恋心の霹靂
その翌日も以蔵は迎えに来て、登校する立香に付き添った。
授業を受けているうちに、肩が重くなってきた。昨日も疲れを実感したから、そのせいだと思っていたが――
四限は大教室での講義だった。ずっしりとした感覚で机に縫われるようだ、と感じながらなんとか九十分過ごして、教室を出ると廊下で以蔵が待っていた。
立香と目が合うと、以蔵はずけずけと歩を早めて立香の手首を掴んだ。
「どうしたの岡田さん、カフェテリアにいるはずじゃ」
「『聖杯』じゃ。おまんの周りに浮き上がりそうになりゆう。ここじゃどうにもならんき、行くぞ」
立香への返事もそこそこに、以蔵は立香の手を引く。片手でトートバッグを抱えて、早い歩調について行くのが精いっぱいだ。
「岡田さん、岡田さん……」
「人目らぁて気にしなや。ここで『聖杯』が出てきたら校舎に穴が空くかもしれん」
その口調は真面目で、嘘でもからかいでもなさそうだ。
以蔵の言うことを拒否したら、素行の噂になる以上の不利益が起きる――
ここ数日で、立香にとって仕事の時の以蔵は信を置く対象になっていた。
それでも、二センチほどのヒールのある靴を履いていて引っ張られて歩くと足が痛くなる。
「待って、待って岡田さん……もう少し、ゆっくり」
「……抱え て運ぶ方が楽じゃの」
やはり冗談には聞こえない。
さすがにそれは勘弁してください、と言う前に、以蔵はスピードを緩めた。
「おまんを置いて行くがは意味ないき」
「ありがとうございます……」
コインパーキングの軽バンに乗り込み、二人同時にシートベルトを締めて、以蔵はアクセルを踏む。
流れ出す車窓を見ながら、
「どこに行くんですか」
「事務所じゃ。あこの周りなら仕組みやなんやらで対処しやすうなっちゅう。龍馬のかみさんもおるき。ほうでないとおまんが危ない」
「坂本さん、同じ職場で共働きなんですか」
「共働き……言うがはちっくと違うがの。おまん、ほがなこと言えるがはやっぱり面白い女じゃの」
「面白くないです」
「面白いやつはたいてい自分を面白うない言う」
以蔵は歯を見せた。
ずっしりする肩の重みが、一瞬だけほぐれる。
しかし坂本探偵事務所への通り道の繁華街に入ったところで、急に渋滞に巻き込まれた。
以蔵のこめかみがひくひくと動いているのが、横目にもわかる。
「どいて詰まるがじゃ……」
たこのできた指先でハンドルを小刻みに叩きながら、以蔵は低い声を出す。
(そうだ)
立香は思いつく。
以蔵の言うことが本当なら、坂本探偵事務所には龍馬の妻がいる。
もしここで以蔵が足止めされても、立香が先にたどり着けば目的は完遂されるのではないか。
ここ数日ずっと以蔵を拘束しているのだから、ここで少しは楽にさせたい。
立香は手帳に挟んでいた龍馬の名刺を取り出し、スマホの地図に入力して所在地を検索した。歩いて十分もかからない。
スマホを覗き込んだ立香をいぶかしんでか、以蔵が視線を向けてきた。
「藤丸さん、なにしゆうがか」
「岡田さん、わたし歩いて行きます! 岡田さんは後から来てください!」
素早くシートベルトを外し、車から出てしっかりとドアを閉めた。
「後で合流しましょう!」
「藤丸さん、ちょ、おい、待て、ふじ……あぁっ!」
以蔵が助手席の空気を掻くように手を伸ばしたのを振り切るように、立香はスマホを片手に歩き出した。
地図アプリには繁華街を直角に曲がるルートと、最短距離の路地裏をたどるルートが表示されている。
繁華街を通るルートは、人垣にさえぎられて移動しづらい懸念があった。今日の靴は少しヒールがあるとはいえ、引っ張られず自分の意志で動ければそれなりに歩ける。
立香はそう判断して路地裏に入った。
細い道を進んで一度大きな街道に出る。歩行者用信号で道を渡り、再び雑居ビルの間を歩く。
ざ、と背後で地面が鳴った。
何の気なしに振り返ると――
人の背丈ほどの黒い影があった。
夕暮れ時で薄暗い路地裏に陽光は差さない。形だけ人を真似たそれ は不気味にたたずみ、その色は空間に穴が空いたかのように黒い。
日常生活ではありえない異質さに、総毛が立った。
ず、と足に見えるものを引きずって影は近づいてくる。
考える前に立香は逃げ出した。
あれに捕まってはいけない。よくないことになる。
そんな直感を信じて、できうる限りの早足で逃げる。靴ずれができても構わない、と思ってしまう程度に恐怖を感じる。
ざ、ざ、と迫ってくる影を時折振り返ると、明らかに距離を詰められている。
とにかく前を向かなければ、と思っていたら正面にも影が現れた。
(勘弁してっ!)
前方の影とは十メートルほど離れていたが、未知の物体がどんなスピードを出すかわからない。立香は反射的に丁字路を左に曲がった。
脱げそうになる靴がうっとうしい。こんなことなら、フラットな靴を履けば良かった。
そう思いながら、二つ角を曲がる。
なんとか撒 ければ……という立香の願いは、目の前の壁にさえぎられた。
期せずして行き止まりの道を選んでいたらしい。これ以上逃げられない。
おそるおそる身をひるがえすと、袋小路の入口を二体の影がふさいでいた。
頭から血の気が引いて、はくはくと無意味に口を動かしてしまう。うまく呼吸ができない。
(危ない時はこれ押しぃ、わしが駆けつけちゃる)
ぶっきらぼうな土佐弁が耳に蘇った。使うなら今だ。
トートバッグの外ポケットに入れていた防犯ブザーを手に取ろうとしたが、震えた手ではうまくボタンを押せない。
とうとうブザーを取りこぼしてしまって、アスファルトに乾いた音が響く。
影は袋小路に入り込み、立香を覗き込むようにその頭を伸ばす。
(もうダメだっ!)
観念した立香の脳裏に飴色の光が差した。
立香を必ず護ると宣言してくれた、『護衛は絶対にしくじらない』男。
「岡田さん……」
大声を出そうとしているのに、うまく喉が働かない。
しかし、今は叫ばなければ。
「岡田さん、助けてっ……!」
影の中に広がるぬばたまの闇を見るのが怖い。
何もできず、ただ突っ立ってしまう。
その時、路地裏に鋭い風が吹き込んだ。
「死に、さら、せぇぇぇっ!」
がっ、と質量のあるものが叩き割られる音。輝くしろがね色。目の前に何かが割り込んでくる気配。
視界に刺さる飴色に、立香は目を奪われた。
「おっ……」
「無事か立香ぁっ!」
立香をかばう背中は、普段より更に広く見える。その右手には長い刃物が握られている。日本刀だろうか。
いっぺんに体温が上がった。熱湯の波を浴びたかのような。
「岡田さん!」
「なぁにが助けてじゃ、こんべこのかぁ!」
「すっすみません!」
正面を見据えたままの以蔵の一喝に、立香は首を縮こまらせた。
「おまんはわしが護る言うたろう! ほがにわしが信用ならんがか!?」
「いえ、そういうわけでは……」
言い募りながら、心を襲った高波に戸惑う。
ジャケットの上からでもわかる背筋のたくましさ。揺れるポニーテールから垣間見えるうなじ。
そして――
「まぁえい、説教は後じゃ……おまんはそこでおとなしゅうしちょれ! えいか、わしより前に出るがやながぞ!」
わずかに首を巡らせると、削げた頬と飴色の瞳が一瞬目に入る。
それらをずっと見つめていたくて、見ていられないほどまぶしくて。
立香は混乱の渦に叩き込まれて、
「……ひゃい」
と不明瞭に首肯した。
以蔵は一歩下がって日本刀を構える。
「来 ぃやバケモン! わし相手に路地裏ぁ入り込んだ自分を恨みや!」
以蔵はそれ の腕から伸びる触手状の影を刀で受け流し、攻撃が止んだ隙に振りかぶって斬りかかる。
「おまんも、人じゃぁ!」
そう言って影を袈裟懸けにすると、斬れた胴体の隙間から拳大ほどの光り輝く塊が現れた。以蔵はそれをむしり取って、
「持っちょき」
とノールックで無造作に背後へ投げ渡す。
「えっあっ、はい」
あわてる立香の懐に、それは質量をもって飛び込んできた。しっかり握り込むと、砂金のように輝きがこぼれる。
核をなくしたせいか、一体目の影は溶けるように消え失せた。
もう一体は気のせいか怯えるように震えたが、以蔵は意に介せず地面を蹴って踊りかかる。
「わしを誰じゃ思いゆう!? わしに喧嘩売ってただで済むらぁて莫迦 言いなや!」
以蔵の日本刀が影に刺さって、墨のような飛沫を飛ばす。
横顔の唇をつり上げる邪悪な笑みに、立香は霹靂の勢いで思い至った。
(……めっちゃくちゃ、かっこいい……!)
日本刀をさばく太い腕に抱きしめられたい。よく動く唇を耳に寄せられて囁かれたい。飴色の瞳に至近距離で貫かれたい。笑顔を向けられてとろけたい。
ずっと一緒にいたい。
先ほどから以蔵に感じていた衝撃が形になって、すっきりと胃の腑へ落ちた。
どうしてつい数日前は『小汚くて意地悪な男の人』としか思えなかったのだろうか。立香はもはやその感覚すら思い出せない。
二体目の影を斬り刻んだ以蔵が、謎の光り輝く塊を手に振り返った。
「とりあえずここは片づいたの……どいた?」
立香の昂揚に気づいたのか、以蔵は不思議そうに目を細める。
「岡田さん……」
「どいた、急に」
「好き!」
立香が渾身の声で叫ぶと、以蔵は気圧されたように後ずさり、尻餅をついた。
「な、なんな……?」
惚 けたように見上げてくる以蔵に立香は迫り、前傾して顔を近づける。
「岡田さんのこと好きになったの!」
混乱が浮かんでいる視線も愛しい。
こんなに恰好いいのだから、もっと自分に自信を持ってほしい。立香を護ってくれる仕事が賤業 であるわけがない。
「落ち着け、おまん、落ち着け……?」
「落ち着いてなんていられないよ」
熱を込めて言い募る立香を、以蔵はいなす。けれど感情の波は収まらない。
「岡田さんのこと、もっと教えて? もっともっと岡田さんのことを好きになりたい」
「好きになる前提ながか……」
以蔵は「よっこいせ」と声を上げて立ち上がり、ギターケースを手に取った。日本刀を隠していたらしい。
「おまんが何食うてほがになっちゅうがは知らんが、まずは事務所に来ぃ。龍馬から説明もあるき」
「うん」
謎の物体を持っていない方の手を差し伸べるが、以蔵はその手に光の塊を握らせる。
しかし今の立香はそんなことではくじけない。
「さっきは手引っ張ってくれたでしょ」
「さっきはさっき、今は今じゃ。今はおまんの周りに何もない、手らぁて繋ぐ理由がないき」
「岡田さんを好きになったから、じゃダメかな?」
「ダメじゃ。さっきの道に車停めちゅうき、乗りぃ」
立香に逃げられた以蔵は、車を乗り捨ててまで追いかけてきてくれたらしい。
そこまでするほど大事にされている、と思えば嬉しさもひとしおだ。
さっきの地点まで二人で歩けるし、車にも乗れる。以蔵の吸う煙草の香りで満たされている車内で、以蔵と二人きりになれる。
恋心を暴走させている立香が、そんな刺激に耐えられるだろうか。たぶん無理だ。
「うっ」
「あぁっもう、赤 うなったり青うなったり忙 しないやつじゃな! わかったき、まっすぐ歩きぃよ」
こんなに不審な立香に歩みを合わせてくれる以蔵はやはり真面目で優しい。不器用だから他人には理解されづらいのだろうが、立香がいるからもう大丈夫だ。この世の誰が以蔵を誤解しても、立香だけは以蔵を肯定する。
「岡田さん、大丈夫だからね、わたしがいるからね……」
熱のこもった立香の言葉に、
「はぁ……」
と以蔵はあいまいに返答した。
授業を受けているうちに、肩が重くなってきた。昨日も疲れを実感したから、そのせいだと思っていたが――
四限は大教室での講義だった。ずっしりとした感覚で机に縫われるようだ、と感じながらなんとか九十分過ごして、教室を出ると廊下で以蔵が待っていた。
立香と目が合うと、以蔵はずけずけと歩を早めて立香の手首を掴んだ。
「どうしたの岡田さん、カフェテリアにいるはずじゃ」
「『聖杯』じゃ。おまんの周りに浮き上がりそうになりゆう。ここじゃどうにもならんき、行くぞ」
立香への返事もそこそこに、以蔵は立香の手を引く。片手でトートバッグを抱えて、早い歩調について行くのが精いっぱいだ。
「岡田さん、岡田さん……」
「人目らぁて気にしなや。ここで『聖杯』が出てきたら校舎に穴が空くかもしれん」
その口調は真面目で、嘘でもからかいでもなさそうだ。
以蔵の言うことを拒否したら、素行の噂になる以上の不利益が起きる――
ここ数日で、立香にとって仕事の時の以蔵は信を置く対象になっていた。
それでも、二センチほどのヒールのある靴を履いていて引っ張られて歩くと足が痛くなる。
「待って、待って岡田さん……もう少し、ゆっくり」
「……
やはり冗談には聞こえない。
さすがにそれは勘弁してください、と言う前に、以蔵はスピードを緩めた。
「おまんを置いて行くがは意味ないき」
「ありがとうございます……」
コインパーキングの軽バンに乗り込み、二人同時にシートベルトを締めて、以蔵はアクセルを踏む。
流れ出す車窓を見ながら、
「どこに行くんですか」
「事務所じゃ。あこの周りなら仕組みやなんやらで対処しやすうなっちゅう。龍馬のかみさんもおるき。ほうでないとおまんが危ない」
「坂本さん、同じ職場で共働きなんですか」
「共働き……言うがはちっくと違うがの。おまん、ほがなこと言えるがはやっぱり面白い女じゃの」
「面白くないです」
「面白いやつはたいてい自分を面白うない言う」
以蔵は歯を見せた。
ずっしりする肩の重みが、一瞬だけほぐれる。
しかし坂本探偵事務所への通り道の繁華街に入ったところで、急に渋滞に巻き込まれた。
以蔵のこめかみがひくひくと動いているのが、横目にもわかる。
「どいて詰まるがじゃ……」
たこのできた指先でハンドルを小刻みに叩きながら、以蔵は低い声を出す。
(そうだ)
立香は思いつく。
以蔵の言うことが本当なら、坂本探偵事務所には龍馬の妻がいる。
もしここで以蔵が足止めされても、立香が先にたどり着けば目的は完遂されるのではないか。
ここ数日ずっと以蔵を拘束しているのだから、ここで少しは楽にさせたい。
立香は手帳に挟んでいた龍馬の名刺を取り出し、スマホの地図に入力して所在地を検索した。歩いて十分もかからない。
スマホを覗き込んだ立香をいぶかしんでか、以蔵が視線を向けてきた。
「藤丸さん、なにしゆうがか」
「岡田さん、わたし歩いて行きます! 岡田さんは後から来てください!」
素早くシートベルトを外し、車から出てしっかりとドアを閉めた。
「後で合流しましょう!」
「藤丸さん、ちょ、おい、待て、ふじ……あぁっ!」
以蔵が助手席の空気を掻くように手を伸ばしたのを振り切るように、立香はスマホを片手に歩き出した。
地図アプリには繁華街を直角に曲がるルートと、最短距離の路地裏をたどるルートが表示されている。
繁華街を通るルートは、人垣にさえぎられて移動しづらい懸念があった。今日の靴は少しヒールがあるとはいえ、引っ張られず自分の意志で動ければそれなりに歩ける。
立香はそう判断して路地裏に入った。
細い道を進んで一度大きな街道に出る。歩行者用信号で道を渡り、再び雑居ビルの間を歩く。
ざ、と背後で地面が鳴った。
何の気なしに振り返ると――
人の背丈ほどの黒い影があった。
夕暮れ時で薄暗い路地裏に陽光は差さない。形だけ人を真似た
日常生活ではありえない異質さに、総毛が立った。
ず、と足に見えるものを引きずって影は近づいてくる。
考える前に立香は逃げ出した。
あれに捕まってはいけない。よくないことになる。
そんな直感を信じて、できうる限りの早足で逃げる。靴ずれができても構わない、と思ってしまう程度に恐怖を感じる。
ざ、ざ、と迫ってくる影を時折振り返ると、明らかに距離を詰められている。
とにかく前を向かなければ、と思っていたら正面にも影が現れた。
(勘弁してっ!)
前方の影とは十メートルほど離れていたが、未知の物体がどんなスピードを出すかわからない。立香は反射的に丁字路を左に曲がった。
脱げそうになる靴がうっとうしい。こんなことなら、フラットな靴を履けば良かった。
そう思いながら、二つ角を曲がる。
なんとか
期せずして行き止まりの道を選んでいたらしい。これ以上逃げられない。
おそるおそる身をひるがえすと、袋小路の入口を二体の影がふさいでいた。
頭から血の気が引いて、はくはくと無意味に口を動かしてしまう。うまく呼吸ができない。
(危ない時はこれ押しぃ、わしが駆けつけちゃる)
ぶっきらぼうな土佐弁が耳に蘇った。使うなら今だ。
トートバッグの外ポケットに入れていた防犯ブザーを手に取ろうとしたが、震えた手ではうまくボタンを押せない。
とうとうブザーを取りこぼしてしまって、アスファルトに乾いた音が響く。
影は袋小路に入り込み、立香を覗き込むようにその頭を伸ばす。
(もうダメだっ!)
観念した立香の脳裏に飴色の光が差した。
立香を必ず護ると宣言してくれた、『護衛は絶対にしくじらない』男。
「岡田さん……」
大声を出そうとしているのに、うまく喉が働かない。
しかし、今は叫ばなければ。
「岡田さん、助けてっ……!」
影の中に広がるぬばたまの闇を見るのが怖い。
何もできず、ただ突っ立ってしまう。
その時、路地裏に鋭い風が吹き込んだ。
「死に、さら、せぇぇぇっ!」
がっ、と質量のあるものが叩き割られる音。輝くしろがね色。目の前に何かが割り込んでくる気配。
視界に刺さる飴色に、立香は目を奪われた。
「おっ……」
「無事か立香ぁっ!」
立香をかばう背中は、普段より更に広く見える。その右手には長い刃物が握られている。日本刀だろうか。
いっぺんに体温が上がった。熱湯の波を浴びたかのような。
「岡田さん!」
「なぁにが助けてじゃ、こんべこのかぁ!」
「すっすみません!」
正面を見据えたままの以蔵の一喝に、立香は首を縮こまらせた。
「おまんはわしが護る言うたろう! ほがにわしが信用ならんがか!?」
「いえ、そういうわけでは……」
言い募りながら、心を襲った高波に戸惑う。
ジャケットの上からでもわかる背筋のたくましさ。揺れるポニーテールから垣間見えるうなじ。
そして――
「まぁえい、説教は後じゃ……おまんはそこでおとなしゅうしちょれ! えいか、わしより前に出るがやながぞ!」
わずかに首を巡らせると、削げた頬と飴色の瞳が一瞬目に入る。
それらをずっと見つめていたくて、見ていられないほどまぶしくて。
立香は混乱の渦に叩き込まれて、
「……ひゃい」
と不明瞭に首肯した。
以蔵は一歩下がって日本刀を構える。
「
以蔵は
「おまんも、人じゃぁ!」
そう言って影を袈裟懸けにすると、斬れた胴体の隙間から拳大ほどの光り輝く塊が現れた。以蔵はそれをむしり取って、
「持っちょき」
とノールックで無造作に背後へ投げ渡す。
「えっあっ、はい」
あわてる立香の懐に、それは質量をもって飛び込んできた。しっかり握り込むと、砂金のように輝きがこぼれる。
核をなくしたせいか、一体目の影は溶けるように消え失せた。
もう一体は気のせいか怯えるように震えたが、以蔵は意に介せず地面を蹴って踊りかかる。
「わしを誰じゃ思いゆう!? わしに喧嘩売ってただで済むらぁて
以蔵の日本刀が影に刺さって、墨のような飛沫を飛ばす。
横顔の唇をつり上げる邪悪な笑みに、立香は霹靂の勢いで思い至った。
(……めっちゃくちゃ、かっこいい……!)
日本刀をさばく太い腕に抱きしめられたい。よく動く唇を耳に寄せられて囁かれたい。飴色の瞳に至近距離で貫かれたい。笑顔を向けられてとろけたい。
ずっと一緒にいたい。
先ほどから以蔵に感じていた衝撃が形になって、すっきりと胃の腑へ落ちた。
どうしてつい数日前は『小汚くて意地悪な男の人』としか思えなかったのだろうか。立香はもはやその感覚すら思い出せない。
二体目の影を斬り刻んだ以蔵が、謎の光り輝く塊を手に振り返った。
「とりあえずここは片づいたの……どいた?」
立香の昂揚に気づいたのか、以蔵は不思議そうに目を細める。
「岡田さん……」
「どいた、急に」
「好き!」
立香が渾身の声で叫ぶと、以蔵は気圧されたように後ずさり、尻餅をついた。
「な、なんな……?」
「岡田さんのこと好きになったの!」
混乱が浮かんでいる視線も愛しい。
こんなに恰好いいのだから、もっと自分に自信を持ってほしい。立香を護ってくれる仕事が
「落ち着け、おまん、落ち着け……?」
「落ち着いてなんていられないよ」
熱を込めて言い募る立香を、以蔵はいなす。けれど感情の波は収まらない。
「岡田さんのこと、もっと教えて? もっともっと岡田さんのことを好きになりたい」
「好きになる前提ながか……」
以蔵は「よっこいせ」と声を上げて立ち上がり、ギターケースを手に取った。日本刀を隠していたらしい。
「おまんが何食うてほがになっちゅうがは知らんが、まずは事務所に来ぃ。龍馬から説明もあるき」
「うん」
謎の物体を持っていない方の手を差し伸べるが、以蔵はその手に光の塊を握らせる。
しかし今の立香はそんなことではくじけない。
「さっきは手引っ張ってくれたでしょ」
「さっきはさっき、今は今じゃ。今はおまんの周りに何もない、手らぁて繋ぐ理由がないき」
「岡田さんを好きになったから、じゃダメかな?」
「ダメじゃ。さっきの道に車停めちゅうき、乗りぃ」
立香に逃げられた以蔵は、車を乗り捨ててまで追いかけてきてくれたらしい。
そこまでするほど大事にされている、と思えば嬉しさもひとしおだ。
さっきの地点まで二人で歩けるし、車にも乗れる。以蔵の吸う煙草の香りで満たされている車内で、以蔵と二人きりになれる。
恋心を暴走させている立香が、そんな刺激に耐えられるだろうか。たぶん無理だ。
「うっ」
「あぁっもう、
こんなに不審な立香に歩みを合わせてくれる以蔵はやはり真面目で優しい。不器用だから他人には理解されづらいのだろうが、立香がいるからもう大丈夫だ。この世の誰が以蔵を誤解しても、立香だけは以蔵を肯定する。
「岡田さん、大丈夫だからね、わたしがいるからね……」
熱のこもった立香の言葉に、
「はぁ……」
と以蔵はあいまいに返答した。