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恋心の霹靂

 車で自宅へ送られ、また次の日も朝から出迎えを受けた。
 拒んでも無駄な時間と労力を強いられるから、素直に軽バンに乗る。昨日より更に煙草の臭いが収まっていた。
 流れる車窓を見ながら、疑問点を問うてみる。

「煙草、吸ってないんですか?」
「おまんが嫌がることをいちいちするほど、わしは鬼やないぞ。公園で吸うても通報されるかもしれんき、公衆便所の陰でこっそり」
「それはそれでどうかと思います」

 公園での喫煙は火事に繋がる恐れがある。
 立香の言葉に、以蔵は片手で髪をかき混ぜた。

「おーの、ほいたらどうせいち……」
「煙草吸えるところに行けばいいんじゃないでしょうか。ファミレスとか、カフェとか」
「ほうじゃの……」

 以蔵はしばし考えて、ふいに目を輝かせた。

「ほうじゃ、はなからこうすればよかったがじゃ。藤丸さん、今日の授業は何時までじゃ」
「今日は五限までだから、六時には終わります」
「ほいたら、そん後わしにつきうとうせ。悪いようにはせんき」
「本当に悪いことじゃないんですよね」
「心配しな」

 愉しそうな表情が、逆に不安を煽る。
 しかし笑うと、以蔵はずいぶんと幼い表情になる。仏頂面の時はアラサーくらいに見えるが、笑顔だとざっと五歳くらいは若くなる。
 これがギャップ萌えというやつだろうか……?

(いやいや! 萌えてないから!)

 首を振る立香の動揺をよそに、以蔵はハンドルを握っている。
 昨日と同じくコインパーキングに停められた車から二人で大学に入り、夕方にカフェテリアで以蔵と合流する。

「ごはんどうしたんですか?」
「A定食食うた。豚肉のピカタじゃったか」
「馴染んでますね」
「郷に入っては郷に従えじゃ、多少インセーっぽくせんとおまんを護るがに支障があるき」

 院生という設定を守ろうとしているのが律儀だ。
 以蔵の着くテーブルの前には、飲み終わった紙コップが置いてある。

「何飲んでたんです?」
「コーヒーじゃ」

 車中泊というハードな環境では、あまりよく眠れないのだろうか。

「疲れてないです?」
「疲れやせんわけでもない。やき、これからえいとこ行こうか思うての」
「いいとこ」

 以蔵は復唱する立香の先を行って車に乗った。
 二十分ばかりで立香の家の前に着く。以蔵は立香の方を向いて言った。

「銭湯行くき、タオルと必要なもん取って来ぃ」

 いきなりの提案だ。以蔵は朝からこのことを考えていたのか。 
 しかし立香は東京で銭湯に行ったことがない。地元の街道沿いのスーパー銭湯なら家族と行ったが、たぶん設備も備品もまったく違うだろう。

「おまんが風呂ぉ入れうたがじゃぞ。入らんもんには人権がないち」
「誰もそこまでは……」

 何日も風呂に入らず過ごせるのは信じられない、と思ったことは確かだが。

「岡田さんの都合はわかったけど、どうしてわたしも?」
「おまんと一緒とぎやなかったら護衛ができん。おまんはわしに風呂ぉ入れ言う。つまりおまんはわしと銭湯行かんといかん。サンダンロンポーちゅうやつじゃ」

 論法というには少し強引すぎる。
 しかし以蔵は立香と離れてまで入浴しないだろうし、お風呂を提供するために以蔵を部屋に上げるのは危険すぎる。それに、立香も銭湯に興味が湧いた。一人なら近所の銭湯の場所すら調べずに過ごしただろう。

「何を持ってけばいいの?」
「……わしは女の身支度のことらぁてよう知らん。だいたい身体洗うのとシャンプーはあるき、それ以外んやつがあればえいろう」

 以蔵の指示はふわっとしている。
 それでもなんとか想像を巡らせて、部屋でバスタオルとフェイスタオル、化粧水を買った時についてきたオールインワンジェルの試供品パウチ、コンディショナーとボディクリームをビニール袋に入れて軽バンへ戻る。
 銭湯は車で三分ほどのところにあった。歩きで行くには少し遠いかもしれない。
 受付でロッカーの鍵をもらい、

「わしはこっちでおまんはそっちじゃ。髪洗うて乾かすきちっくと時間かかるかもしれんけんど、おとなしゅう待っちょきよ」

 そう言った以蔵と別れて女湯へ入る。
 古びた脱衣所に他の客はおらず、前をフェイスタオルで隠して浴場に入ると二人ばかり先客がいた。
 彼女たちと離れたブースに洗面器と椅子を据えて座り、身体と頭を洗って湯船に入る。
 少し熱めの湯に肩まで浸かると、身体のこわばりが解ける。
 ここ数日ばかりちょっとした非日常の中にいたから、意識していなくても疲れが溜まっていたのだろう。
 ふと、以蔵の姿が脳裏に浮かぶ。
 初日から翌日の印象は最悪だった。この子供に自分が守るべき価値があるのか、と絶えず突きつけられているような感じがした。
 昨日から今日は少しずつお互いに態度が軟化している。
 慣れや気安さだけではない。
 身なりがだらしなく、いかにも堕落している風の以蔵は、実はまっとうな職業倫理を持っていた。優先順位のつけ方が立香とは違うだけで、立香を護ろうという姿勢に乱れはないと態度で教えられた。
 話が通じない男ではない。
 以蔵が立香をどう思っているかはまだわからないけれど……。
 湯船から出て、身体の水滴をぬぐって洗い場から上がる。脱衣所でスキンケアをして髪をドライヤーで乾かし、大画面テレビの置かれたロビーのソファで待っていると、ほどなくして以蔵も来た。
 長い癖毛は下ろされていて、肩の少し下で揺れている。髪についていた脂は流し清められているが、ぼさぼさ具合からおそらくヘアケアはしていない。きちんと鏡を見て剃ったのだろうか、頬にはまだらの髭がなくなっていた。
 以蔵はきつく絞られたタオルを持ったまま、自販機で飲み物を買った。
 立香の隣に座り、そのうちの一本を渡してくる。

「フルーツ牛乳じゃ、銭湯の風呂上がりにはこれ飲むようにち法律で決まっちゅう」
「どこの国の法律なの、それ」
「わしが住む国の法律じゃ」
「なにそれ」

 くすくす笑う立香に、以蔵は己の分のフルーツ牛乳瓶を掲げた。乾杯すると、周囲にガラスの鳴る音が響く。
 フルーツ牛乳はうっすらオレンジ色に染められていて、喉越しは甘い。

「うまいろう」
「ちょっと甘すぎかも」
「まぁ、好みはあるきの。これが風情いうやつじゃ」

 しばらく二人無言で、ちびちびとフルーツ牛乳を飲む。

「岡田さんは」
「ん?」
「岡田さんは、いつもこんな大変な仕事してるの?」

 立香に張りつき、授業の間一人で待って、風呂にも自由に入れない。この分では、用を足すにも制限があるだろう。
 立香がお願いしたわけではないけれど、自分のために尽くしてくれる人を間近で感じると心が苦しい。
 しかし以蔵は、

「ははっ」

 と喉を鳴らした。

「今回ん仕事はまったく大変やながぞ。おまんを見ちょりゃぁえい仕事じゃ。待つがも冷暖房効いちょる部屋におればえいき」
「そうなの?」
「ほうじゃ」

 うなずく以蔵に、好奇心が湧いた。

「普段はどんな仕事してるの?」

 以蔵は横から立香を覗き込んだ。

「わしがやっちゅうがは体のえいなんでも屋じゃ。尾行、ゴミ漁り、聞き込み……場合によっちゃ家事代行や家具の組み立てもやる。龍馬でないとできんパソコン仕事以外はみんなわしん担当じゃ」

 思っていた以上に多岐に渡る仕事の種類と量をこなしているらしい。
 そして、立香のような子供にとって探偵とは土曜の夕方に放映されているアニメに代表されるイメージがある。

「事件解決とかはしないんだね」
「あがなんは話ん中だけじゃ」
「でも、すごいね。困ってる人の役に立って」

 立香は本心を言ったのだが、以蔵はなぜか眉根を寄せた。

「人の役……のう……」
「違うの?」
「ほがなん、言われたこともなかった。人のきたないところぉ見て、首ぃ突っ込んで、穢い手で飯ぃ食う。食い詰めて始めた仕事やき、選ぶ余地らぁてなかった。こん仕事始めたち聞いた知り合いは、わしん怠惰ごくどうを悪し様に言いよった。ほがに言うがはおまんだけじゃ」

 ぽつぽつとこぼす以蔵は、自分への誇りとはまったく無縁だった。
 肯定したくはないが、会って数日の小娘から否定されても以蔵は薄っぺらさしか感じないだろう。

(うう……)

 立香がかける言葉を探していると、以蔵は立ち上がった。

「わしんことらぁてえいき。一服してくるき、おまんはゆっくりごとごと飲みぃ。下手な慰めも要らんき」

 以蔵は立香の頭に手を伸ばしかけ、引っ込めた。
 そのまま空き瓶を所定の棚に置き、引き戸を引いて玄関先の灰皿置き場へ向かった。

「……ふぅ」

 立香はフルーツ牛乳を一口飲み、ため息をつく。
 思えば、別に以蔵を肯定しなければならない理由はない。以蔵と龍馬は立香の穏やかな生活に入り込んできた非日常だ。
 以蔵を待たせていることで、学内では変な噂も流れているだろう。正直、以蔵といることで立香にメリットはない。
 しかしどんな仕事であれ、真面目に取り組んでいる以蔵が己に自信を持てていないのは悲しい。
 妙に親身になっている自分が不思議だった。
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