恋心の霹靂
小学生の時、児童書のファンタジーシリーズを読んでいた。魔法の存在する世界で、強力な力を秘めた主人公が邪悪なモノを打ち倒す話だ。
空を飛べる主人公に憧れて自宅のベランダから身を乗り出したら母親に力ずくで引き戻されて、みっちり説教された。
この世は科学技術を規範にした物理法則が働いていて、不思議なことなど起き得ない。
そう思って生きてきたのだが――。
立香はホットのオレンジペコをひと口すすってテーブルの向こうを見た。
個人経営の喫茶店は、道路に面した壁面がガラス張りになっていて採光がいい。
少し傾いた陽を受け、人好きのする笑顔を浮かべた男がテーブルに着いている。仕立てのいいスーツを隙なく着こなしている男に、怪しげな雰囲気はない。
逆にその隣の男は、不審者ぶりを存分に発揮していた。
一応スーツを着てはいるが、あちこちに皺が寄っている。ろくろく手入れもしていないのが丸わかりだ。ワイシャツのボタンも上を二つ三つ開けていて、もちろんネクタイもない。
きちんとした男は穏やかな、だらしない男は厳しめな視線を立香に向けていた。
立香は受け取ったばかりの名刺を見て、きちんとした男に話しかける。
「その、坂本さん」
「なんだい」
その穏やかさからは、社会的な地位すら感じさせる。本来探偵事務所の所長にはそんなものはない、とわかっているのだが。
「『聖杯』、って……なんですか」
立香の問いに、だらしない男は「はっ」と呆れたような息を吐いた。
「おまさん、坂本の言うこと聞いちゃぁせんでしたか」
だらしない男の言葉には、ひどい訛りがある。どこの出身かはわからないが、東京で生きるにあたっては意志の疎通が難しいのではないだろうか。
「以蔵さん、いいから」
きちんとした男――名刺によれば『坂本探偵事務所所長・坂本龍馬』――は隣の男を軽くたしなめ、改めて立香へ向き直った。
「藤丸さん、君がにわかに信じられないのもよくわかる。僕も、最初に『怪異』に関わった時はそれはもうびっくりしたものだから」
「涼しい顔してよう言 うわ、あがぁな嫁もろうちょいて」
「でもね、こういったことは実際にある んだ。君の体質が、『聖杯』を引き寄せている。今まで霊感が強いって言われたことは?」
はた、と考える。
小学生の時、音楽室のモーツァルトの肖像画がきらきら星を放つ――という怪談(?)が流行った。下校時刻直前の黄昏時に友達と連れ立って様子を見に行ったが、特に何も変化はなかった。
中学一年生の時、近所の幹線道路で野良猫が車に轢かれて死んだ。翌日、その現場を通りかかったら、電柱の根元にささやかな花とお供えものが置いてあった。自然に手を合わせたら、どこかからか細い猫の鳴き声が聞こえたような気がした。
しかしそれは『そんな気がしたから』と言われれば納得できるようなものだ。猫の無念さを想像したら、風の音も鳴き声に聞こえるかもしれない。
だから、
「あったような、なかったような……」
と曖昧に答えると、だらしない男――名刺には『副所長・岡田以蔵』とあった――は長い前髪を乱暴にかき上げた。
「しわいの龍馬、こがなジャリを『聖杯』はほんまに見ちゅうがかえ」
「以蔵さん、言葉遣い」
「ほうじゃった……」
以蔵は立香をにらんでひとつ空咳をした。
龍馬は立香の疑問を拾う。
「そうだね、『聖杯』……だね。『聖杯』は、平たく言えば何でも願いが叶う『万能の願望機』。神秘を信じる人間は、歴史の陰にひなたに現れるそれを追い求めている」
「シンピ……」
あまりに現実感がなくて、あいまいなうなずきしか返せない。
「あっ、信じてないね?」
「ほりゃほうじゃ、証拠ものうていきなりこがぁなこと言われてハイソウデスカ言える呑気者 はそうおらん」
「僕らの感覚でいると、つい普通のことを忘れてしまうね……」
龍馬は立香に向き直って、テーブルの上で両手を握り合わせた。
「藤丸さん、今回『聖杯』は君の周囲に顕 れる。その時に僕らは君から『聖杯』のかけら――雫と僕らは呼んでいる――を引き離して、しかるべき場所に移す。あれは君みたいな普通の学生が持つにはやっかいすぎるんだ」
「はぁ……それ、お金かかるんですか?」
立香が問うと、龍馬と以蔵は無言で視線を交わした。
立香としては切実な問題だ。
少し無理を言って、実家から通えない東京の大学に通っている。学業がおろそかになったら本末転倒だ、とアルバイトを禁じられている代わりに仕送りを少し多めにもらっている。
不慣れなりにやりくりしても、食費や生活費を払ったら手許には雀の涙しか残らない。
そんなよくわからない、ふんわりした『怪異』に出せるお金はない。
「……おまさん、面白いのう」
以蔵は片頬を歪めた。
その飴色の左目には、明らかな揶揄の色が浮かんでいる。
(莫迦にされてる!)
急に羞 ずかしくなった。間違ったことは思っていないはずなのに……。
「それは心配しないでほしい」
龍馬はそんな素振りを見せない。
「僕たちに依頼したのは、さる海外の資産家だ。依頼内容は、顕現した『聖杯』を奪取すること。契約には『聖杯』の登場まで持ち主を護ることも含まれているから、君は安心して護られてくれればいい。なんなら交渉して、君にも手間賃が出るようにすることもできる。先方にとって、アルバイトの日給は誤差みたいなものだから」
いっぺんに魅力的な話になった。何もしないで両親を助けられるなら悪くない。
しかし、不安もある。
「日常生活に支障は出ませんか?」
「大丈夫。この岡田はね、こう見えても護衛をしくじったことはないんだ。岡田が護るって言ったら護る」
「はぁ」
(坂本さんじゃないのか)
龍馬の方がまだしも話が通じて、気遣いもできそうなのに。
そんな立香の落胆を察してか、以蔵は少し変色した歯を見せた。
「藤丸さん、わしは全力でおまさんを護りますき。大船に乗った気でおってつかぁさい」
その敬語は慇懃無礼で、本来ならお前のような子供など敬う価値もない、という思いが透けて見える。
この男を信用してもいいのだろうか。
そんな立香の思いを補うように、龍馬は笑った。
「以蔵さん――いや、岡田は最強なんだ」
その人好きのする笑顔を信じてみたくなった。
空を飛べる主人公に憧れて自宅のベランダから身を乗り出したら母親に力ずくで引き戻されて、みっちり説教された。
この世は科学技術を規範にした物理法則が働いていて、不思議なことなど起き得ない。
そう思って生きてきたのだが――。
立香はホットのオレンジペコをひと口すすってテーブルの向こうを見た。
個人経営の喫茶店は、道路に面した壁面がガラス張りになっていて採光がいい。
少し傾いた陽を受け、人好きのする笑顔を浮かべた男がテーブルに着いている。仕立てのいいスーツを隙なく着こなしている男に、怪しげな雰囲気はない。
逆にその隣の男は、不審者ぶりを存分に発揮していた。
一応スーツを着てはいるが、あちこちに皺が寄っている。ろくろく手入れもしていないのが丸わかりだ。ワイシャツのボタンも上を二つ三つ開けていて、もちろんネクタイもない。
きちんとした男は穏やかな、だらしない男は厳しめな視線を立香に向けていた。
立香は受け取ったばかりの名刺を見て、きちんとした男に話しかける。
「その、坂本さん」
「なんだい」
その穏やかさからは、社会的な地位すら感じさせる。本来探偵事務所の所長にはそんなものはない、とわかっているのだが。
「『聖杯』、って……なんですか」
立香の問いに、だらしない男は「はっ」と呆れたような息を吐いた。
「おまさん、坂本の言うこと聞いちゃぁせんでしたか」
だらしない男の言葉には、ひどい訛りがある。どこの出身かはわからないが、東京で生きるにあたっては意志の疎通が難しいのではないだろうか。
「以蔵さん、いいから」
きちんとした男――名刺によれば『坂本探偵事務所所長・坂本龍馬』――は隣の男を軽くたしなめ、改めて立香へ向き直った。
「藤丸さん、君がにわかに信じられないのもよくわかる。僕も、最初に『怪異』に関わった時はそれはもうびっくりしたものだから」
「涼しい顔してよう
「でもね、こういったことは実際に
はた、と考える。
小学生の時、音楽室のモーツァルトの肖像画がきらきら星を放つ――という怪談(?)が流行った。下校時刻直前の黄昏時に友達と連れ立って様子を見に行ったが、特に何も変化はなかった。
中学一年生の時、近所の幹線道路で野良猫が車に轢かれて死んだ。翌日、その現場を通りかかったら、電柱の根元にささやかな花とお供えものが置いてあった。自然に手を合わせたら、どこかからか細い猫の鳴き声が聞こえたような気がした。
しかしそれは『そんな気がしたから』と言われれば納得できるようなものだ。猫の無念さを想像したら、風の音も鳴き声に聞こえるかもしれない。
だから、
「あったような、なかったような……」
と曖昧に答えると、だらしない男――名刺には『副所長・岡田以蔵』とあった――は長い前髪を乱暴にかき上げた。
「しわいの龍馬、こがなジャリを『聖杯』はほんまに見ちゅうがかえ」
「以蔵さん、言葉遣い」
「ほうじゃった……」
以蔵は立香をにらんでひとつ空咳をした。
龍馬は立香の疑問を拾う。
「そうだね、『聖杯』……だね。『聖杯』は、平たく言えば何でも願いが叶う『万能の願望機』。神秘を信じる人間は、歴史の陰にひなたに現れるそれを追い求めている」
「シンピ……」
あまりに現実感がなくて、あいまいなうなずきしか返せない。
「あっ、信じてないね?」
「ほりゃほうじゃ、証拠ものうていきなりこがぁなこと言われてハイソウデスカ言える
「僕らの感覚でいると、つい普通のことを忘れてしまうね……」
龍馬は立香に向き直って、テーブルの上で両手を握り合わせた。
「藤丸さん、今回『聖杯』は君の周囲に
「はぁ……それ、お金かかるんですか?」
立香が問うと、龍馬と以蔵は無言で視線を交わした。
立香としては切実な問題だ。
少し無理を言って、実家から通えない東京の大学に通っている。学業がおろそかになったら本末転倒だ、とアルバイトを禁じられている代わりに仕送りを少し多めにもらっている。
不慣れなりにやりくりしても、食費や生活費を払ったら手許には雀の涙しか残らない。
そんなよくわからない、ふんわりした『怪異』に出せるお金はない。
「……おまさん、面白いのう」
以蔵は片頬を歪めた。
その飴色の左目には、明らかな揶揄の色が浮かんでいる。
(莫迦にされてる!)
急に
「それは心配しないでほしい」
龍馬はそんな素振りを見せない。
「僕たちに依頼したのは、さる海外の資産家だ。依頼内容は、顕現した『聖杯』を奪取すること。契約には『聖杯』の登場まで持ち主を護ることも含まれているから、君は安心して護られてくれればいい。なんなら交渉して、君にも手間賃が出るようにすることもできる。先方にとって、アルバイトの日給は誤差みたいなものだから」
いっぺんに魅力的な話になった。何もしないで両親を助けられるなら悪くない。
しかし、不安もある。
「日常生活に支障は出ませんか?」
「大丈夫。この岡田はね、こう見えても護衛をしくじったことはないんだ。岡田が護るって言ったら護る」
「はぁ」
(坂本さんじゃないのか)
龍馬の方がまだしも話が通じて、気遣いもできそうなのに。
そんな立香の落胆を察してか、以蔵は少し変色した歯を見せた。
「藤丸さん、わしは全力でおまさんを護りますき。大船に乗った気でおってつかぁさい」
その敬語は慇懃無礼で、本来ならお前のような子供など敬う価値もない、という思いが透けて見える。
この男を信用してもいいのだろうか。
そんな立香の思いを補うように、龍馬は笑った。
「以蔵さん――いや、岡田は最強なんだ」
その人好きのする笑顔を信じてみたくなった。
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