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恋心の霹靂

「ただいま……」

 誰も待つ者のない部屋にも、つい声をかけてしまう。
 以蔵はダイニングチェアに脱いだジャケットとスラックスをかけ、ワイシャツと下着のまま寝室のベッドに飛び込んだ。
 ほんのりといまだまとわりつく甘い香りを感じ、深くため息をつく。
 以蔵に告白してきて以来、立香のテンションはおかしかった。
 原初のパッションのままに以蔵へ話しかけ、好意をあからさまにする様子に、当初は面食らった。
 何か昼食に悪いものを食べたのか。
 だんだん慣れて落ち着きを取り戻した以蔵がなだめても、立香はにこにこと以蔵への好意をあからさまにする。
 龍馬と妻のお竜は探偵事務所にいたが、以蔵にくっつく立香を見てぽっかりと口を開けた。

「以蔵さん……こんな状況、報告になかったよね」
「わしに聞きな、わしにもなんでこうなりゆうかわからん」

 二人で困惑を分かち合っていると、龍馬のかたわらにぷかぷか浮かんでいたお竜が、

「イゾーがモテることなんてあるのか?」

 と言った。

「……浮いてる?」

 お竜を見上げて、さすがに立香の声が上ずる

「藤丸さんは初めてだね、僕の奥さんのお竜さん」
「お竜さんだ、お前はフジマルって言うのか」
「『人間は二人しかおらん』言うたがはこういうことじゃ」

 初日の言葉を思い出させてやると、立香は金色の目をぱちぱちと瞬かせた。
 先ほど目撃した怪異といい、空に浮かぶ所長夫人といい、普通の感性を持つ人間には受け容れられないだろう――と思ったが。

「お竜さんですね、よろしくお願いします!」

 と、明るくあいさつするものだから、以蔵の方が驚いた。

「おまん、どいてほがに平気な顔しゆうがか」
「坂本さんの奥さんってことは、岡田さんにとっても大切な人だよね? だったらわたしにとっても大切な人だよ」

 きらきらした笑顔で言う立香の顔に迷いはない。迷いがないゆえに、奇妙な歪みが見て取れる。ついこの間まではあんなに懐疑的だったのに。
 それはそれとして看過できないことには口を出したくなる。

「こんスベタんことらぁて大事やない」
「奇遇だな、お竜さんもだ」
「……はは」

 困ったように笑う龍馬は、既に現状を呑み込んだらしい。

「藤丸さんは、以蔵さんのどこを好きになったんだい」

 問われた立香は頬を染める。

「だって岡田さん、かっこいいじゃないですか。真面目で、きちんと仕事に取り組むところが」
「君は見る目があるね。以蔵さんのいいところがわかる人はなかなかいないんだ」
「どうしてでしょう、こんなにかっこいいのに」
「みんな偏見があるんだよ」

 二人は腕組みしてうんうんとうなずき合う。以蔵強火担の龍馬と肩を並べられるほどの立香の、急激に進行した情熱が怖い。

「リョーマ、クソザコナメクジを褒めるのもいい加減にしろ。行かなきゃいけないんだろう?」
「そうだね、僕らは『聖杯』の雫を狩ってくるけど、以蔵さんは藤丸さんと留守番しててくれるかい?」
「岡田さんも行かなくていいんですか」
「以蔵さんには君を護る仕事がある」
「そうですね、わたし護られます!」

 立香の首肯を受けて、龍馬とお竜は古めかしいアルミフレームのドアから雑居ビルの廊下へ出た。
 残された立香は、以蔵に熱い視線を向ける。

「二人きりだね……」
「てんご言いな、今茶ぁ出しちゃるき……くそ、龍馬に押しつけるつもりやったがに」

 悪態をつく以蔵にも、立香はにこにこしている。己のために何かをしてくれる以蔵が恰好いいとでも思っているのか。
 狭いミニキッチンの洗いカゴから以蔵用のマグカップと客用茶碗を取り出して、緑茶のティーバッグを入れて電気魔法瓶の湯を注ぐ。一分待ってティーバッグを引き上げ、所長机の前の来客スペースに置かれたソファセットへ運べば、立香は既に三人がけソファに腰を下ろしていた。
 期待に輝く視線を避けて、その正面の一人がけソファに着く。立香はあからさまに不満を表明した。

「ぶー」
「わかったわかった」
「わかってない」
「冷める前に飲みぃ」

 以蔵が言うと、立香は指先で茶碗を持ってその縁に唇をつけた。

「岡田さんの淹れるお茶はおいしいねぇ」
「気のせいじゃ」

 以蔵がその感性を一刀両断しても、立香はへこたれない。

「『以蔵さん』……」
「なんじゃ」
「さっき、坂本さんが呼んでた」
「……まぁ、あいつとはつき合いだけは長いきの」

 立香の言葉に、以蔵は答える。

「わたしも『以蔵さん』って呼んでいい?」
「ダメじゃ」
「即答!」
「おまんとはほがな仲やない」
「これから発展すればいいのであって」
「発展らぁてせんき」
「でも以蔵さん」

 トランプゲームのスピードのように、立香は次々と言葉を繰り出す。

「ざんじ呼びな」
「以蔵さんもわたしのこと『立香』って呼んだよね」

 以蔵は思わず口を押さえる。

「……ほうじゃったかの」
「そうです。覚えてます」
「『藤丸さん』は言いづらいき。『岡田さん』は呼びやすいろう?」
「『以蔵さん』。言いやすいよ?」
「『岡田さん』じゃ」
「嫌ですー」

 頬を膨らませる立香に、以蔵は肩をすくめる。
 どうせこの案件が片づいたら顔を合わせることもなくなる。すぐに訪れる別れの前に、意地を張っても大人げない。
 そう思って黙っていると、立香は本当に以蔵のことを問うてきた。
 生まれ故郷、好きな食べ物、趣味と特技、どんな子供だったのか。
 逢ったばかりの相手には伝えたくないもの、世間知らずの大学生には聞かせられないものを避けて、以蔵は答えた。

「うん、少し理解が進んだ」
「そりゃぁえいことで」
「以蔵さんもわたしのこと聞いていいよ? なんでも答えちゃう」
「別になんも知りとうない」
「じゃぁわたしからお話するね」

 立香は自己紹介を始めた。
 出身地の好きなところ、両親の人となり。足が早いこと、心理学科に通っていること、あまり自炊をしてこなかったこと。

「あっでも、これからいっぱい練習するから。以蔵さんにおいしいごはん食べてほしいから」
「なんでほがなことになりゆう」
「いつもごはん何食べてる?」
「人の話聞きぃ……できあいんもん食っちゅう。酒のつまみとか、パンとか」
「ひょっとして、菓子パンなんかも食べてる?」
「時間ない時は」
「よくないよ! おにぎりとかも作るから、食べて」
「やき、わしは」

 そんな押し問答を繰り広げていたら、龍馬たちが戻ってきた。

「『聖杯』の雫は無事回収できた。藤丸さん、短い間だったけどご協力ありがとう。おかげでさる資産家にもご満足いただけそうだ」
「お役に立ててよかったです」

 立香は律儀に頭を下げる。龍馬は以蔵に向き直った。

「以蔵さん、藤丸さんを家に送ってあげてよ。そろそろ暗くなってきた。今日は直帰でいいから」

『以蔵を推している』という一点だけを判断材料に、龍馬は立香を信頼しているようだ。
 確かに以蔵としても、ひとりで帰らせた立香が危険な目に遭ったら寝覚めが悪い。

「おぅ、行くぞ立香」

 以蔵がうながすと、立香は龍馬とお竜に頭を下げた。

「今後ともよろしくお願いします!」

 健気な声に龍馬は苦笑し、お竜は何をやって手懐けたと非難するような目つきで以蔵を見る。

(ほがなこと、わしが知りたいわ)

 近所の月極駐車場まで歩きながら、立香はどうでもいいことを聞いてくる。

「車の免許はいつ取ったの」
「高三の冬じゃ。受験せざったき、時間はあった」
「大変だった?」
「わしは天才やき、余裕じゃ」
「すごいねぇ。わたしも大学入る前に取ったけど、右折のタイミング覚えるのとかめちゃくちゃ大変だった……」

 無視してしまってもいいはずなのに、気づけば以蔵は立香から問われるままに来し方を語っている。
 すっかり馴染みになったアパートまで立香を送った後、数日ぶりに帰宅した。
 エアコンを点けて寝室の空気を入れ替えながら、その駆動音を聞く。
 それほど接触してはいないのに、シャンプーと柔軟剤の香りが以蔵の周囲に漂っている。
 まるで立香の想いのように。
 まったく、あの純真な娘は、こんな男のどこがいいというのか。
 顔は悪いわけではないと思っているが、何しろ心身ともにだらしなく、才能に任せて努力を怠り、目先の欲のために借金を重ねている。怠惰ごくどうぶりは我ながら目に余る。
 なかば拘束されるように雇われていなければ借金もろくろく返さず、社会的信用は地面を突き抜けめり込んでいただろう。今でさえ地の底にあるのだ。
 その仕事とて、決して誇れるものではない。情報を得るために違法ぎりぎりのことをする時もあるし、みじめな思いをすることもある。
 立香は以蔵に助けられ、そのいい面だけを見ている。以蔵に穢い面が存在することすら知らないかもしれない。
 真実を知れば、立香も綺麗ごとを言っていられなくなるだろう。
 遠巻きにされ、ゴミを見るような目を向けられるに違いない。あの希望と熱情に彩られているのと同じ瞳から。

「おーの……」

 寸借詐欺まがいのことを繰り返して、たくさんの友人知人から切られた。自業自得とはいえ、友誼を失うことにはいまだに慣れない。
 以蔵はマットレスに肘をついて起き上がった。

「……吸うか」

 ベッドヘッドに置いてあった煙草に火を点け、大きく煙を吸い込む。危ないと思いながら据えてある灰皿を引き寄せ、とんとんと灰を落とす。
 しば茫然と煙を見つめ、やがてまだ長い煙草を灰皿に押しつける。
 安全よりも目先の欲を優先させる男だと、知られたくない。
 二十五年と少しの人生で、あれだけ人から好かれたのは初めてだ。
 まるで己に、自覚できていないなにがしかの魅力や美点があると錯覚しそうになる。
 胸の内のもやもやした感情をため息で逃し、以蔵は長い癖毛をぐじゃぐじゃとかき混ぜた。
「りつか」
 己の呼び声が輝きと光沢を帯び始めたことに、まだ以蔵は気づけない。
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