金曜の夜、あなたと/君と
ターミナル駅は、坂本探偵事務所の最寄り駅でもある。当然、何度も通いつめた場所だ。
今日はいつもとは全然違う気分でここにいる。ストーキングという日課をサボっていることへの少しの罪悪感が、どことなく浮遊感を与えるのだろうか。
広場の隅では、既に十人ばかりの男子と三、四人の女子が固まって待っていた。その中で咲く大輪の花が、立香に手を挙げた。
「リツカで最後よ」
立香は驚いて、スマホで時間を確認する。やっぱりまだ六時五十五分だ。
「ここにいるのは、時間を厳守する人だけなの」
暗に語られているのは、メイヴが時間にだらしない人間を許さない、ということだ。
(そりゃメイヴちゃん、以蔵さんのこと気に入らないよね……)
ほんわかして、直後に冷水を浴びせられた思いになる。
以蔵のことを考えるのが癖になっている。あの飴色の瞳を思い浮かべるだけで幸せになるのも。
しかし、現実の以蔵は立香を見ない。
考えを切り替えるために首を振る。
幹事が先導して向かったのは、看板からして大学生に似つかわしくない雰囲気の店だった。
敷居をまたぐと、天板の厚い木製のテーブルに案内された。調度も和風で、水墨画のようなものも飾られている。
メイヴの騎士になるためには、このくらいの金銭的試練を乗り越えるのも当然なのかもしれない。
ドリンクメニューを眺めていたら、
「藤丸さん、飲める?」
隣に座った男子が話しかけてきた。
「はい、さきおととい誕生日だったので」
「梅酒の酒類が多い店っていいよね。俺のおすすめはゆず梅酒」
割とぐいぐい来る人だ。
「じゃぁそれで」
お通しのお皿も丁寧に作られたものだ。ゆでピーナッツと、湯葉と小松菜のおひたしが載っている。
早速運ばれたゆず梅酒を少しずつ飲みながら、ゆでピーナッツの皮をむいて口に運ぶ。
ピーナッツは鮮度が命で、産地直送の新鮮なものでなければゆでるのには適さないらしい。煎ったものももちろんおいしいが、ゆでたピーナッツの舌触りは柔らかく、焦げみのない自然な香りも気に入った。
湯葉も学生向けのお店によくある大味な味つけではない。にぼしから取った出汁の味がする。
上京してからこちら、こんなに優しく美味 な味つけのものを食べたことがなかった。主に手作り、時にコンビニやスーパーのお惣菜を食べていた。
(……もしかして、今まで以蔵さんにおいしくないものを食べさせてたかも……)
メシマズと言われないように、修行をしてきたつもりではある。
しかし、高校まで母の手伝い程度でしか台所に立っていなかった立香には経験が乏しい。本やインターネットでレシピを調べても、まだまだ本当においしい食事は作れないだろう。
立香に押しかけられた以蔵が、美味でもないごはんを食べさせられ続けてきたことを、立香はよく知っている。
時にギャンブルで給料を吹っ飛ばすこともあるとはいえ、れっきとした社会人の以蔵には立香よりも自由になるお金が多いはずだ。ごはんも好きなものを食べられる。
ひとつ例を挙げるだけでも、以蔵への迷惑が思い出される。
(わたし、本当にダメだ)
テーブルに大皿のサラダと冷奴が運ばれてきた。手許の小皿に取り、ゆず梅酒を傾けながら食べる。
(――でも)(以蔵さんと食べるごはん、とってもおいしかった……)
立香の前で無愛想な顔をする以蔵が、食事の時には穏やかに笑う。その顔を見ると、自分が以蔵の特別になれたように錯覚してしまう。
所詮、錯覚なのだけれど。
無性に泣きたくなった。しかし、こんなところで泣き出したら迷惑になる。
化粧ポーチだけ持っで立ち上がり、椅子に座っている人に背後を譲ってもらって通路に出る。
トイレは店の隅にあった。洗面所は比較的広く取られている。洗面台のボウルも、銅を加工したものだ。よく掃除が行き届いていて、磨かれたように光っている。
鏡の中の顔は、先日ほどにはぼろを出していない。それでも目は潤み、見る者が見れば悲しみを汲み取れるはずだ。
(あぁ……やっぱり、一人の方が迷惑かけないかも……)
マスカラが落ちないように目をハンカチで押さえる。
メイヴには申し訳ないが、帰ってしまおうか。泣き上戸の絡み酒など、ろくなものではない。
と思っていたら、背後のドアが開いた。
「藤丸さん」
先ほど隣に座っていた男子学生だった。
「どうしたんですか、えっと……」
「模部 」
男子学生は軽薄に名乗った。
どうも模部は立香を知っているらしい。
ストーカー活動で忙しかった立香は、あまり大学で友達を作っていない。語学のクラスが一緒だったメイヴと、あとは両手の指で余るほどだ。
「どこかで会ってましたっけ」
「藤丸さん、案外有名なんだよ。よくメイヴと一緒にいるだろ。しかも可愛い」
かけられた言葉が、ピンと来ない.
メイヴも同じ言葉で立香を褒めていたが、この世で一番そう言ってほしいと願う人からは何も言われない。
以蔵以外の人から何を言われても、立香にとっては無に等しい。
それにしても。
「模部さんもお手洗いですか」
立香が問うと、模部は照れくさそうに笑った。
「藤丸さん、抜けない?」
「抜けるって」
「俺、藤丸さんともっと話がしたいなって」
流れるように言う模部に、立香は違和感を抱いた。
「メイヴちゃんとお話しに来たんじゃないんですか」
模部は肩をすくめて笑った。
「今は他の女の話はよそうよ。俺は藤丸さんと話したいんだから」
模部は一歩距離を詰めてくる。薄笑いの意図は読めない。立香も一歩下がったが、洗面台が腰に当たった。
「メイヴね……第一、あれだけ男を侍らせて誰ともヤッてないわけないだろ。初めて来たけど、目が覚めた」
それはメイヴへの偏見なのではないか。メイヴへの解像度が足りないのではないか。
そう思う立香の顔を、模部は上から覗き込んで来た。
「やっぱり俺は、可愛くて初心 な子がいいなって」
「わたし、初心なんかじゃないですよ」
反論が口をつく。初心な子は、下着姿で夜這いをかけたりはしないだろう。
しかし模部は首を横に振った。
「藤丸さん、面白いね。俺、ますます気に入っちゃった。こんな背伸びしたとこじゃなくてさ、二人で話せる雰囲気のいい店知ってるんだ。俺、エスコートするから」
模部は手を伸ばし、立香の手首を握った。
「ねぇ?」
その手は熱かった。興奮しているのだろうか。
『二人きりになりたい』
以蔵しか追いかけていなかった立香にも、その意図はわかる。
だから、
「わたし、好きな人がいるんです」
「そんなやつのこと、忘れちゃおうよ」
模部の手が力を強めた。
脳裏の以蔵の顔に、よくない影が差した。
立香をこれほど求めてきた人が、これまでいただろうか。
好きな人から一向に振り向いてもらえない立香は、己の魅力をまったく信じられていない。
以蔵は度重なる据え膳に手をつけなかった。先日などは、立香がいるにもかかわらず龍馬とお竜を呼んでいた。立香が早々につぶれたから、その代わりの話し相手を求めたのに違いない。
手を伸ばしても、影すら掴めない。
そして目の前には、立香を求める男がいる。
そこに下心しかないとしても、立香の心の空洞を埋めることはできるかもしれない。
第一、この後は独りの部屋に帰るだけだ。
見上げると、模部は目を細めた。
飴色の瞳とは、何もかもが較べるべくもない。
しかし、立香は思考を放棄した。
手を握られるまま、男の腕に引き込まれようとして――。
今日はいつもとは全然違う気分でここにいる。ストーキングという日課をサボっていることへの少しの罪悪感が、どことなく浮遊感を与えるのだろうか。
広場の隅では、既に十人ばかりの男子と三、四人の女子が固まって待っていた。その中で咲く大輪の花が、立香に手を挙げた。
「リツカで最後よ」
立香は驚いて、スマホで時間を確認する。やっぱりまだ六時五十五分だ。
「ここにいるのは、時間を厳守する人だけなの」
暗に語られているのは、メイヴが時間にだらしない人間を許さない、ということだ。
(そりゃメイヴちゃん、以蔵さんのこと気に入らないよね……)
ほんわかして、直後に冷水を浴びせられた思いになる。
以蔵のことを考えるのが癖になっている。あの飴色の瞳を思い浮かべるだけで幸せになるのも。
しかし、現実の以蔵は立香を見ない。
考えを切り替えるために首を振る。
幹事が先導して向かったのは、看板からして大学生に似つかわしくない雰囲気の店だった。
敷居をまたぐと、天板の厚い木製のテーブルに案内された。調度も和風で、水墨画のようなものも飾られている。
メイヴの騎士になるためには、このくらいの金銭的試練を乗り越えるのも当然なのかもしれない。
ドリンクメニューを眺めていたら、
「藤丸さん、飲める?」
隣に座った男子が話しかけてきた。
「はい、さきおととい誕生日だったので」
「梅酒の酒類が多い店っていいよね。俺のおすすめはゆず梅酒」
割とぐいぐい来る人だ。
「じゃぁそれで」
お通しのお皿も丁寧に作られたものだ。ゆでピーナッツと、湯葉と小松菜のおひたしが載っている。
早速運ばれたゆず梅酒を少しずつ飲みながら、ゆでピーナッツの皮をむいて口に運ぶ。
ピーナッツは鮮度が命で、産地直送の新鮮なものでなければゆでるのには適さないらしい。煎ったものももちろんおいしいが、ゆでたピーナッツの舌触りは柔らかく、焦げみのない自然な香りも気に入った。
湯葉も学生向けのお店によくある大味な味つけではない。にぼしから取った出汁の味がする。
上京してからこちら、こんなに優しく
(……もしかして、今まで以蔵さんにおいしくないものを食べさせてたかも……)
メシマズと言われないように、修行をしてきたつもりではある。
しかし、高校まで母の手伝い程度でしか台所に立っていなかった立香には経験が乏しい。本やインターネットでレシピを調べても、まだまだ本当においしい食事は作れないだろう。
立香に押しかけられた以蔵が、美味でもないごはんを食べさせられ続けてきたことを、立香はよく知っている。
時にギャンブルで給料を吹っ飛ばすこともあるとはいえ、れっきとした社会人の以蔵には立香よりも自由になるお金が多いはずだ。ごはんも好きなものを食べられる。
ひとつ例を挙げるだけでも、以蔵への迷惑が思い出される。
(わたし、本当にダメだ)
テーブルに大皿のサラダと冷奴が運ばれてきた。手許の小皿に取り、ゆず梅酒を傾けながら食べる。
(――でも)(以蔵さんと食べるごはん、とってもおいしかった……)
立香の前で無愛想な顔をする以蔵が、食事の時には穏やかに笑う。その顔を見ると、自分が以蔵の特別になれたように錯覚してしまう。
所詮、錯覚なのだけれど。
無性に泣きたくなった。しかし、こんなところで泣き出したら迷惑になる。
化粧ポーチだけ持っで立ち上がり、椅子に座っている人に背後を譲ってもらって通路に出る。
トイレは店の隅にあった。洗面所は比較的広く取られている。洗面台のボウルも、銅を加工したものだ。よく掃除が行き届いていて、磨かれたように光っている。
鏡の中の顔は、先日ほどにはぼろを出していない。それでも目は潤み、見る者が見れば悲しみを汲み取れるはずだ。
(あぁ……やっぱり、一人の方が迷惑かけないかも……)
マスカラが落ちないように目をハンカチで押さえる。
メイヴには申し訳ないが、帰ってしまおうか。泣き上戸の絡み酒など、ろくなものではない。
と思っていたら、背後のドアが開いた。
「藤丸さん」
先ほど隣に座っていた男子学生だった。
「どうしたんですか、えっと……」
「
男子学生は軽薄に名乗った。
どうも模部は立香を知っているらしい。
ストーカー活動で忙しかった立香は、あまり大学で友達を作っていない。語学のクラスが一緒だったメイヴと、あとは両手の指で余るほどだ。
「どこかで会ってましたっけ」
「藤丸さん、案外有名なんだよ。よくメイヴと一緒にいるだろ。しかも可愛い」
かけられた言葉が、ピンと来ない.
メイヴも同じ言葉で立香を褒めていたが、この世で一番そう言ってほしいと願う人からは何も言われない。
以蔵以外の人から何を言われても、立香にとっては無に等しい。
それにしても。
「模部さんもお手洗いですか」
立香が問うと、模部は照れくさそうに笑った。
「藤丸さん、抜けない?」
「抜けるって」
「俺、藤丸さんともっと話がしたいなって」
流れるように言う模部に、立香は違和感を抱いた。
「メイヴちゃんとお話しに来たんじゃないんですか」
模部は肩をすくめて笑った。
「今は他の女の話はよそうよ。俺は藤丸さんと話したいんだから」
模部は一歩距離を詰めてくる。薄笑いの意図は読めない。立香も一歩下がったが、洗面台が腰に当たった。
「メイヴね……第一、あれだけ男を侍らせて誰ともヤッてないわけないだろ。初めて来たけど、目が覚めた」
それはメイヴへの偏見なのではないか。メイヴへの解像度が足りないのではないか。
そう思う立香の顔を、模部は上から覗き込んで来た。
「やっぱり俺は、可愛くて
「わたし、初心なんかじゃないですよ」
反論が口をつく。初心な子は、下着姿で夜這いをかけたりはしないだろう。
しかし模部は首を横に振った。
「藤丸さん、面白いね。俺、ますます気に入っちゃった。こんな背伸びしたとこじゃなくてさ、二人で話せる雰囲気のいい店知ってるんだ。俺、エスコートするから」
模部は手を伸ばし、立香の手首を握った。
「ねぇ?」
その手は熱かった。興奮しているのだろうか。
『二人きりになりたい』
以蔵しか追いかけていなかった立香にも、その意図はわかる。
だから、
「わたし、好きな人がいるんです」
「そんなやつのこと、忘れちゃおうよ」
模部の手が力を強めた。
脳裏の以蔵の顔に、よくない影が差した。
立香をこれほど求めてきた人が、これまでいただろうか。
好きな人から一向に振り向いてもらえない立香は、己の魅力をまったく信じられていない。
以蔵は度重なる据え膳に手をつけなかった。先日などは、立香がいるにもかかわらず龍馬とお竜を呼んでいた。立香が早々につぶれたから、その代わりの話し相手を求めたのに違いない。
手を伸ばしても、影すら掴めない。
そして目の前には、立香を求める男がいる。
そこに下心しかないとしても、立香の心の空洞を埋めることはできるかもしれない。
第一、この後は独りの部屋に帰るだけだ。
見上げると、模部は目を細めた。
飴色の瞳とは、何もかもが較べるべくもない。
しかし、立香は思考を放棄した。
手を握られるまま、男の腕に引き込まれようとして――。