでも家へ入れるようわざと隙を見せる。
不法侵入させて立香に罪の意識を背負わせていることも知っていてなお、以蔵は自己欺瞞をやめない。
抱きしめて楽になれるならそれがいい。しかし今それをしても、いっときの欲しか満たせない。
「以蔵さん、お酒おいしい?」
「未成年を肴に飲む酒はうまいもんやないの」
「そうなんだ……」
「立香。わしは飲んじょるき駅までしか送っちゃれんけんど、気ぃつけて帰りぃよ。暗いとこは歩かず、周りには気ぃ遣 うて」
「以蔵さんちに泊めてくれればいいのに」
立香はおそらくあえて軽口にしている。首を傾げ、もの憂げな笑顔を見せる可愛い女に、吹き飛びかけるリミッターを感じる。このまま二人でいたら、よからぬことをしてしまいそうだ。
「莫迦 言いな。送るき、支度しぃ」
荷物をまとめた立香からトートバッグを受け取り、玄関のドアを開ける。外はまだ蒸し暑いから、上着は必要ない。
前後に並んで階段を降りながら、聞いてみた。
「のう立香、おまんはわしのどこがえい」
「うーん……以蔵さんにはいいところがいっぱいあるよ。どうしてそんなこと聞くの?」
「今日は仕事で厭な思いしての。肯定してもらいとうなった」
角に埃の溜まったエントランスから、三日月が浮かぶ路上に出る。
「そういうことなら……あっ! 手を繋いでくれだら教えてあげる。いっぱい」
「ならえいわ。そこまでして聞きとうない」
「えーっ、わたし話したいな、以蔵さんのいいところ」
「好きに話しゃえいろう」
「手を繋いだら、ね」
外灯に照らされた立香の表情は、好きな男と一緒にいられる喜びに満ちている。
この顔が好きだ。己がこの顔をさせているから余計に。
しかし触れてはいけない。純粋で善良な少女に、むき出しの汚い感情をぶつけたくない。
――あぁ。まっこと、やっかいじゃ。
以蔵は左手を開き、再び拳を握った。
手書きのタイムシートを龍馬に提出し、くさくさした気分を晴らそうとスーパーで砂肝と発泡酒を買った。レジ袋を有料にした政治家を軽く呪いながら家路をたどり、郵便受けから折り込みチラシを抜き取った。十中八九捨てられるもののための仕事もある、と己を慰める。
以蔵は昭和時代に建てられた三階建てマンションに住んでいる。マンションとはいえ、たたずまいは団地に近い。
劣化しつつあるコンクリートの階段を上り、端に錆の浮いた鉄製のドアを開け、申し訳程度の廊下を抜けてダイニングキッチンの冷房を点けた。
部屋が涼しくなる前に酒とおつまみを冷蔵庫にしまい、寝室に入る。
電気を消した室内の、ベッドの上にはタオルケットをかぶったまんじゅう状の物体があった。それに向かって、以蔵は声をかけた。
「なーにてんごしゆう」
物体は答えない。以蔵は更に言葉を重ねた。
「ま、わしはなーんも見やせんき、今日はあっちで寝ようかの。替えの毛布もあるき」
「待って」
まんじゅうが声を上げた。
「以蔵さん、床で寝ると身体痛くなるよ? 疲れ取れないよ」
以蔵はわざと大きなため息を吐いた。
「ようよ喋ったの」
「以蔵さん、『なんじゃぁぁぁぁっ!』って言ってくれたの、初めての時だけだよね」
「もう慣れたわ。郵便受けの合鍵の位置が変わっちょったら、どがなアホでもわかる」
「ちゃんと元の場所に戻しといたのに……」
「わしをごまかすらぁて百年早い」
以蔵はベッドサイドの、まんじゅうのそばに腰かけた。まんじゅうは以蔵の太腿に身体を押しつけてくる。
「おう、触りな触りな。触る前にそんタオルケット取ったらどうじゃ」
以蔵の言葉に、まんじゅうはふるふると震える。
「その……以蔵さんが、取ってください」
「ストーカーがわしに指図するがか」
「うん……ウェディングドレスのヴェールみたいに」
本当にこの娘は手間をかけさせる……と思いながら隙間のできたタオルケットに手を入れて、めくり上げる。
タオルケットまんじゅう――改め藤丸立香は伸びやかな肢体を折り曲げて、祈りを捧げるように伏せていた。
「以蔵さん、おかえり」
見つけられた立香は伸び上がって上体を起こし、微笑みを向ける。
まず胸の谷間が目に飛び込んできた。
ベビードールと言うのか、正座した太腿まで隠すシースルー地のキャミソールは、立香の髪と同じオレンジ色だった。襟ぐりは大きく開かれ、着痩せする二つの膨らみがよく目立つ。カップは二重のレースで彩られ、みぞおちから裾にかけて同色の刺繍の花が散っている。薄い生地から透けるブラジャーも揃いのデザインで、こちらにはより大きな花が咲いていた。おそらくショーツも揃いなのだろう。
以蔵は感情の波を気取られないように息を吸い、笑声とともに吐き出した。
「は! とんだ花嫁がおったもんじゃ」
「以蔵さん……わたし、どう?」
立香は薄闇の中で赤面した。わずかに触れる肌からも、体温の上がったのがわかる。
「ほにほに、
以蔵は立香の肩から落ちたタオルケットを引き寄せ、肩を覆うようにかぶせる。
「なっなにするの!?」
「
「そうじゃなくて!」
鮮やかな手つきで二重にタオルケットを巻きつけられた立香は不満の声を上げた。しかし以蔵は取り合わない。シュシュを避けて頭を撫でてやる。
「どいて今日はベッドにおる」
以蔵が言うと、立香は金色の瞳をまっすぐに向けてきた。
自宅を特定され、合鍵のありかを突き止められてから、以蔵は立香の押しかけ女房攻撃に晒されている。
気づけば冷蔵庫の中に知らない調味料が増え、休日に洗おうと考えていた洗濯物がベランダに干され、汚れてもいいワイシャツにアイロンがかけられていた。そもそも以蔵は、上京時に母が贈ってくれたアイロンの存在を忘れていた。
そんな風に以蔵に尽くす立香だったが、ベッドに潜り込んでくることも、下着姿を見せることも今まではなかった。
何かしらの異変を感じ取った以蔵に、立香は籠もった声でつぶやく。
「だって以蔵さん……女の人がいるお店に行くんでしょ? わたしが代わりになればいいのかなって」
「どいてそれを知りゆう」
「坂本さんが教えてくれた」
「あん……くそがっ……!」
思わず悪態が口をつく。
幼馴染みの親切のつもりだろうが、余計なことを教えてくれる。
今龍馬のことを考えてもしかたがない。以蔵は下から覗き上げてくる立香のつややかな頬から目を逸らした。
「別にわしとおまんはつき
正論を言うと、金色の瞳がわずかに潤んだ。
「そうだけど……わたしじゃ以蔵さんを満足させてあげられないのかな……」
「ほうじゃ、おまんじゃ代わりにならん」
以蔵は抱きすがられる前に立ち上がり、タオルケットにくるまれた女を見下ろした。
「終わりじゃ終わり。おまんははよ着替えぇ。晩酌終わったら駅まで送っちゃる」
「ダメなの?」
「ダメじゃ。諦めや」
悲しみに肩を落とす少女を無視して、以蔵はドアに手をかける。
「以蔵さん……好き」
「知っちゅう」
冷たく聞こえることを意識して言い、追いかけてくる視線を無視してドアを閉めた。
そしてそのままドアに寄りかかり、座り込む。
「――勘弁しとうせ……」
ぐしゃぐしゃと、くくった髪をかき混ぜる。
「どいてこがな苦行をせんといかんがじゃ」
以蔵は頑張った。とても頑張った。もっと褒められるべきだ。
好きな女が己のベッドに潜り込んでいる――それも、ひどく煽情的な下着姿で――のに耐えたのだ。『たいへんよくできました』というスタンプを押されてもいい。
立香にはまず、『普通被害者はストーカーを駅まで送ったりはしない』ということから自覚してほしい。
自分がキャバクラの代わりになることはできないのか、と立香は言った。
なるわけがない。
以蔵にとってキャバクラは、見栄えのする女に仕事の愚痴を言い、いい気分にさせてもらえる店だ。聞き上手の女たちは守秘義務に触れないよう気を遣いつつ、以蔵の心に溜まった澱をすくい取って流してくれる。ついでに着飾った女に奉仕される優越感も味わわせてくれる。
立香にそんなものは求めていない。
以蔵は太陽の下の立香を見ている。立香はひたむきに以蔵を慕い、その一挙手一投足に笑い、頬を膨らませ、嘆く。その素直さ、わかりやすさが、以蔵を満たす。
立香には『聖域』から移動してほしくない。立香に聞かせる愚痴などはない。立香は立香であってくれればいい。
立香の
ただ、好いた女が己に執着するのを振り切ることもできない。
以蔵は両腕で輪を作り、重ねた手のひらを見る。
「立香」
背後の部屋に聞こえない声量でつぶやき、そのまま空っぽの腕を引き寄せる。
腕の中にあるべき存在が愛おしく、虚空に頬をすりつける。立香は「無精髭が痛い」と笑うだろうか。一方的に触れられているだけでも石鹸と立香自身の香りを嗅げるのだから、肩口に頬を埋めれば肺いっぱい吸い込めるに違いない。
それでも立香に触れない理由は。
大人の余裕を見せつけたい。
もう三十に近い大人として、責任能力の乏しい年齢の少女を心身ともにもてあそぶのは避けたい。
そして――怖い。
自分でもわかっている通り、以蔵は綺麗な人間ではない。
人に迷惑ばかりをかけてきた。今も腐臭漂う人の業を覗き込んでは吐き気を覚え、酒に逃避する。好いてもいない女に話を聞かせたがり、とりあえずの満足を得る。
心が弱いのだ。
その上、依頼ありきの探偵業の収入は振れ幅が大きい。
そんな男が好きな女と一緒にいたいと言うのを聞いたら、以蔵は「アホか」と鼻で笑うに違いない。
今後立香もそう思うかもしれない。今は恋という愚かしい感情に支配されているが、本当の以蔵に気づいてしまったら、さすがに醒めるはずだ。心の中に作り上げた虚像と実際のギャップが激しいほど、本物の以蔵へは攻撃的になるだろう。
あの金色の瞳から軽蔑の光を向けられたら、次の瞬間から生きていける自信がない。ますます酒を頭から浴び、金で言うことを聞かせられる女に溺れるのが、ありありと見える。
そんな理由で踏み込めないことすら知ってほしくない。
自分のどうしようもなさは、自分がいちばんよくわかっている。
「りつか……」
以蔵は再度呼んで立ち上がり、冷蔵庫から出した砂肝をレンジにかけた。三人は座れないダイニングテーブルに就き、発泡酒を開ける。酔うために飲むものの味はどうでもよく、むしろ下手に美味な方がみじめさを感じさせられるので避けたい。
レンジが鳴ったので砂肝を取り出し、パックのまま箸をつける。歯ごたえがあるので、今の悩みごと咀嚼できる気になれてありがたい。
缶を半分ほど開けた頃合いで、立香が寝室から出てきた。白いカットソーと細身のジーンズとのコーディネートは、少女の持つ清潔さを引き立たせている。
(やけんど、こん下にはあげなエロい下着を着けゆう……)
あふれそうになる唾を、発泡酒で飲み下す。
そのことを知っているのは以蔵だけだ。好きな男を誘うあでやかさも、そうせざるを得ないほどの必死さも。
そんな姿を他の男には見せたくないと思いつつ――宙ぶらりんにさせることで、以蔵はこの若く魅力的な女を縛っている。
容易には許されない罪だ。
立香は以蔵の正面に立った。
「以蔵さん、コップ持ってくるよ。缶のままよりもおいしいでしょ」
「こんままでえい。おまん、酌するつもりじゃろ。おまんはほがなことせいでえい」
「でもそういうお店だとお客さんに――」
「しわい。わしがえい
立香は肩を落とし、以蔵の正面に腰かけた。目尻がほんのり赤い。
「元気ないのう」
「色じかけに失敗したんです。泣きたくもなります」
「ほうか、ならこれに懲りてこがなことはやめぇよ」
「でも、わたし、どうしたら以蔵さんが振り向いてくれるかわかんなくて」
「気にしなや」
以蔵が発泡酒をあおると、立香は悲しげに以蔵を見た。
(これ以上おまんに釘づけになったら困るがよ! 自覚せぇ!)
(そもそも、どいてわしは立香を独りで泣かいゆうがか? 好いちゅう女を胸で泣かすこともできんやつが、男やらぁて名乗ってえいがか?)
吐き出すことのできない感情が胸を渦巻く。
立香の悲しみと、以蔵の悩みを減らす方法がひとつある。
合鍵の保管場所を変えることだ。
防犯上の問題ももちろん、仕事で逆恨みを買って襲われる危惧もある。合鍵をわかりやすいところに置くのは褒められたことではない。実際このように不審者が家に上がる。
しかし、それでも以蔵は合鍵を動かすことはないだろう。
合鍵をコピーして渡すこともない。その代わり、いつでも家へ入れるようわざと隙を見せる。
不法侵入させて立香に罪の意識を背負わせていることも知っていてなお、以蔵は自己欺瞞をやめない。
抱きしめて楽になれるならそれがいい。しかし今それをしても、いっときの欲しか満たせない。
「以蔵さん、お酒おいしい?」
「未成年を肴に飲む酒はうまいもんやないの」
「そうなんだ……」
「立香。わしは飲んじょるき駅までしか送っちゃれんけんど、気ぃつけて帰りぃよ。暗いとこは歩かず、周りには気ぃ
「以蔵さんちに泊めてくれればいいのに」
立香はおそらくあえて軽口にしている。首を傾げ、もの憂げな笑顔を見せる可愛い女に、吹き飛びかけるリミッターを感じる。このまま二人でいたら、よからぬことをしてしまいそうだ。
「
荷物をまとめた立香からトートバッグを受け取り、玄関のドアを開ける。外はまだ蒸し暑いから、上着は必要ない。
前後に並んで階段を降りながら、聞いてみた。
「のう立香、おまんはわしのどこがえい」
「うーん……以蔵さんにはいいところがいっぱいあるよ。どうしてそんなこと聞くの?」
「今日は仕事で厭な思いしての。肯定してもらいとうなった」
角に埃の溜まったエントランスから、三日月が浮かぶ路上に出る。
「そういうことなら……あっ! 手を繋いでくれだら教えてあげる。いっぱい」
「ならえいわ。そこまでして聞きとうない」
「えーっ、わたし話したいな、以蔵さんのいいところ」
「好きに話しゃえいろう」
「手を繋いだら、ね」
外灯に照らされた立香の表情は、好きな男と一緒にいられる喜びに満ちている。
この顔が好きだ。己がこの顔をさせているから余計に。
しかし触れてはいけない。純粋で善良な少女に、むき出しの汚い感情をぶつけたくない。
――あぁ。まっこと、やっかいじゃ。
以蔵は左手を開き、再び拳を握った。
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