昼下がりの愛妻弁当
「以蔵さん、お昼にしないかい?」
龍馬がノートパソコンから顔を上げる。
一本指打法でExcelと格闘していた以蔵も、ちょうど空腹を覚えかけていた。
「ほうじゃの」
以蔵は事務所の隅にある簡易キッチンの冷蔵庫から保冷バッグを取り出す。ごはんとおかずの詰まった曲げわっぱを電子レンジに入れ、五〇〇ワットで二分温めるようボタンを押す。
その間に龍馬は宅配サービスを注文していた。
「立香ちゃんもご精が出るね」
スマホをデスクに置いた龍馬は、慈愛の籠もった視線を向けてくる。
以前なら『余計なお世話じゃ、おまんには関係ないろう』などと勝手に喧嘩を買っていたかもしれない。
しかし今の以蔵は違う。
「どうじゃ、えいろう。やらんぞ」
にやにや笑う以蔵に、
「立香ちゃんのお弁当を食べるのは以蔵さんだけの特権だから、僕のことは気にせず食べて」
龍馬は優しく返す。
幼馴染みが以蔵へ向けている感情の種類が、まだいまいちわからない。
自ら以蔵の債権をまとめる、などということは、並の友情ではできない。しかし、お竜という妻がいるのだから、恋愛感情ではないという察しはできる。実際、龍馬は以蔵と立香とのことも応援している。
『なんな?』と問うと(以蔵自身は認識していない)以蔵の美徳を滾々 と説くから、薮をつつくことはしない。
だからその代わり、
「おまんは愛妻弁当とは縁がないきの」
と言ってやれば、龍馬は照れ笑いする。
「お竜さんはお弁当を作るよりももっとすごいことができるから」
龍馬の妻・お竜は人間ではない。文字通り地に足を着けず、龍馬の肩にまとわりついて移動するのが常だ。人間らしい料理などする気もないだろうし、龍馬はそんな妻を尊重している。
(仲のえいがは美しいことじゃ)
なかばふざけたような、達観したようなことを思う以蔵だったが、己もはたから見れば充分のろけていることには気づいていない。
レンジが軽やかな音楽を奏でた。以蔵は曲げわっぱをレンジから取り出し、客用ソファのローテーブルに着いてその蓋を開けた。
温められた料理の香りが立ち上る。
曲げわっぱは中央で仕切られ、向かって右側には鶏ハムのスライスが載せられた白米がある。
立香は特価で売られる鶏むね肉を買っては鶏ハムを仕込む。
一度、
『そんままでも焼けば食えるろう。どうせ火ぃ通すがやき』
と言ったことがあるが、立香は笑って首を振った。
『むね肉は柔らかくしないとぱさぱさするの』
『ほいたら、別の肉にしぃや』
『それでもいいけど、予算があるから』
つまり、以蔵の甲斐性のなさゆえの苦肉の策らしい。痛いところを突かれて、以蔵は顔をしかめた。
しかし、
『それにね、わたしは以蔵さんのためにかける手間が大好きなんだ』
花のような笑顔を向けられれば、以蔵から言うことはなくなる。
以蔵は自分のろくでなしぶりをよく知っている。そんな細やかな愛情を向けられるに足る男だとは、いまだに思えない。
それでも、ろくでなしをろくでなしとは思わず、何か価値のあるものとして扱ってくれる立香の想いに応えられる男になりたい。
『いつか毎食霜降り和牛食えるようにしちゃるきの』
『そこまでしなくても大丈夫だよ』
立香は首を振って苦笑した。
愛しい笑顔を思い出しながら魚の形をしたタレビンを逆さにし、甘辛ソースをかければカオマンガイ風ごはんの完成だ。
左半分にも視線を向ける。
シリコン製の、何度も使えるお弁当カップが二つある。そのうちの緑色の一つには目に鮮やかな黄色の食用菊の浅漬けが飾られている。すっかり漬け汁を吸い込んだ花びらは食感がいい。
その隣の赤いカップには、小松菜のおひたし。
立香と出逢うまでカップ麺や菓子パンに頼っていた以蔵の食生活を、立香はいまだに心配している。だから、お手製の弁当には野菜が二種類以上入っている。
シリコンカップの外の空間には、塩昆布と鰹節を混ぜた卵焼きと、飾り切りしたウインナー。
故郷の土佐にいた頃、頻繁に鰹節の入った料理を食べていた。上京してからの食事に味気なさを覚え、よくよく考えて鰹節の不在のせいだと気づいた。
立香はそんな以蔵を気遣い、土佐産の鰹節を揃えてくれる。鰹と昆布のうまみがぎゅっと詰まった卵焼きは、箸を止められないほどのおいしさだ。
隙間に置かれたプチトマトのへたを持ち、口へ運ぶ。奥歯で噛むと、皮がはち切れて口の中に熟した味が広がる。
立香は以蔵の身体を己の料理だけで構成させようと、あの手この手を使ってくる。その野望の大きさに触れるたび、
(愛されゆうの)
と、しみじみする。
自身も忙しいのに毎日以蔵のための食事を作り、しかも精進を怠らない。少しでも以蔵に美味 を感じさせようと、ちょっとした時間に料理動画やクチコミサイトを見ている。
鶏ハムを咀嚼し、食用菊を味わい、卵焼きに舌鼓を打ち……としていると、龍馬は幸せそうに微笑んだ。所長のデスクは客用ソファに向き合っている。
「以蔵さんはいつも食べっぷりがいいねぇ」
「なんぞ文句でもあるがか」
口の中のものを飛ばさないように注意して問うと、
「とんでもない、以蔵さんが幸せそうにしてると、僕も嬉しいんだよ」
と、龍馬は笑みを向けた。
「僕のごはんも早く届かないかな」
「すまんの、先に食うちょって」
と言いつつ、以蔵はまったくすまないなどとは思っていない。
「僕を待つ以蔵さんじゃないのはわかってるよ」
龍馬はスマホ画面をスワイプした。配達員の場所を確認しているのだろう。
「僕の方ももうすぐ着く」
「ほうか」
適当に相槌を打ちながら、以蔵は最後のひとかけらを口に放り込んだ。完食だ。
ちょうどそのタイミングでドアチャイムが鳴る。配達員がデリバリーリュックから取り出した弁当を、龍馬へ渡す。
ありがとうございます、と配達員に会釈した龍馬は、以蔵の正面に座って容器の蓋を開けた。
「炒飯か。毎日濃い味じゃと舌がわやになるろう」
「まぁ、僕もたまには自分で作るよ」
「それはご苦労さんじゃの」
「以蔵さんに振る舞えるほどには自信ないけどね」
「えいえい、ほがな気ぃらぁて遣わいで」
「立香ちゃんが妬くかな」
「あいつは口には出さんけんど、内心どくれる」
以蔵が顧客との交際で外食して帰る日、立香は大人らしく澄まし顔をしつつも金色の瞳にわずかな悋気を宿す。
「立香ちゃん、可愛いね」
「すけべぇな目ぇで立香を見なや」
「もちろん、わかってるよ。以蔵さんが大事に大事にしてる立香ちゃんだよ」
龍馬はプラスティック製のスプーンに炒飯を載せた。以蔵は曲げわっぱと箸を持って立ち上がる。
「そっち行くなら、麦茶を持ってきてくれないかい」
「所長様から特別手当ぇ出るなら言うことぉ聞いちゃってもえいけんど」
「……わかった、僕が行く」
雑居ビルのキッチンは狭い。先に行かせた龍馬が冷蔵庫から麦茶のポットを持って出るのと入れ替わりにキッチンに入る。
給湯器からの温湯で曲げわっぱとシリコンカップの表面の油汚れを流し、スポンジに洗剤をかけて泡立てる。曲げわっぱはメンテナンスに手間がかかるから、食後すぐに洗う。
タオルで手を拭いてマグカップを持って戻ると、龍馬の視線を浴びた。
「『掃除らぁてせいでも人は死なん』って言ってた以蔵さんなのにね」
なんとも言えない、満たされた顔だ。
腹立たしくもなるが、今は腹がくちくなっているから受け流せる。
ポットの麦茶をコップに注ぎ、飲む。普段龍馬か以蔵が洗ったポットにティーバッグを放り込み、水道水で水出しするだけのものだから、どうしても雑味が残る。
立香が作る茶の類は、どれをとっても過不足なく茶葉の味が引き出されている。蒸らし時間などにも気を配っているのだろう。
こんなところにも、普段の立香の努力を感じる。
頬を緩ませる己に気づいて、少しきまりが悪い。また龍馬からあの笑顔を向けられるかと思ったが、今は炒飯に目を落としていているようだ。
以蔵は少し安心して、もうひと口麦茶を飲み込む。
今のところ午後も外出の用事はないが、サービス業はいつどんな客が来るかわからない。そうでなくても以蔵の事務能力は高くないから、報告書ひとつ作るにも時間がかかる。
雑事を乗り越えるために、楽しいことを考えよう。たとえば、立香が腕によりをかけて作る夕食のことなど。
その想像だけでも、灰色の午後にも彩りが乗る。
龍馬がノートパソコンから顔を上げる。
一本指打法でExcelと格闘していた以蔵も、ちょうど空腹を覚えかけていた。
「ほうじゃの」
以蔵は事務所の隅にある簡易キッチンの冷蔵庫から保冷バッグを取り出す。ごはんとおかずの詰まった曲げわっぱを電子レンジに入れ、五〇〇ワットで二分温めるようボタンを押す。
その間に龍馬は宅配サービスを注文していた。
「立香ちゃんもご精が出るね」
スマホをデスクに置いた龍馬は、慈愛の籠もった視線を向けてくる。
以前なら『余計なお世話じゃ、おまんには関係ないろう』などと勝手に喧嘩を買っていたかもしれない。
しかし今の以蔵は違う。
「どうじゃ、えいろう。やらんぞ」
にやにや笑う以蔵に、
「立香ちゃんのお弁当を食べるのは以蔵さんだけの特権だから、僕のことは気にせず食べて」
龍馬は優しく返す。
幼馴染みが以蔵へ向けている感情の種類が、まだいまいちわからない。
自ら以蔵の債権をまとめる、などということは、並の友情ではできない。しかし、お竜という妻がいるのだから、恋愛感情ではないという察しはできる。実際、龍馬は以蔵と立香とのことも応援している。
『なんな?』と問うと(以蔵自身は認識していない)以蔵の美徳を
だからその代わり、
「おまんは愛妻弁当とは縁がないきの」
と言ってやれば、龍馬は照れ笑いする。
「お竜さんはお弁当を作るよりももっとすごいことができるから」
龍馬の妻・お竜は人間ではない。文字通り地に足を着けず、龍馬の肩にまとわりついて移動するのが常だ。人間らしい料理などする気もないだろうし、龍馬はそんな妻を尊重している。
(仲のえいがは美しいことじゃ)
なかばふざけたような、達観したようなことを思う以蔵だったが、己もはたから見れば充分のろけていることには気づいていない。
レンジが軽やかな音楽を奏でた。以蔵は曲げわっぱをレンジから取り出し、客用ソファのローテーブルに着いてその蓋を開けた。
温められた料理の香りが立ち上る。
曲げわっぱは中央で仕切られ、向かって右側には鶏ハムのスライスが載せられた白米がある。
立香は特価で売られる鶏むね肉を買っては鶏ハムを仕込む。
一度、
『そんままでも焼けば食えるろう。どうせ火ぃ通すがやき』
と言ったことがあるが、立香は笑って首を振った。
『むね肉は柔らかくしないとぱさぱさするの』
『ほいたら、別の肉にしぃや』
『それでもいいけど、予算があるから』
つまり、以蔵の甲斐性のなさゆえの苦肉の策らしい。痛いところを突かれて、以蔵は顔をしかめた。
しかし、
『それにね、わたしは以蔵さんのためにかける手間が大好きなんだ』
花のような笑顔を向けられれば、以蔵から言うことはなくなる。
以蔵は自分のろくでなしぶりをよく知っている。そんな細やかな愛情を向けられるに足る男だとは、いまだに思えない。
それでも、ろくでなしをろくでなしとは思わず、何か価値のあるものとして扱ってくれる立香の想いに応えられる男になりたい。
『いつか毎食霜降り和牛食えるようにしちゃるきの』
『そこまでしなくても大丈夫だよ』
立香は首を振って苦笑した。
愛しい笑顔を思い出しながら魚の形をしたタレビンを逆さにし、甘辛ソースをかければカオマンガイ風ごはんの完成だ。
左半分にも視線を向ける。
シリコン製の、何度も使えるお弁当カップが二つある。そのうちの緑色の一つには目に鮮やかな黄色の食用菊の浅漬けが飾られている。すっかり漬け汁を吸い込んだ花びらは食感がいい。
その隣の赤いカップには、小松菜のおひたし。
立香と出逢うまでカップ麺や菓子パンに頼っていた以蔵の食生活を、立香はいまだに心配している。だから、お手製の弁当には野菜が二種類以上入っている。
シリコンカップの外の空間には、塩昆布と鰹節を混ぜた卵焼きと、飾り切りしたウインナー。
故郷の土佐にいた頃、頻繁に鰹節の入った料理を食べていた。上京してからの食事に味気なさを覚え、よくよく考えて鰹節の不在のせいだと気づいた。
立香はそんな以蔵を気遣い、土佐産の鰹節を揃えてくれる。鰹と昆布のうまみがぎゅっと詰まった卵焼きは、箸を止められないほどのおいしさだ。
隙間に置かれたプチトマトのへたを持ち、口へ運ぶ。奥歯で噛むと、皮がはち切れて口の中に熟した味が広がる。
立香は以蔵の身体を己の料理だけで構成させようと、あの手この手を使ってくる。その野望の大きさに触れるたび、
(愛されゆうの)
と、しみじみする。
自身も忙しいのに毎日以蔵のための食事を作り、しかも精進を怠らない。少しでも以蔵に
鶏ハムを咀嚼し、食用菊を味わい、卵焼きに舌鼓を打ち……としていると、龍馬は幸せそうに微笑んだ。所長のデスクは客用ソファに向き合っている。
「以蔵さんはいつも食べっぷりがいいねぇ」
「なんぞ文句でもあるがか」
口の中のものを飛ばさないように注意して問うと、
「とんでもない、以蔵さんが幸せそうにしてると、僕も嬉しいんだよ」
と、龍馬は笑みを向けた。
「僕のごはんも早く届かないかな」
「すまんの、先に食うちょって」
と言いつつ、以蔵はまったくすまないなどとは思っていない。
「僕を待つ以蔵さんじゃないのはわかってるよ」
龍馬はスマホ画面をスワイプした。配達員の場所を確認しているのだろう。
「僕の方ももうすぐ着く」
「ほうか」
適当に相槌を打ちながら、以蔵は最後のひとかけらを口に放り込んだ。完食だ。
ちょうどそのタイミングでドアチャイムが鳴る。配達員がデリバリーリュックから取り出した弁当を、龍馬へ渡す。
ありがとうございます、と配達員に会釈した龍馬は、以蔵の正面に座って容器の蓋を開けた。
「炒飯か。毎日濃い味じゃと舌がわやになるろう」
「まぁ、僕もたまには自分で作るよ」
「それはご苦労さんじゃの」
「以蔵さんに振る舞えるほどには自信ないけどね」
「えいえい、ほがな気ぃらぁて遣わいで」
「立香ちゃんが妬くかな」
「あいつは口には出さんけんど、内心どくれる」
以蔵が顧客との交際で外食して帰る日、立香は大人らしく澄まし顔をしつつも金色の瞳にわずかな悋気を宿す。
「立香ちゃん、可愛いね」
「すけべぇな目ぇで立香を見なや」
「もちろん、わかってるよ。以蔵さんが大事に大事にしてる立香ちゃんだよ」
龍馬はプラスティック製のスプーンに炒飯を載せた。以蔵は曲げわっぱと箸を持って立ち上がる。
「そっち行くなら、麦茶を持ってきてくれないかい」
「所長様から特別手当ぇ出るなら言うことぉ聞いちゃってもえいけんど」
「……わかった、僕が行く」
雑居ビルのキッチンは狭い。先に行かせた龍馬が冷蔵庫から麦茶のポットを持って出るのと入れ替わりにキッチンに入る。
給湯器からの温湯で曲げわっぱとシリコンカップの表面の油汚れを流し、スポンジに洗剤をかけて泡立てる。曲げわっぱはメンテナンスに手間がかかるから、食後すぐに洗う。
タオルで手を拭いてマグカップを持って戻ると、龍馬の視線を浴びた。
「『掃除らぁてせいでも人は死なん』って言ってた以蔵さんなのにね」
なんとも言えない、満たされた顔だ。
腹立たしくもなるが、今は腹がくちくなっているから受け流せる。
ポットの麦茶をコップに注ぎ、飲む。普段龍馬か以蔵が洗ったポットにティーバッグを放り込み、水道水で水出しするだけのものだから、どうしても雑味が残る。
立香が作る茶の類は、どれをとっても過不足なく茶葉の味が引き出されている。蒸らし時間などにも気を配っているのだろう。
こんなところにも、普段の立香の努力を感じる。
頬を緩ませる己に気づいて、少しきまりが悪い。また龍馬からあの笑顔を向けられるかと思ったが、今は炒飯に目を落としていているようだ。
以蔵は少し安心して、もうひと口麦茶を飲み込む。
今のところ午後も外出の用事はないが、サービス業はいつどんな客が来るかわからない。そうでなくても以蔵の事務能力は高くないから、報告書ひとつ作るにも時間がかかる。
雑事を乗り越えるために、楽しいことを考えよう。たとえば、立香が腕によりをかけて作る夕食のことなど。
その想像だけでも、灰色の午後にも彩りが乗る。
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