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A DOG LIKE A ROOSTER

 この、少なくとも堅気ではないことは確実な事務所に押し込められてから、半日ほどは経った。
 手錠をかけられ、薄っぺらい絨毯だけの床に寝転がされている。水分は少しだが与えられ、「漏らされたら面倒だ」という理由で用を足すことも許可されている。小便器の前まで監視はつくが。
 しかしそれ以外の自由はほぼない。
 見張りの若い衆は、以蔵に虫けらを見るような視線を向けている。
 腹立たしい。
 以蔵が何をしたと言うのか。
 褒められることはあっても、このような目に遭ういわれはない。

「のう」

 声をかけても、パイプ椅子に座った若い衆は以蔵を見ない。それでも、口を動かす。

「兄やん、おまさんは何か知らんかえ。わしがこがな目に遭いゆうわけを」
「……わかんねぇのか」

 信じられない、という気持ちをにじませ、若い衆は言った。

「何がじゃ」

 しかし若い衆は目を逸らして口をつぐむ。最初から特に以蔵と会話していたつもりはないらしい。
 のう、なんとか言いや、と呼びかけても、若い衆の態度は変わらない。諦めて、ため息を吐く。
 枕も与えられていないから、肩との段差のせいで首が痛い。
 目の前の絨毯には何本か髪の毛が絡まっている。
 不快だ。
 数少ない自由のひとつである寝返りを打って、天井を見る。無機質な白いパネルが碁盤の目状に並んでいて、ぶら下がる棒状の蛍光灯はLEDではない昔ながらのものだ。
 そろそろニコチンが欲しい。ここに監禁されてから喫煙を許されていないから、イライラの限界が近づきつつある。
 しかしねだっても吸わせてもらえないと理解はしている。ただ苛立ちをやり過ごすしかない。
 ふと、かつてのことが頭をよぎる。
 目に涙を溜めて、それでも泣くまいと唇を引き結んでいた武市。
 それとは対照的に、怒りに目をつり上げて以蔵の頬に拳を叩きつけた新兵衛。
 そもそもは感情の行き違いだった。
 少し言葉が足りなかった。
 相手はこう思っているであろうと想像を巡らせすぎた。
 その繰り返しが、決定的な破綻を招いた。
 あの時に、以蔵の心の柔らかな部分が決定的に壊れてしまったのだと思う。
 誰も何も信じられなくなった。
 深酒で意識を落とすと、厭なことはつかの間見えなくなった。
 ギャンブルで勝つと、多幸感で脳髄がしびれた。
 女の肌は溶けそうなこころよさで、下半身を愉楽で塗りつぶしてくれた。
 それらの幸福を得るには金が必要だった。
 多重債務。クレジットカード会社やサラ金が貸してくれなくなったら、周囲の人に甘言を弄し、良心に訴えて少しだけ借りた。
『少しだけ』は積み重なり、以蔵の周りには誰もいなくなった。
 それでも返済の期日は迫る。
 いやいや肉体労働をし、得た小金を倍にしようと競馬に突っ込み、運がよければ返済できた。
 督促の赤い封筒が続々届くようになり、追い詰められた時に声をかけられた。
 脅してほしい相手がいる。ほんの少しだけ危機感を与えられればいい。 以蔵の武術(主に剣術)の腕前は知られていて、それを使えばいい、と言われた。
 景気づけに一杯ひっかけ、新月の晩に実行した。
 気づいたら、ターゲットがアスファルトに倒れていた。息はあった。

(しかたがないろう。抵抗しもがっ騒いうどんで、人を呼びそうになったがじゃ)(わしは何も悪うない)

 その翌日、仕事を斡旋あっせんした男から呼び出されてこの事務所におもむいたら、いきなり複数の男たちから殴られて拘束された。
 そして今に至る。
 まったく、時間があるとろくでもないことばかり考えてしまう。
 あの日の武市の涙。
 今でも、それを詳しく思い出そうとすると頭が真っ白になる。
 人のみちを転げ落ちる過程よりも、そのことに心が囚われている。
 あの頃に戻れたら。間違いのない選択をできていたら。
 そんな繰り言の途中で、ドアが開いた。
 斡旋役の男の後ろには、お偉いえらいてさんとおぼしい男がいた。
 お偉いさんは、

「こいつか」

 と以蔵を見下した。

「はい」
「とんでもねぇことをしてくれたな」
「しゃんしゃん放しぃ。わしが何した言うがじゃ」

 しかし以蔵の存在は無視される。

「詫びは入れたか」
「はい、ぎりぎりメンツは立ちました。ですが、それなりに……」
「そうか。安物買いの銭失いってやつだな」

 お偉いさんが残念そうに言う。斡旋役は絨毯に膝をついて以蔵のくくった髪をつかみ、引き上げた。

「おいお前」
「なんじゃ」

 理不尽な扱いに逆らおうとして、この男の名前すら知らないことに気がついた。

「岡田以蔵さんよ、お前のおかげで大損だよ」

 しかし斡旋役は以蔵の名前を知っている。不平等だ。文句を言いたいが、乱暴に両頬を挟むように持たれて喋れなくなる。

「借金返させてやるって言ったのに、言われたこともろくにできない無能が」
(わしをまともに使えんおまんらが無能ながじゃ)

 そう言い返したくても、もごもごとした不明瞭なうなりにしかならない。

「お前が出した損害、きっちり返してもらわねぇとな。漁船乗るか、身長タッパの割にがっしりしてるから、働いてくれるだろ」

 漁船。
 知識に乏しい以蔵でも、その業務内容は想像できた。
 荒海に出て、高波に逆らって網を引く。獲れた魚を抱えて魚倉に放る。ろくな休憩も娯楽もなく追い立てられ、心身をすり減らすように働かされる。
 己の前途に絶望する以蔵に、斡旋役は下卑た笑いを浮かべた。

「それとも、陸地で稼がせてやろうか。身体売る仕事もあるぞ。お前、よく見れば案外可愛い顔じゃねぇか」

 気にしていることを突かれる。
 毎朝髭剃りをしないのは面倒だからというだけではない。つるつるした頬ではいまだに酒や煙草を買うのに年齢確認を求められる(明らかに儀礼的な意味ではない)せいもある。むやみに舐められたくない。
 そして、童顔だとその手の男も引き寄せてしまう。
 上京して初めて乗った満員電車で尻を触られた時の感触を思い出して、背筋を震わせる。
 首を振って、なんとか斡旋役の手から逃れて以蔵は主張した。

「掘られるがはごめんじゃ」
ちげぇよ、そっちじゃなくて抱く方だ。金出して男日照りを何とかしたいマダムの相手をするんだよ」

 以蔵は斡旋役の言葉に慈悲を感じる。いい思いをして金までもらえる。天職ではないだろうか。
 しかし、いっぺんに表情を明るくした以蔵を斡旋役は冷笑した。

「莫っ迦じゃねぇのか。この世に楽な仕事なんてねぇよ。相手選べねぇんだよ、どんなのが相手でも勃たせなきゃなんねぇんだ。それでもやるよな? 金返すためだもんな?」
「うっ……」

 以蔵は今まで玄人しか抱いたことがない。そういう女は顔の美醜はさておき、みな若くみずみずしい肢体をしていた。肌にははち切れそうな弾力があり、肉は握った指を逆に挟むほどだ。
 しかし女がみなそうではないことももちろん知っている。
 目先の欲に正直な以蔵に務まる仕事だろうか。
 強制力があり、いやいやでも手を動かせる漁船よりもハードな仕事かもしれない。
 最低な二択を強いられて、以蔵は吐き気に襲われた。
 身から出た錆だ。
 それでも、耐えられない。
 死んだ目の以蔵を遠慮なく嘲弄する斡旋役は、つかんだ毛束ごと頭を左右に振った。頭皮から髪の毛の抜ける厭な音がする。

「お前に選ぶ権利があるなんて思うなよ。人がいない方に行かせてやるからな。――それでいいですよね?」

 斡旋役が見上げた先で、お偉いさんが首を縦に振った。

「好きにしろ、俺は知らん」
「よし、待ってろ。すぐに手配して――」

 外側から勢いよく破られたドアの音に、斡旋役の言葉は途切れた。
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