恋心の霹靂
――嘘つき! 坂本さんの嘘つき!
立香は叫びたくなるのを必死でこらえている。
思い返しても、喫茶店を出た直後からおかしかった。
会計を済ませた龍馬は、立香たちへ背を向けた。
「じゃ、以蔵さん、後はよろしく」
「おん」
ギターケースを背負った以蔵はうなずき、視線で龍馬を送る。その当たり前のような動きに、立香の脳内に疑問符が散らばった。
「岡田さん、あの」
「なんじゃ」
「坂本さん、行っちゃいますけど」
「あぁ、あいつには仕事があるきの」
「岡田さんも行かなくていいんですか」
「わしも仕事があるき」
「なら、行かないと」
「おまん、ほんまに人の話ぃ聞かんの。わしん仕事、坂本から聞いたろう」
「え……」
「おまんを護るがぁ、わしん仕事じゃ」
決して立香は龍馬の話を聞いていなかったわけではないはずだ。
ただ、龍馬と以蔵の行動原理が、立香の理解を大きく超えているのである。
「車出しちゃるき、おまん家 まで行くぞ」
有無を言わせない声音だ。
「うちの場所、知ってるんですか?」
「護衛対象んことやぞ、調べんわけないろうが」
(……怖っ!)
思わず絶句する立香にも構わず、以蔵は己の意向を通すように顎をしゃくった。
「ほれ、止まっちょってもなんもならん。こがなとこじゃ護れるもんも護れんき、プロん言うことぉ聞きぃ」
どうしてこんな、身なりも整っていない不審者の言うことなどを聞かなければならないのか。
そう思うものの、以蔵は自分の都合を通すようにと視線と態度で圧をかけてくる。
おまけに、立香の自宅の場所を知っているという。今逃げたとしても、家のそばで待ち伏せされたら同じことだ。むしろその方が怖い。
以蔵の背中を追うと、住宅街の中の駐車場にたどり着いた。以蔵が向かう方に目を走らせると、型落ちした軽バンが停められていた。グレーの車のバンパーは凹んでいて、サイドにも何筋か傷がついている。
明らかに大事にされていない車を見ていたら、以蔵は面倒くさそうに長い前髪をかき混ぜた。
「これは事務所の備品じゃ。こん仕事しちょったらこがな扱いせざるを得ん時もある。予算もないし、見た目重視で使 うちゅうわけでもないき、修理にも出さん。やき、ほがに怖がらいでえい」
立香から目を逸らし、以蔵はつまらなそうにこぼした。
「怖くは、ないですけど」
「怖 うないがか、ほいたらどいてほがな顔するがじゃ」
さすがに、初対面の相手に「不審なあなたを警戒しているからです」とは言えない。
「……」
うながされて車に乗り込むと、濃い煙草の匂いが鼻に飛び込んできた。
(くさっ……)
という言葉をなんとか飲み込んでいると、以蔵はギターケースを後部座席に放り、シートベルトを締めて車のエンジンをかけた。立ち上がったカーナビに立香の自宅住所を入力する肩は少し丸まっていて、風体の怪しさとのギャップがないでもない。可愛いなどとは思えないが。
「おまんもベルト締めぇ」
立香のシートベルトの金具がはまったのを合図に、軽バンは駐車場を滑り出た。
都心から立香の部屋までは、車でも二十分ほどかかる。
初対面の男と密室で過ごさなければならないプレッシャーが気詰まりだ。
さすがに、初手でコミュニケーションを断つのは得策ではない。後部座席をちらりと見て、立香は口を開いた。
「岡田さん、ギター弾くんですか?」
「あぁん?」
以蔵はなぜか不機嫌そうな声を出した。
「わしが? ギター?」
その不可解に反応に、立香は理不尽に思いながら言葉を継ぐ。
「だって、後ろのギターケース」
以蔵はちらりとバックミラーを見て、何か得心するようにうなずいた。
「あぁ、確かにギターじゃの」
「弾かないんですか」
「楽器らぁてよう弾かん。興味もないき」
「じゃぁ、なんでギターケースなんて持ち歩いてるんですか」
「ほがなん、おまんに関係あるがか?」
小振りだがよく研がれた剃刀のような口調を向けられ、立香は息を呑んだ。
確かに、以蔵が何を持っていても立香には関係がない。以蔵にとって立香はただの護衛対象でしかない。
一度口をつぐんだが、立香は見た目の割には諦めが悪い。ここで折れたら、この無愛想な男に負けた気になる。
「岡田さん、副所長さんなんですよね。偉いんですね」
以蔵はほんの少しだけ横目で立香を見て、ため息をついた。
(この人、喧嘩売ってるの!?)
「わしが偉 うてついちゅう肩書きやない。箔づけじゃ。うちに人間は二人しかおらんき、肩書きぃ盛って損はないち坂本が言うての」
「人間」
奇妙なもの言いをする。まるで人間以外のものが存在しているかのような。
特段失言をしたという風でもなく、以蔵はスーツの胸ポケットから煙草の箱を取り出した。一本吸うと思ったが、しばし黙考してからまたポケットにしまう。
「吸わないんですか」
「客乗っけて吸うがはいかん。龍馬からも客に受動喫煙させるがはいかん言われちゅう」
これだけ煙草の臭いがしているなら、今更一本や二本増えても変わらないと思う。
以蔵はハンドルを握り直して前を見た。立香が何を話しても生返事しかしない。
さすがに呆れ果てた頃、軽バンは立香の住む築浅二階建てアパートの前に止まった。
「ありがとうございました」
一応送ってくれたことに礼を言うと、以蔵は直径三センチほどのボタン状の防犯ベルを押しつけてきた。
「危ない時はこれ押しぃ、わしが駆けつけちゃる。何があるかわからんきの」
何らかの形で以蔵に通知が行くタイプのベルなのだろう。立香に何かあった時にすぐ対応できるように、ということに違いない。
しかしそれは、立香のすぐ近くに控えている、ということで。
「この辺、ホテルなんてないですよね」
ここは閑静な住宅街の真ん中だ。寝泊まりできる施設はない。
立香の言葉にも、以蔵はこともなげに言った。
「あこにあるコインパーキングに車ぁ停める。絶対おまんを護るき、怖い思うたらいつでも呼びぃよ」
車中泊するということか。
立香を下ろすと、言葉の通り軽バンは交差点の角を曲がった。
以蔵には立香の家に上がり込みかねない強引さがあったから、最低限の距離を保ってくれたことには安心している。
(……それで安心してはいけないのでは!?)
探偵事務所なんて、信用に値するかどうかもわからない。龍馬のにこやかな笑顔に呑まれて話を聞いてしまったが、存在するかもわからない『聖杯』とやらよりも正業ではない男二人の方が圧倒的に怪しい。
そもそも立香の家をどうやって調べたのか。
世間知らずの大学生を言いくるめて騙すのも、大人なら簡単だろう。
あの男たちには何の思惑があるのか、立香をどうしたいのか。
ネガティブなことを考えながら二階の部屋に帰って、冷蔵庫からアップルジュースを取り出して飲む。
「……はぁ」
降って湧いたアクシデントに、立香は大きくため息をついた。
翌朝、大学に行こうと部屋を出たら、軽バンがアパートの前に停まっていた。
以蔵は立香と連絡を取る手段を持っていないから、路駐して立香を待っていたのだろう。
気づかないふりをして通り過ぎようとしたら、
「藤丸さん」
後ろから声をかけられた。
「どこぉ行くがじゃ」
以蔵は立香の正面に回って立ちはだかる(本人にそのつもりはなくても)。
「学校です」
「乗せちゃるき、待ちぃ」
「一人で行けます」
「わしん言うことぉ聞きや。一人じゃと何があるかわからんき」
(あなたが『何か』じゃないんですか)
と思うが、挑発して怒らせたら何をされるかわからない。それでも、高い場所にある飴色の瞳をにらみつける。
しかし以蔵は涼しい顔で立香を見下ろした。
「ほがな顔しなや。わしん言うこと聞いちょったら間違いないき」
「……」
腕力でも脚力でも以蔵にはかなわない。立香は諦めて軽バンに乗った。
車の中は、気のせいか昨日よりも煙草の匂いが薄かった。
鼻を動かした立香に気づいたのか、
「おまん、煙草の匂い好きやないろう。全部は取れんけんど、薄めるばぁならざんじできる」
以蔵は気遣いができる大人のようなことを言う。
しかし大人なら、己が立香に無理やり言うことを聞かせていることにも気づいてほしい。
「学校の場所、わかるんですか」
以蔵は澱みなく立香の通学先の名を言った。
「カーナビにももう入っちゅうき、安心しぃ」
エンジンをかけ、車を発進させる以蔵を横目で見る。
昨日も顎に無精髭が残っていたが、今日は生えている場所と生えていない場所がまだらになっている。頬は心なしかささくれていて、長い前髪にも湿り気が残っているように見える。
昨日は車中泊だったらしい。
「岡田さん、お風呂入ったんですか」
「入っちゃぁせん」
「え」
「なんじゃそん顔。一日風呂入らんばぁで人は死なん」
特に気にした風でもなく言うが、平均的十代女性の感性を持つ立香としては信じられない。
「……臭うか?」
立香の沈黙に、以蔵の声が少しだけ揺れる。さすがに年頃の女子から汚物扱いされるのはこたえるのかもしれない。
「臭くはないですけど」
「ほいたらえいろう。公園で顔も洗 うたし車ん中で髭も当たった。電気カミソリっちゅう文明の利器もある。サイドミラー見ながらはちっくとことうたがの」
褒められて当然と言うような口調で言うものだから、立香はほとほと呆れてしまう。
軽バンが大学の正面に出る交差点を曲がったが、校門の前を通り過ぎたので立香はあわてた。
「ちょっと、行きすぎてますよ」
「落ち着きぃ、これでえいがじゃ」
コインパーキングに車を停め、立香を降りさせると、以蔵は後部座席からギターケースを取り出した。車のキーをかけると、立香の目を見てうながしてくる。
「ほれ、何突っ立っちゅう。行くぞ」
「どこに」
「おまんは今から買い物にでも行くつもりがか。学校に決まっちゅうろう」
「……岡田さんも?」
「傍 におれざったら護れん」
そう言って学校の方へ足を進めるものだから、立香はあわてて追いすがる。
「岡田さん、学校入るつもりなの!?」
「わしは学がないきよう知らんが、インセーとかいう連中は歳ぃ食っても大学におるもんじゃ聞いちゅう。わしがそこに混じっちょっても誰もとがめんもんじゃろう?」
「……いや! いやいやいや!」
立香はぶんぶんと首を振るが、以蔵は聞く耳を持たない。
「別におまんの教室ん前で待つらぁて言いやせん。こん学校んこと調べたけんど、カフェテリアちゅうががあるろう? そこにおればおまんがブザー鳴らしたらすぐ行ける」
「困ります!」
「おまんを護れん方がわしは困る」
何が問題なのかを理解していない。
――坂本さんの嘘つき!
と、ここで叫ばなかった立香はえらい。
以蔵は護衛をしくじったことがない、と龍馬は言った。
腕っぷしのことはまだわからないにしても――
護衛対象の社会的な立場を損ねかねない態度を取り続ける時点で、護衛が成功しているとは言えないのではないだろうか?
なんとか学校に入れまいという立香の涙ぐましい努力を無視して以蔵は正門から大学へ入り、
「あこにおるき、授業終わったら迎えに来 ぃや」
すたすたとカフェテリアへ向かった。
(……もう! もうったら!)
立香は学内でそう顔の広い方ではないが、語学クラスの同級生や顔だけ出しているサークルの先輩などは当然立香を知っている。
頭を抱えていたら、刑部姫と目が合った。
「……あ」
互いに硬直しながら視線を交わし、そっと去ろうとする刑部姫に駆け寄って立香はその肩を掴んだ。
「おっきー! 違うから、今の人は……」
「マーちゃん、ああいう人が好みだったんだね…姫 、意外だな」
「ちがーう!」
なんとか昨日からの奇妙なできごとを説明したら、オタクサークルに属する刑部姫の目がきらきらと光った。
「なにそれ……学園ファンタジーの導入じゃん。怪しげな組織の人から『君には力がある』なんて言われて。姫 も体験してみたーい」
「代われるものなら代わってあげたい」
「それに、あの人はマーちゃんを護ってくれてるんでしょ? それもう騎士じゃん」
「いや……それは」
本物の騎士を見たことはないが、少なくとも公園で顔を洗ってサイドミラーを見ながら髭を剃ったりはしないだろう。
二限から四限の授業を終え、無視したかったが思い切ることもできずにカフェテリアへ入った。
以蔵は一番手前の席で目をつぶって下座の椅子にふんぞり返っていた。
寝てるのかな? と思いながら、そっと声をかける。
「岡田さーん……」
ぱっちりと瞼が開き、飴色の瞳が立香を刺した。
そこに意志の力を感じ、思わずのけぞる。
「ひっ」
「おまん……もうえいがか」
寝ていたとは思えない、鋭い視線を向けたまま、以蔵は首を傾けて筋を伸ばす。
「何時間経っちゅう……? さすがにこればぁ待たされちょったら身体もだれるの」
「待ってくれなくてもよかったんですよ」
「あぁ?」
「なんでもないです……寝てなかったんですか?」
失言をごまかすの半分、純粋な疑問半分で立香は聞いてみた。
「護衛しゆう時に寝るアホがおるか。どがにこんまい違和感や異物感察して動かないかん。けんど気ぃが散ったら元も子もない。やき、半目で見ちゅう」
また鼻で嗤われるかと思ったら、存外にしっかりと返される。
「意外と真面目なんですね」
「意外と、は余計じゃ。わしはこん仕事でしか飯が食えんき、できることぉやりゆうだけじゃ」
そういう捉え方をすること自体が真面目だ。
思えば、昨日から今日にかけて立香を困らせてきた言動の数々も、与えられた仕事をこなすことを優先したゆえなのかもしれない。
護衛対象の社会的生命よりも物理的生命を取ったら、こうなるのだろう。
少し見直してもいいのでは――立香の困りごとが軽減されるわけではないが。
立香は叫びたくなるのを必死でこらえている。
思い返しても、喫茶店を出た直後からおかしかった。
会計を済ませた龍馬は、立香たちへ背を向けた。
「じゃ、以蔵さん、後はよろしく」
「おん」
ギターケースを背負った以蔵はうなずき、視線で龍馬を送る。その当たり前のような動きに、立香の脳内に疑問符が散らばった。
「岡田さん、あの」
「なんじゃ」
「坂本さん、行っちゃいますけど」
「あぁ、あいつには仕事があるきの」
「岡田さんも行かなくていいんですか」
「わしも仕事があるき」
「なら、行かないと」
「おまん、ほんまに人の話ぃ聞かんの。わしん仕事、坂本から聞いたろう」
「え……」
「おまんを護るがぁ、わしん仕事じゃ」
決して立香は龍馬の話を聞いていなかったわけではないはずだ。
ただ、龍馬と以蔵の行動原理が、立香の理解を大きく超えているのである。
「車出しちゃるき、おまん
有無を言わせない声音だ。
「うちの場所、知ってるんですか?」
「護衛対象んことやぞ、調べんわけないろうが」
(……怖っ!)
思わず絶句する立香にも構わず、以蔵は己の意向を通すように顎をしゃくった。
「ほれ、止まっちょってもなんもならん。こがなとこじゃ護れるもんも護れんき、プロん言うことぉ聞きぃ」
どうしてこんな、身なりも整っていない不審者の言うことなどを聞かなければならないのか。
そう思うものの、以蔵は自分の都合を通すようにと視線と態度で圧をかけてくる。
おまけに、立香の自宅の場所を知っているという。今逃げたとしても、家のそばで待ち伏せされたら同じことだ。むしろその方が怖い。
以蔵の背中を追うと、住宅街の中の駐車場にたどり着いた。以蔵が向かう方に目を走らせると、型落ちした軽バンが停められていた。グレーの車のバンパーは凹んでいて、サイドにも何筋か傷がついている。
明らかに大事にされていない車を見ていたら、以蔵は面倒くさそうに長い前髪をかき混ぜた。
「これは事務所の備品じゃ。こん仕事しちょったらこがな扱いせざるを得ん時もある。予算もないし、見た目重視で
立香から目を逸らし、以蔵はつまらなそうにこぼした。
「怖くは、ないですけど」
「
さすがに、初対面の相手に「不審なあなたを警戒しているからです」とは言えない。
「……」
うながされて車に乗り込むと、濃い煙草の匂いが鼻に飛び込んできた。
(くさっ……)
という言葉をなんとか飲み込んでいると、以蔵はギターケースを後部座席に放り、シートベルトを締めて車のエンジンをかけた。立ち上がったカーナビに立香の自宅住所を入力する肩は少し丸まっていて、風体の怪しさとのギャップがないでもない。可愛いなどとは思えないが。
「おまんもベルト締めぇ」
立香のシートベルトの金具がはまったのを合図に、軽バンは駐車場を滑り出た。
都心から立香の部屋までは、車でも二十分ほどかかる。
初対面の男と密室で過ごさなければならないプレッシャーが気詰まりだ。
さすがに、初手でコミュニケーションを断つのは得策ではない。後部座席をちらりと見て、立香は口を開いた。
「岡田さん、ギター弾くんですか?」
「あぁん?」
以蔵はなぜか不機嫌そうな声を出した。
「わしが? ギター?」
その不可解に反応に、立香は理不尽に思いながら言葉を継ぐ。
「だって、後ろのギターケース」
以蔵はちらりとバックミラーを見て、何か得心するようにうなずいた。
「あぁ、確かにギターじゃの」
「弾かないんですか」
「楽器らぁてよう弾かん。興味もないき」
「じゃぁ、なんでギターケースなんて持ち歩いてるんですか」
「ほがなん、おまんに関係あるがか?」
小振りだがよく研がれた剃刀のような口調を向けられ、立香は息を呑んだ。
確かに、以蔵が何を持っていても立香には関係がない。以蔵にとって立香はただの護衛対象でしかない。
一度口をつぐんだが、立香は見た目の割には諦めが悪い。ここで折れたら、この無愛想な男に負けた気になる。
「岡田さん、副所長さんなんですよね。偉いんですね」
以蔵はほんの少しだけ横目で立香を見て、ため息をついた。
(この人、喧嘩売ってるの!?)
「わしが
「人間」
奇妙なもの言いをする。まるで人間以外のものが存在しているかのような。
特段失言をしたという風でもなく、以蔵はスーツの胸ポケットから煙草の箱を取り出した。一本吸うと思ったが、しばし黙考してからまたポケットにしまう。
「吸わないんですか」
「客乗っけて吸うがはいかん。龍馬からも客に受動喫煙させるがはいかん言われちゅう」
これだけ煙草の臭いがしているなら、今更一本や二本増えても変わらないと思う。
以蔵はハンドルを握り直して前を見た。立香が何を話しても生返事しかしない。
さすがに呆れ果てた頃、軽バンは立香の住む築浅二階建てアパートの前に止まった。
「ありがとうございました」
一応送ってくれたことに礼を言うと、以蔵は直径三センチほどのボタン状の防犯ベルを押しつけてきた。
「危ない時はこれ押しぃ、わしが駆けつけちゃる。何があるかわからんきの」
何らかの形で以蔵に通知が行くタイプのベルなのだろう。立香に何かあった時にすぐ対応できるように、ということに違いない。
しかしそれは、立香のすぐ近くに控えている、ということで。
「この辺、ホテルなんてないですよね」
ここは閑静な住宅街の真ん中だ。寝泊まりできる施設はない。
立香の言葉にも、以蔵はこともなげに言った。
「あこにあるコインパーキングに車ぁ停める。絶対おまんを護るき、怖い思うたらいつでも呼びぃよ」
車中泊するということか。
立香を下ろすと、言葉の通り軽バンは交差点の角を曲がった。
以蔵には立香の家に上がり込みかねない強引さがあったから、最低限の距離を保ってくれたことには安心している。
(……それで安心してはいけないのでは!?)
探偵事務所なんて、信用に値するかどうかもわからない。龍馬のにこやかな笑顔に呑まれて話を聞いてしまったが、存在するかもわからない『聖杯』とやらよりも正業ではない男二人の方が圧倒的に怪しい。
そもそも立香の家をどうやって調べたのか。
世間知らずの大学生を言いくるめて騙すのも、大人なら簡単だろう。
あの男たちには何の思惑があるのか、立香をどうしたいのか。
ネガティブなことを考えながら二階の部屋に帰って、冷蔵庫からアップルジュースを取り出して飲む。
「……はぁ」
降って湧いたアクシデントに、立香は大きくため息をついた。
翌朝、大学に行こうと部屋を出たら、軽バンがアパートの前に停まっていた。
以蔵は立香と連絡を取る手段を持っていないから、路駐して立香を待っていたのだろう。
気づかないふりをして通り過ぎようとしたら、
「藤丸さん」
後ろから声をかけられた。
「どこぉ行くがじゃ」
以蔵は立香の正面に回って立ちはだかる(本人にそのつもりはなくても)。
「学校です」
「乗せちゃるき、待ちぃ」
「一人で行けます」
「わしん言うことぉ聞きや。一人じゃと何があるかわからんき」
(あなたが『何か』じゃないんですか)
と思うが、挑発して怒らせたら何をされるかわからない。それでも、高い場所にある飴色の瞳をにらみつける。
しかし以蔵は涼しい顔で立香を見下ろした。
「ほがな顔しなや。わしん言うこと聞いちょったら間違いないき」
「……」
腕力でも脚力でも以蔵にはかなわない。立香は諦めて軽バンに乗った。
車の中は、気のせいか昨日よりも煙草の匂いが薄かった。
鼻を動かした立香に気づいたのか、
「おまん、煙草の匂い好きやないろう。全部は取れんけんど、薄めるばぁならざんじできる」
以蔵は気遣いができる大人のようなことを言う。
しかし大人なら、己が立香に無理やり言うことを聞かせていることにも気づいてほしい。
「学校の場所、わかるんですか」
以蔵は澱みなく立香の通学先の名を言った。
「カーナビにももう入っちゅうき、安心しぃ」
エンジンをかけ、車を発進させる以蔵を横目で見る。
昨日も顎に無精髭が残っていたが、今日は生えている場所と生えていない場所がまだらになっている。頬は心なしかささくれていて、長い前髪にも湿り気が残っているように見える。
昨日は車中泊だったらしい。
「岡田さん、お風呂入ったんですか」
「入っちゃぁせん」
「え」
「なんじゃそん顔。一日風呂入らんばぁで人は死なん」
特に気にした風でもなく言うが、平均的十代女性の感性を持つ立香としては信じられない。
「……臭うか?」
立香の沈黙に、以蔵の声が少しだけ揺れる。さすがに年頃の女子から汚物扱いされるのはこたえるのかもしれない。
「臭くはないですけど」
「ほいたらえいろう。公園で顔も
褒められて当然と言うような口調で言うものだから、立香はほとほと呆れてしまう。
軽バンが大学の正面に出る交差点を曲がったが、校門の前を通り過ぎたので立香はあわてた。
「ちょっと、行きすぎてますよ」
「落ち着きぃ、これでえいがじゃ」
コインパーキングに車を停め、立香を降りさせると、以蔵は後部座席からギターケースを取り出した。車のキーをかけると、立香の目を見てうながしてくる。
「ほれ、何突っ立っちゅう。行くぞ」
「どこに」
「おまんは今から買い物にでも行くつもりがか。学校に決まっちゅうろう」
「……岡田さんも?」
「
そう言って学校の方へ足を進めるものだから、立香はあわてて追いすがる。
「岡田さん、学校入るつもりなの!?」
「わしは学がないきよう知らんが、インセーとかいう連中は歳ぃ食っても大学におるもんじゃ聞いちゅう。わしがそこに混じっちょっても誰もとがめんもんじゃろう?」
「……いや! いやいやいや!」
立香はぶんぶんと首を振るが、以蔵は聞く耳を持たない。
「別におまんの教室ん前で待つらぁて言いやせん。こん学校んこと調べたけんど、カフェテリアちゅうががあるろう? そこにおればおまんがブザー鳴らしたらすぐ行ける」
「困ります!」
「おまんを護れん方がわしは困る」
何が問題なのかを理解していない。
――坂本さんの嘘つき!
と、ここで叫ばなかった立香はえらい。
以蔵は護衛をしくじったことがない、と龍馬は言った。
腕っぷしのことはまだわからないにしても――
護衛対象の社会的な立場を損ねかねない態度を取り続ける時点で、護衛が成功しているとは言えないのではないだろうか?
なんとか学校に入れまいという立香の涙ぐましい努力を無視して以蔵は正門から大学へ入り、
「あこにおるき、授業終わったら迎えに
すたすたとカフェテリアへ向かった。
(……もう! もうったら!)
立香は学内でそう顔の広い方ではないが、語学クラスの同級生や顔だけ出しているサークルの先輩などは当然立香を知っている。
頭を抱えていたら、刑部姫と目が合った。
「……あ」
互いに硬直しながら視線を交わし、そっと去ろうとする刑部姫に駆け寄って立香はその肩を掴んだ。
「おっきー! 違うから、今の人は……」
「マーちゃん、ああいう人が好みだったんだね…
「ちがーう!」
なんとか昨日からの奇妙なできごとを説明したら、オタクサークルに属する刑部姫の目がきらきらと光った。
「なにそれ……学園ファンタジーの導入じゃん。怪しげな組織の人から『君には力がある』なんて言われて。
「代われるものなら代わってあげたい」
「それに、あの人はマーちゃんを護ってくれてるんでしょ? それもう騎士じゃん」
「いや……それは」
本物の騎士を見たことはないが、少なくとも公園で顔を洗ってサイドミラーを見ながら髭を剃ったりはしないだろう。
二限から四限の授業を終え、無視したかったが思い切ることもできずにカフェテリアへ入った。
以蔵は一番手前の席で目をつぶって下座の椅子にふんぞり返っていた。
寝てるのかな? と思いながら、そっと声をかける。
「岡田さーん……」
ぱっちりと瞼が開き、飴色の瞳が立香を刺した。
そこに意志の力を感じ、思わずのけぞる。
「ひっ」
「おまん……もうえいがか」
寝ていたとは思えない、鋭い視線を向けたまま、以蔵は首を傾けて筋を伸ばす。
「何時間経っちゅう……? さすがにこればぁ待たされちょったら身体もだれるの」
「待ってくれなくてもよかったんですよ」
「あぁ?」
「なんでもないです……寝てなかったんですか?」
失言をごまかすの半分、純粋な疑問半分で立香は聞いてみた。
「護衛しゆう時に寝るアホがおるか。どがにこんまい違和感や異物感察して動かないかん。けんど気ぃが散ったら元も子もない。やき、半目で見ちゅう」
また鼻で嗤われるかと思ったら、存外にしっかりと返される。
「意外と真面目なんですね」
「意外と、は余計じゃ。わしはこん仕事でしか飯が食えんき、できることぉやりゆうだけじゃ」
そういう捉え方をすること自体が真面目だ。
思えば、昨日から今日にかけて立香を困らせてきた言動の数々も、与えられた仕事をこなすことを優先したゆえなのかもしれない。
護衛対象の社会的生命よりも物理的生命を取ったら、こうなるのだろう。
少し見直してもいいのでは――立香の困りごとが軽減されるわけではないが。