○代目を歌う岡田さん
「今日は時間あるろう。つき合いや、立香」
以蔵に手を引かれて来たのはカラオケ屋だった。
以蔵は個室に入って灰皿とリモコン端末を引き寄せ、煙草を吸いながらパネルをタッチする。
「おまんは何飲む」
「ホットのゆず茶」
立香のリクエストに応じて本体にオーダーを送った以蔵は、立香が思っていたよりも滑らかな手つきで選曲している。
「以蔵さん、カラオケ慣れてる?」
「それなりに」
元・ストーカーとして、立香は首をひねる。
「わたし、以蔵さんがカラオケ行くの見たことない」
「おまんを送ってから行っちょったきに。おまんにほがな隙見せたら、夜の街にもついて来よったろう」
否定はできない。むしろそうしなかったはずがない。
「そこらのキャッチやスカウトどもにおまんを晒せるわけがあるか」
飴色の瞳に嫉妬の色を籠めて、以蔵は言う。
立香の思いは複雑だ。
「そういうことはもっと早めに言ってほしかったよね……」
とあるきっかけで、立香は以蔵を好きになった。その想いがあふれて、ストーカーを始めた。跡をつける、待ち伏せる、自宅に上がり込んで家事をする。以蔵を困らせることはだいたいやった。
立香にとってそれは、なんとかして以蔵に振り向いてほしいゆえの行動だったのだが。
――まさか以蔵も出逢って間もない時から立香に恋していたとは!
自分なりによかれと思ってしていたことがまったくの空回りだったと知った時の絶望と羞恥を表すには、どんな言葉を遣えばいいのか。
以蔵にも以蔵なりに立香へ告白できなかった事情があったのだが、それでも立香は釈然としない。
頬を膨らませる立香の表情を見て、以蔵は愛しそうに笑った。
「まぁ、時間はようけあるき、これからなんぼでも言 うちゃる」
そう言う以蔵への悔しさはあるものの、恋慕の前にはささいなことになってしまう。立香はもう一台のリモコン端末の画面をつついた。
「歌うの好きなの?」
「いんや、練習じゃ。今度接待に行くき」
探偵という仕事は、素人の立香が想像していたような事件解決などはまずしないらしい。浮気調査を筆頭に、時には便利屋まがいの案件も引き受けているという。
「坂本さんも一緒?」
立香の問いに、以蔵はうなずく。
「あいつは厭になるばぁうまいき、わしもちっくとは聴けるようにせんといかん」
「大変なんだね……どうしてわたしを誘ったの?」
「自主練もえいけんど、感想言うてもろうた方が参考になるろう」
なるほど。アドバイス相手に選ばれたのは嬉しい。これまで以蔵は立香をまるで姫君のように扱ってきたが、生活を営むにあたって距離を詰められた気がする。
「何歌うの?」
以蔵は男性エンターテインメントグループの名を挙げた。
「意外。そういうの聴くんだ」
「接待やきの、好みよりもウケ優先じゃ」
先に入力していたのだろう、切なげなイントロが個室に響いた。以蔵はワイヤレスマイクを取り、小さく息を吸って声を上げた。
バラードだ。このグループの曲は、見た目のいかつさと美声のギャップが立香の琴線に触れて、サブスクでリピートしていた。
以蔵の喉は酒と煙草で荒れている。決して聞き苦しくはなく、むしろハスキーにかすれているところが最高に色っぽいと思っているのだが、こういう曲には合うのだろうか。
――というのはまったくの杞憂だった。
女性視点で唄 われる悲恋には、原曲のクリアな声よりも以蔵の声の方が切実さが乗ると感じる。重い感情を抱くのに疲れた女の、叶わなかった恋への懐かしさと惜しさを訥々と数え上げるような歌声に、立香の胸はおおいに締めつけられた。
だから、
「最高! 以蔵さんの歌で三食食べられる! もっと聴かせて! 特にバラード!!」
と心のキンブレを振り回していたら、
「……わしの期待と違う」
以蔵は小さくこぼした。
「違うって何が?」
「わしは音程とか声の出し方のアドバイスを聞きたかったがじゃけんど。ほがなんは一人じゃわからんき」
「わたしにそういうこと期待しちゃいけないと思うよ、わたし以蔵さんが生きてるだけで褒めちゃう」
立香が言うと、以蔵も「ほうじゃの」とうなずいた。
「もう少し冷静に意見言える人の方が……でも、女の人と二人きりにはならないでね」
「わかっちゅう。愛されゆうの、わし」
「愛してるもん」
以蔵は立香の肩に腕を回し、引き寄せて唇を重ねる。以蔵と逢うまでは、手入れのされていない唇にこれほどときめくとは思っていなかった。
たくましい腕の感触を楽しんでいたら、派手なノックとともに店員が入ってきた。生ビールのジョッキとホットゆず茶のカップを置いて去られ、羞 ずかしさに身をこわばらせる立香に、
「気にしな、あっちはこがなん日常茶飯事じゃ」
と以蔵はささやく。
確かにそうかもしれないが、最低限の羞恥心は持ち合わせていたい。
名残り惜しげに頬をすり合わせ、以蔵は立香と距離を取った。
「おまんも歌いぃ、せっかくのカラオケやき」
手許のリモコン端末の画面をタッチし、思いついたアーティスト名を検索して曲名一覧を見る。
初手で以蔵が恋の歌を歌ったから、立香も返すような選曲をしたい。できれば悲しくなく、幸せを噛みしめるような。
悩んで一曲を決め、以蔵へ視線を遣る。照明を落とされた室内で暗く見える飴色の瞳が輝いた。
「楽しみじゃのう」
「以蔵さんほどうまくはないけど」
立香の言葉に、以蔵は白い歯を見せる。
この気持ちを的確に伝える歌はなかなかない。やはり心と身体を振り絞って、伝わるよう一生懸命にならなければならないのだろう。
以蔵に手を引かれて来たのはカラオケ屋だった。
以蔵は個室に入って灰皿とリモコン端末を引き寄せ、煙草を吸いながらパネルをタッチする。
「おまんは何飲む」
「ホットのゆず茶」
立香のリクエストに応じて本体にオーダーを送った以蔵は、立香が思っていたよりも滑らかな手つきで選曲している。
「以蔵さん、カラオケ慣れてる?」
「それなりに」
元・ストーカーとして、立香は首をひねる。
「わたし、以蔵さんがカラオケ行くの見たことない」
「おまんを送ってから行っちょったきに。おまんにほがな隙見せたら、夜の街にもついて来よったろう」
否定はできない。むしろそうしなかったはずがない。
「そこらのキャッチやスカウトどもにおまんを晒せるわけがあるか」
飴色の瞳に嫉妬の色を籠めて、以蔵は言う。
立香の思いは複雑だ。
「そういうことはもっと早めに言ってほしかったよね……」
とあるきっかけで、立香は以蔵を好きになった。その想いがあふれて、ストーカーを始めた。跡をつける、待ち伏せる、自宅に上がり込んで家事をする。以蔵を困らせることはだいたいやった。
立香にとってそれは、なんとかして以蔵に振り向いてほしいゆえの行動だったのだが。
――まさか以蔵も出逢って間もない時から立香に恋していたとは!
自分なりによかれと思ってしていたことがまったくの空回りだったと知った時の絶望と羞恥を表すには、どんな言葉を遣えばいいのか。
以蔵にも以蔵なりに立香へ告白できなかった事情があったのだが、それでも立香は釈然としない。
頬を膨らませる立香の表情を見て、以蔵は愛しそうに笑った。
「まぁ、時間はようけあるき、これからなんぼでも
そう言う以蔵への悔しさはあるものの、恋慕の前にはささいなことになってしまう。立香はもう一台のリモコン端末の画面をつついた。
「歌うの好きなの?」
「いんや、練習じゃ。今度接待に行くき」
探偵という仕事は、素人の立香が想像していたような事件解決などはまずしないらしい。浮気調査を筆頭に、時には便利屋まがいの案件も引き受けているという。
「坂本さんも一緒?」
立香の問いに、以蔵はうなずく。
「あいつは厭になるばぁうまいき、わしもちっくとは聴けるようにせんといかん」
「大変なんだね……どうしてわたしを誘ったの?」
「自主練もえいけんど、感想言うてもろうた方が参考になるろう」
なるほど。アドバイス相手に選ばれたのは嬉しい。これまで以蔵は立香をまるで姫君のように扱ってきたが、生活を営むにあたって距離を詰められた気がする。
「何歌うの?」
以蔵は男性エンターテインメントグループの名を挙げた。
「意外。そういうの聴くんだ」
「接待やきの、好みよりもウケ優先じゃ」
先に入力していたのだろう、切なげなイントロが個室に響いた。以蔵はワイヤレスマイクを取り、小さく息を吸って声を上げた。
バラードだ。このグループの曲は、見た目のいかつさと美声のギャップが立香の琴線に触れて、サブスクでリピートしていた。
以蔵の喉は酒と煙草で荒れている。決して聞き苦しくはなく、むしろハスキーにかすれているところが最高に色っぽいと思っているのだが、こういう曲には合うのだろうか。
――というのはまったくの杞憂だった。
女性視点で
だから、
「最高! 以蔵さんの歌で三食食べられる! もっと聴かせて! 特にバラード!!」
と心のキンブレを振り回していたら、
「……わしの期待と違う」
以蔵は小さくこぼした。
「違うって何が?」
「わしは音程とか声の出し方のアドバイスを聞きたかったがじゃけんど。ほがなんは一人じゃわからんき」
「わたしにそういうこと期待しちゃいけないと思うよ、わたし以蔵さんが生きてるだけで褒めちゃう」
立香が言うと、以蔵も「ほうじゃの」とうなずいた。
「もう少し冷静に意見言える人の方が……でも、女の人と二人きりにはならないでね」
「わかっちゅう。愛されゆうの、わし」
「愛してるもん」
以蔵は立香の肩に腕を回し、引き寄せて唇を重ねる。以蔵と逢うまでは、手入れのされていない唇にこれほどときめくとは思っていなかった。
たくましい腕の感触を楽しんでいたら、派手なノックとともに店員が入ってきた。生ビールのジョッキとホットゆず茶のカップを置いて去られ、
「気にしな、あっちはこがなん日常茶飯事じゃ」
と以蔵はささやく。
確かにそうかもしれないが、最低限の羞恥心は持ち合わせていたい。
名残り惜しげに頬をすり合わせ、以蔵は立香と距離を取った。
「おまんも歌いぃ、せっかくのカラオケやき」
手許のリモコン端末の画面をタッチし、思いついたアーティスト名を検索して曲名一覧を見る。
初手で以蔵が恋の歌を歌ったから、立香も返すような選曲をしたい。できれば悲しくなく、幸せを噛みしめるような。
悩んで一曲を決め、以蔵へ視線を遣る。照明を落とされた室内で暗く見える飴色の瞳が輝いた。
「楽しみじゃのう」
「以蔵さんほどうまくはないけど」
立香の言葉に、以蔵は白い歯を見せる。
この気持ちを的確に伝える歌はなかなかない。やはり心と身体を振り絞って、伝わるよう一生懸命にならなければならないのだろう。
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