しあわせな蛇足
「ご苦労さん」
保温バッグを肩がけして現れた立香に、以蔵は指定席から手を振った。
行きつけのカフェの内装には何の変わりもないはずなのに、光と色彩が満ちているように感じてしまう。その真ん中にいる以蔵の周りには、きらきらと星が舞っている。
「まぁ、座りぃ」
以蔵の言葉に、正面の椅子を引いて腰かける。やって来たウエイトレスにホットのオレンジペコを注文して、メニューをテーブルの端に寄せたら、以蔵が呼びかけてきた。
「立香」
少しばかりかしこまった口調に、こちらも背筋が伸びる。
以蔵が差し出したのは、一封の茶封筒だった。
「わたしに? 開けていい?」
以蔵はうなずく。
テーブルに置かれた封筒を早速手に取ってみた。手触りから、紙の類ではない。小さくて重いものが入っている。
封はされていなかったから、逆さにしてみる。口からこぼれたのは、鍵だった。見覚えのあるものよりも新しく、輝きが強い。
「いつまでも郵便受けの鍵ぃ使われるわけにはいけんきの」
ぼそり、と言葉をかけられる。
その言葉に、いっぺんに胸が熱くなった。
昨日までの立香はストーカーだった。以蔵の家に入るには、マンション一階の郵便受けに置いてある合鍵を使っていた。
「思ってはおったがじゃ。あこに置いちょったら防犯上問題がある。うちには盗るもんはないけんど、こん先何があるかはわからん」
「実際、不審者が入り込んでましたしね……」
「不審者が何か言いゆうな――まぁ、ほがなわけで、さっきこれ作ってきた。好きに使いぃ」
以蔵は頬を染めて視線を逸らした。
「いいの?」
「彼女さんに不法侵入さすわけにゃいけんろう」
目頭が熱くなるのがわかった。鍵を握りしめる両手が震える。
昨日まで、まったく脈がないと思っていた。なんとかして以蔵に振り向いてもらえるようにと、必死に術 を模索していた。
嘘みたいだ――でも、嘘ではない。
「あぁ、こがなことで泣きな。おまん、涙腺がちゃがまったかえ?」
「以蔵さんのせいだよ……好き……」
なんとか落涙はこらえて、目許をハンカチで押さえる。そして、前々からうっすら考えていたことを思い出す。
「以蔵さん、わたし、ずっと以蔵さんのごはん作ってたでしょ」
「なんじゃ、毒でも入っちょったかえ」
以蔵は愉快そうな笑顔を作った。斜めになる唇の角度がかっこいい。
「そうじゃなくてね……人間の身体の細胞って、どれくらいの周期で入れ替わるか知ってる?」
「わしが知るわけないろう」
「粘膜は三日、皮膚は一ヶ月、血液は半年、骨は三年――らしいの」
「それがどいた」
「だから――以蔵さんの身体、わたしのごはんだけでできるようになればいいなって」
以蔵は数秒口を開けた後、唾を飲み込んだ。
「つまり……おまんの作る飯でわしん身体ぁ作らせぇ、ち」
「うん」
以蔵は大きく嘆息する。
「おまん、おっもい女じゃのう」
「重い、よね」
語尾が濁ってしまう。
確かに重いと思う。こんな執着を向けられて、不愉快になる人もいるだろう。
言うべきではなかったのかもしれない。
しかし目の前の愛しい人は白い歯を見せた。
「重いがは知っちょったき、今更じゃ。ほがなとこも全部含めておまんじゃ。こがなことで嫌 うたりはせんき、安心しぃ」
好きな人から肯定される。しかも、自分の欠点だと思っていたところを。
立香が好きになったのは、こういう人だ。
時に目先の欲に流され、困ったことも引き起こすけれど、心から想ったものごとに対しては真面目な人。自分がするべきだと決めたことをやり遂げる人。
好き――。
しかし今ここで以蔵を困らせてはいけないので、なんとか物理的に口を塞ぐ。
そんな立香を見て、以蔵は優しい顔になった。
運ばれてきた紅茶に砂糖を一杯半入れて、香りを味わいながら口にする。
「もうわしん身体は血までは入れ替わっちゅうわけじゃな」
「うん」
「骨もあと二年で」
「そう」
「……好きにしぃ。わしは出されたもん食うだけやき」
その言葉に大きくうなずく立香だったが、実は話には続きがある。
人体において、代謝の激しい部位は頻繁に入れ替わるが、そうでない部位もある。
脳や心臓の組織は、ほとんど入れ替わらないという。
しかし、『ほとんど』ということは、少しは立香にも割り入る余地があるということだ。
できれば、わずかでも脳や心臓に立香の爪痕を残したい。
もちろん、まだまだそんなことは伝えられないけれど――
保温バッグを肩がけして現れた立香に、以蔵は指定席から手を振った。
行きつけのカフェの内装には何の変わりもないはずなのに、光と色彩が満ちているように感じてしまう。その真ん中にいる以蔵の周りには、きらきらと星が舞っている。
「まぁ、座りぃ」
以蔵の言葉に、正面の椅子を引いて腰かける。やって来たウエイトレスにホットのオレンジペコを注文して、メニューをテーブルの端に寄せたら、以蔵が呼びかけてきた。
「立香」
少しばかりかしこまった口調に、こちらも背筋が伸びる。
以蔵が差し出したのは、一封の茶封筒だった。
「わたしに? 開けていい?」
以蔵はうなずく。
テーブルに置かれた封筒を早速手に取ってみた。手触りから、紙の類ではない。小さくて重いものが入っている。
封はされていなかったから、逆さにしてみる。口からこぼれたのは、鍵だった。見覚えのあるものよりも新しく、輝きが強い。
「いつまでも郵便受けの鍵ぃ使われるわけにはいけんきの」
ぼそり、と言葉をかけられる。
その言葉に、いっぺんに胸が熱くなった。
昨日までの立香はストーカーだった。以蔵の家に入るには、マンション一階の郵便受けに置いてある合鍵を使っていた。
「思ってはおったがじゃ。あこに置いちょったら防犯上問題がある。うちには盗るもんはないけんど、こん先何があるかはわからん」
「実際、不審者が入り込んでましたしね……」
「不審者が何か言いゆうな――まぁ、ほがなわけで、さっきこれ作ってきた。好きに使いぃ」
以蔵は頬を染めて視線を逸らした。
「いいの?」
「彼女さんに不法侵入さすわけにゃいけんろう」
目頭が熱くなるのがわかった。鍵を握りしめる両手が震える。
昨日まで、まったく脈がないと思っていた。なんとかして以蔵に振り向いてもらえるようにと、必死に
嘘みたいだ――でも、嘘ではない。
「あぁ、こがなことで泣きな。おまん、涙腺がちゃがまったかえ?」
「以蔵さんのせいだよ……好き……」
なんとか落涙はこらえて、目許をハンカチで押さえる。そして、前々からうっすら考えていたことを思い出す。
「以蔵さん、わたし、ずっと以蔵さんのごはん作ってたでしょ」
「なんじゃ、毒でも入っちょったかえ」
以蔵は愉快そうな笑顔を作った。斜めになる唇の角度がかっこいい。
「そうじゃなくてね……人間の身体の細胞って、どれくらいの周期で入れ替わるか知ってる?」
「わしが知るわけないろう」
「粘膜は三日、皮膚は一ヶ月、血液は半年、骨は三年――らしいの」
「それがどいた」
「だから――以蔵さんの身体、わたしのごはんだけでできるようになればいいなって」
以蔵は数秒口を開けた後、唾を飲み込んだ。
「つまり……おまんの作る飯でわしん身体ぁ作らせぇ、ち」
「うん」
以蔵は大きく嘆息する。
「おまん、おっもい女じゃのう」
「重い、よね」
語尾が濁ってしまう。
確かに重いと思う。こんな執着を向けられて、不愉快になる人もいるだろう。
言うべきではなかったのかもしれない。
しかし目の前の愛しい人は白い歯を見せた。
「重いがは知っちょったき、今更じゃ。ほがなとこも全部含めておまんじゃ。こがなことで
好きな人から肯定される。しかも、自分の欠点だと思っていたところを。
立香が好きになったのは、こういう人だ。
時に目先の欲に流され、困ったことも引き起こすけれど、心から想ったものごとに対しては真面目な人。自分がするべきだと決めたことをやり遂げる人。
好き――。
しかし今ここで以蔵を困らせてはいけないので、なんとか物理的に口を塞ぐ。
そんな立香を見て、以蔵は優しい顔になった。
運ばれてきた紅茶に砂糖を一杯半入れて、香りを味わいながら口にする。
「もうわしん身体は血までは入れ替わっちゅうわけじゃな」
「うん」
「骨もあと二年で」
「そう」
「……好きにしぃ。わしは出されたもん食うだけやき」
その言葉に大きくうなずく立香だったが、実は話には続きがある。
人体において、代謝の激しい部位は頻繁に入れ替わるが、そうでない部位もある。
脳や心臓の組織は、ほとんど入れ替わらないという。
しかし、『ほとんど』ということは、少しは立香にも割り入る余地があるということだ。
できれば、わずかでも脳や心臓に立香の爪痕を残したい。
もちろん、まだまだそんなことは伝えられないけれど――