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金曜の夜、あなたと/君と

「ごいされませ」

 聞き慣れた声が割って入った。土佐弁の言葉とイントネーション。
 後ろめたさからの幻聴かと思った。声の方に首を巡らせる。
 トイレの入口のドアに、今一番顔を見たくなかった男がもたれかかっていた。
 ――なんで――!!
 驚きのあまり、声を出せない。立香はぱくぱくと口を動かす。

「あっ、トイレ使います?」

 模部は立香の手を握ったまま言って、個室を譲ろうと動きかけた。

「いんや、わしが用事あるがはそいつじゃき」

 高めの声には、明らかな怒気が含まれている。

「……藤丸さん、知り合い?」

 模部の問いかけに、立香はうなずいた。

「あっちの席にはいなかったですよね」

 以蔵のたたずまいは、明らかに大学生ではない。模部が不審げになるのは当然だろう。
 そんな模部の懐へ、以蔵は一瞬で飛び込んだ。ぶれることなく、立香の手を握っていた手首を掴む。模部は顔をしかめた。

「何するんです、離してください!」
「えいか、よう聞け」

 以蔵は模部の顔へ顔を寄せ、鼻先がぶつかるほどの至近距離でささやく。

「こいつはおんしかたけのだきな手ぇで触ってえい女やない」
「え、あんた、何言って」

 以蔵の歯ぎしりが立香の耳に届いた。

「わしをこれ以上怒らいとうなかったら、しゃんしゃんねや」
「模部さん、わたしは大丈夫だから……」
「なんだよ、お前ら、なんなんだよ!」

 模部は悪態を吐いて出て行った。

「立香、こっちぃ。ここは誰が来るかわからんき」

 以蔵は立香の手首を引っ張ってトイレから連れ出し、そばの鉄扉を開けて屋外の非常階段へ忍び込んだ。眼下からはエアコンの室外機の稼働音と雑踏のざわめきが聞こえる。
 飴色の瞳が、じっと立香を見下ろす。そこにある怒りの意味が、立香にはわからない。

「以蔵さん……どうしてここに」
「おまん、わしが何で飯食っちゅうか忘れたか」

 以蔵の声には冷静さがない。今にも沸騰しそうな感情を理性でぎりぎり蓋をしているように聞こえる。

「尾行……」
「ほれより聞きたいがはわしん方じゃ」

 以蔵は立香の両肩を掴んだ。

「なんじゃ、あん男は」
「あの人は模部さんって言って、わたしの大学の」
「ほがなことは聞きやせん。どいてあげな男と二人きりになっちゅう」

 以蔵の叱責に、立香は混乱の渦に叩き込まれた。

「おまんには危機感がない。あげに鼻の下伸ばしちゅう男にはろくなもんがおらん。隙ぃ見せたら取って食われるがぞ」

 以蔵は諭す。
 以蔵が何を言っているかわからない。
 正確には、どんな意図があって立香にこのようなことを言っているのかがわからない。
 自分のストーカーが男に手を引かれるなんて、喜ばしいことではないのか。立香に男でもできれば、もう以蔵に執着することがなくなるのだから。
 ――以蔵さんは、そう望んでいるんじゃないの?
 ぐちゃぐちゃになった立香の感情から、湧き出てくるものがあった。

「どうして……」
「あ?」
「どうして以蔵さんにそんなこと言われなきゃいけないの!?」

 立香が叫ぶと、以蔵は一秒身を硬直させた。あわてて我を取り戻し、立香へ食ってかかる。

「どいてって……ほがなん、決まっちゅう。おまんはわしを……」
「でも!」

 感情がレールから脱線しつつあるのを感じても、止められない。

「以蔵さんとわたしはなんでもないよね!? つき合ってもない、ただのストーカーと被害者。以蔵さんはなんでわたしを縛ろうとするの!」
「立香」
「わたしね、疲れちゃったんだ。以蔵さんのこと好きでいるの……」

 以蔵は飴色の瞳を見開いた。そこに映る立香は、どんな表情をしているだろうか。
 視界がぼやけると思って、初めて自分が泣いていることに気がついた。
 疲れた。
 それが、ここ数日立香の胸へ浮かび上がってきていた感情だった。
 見返りが欲しくて以蔵を好きになったわけではない。
 それでも、一年以上も決定的な言質を得られない状態が続くのに耐えられなくなった。
 以蔵は時たまお恵みをくれた。無愛想さの合間に見せる笑顔。ちょっとした気遣い。立香の攻勢に困っているはずなのに、完全には拒まないところ。
 嬉しいはずだったそれらを、束縛だと感じるようになってしまった。
 立香を愛しているわけではないのに、立香の心を奪い続ける。
 失恋の機会も与えず、ただ希望に似たものをちらつかせる。
 それは優しさではなくむごさだ。
 今も。
 確かに模部はろくでもない男だったかもしれない。しかしストーキングの被害者でしかない以蔵が口を出すことでもない。

「ねぇ、以蔵さん……」
「立香」

 以蔵の呼び声に、必死さが含まれているように感じる。たぶん気のせいだろう。以蔵がそうする理由がない。

「ごめんね、ずっと困らせて……つきまとって、上がり込んで、おいしくもないごはん食べさせて……」
「おまん、何言いゆう」
「迷惑だったよね、わかってた」
「ほがなん」
「以蔵さんが怒るのも当然だよね……本当に、ごめんなさい……」

 抑えきれない感情が嗚咽になる。ぐず、ぐず、としゃくり上げると、鼻水が出る。
 情けない。醜い。
 こんなところを好きな人に見せたくなかった。
 それでも、言わなければ――

「勝手だよね、わたし、勝手……でももう以蔵さんの前には現れないから……だから、こんな酷いことしないで……」
「立香」

 たくましい腕が立香へ伸びた。強く吹きつける一陣の風。
 気づいたら以蔵に抱きすくめられていた。

「やだ、離してっ」
「泣くならここで泣いとうせ」

 頬を広い胸に押しつけられる。涙と鼻水がベストに吸い込まれる。

「やめて、こんなの……」
「のう、立香」

 以蔵は真剣な声で言った。

「わしは――おまんが、好きじゃ」
「やだ、今更、そんな、気なんて、遣わないで」

 腕の中で暴れる立香を、以蔵は強い抱擁で抑えつける。

「やだ、以蔵さん、やだよ、こんなの」
「わしは間違まちごうちょった」

 悔いのにじむ声。立香は思わず身じろぎを止める。

「おまんにこがなこと思わせとうて言わざったわけやない……」

 以蔵は立香の肩に顔を埋める。
 シャンプーと、煙草と、以蔵の香り。

「以蔵さん、何言ってるの」
「わしはな、じちょった――おまんの気持ちが変わるがを。おまんがわしを好きやのうなるがぁ、怖かったがじゃ」
「え? えぇ?」

 立香が以蔵を好きじゃなくなるだなんて――そんなこと、あるはずないのに。
 口を挟みたかったが、以蔵は言葉を続ける。

「おまんを大事にしたかった。わしは気ぃが長い方やない。それがわかっちょったき、一時の勢いでおまんに触れとうなかった」
「ちょっと、以蔵さん」
「そんくせ、どっかで現状に甘えちょった。おまんのことならわしはいつまでも待てる――それがわしの傲慢さじゃった。あがぁなヤリモクん男ぉ見るまで、おまんが誰かにさらわれるらぁて思いもせざった。わろうとうせ、わしんアホさを。立香、おまんが好きじゃ、立香。誰にも渡せん。おまんの顔、いっとう近くねきで見せとうせ……」

 いつの間にか、立香は抵抗する気を失っていた。
 茫然としてしまう。

(ええと、この人は、いったい、何を……?)

 耳に入った言葉を頭では理解しても、心は受容を拒んでいる。

「好きじゃ、立香」

 以蔵は熱っぽい声でダメ押しする。

(……本当に? 夢じゃないの?)

 立香は問うた。

「……いつから?」
「ん?」

 以蔵は腕の力を緩め、立香の顔を見た。今まで見たことのない、切なげな顔だ。

「わたしのこと、いつから好きだったの」
「……」

 飴色の瞳が、遠くを見るように細められた。

「初めてうた時んこと、覚えゆうろう」
「忘れるわけない」

 一年近くも前のことだが、昨日のことのように思い出せる。
 立香が『聖杯』を引き寄せる体質であると坂本探偵事務所所長の龍馬から説明を受けた後。
 義務感を隠す気もなく、『副所長の岡田ぁ言います。わしは荒事が得意ですき、おまさんを護ることばぁ朝飯前です。よろしゅう』と明らかにいやいや頭を下げた以蔵に、「なんて嫌な人だ、服もだらしないし」とマイナスの感情を覚えたものだ。

「おまんが路地裏に追い詰められて、わしがようよバケモンから助けた時」
「うん」
「あん時、おまんのわしを見る目が変わった」

 バケモノへの敵愾心と立香を護るという意志を強く持った以蔵は、風のように現れて立香を背後にかばった。その手の中の日本刀が光を反射して、垣間見えた飴色の瞳は生きがいを得たように熱く輝いていた。
 綺麗だと思った。

「あん時の、おまんのわしを見る顔……この世のもんとは思えんくらい……綺麗じゃった」

 あの一瞬、二人は同じことを考えていたのか。
 ――いや、待って。
 それは、つまり。
 急に腹が立ってきた。

「以蔵さん、最初からわたしのことが好きだったんじゃない!」
「……ほうじゃの」
「それなのに、わしに触るなとか困るとか言ってたの!?」
「わしは大人じゃき……」
「わたしがベビードールで迫っても、なんでもないような顔して!」
「あれを我慢したわし、しょうげにまっこと褒められてえいぜよ……」
「好かれるためにってあれだけいろいろやってたわたし、莫迦みたいじゃない!」
「……あー、すまん。立香はえい子じゃき、勘弁しとうせ?」

 以蔵は片手で立香を抱き留めたまま、片手で立香の頭を撫でた。
 こんなことでごまかされてなるものか。立香は純情をすべて懸けて恋していた。つい先ほどまで、その気持ちをかわされてかわされて、絶望していたのだ。
 許せない。乙女心をもてあそんで。
 ――と、いくら理性で思っても。

「今度だけ、だから……」

 厚い胸に頬を預ける。以蔵はそこまで身長が高い方ではないが、身体はよく鍛えられている。大事なものを護るための身体に、いつまでも触れていたくなる。

「立香」
「なぁに」

 以蔵は真面目な顔で立香を見た。

「こがなとこで言うがは……げに恰好つかんがじゃけんど……」
「わたしの間抜けさよりはマシだから、大丈夫だよ」

 立香がささやけば、意を決したように口が開かれる。

「わしをおまんのそばに置かいてくれはせんろうか」
「それは?」

 本当は、以蔵の言いたいことなんてわかっている。それでも立香は、同じ意味の言葉を違う角度から聞きたかった。
 立香の言葉に、以蔵は含羞がんしゅうの表情を浮かべた。

「わしの……彼女さんになってつかぁさい」

 止まっていた立香の涙が、再びあふれる。しかし今度は歓喜の涙だ。

「あぁ、泣きなや……」
「こちらこそ、わたしの彼氏になってください。よろしくお願いします」
「……よろしゅうお頼み申します」

 以蔵は立香の目尻に唇を落とし、こぼれる愛情を舌先ですくった。
 その舌の、やけどしそうな温度が、立香の心も身体も熱くさせる。

(――こんなに幸せなことって、あるんだ)

 腕と胸で包まれて、立香は己の居場所を知った。
 ここから出たくない。いつまでもここにいたい。
 今立香は、その願いを叶えてくれるであろう男に抱きしめられている。
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