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A DOG LIKE A ROOSTER

 ドアにはめられたガラスが割れて飛び散り、廊下からは埃が漂っている。火事にしては焦げくさくはないが――手を拘束されたままでは避難もままならないだろう。はしごが必要なほどの災害になったら、お手上げだ。飛び降りても受け身も取れない。
 四半世紀生きた。人に迷惑をかけ倒した人生だったが、終わりはこれほどあっけないものか。
 死にたくはない。痛いのは厭だ。死ぬとなったら死ぬほど痛いだろう。そんなのは厭だ。
 しかし、厭だ厭だで避けられはしない。
 大事な人などはいない。心を寄せる相手がいたとしてもとっくに離れた。
 ただ。
 せめて、親不孝を詫びたい。
 そして、武市の顔を見たい。
 目の前の終焉を見ないように、と強く目をつぶった。

「以蔵さん」

 記憶の中にある、懐かしくも憎々しい声。
 思い出したくなかったし、今の今まで忘れていた声。
 これが走馬灯か。
 ぶんぶんと首を横に振る以蔵に、更に声がかけられた。

「以蔵さん……僕だよ。それとも、僕のことなんて忘れちゃったかな?」

 ようよう、目を開ける。
 破られたドアの向こうで、優男が美女をかたわらに浮かべて笑っていた。

「以蔵さん、僕だよ――龍馬だよ」

 そう言って、幼馴染みはお偉いさんと斡旋役に向き直った。

「上の人から聞いてますか? この人の身柄は僕が預かる。連れて帰りますけど、大丈夫ですよね?」
「な……」

 斡旋役はこめかみに青筋を立てた。

「いきなり納得できるわけねぇだろ! 第一どこのもんだてめぇ!」
「だから、上の人に聞いてくださいって」

 柔和な微笑みを絶やさない龍馬に、地に足のついていない美女は拳を振り上げた。

「こいつらうるさいな、お竜さんがまとめてのしてやろうか」
「ありがとうお竜さん、気持ちだけ受け取っておくよ」

 お偉いさんの携帯が鳴った。

「はい親父、俺です……えっ、そんな……急に言われても……はい……えぇ、わかりました、はい」

 お偉いさんは通話を切って、斡旋役に命じた。

「そいつの鍵、外せ」
「えっ」

 すがるような目を向ける斡旋役に、お偉いさんは怒鳴った。

「親父の命令なんだよ! 聞くしかねぇだろうが!」
「親父の!」

 飛び上がった斡旋役はジャケットの内ポケットから小さい鍵を取り出し、以蔵の手錠を外した。
 以蔵は何がなんだかわからないまま、半日の間にあざのついた手首をさする。

「この人が作った借金と損害は全部返してあります。この人のことは、今この瞬間に綺麗さっぱり忘れてくださいね」

 剣呑に光る黒い瞳に、年齢でははるかに勝るお偉いさんと斡旋役はたじろいだ。『親父』の威光のせいかもしれないが。

「以蔵さん、行こう」

 伸びやかな手が、以蔵に差し伸べられる。

「おまん、どいて」
「ん?」
「どいてここがわかった。それに、金ち」

 以蔵が方々に作った借金は、七桁を下らない。それに、(どうやら)しくじった昨日の仕事の件もある。それらを、この男はどうやって用立てたというのか。

「今はここを出よう」

 龍馬はわずかに語気を強める。
 そもそも、以蔵は監禁されていたのだ。金の心配がないなら、ここにいる理由はない。
 しゃくだと思いながら、その手を取る。案外厚い手のひらも、記憶のままだ。

「話は後だ。外に車を停めてある」

 以蔵の手を引いて、龍馬は怪しい事務所を出ようとする。
 以蔵はその斜め上――ぷかぷか浮いている美女を見上げた。

「その女、なんじゃ」

 龍馬と女は視線を合わせ、驚きの籠もった目で以蔵を見た。

「このクソザコナメクジ、お竜さんが見えるのか」
「こいつは驚きだ……」
「ほれはえいから、説明せぇや」
「彼女はお竜さん。僕の奥さんだ。事情は後でゆっくり話すから、今は」

 龍馬の言葉を、以蔵はとりあえず理解した。先導されるままに、雑居ビルの階段を降りる。
 踊り場では、無力化されたチンピラがひっくり返っていた。
 しかし龍馬も女――お竜?――も、何も見ていないような顔でその横を通り過ぎる。
 龍馬はビルの前に横づけしてあった白いセダンに乗り込み、

「以蔵さんは助手席に」

 と言う。お竜は車の外壁をすり抜けて後部座席の空間に収まった。
 以蔵がシートベルトを締めたのを確認して、龍馬はアクセルを踏む。緩やかに滑り出した車は、以蔵を忌まわしい異空間から切り離した。
 しかし、ここもまた異空間だ。
 訣別けつべつしたはずの幼馴染みが、以蔵の危機を狙いすましたかのように現れた。謎の異形を連れて。
 そこに以蔵は善意を見出せない。

「おまん、どういうつもりじゃ」
「以蔵さんを助けてほしいって、おじさんとおばさんにお願いされてね」

 しかし龍馬の静かなひと言に、心臓を掴まれた。

「もう何年も帰ってない。そのくせ、わけのわからないところから何度も連絡が来る。心配でしかたない、って」

 脳裏を両親の顔がよぎった。

「……おとうとおかあには迷惑かけちゅう。合わす顔もない。やき」
「それでも、だよ」

 龍馬は語調を強めた。
 岡田家と坂本家には家族ぐるみのつき合いがあった。両親が放蕩息子を捕まえるために龍馬を頼ったのもわかる。
 しかし、解せないこともある。

「わしを解放するがに金もかかったろう。それに、やつらは仁義を重んじちゅう。何ぃやった」
「それはもっと簡単なことさ。僕は今、探偵をしててね。くだらない仕事に見えるけど、案外コネもできるものだよ。以蔵さんの債権もなんとかまとめられて」
「ほんでも、ほがな仕事で金はいきなり用意できんはずじゃ」
「その疑問はもっともだ」
「その疑問にはお竜さんが答えてやろう、感謝しろ」

 お竜は運転席と助手席の間から顔を覗かせた。いつの間にか実体化していたが、そこには生命の熱がない。

「やかましい。第一、おまんはなんな」
「お竜さんはとっても強いお竜さんだ。お前こそリョーマのなんなんだ、クソザコナメクジ」
「こっ……喧嘩売りゆうがかこんスベタァ!」
「お竜さん……以蔵さんも」

 ハンドルを握りながら、龍馬はたしなめた。納得いかない。
 お竜はもったいをつけるように言った。

「お竜さんはニンゲンじゃない」
「見りゃわかるわ」
「ニンゲンじゃないお竜さんと結婚したリョーマは、不思議なことと縁ができた。その縁を頼ってタンテーを頼むやつが増えた」
「そういうお客さんは気前がよくてね。以蔵さん一人ならすぐ救えるくらいの蓄えがあったのさ」

 なるほど。力と金の出処でどころはわかった。以蔵は皮肉げな笑顔を作る。

「龍馬さんはようけたくぼうちゅうがじゃのう。おおきにおおきに――ほんで、そん金はどう回収するつもりじゃ。おまんがわしん親に頼まれたちうても、わしに恵むがは理屈てこに合わん。何企んじょるか言いや」
「やだなぁ」

 龍馬は笑って首を振った。

「お金のことなら、僕のところで働いてくれればいい。僕は恵んだりしないから、安心して」
「……?」

 顔に疑問符を浮かべる以蔵に、龍馬は言葉を重ねる。

「以蔵さんがひとつところに落ち着けなくて、職を転々としてたのも知ってる。それでお金が返せなくなるのも。ちょうど僕たちも二人では回らないくらいに仕事が来るようになった」
「お竜さんはニンゲンの前では働けないからな」
「以蔵さんの強さと頭のよさを、僕はよくわかってる。お竜さんが見えるのなら、不思議な仕事の素質もあるだろう。嬉しい誤算だ」

 嫌味か。以蔵は毛を逆立てる。
 頭がいい、などと今まで言われたことがない。むしろ正反対の、莫迦だの愚鈍だのという言葉ばかり浴びせられてきた。以蔵自身も自分を頭の悪い人間だととらえている。
 幼い頃から以蔵を褒め殺すところのあった龍馬とはいえ、過ぎた賛辞は侮蔑にもなるとわからせなければならないか。

「のう龍馬――」
「以蔵さんがそう言われてどう思うかも、僕にはわかる。僕が心からのことを言ったとしてもね――でも、以蔵さんは僕に逆らえない。僕からいくら借りてると思ってる?」
「ぐ」

 言葉に詰まる。
 金を返すために働かなければならないのが厭なだけで、借りた金は返すべきであるという倫理観はある。だからこそギャンブルで大きく当てようとした。

「以蔵さんがこう見えて真面目なことも知ってるよ。踏み倒すことはできない。僕の事務所に着いたら、覚えてる限りの知り合いから『少し』借りてるお金を教えて。僕が全員に返すから」

 そして、と龍馬は続けた。

「僕がまとめた債権を、働いて返してね。給料から天引きで。いつまでも待つから」
「お……おま……」

 何も言えなくなる以蔵に、龍馬はさわやかな笑みを向けた。

「大丈夫、給料は出来高制で、さっき言ったようにたまに実入りのいい仕事もある。漁船に乗ったり身体を売ったりするよりは早めに返せるさ」
「ほうやのうてな……おまんがそこまで肩入れするメリットはどこにある」
「メリット?」

 以蔵の問いに、龍馬は不思議そうな声で問い返した。

「そんなもの必要かい? でも、そうだな……強いて言うなら、僕はかっこいい以蔵さんが好きなんだ。今の以蔵さんはおっかなびっくりしてる。お金を返すことで自尊心も取り戻して、子供の頃みたいに自信満々に笑う以蔵さんが見たいんだよ」
(……こいつ、なんな……?)

 怖い。
 横目に見る龍馬の顔は、姉の後をついて歩いていた時のような純粋さに輝いていた。
 恋愛感情の方が、その執着の理由がわかるからまだいい(男からそんなものを向けられても困るが)。
 龍馬の心にあるのは、恰好いいヒーローに誇りを取り戻させたいという憧れだけ――に見える。

(わし、どうされるがか……?)

 とても怖い。
 龍馬からは以蔵がどう見えているのか、確認するのが怖い。
 しかし以蔵には、他に取るべき手立てはない。

「早速、事務所の近所に引っ越そう。どんな案件が来てもすぐ対処できるようにね」
「事務所ちどこにあるがか。給料天引きされるがじゃ、豪勢なとこには住めんぞ」

 龍馬はターミナル駅の名を挙げた。以蔵は首を振る。

「ほがなとこ無理じゃ」
「大丈夫、僕の顔が利く不動産屋が何軒かある。それに家賃補助も出すから」

 以蔵と仕事ができる上、以蔵を救える。一石二鳥だ。
 ――と、龍馬は上機嫌に考えているのに違いない。

(誰か、誰か、わしを助けぇ……)

 呼びかけようとしても、誰の顔も思い浮かばない。
 それが以蔵の選択の結果だ。

「明日から働こう。いろいろ覚えることや仕事のコツはあるけど、大丈夫、以蔵さんならすぐにできるよ」
「……ほうか」

 もう、何も言う気力もなかった。

「おいニンゲン、今日からお前はリョーマの子分になるんだな。お前のことは気に食わないが、歓迎してやる。明日お祝いにお竜さんとっておきのカエルをやろう。生が一番だが、ニンゲンには焼くとうまいらしい」
「なんじゃ、嫌がらせか」
「お竜さんは以蔵さんが来るのが嬉しいんだよ」
「イゾーだな、覚えたぞ」

 後部座席からお竜が視線を向けているのが、バックミラーでわかる。
 この環境にも慣れなければならないらしい。
 これまでの怠惰ごくどうで放漫な生活のツケを払わされる。愉快ではないが、こうされなければ一生金を返せない。
 ふと、武市の鋭いまなざしを思い出す。
 龍馬は口にはしないが、この強引なスカウトには武市の希望もあるのではないか。
 二人はまだ繋がっているだろう。
 以蔵と武市の破綻を知っている龍馬は、以蔵の両親からの依頼を武市に話す。いまだに以蔵を気遣う武市は、龍馬に以蔵を託す。
 ――想像に難くない。

(……あぁ)(過去からは逃げられんがじゃな)
「以蔵さん、明日からよろしくね」
「……よろしゅう」

 頭を下げると、目尻から涙がこぼれた。




 しかしこの仕事が思ったよりも肌に合い、本当に借金の返済が捗った。
 その上運命の出逢いまで果たしたのだ。
 何に対してかはわからないが、以蔵を導いた何者かに感謝したい。
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