金曜の夜、あなたと/君と
スマホが震えた。液晶画面にはLINEの通知がポップアップされている。左端の黒いポメラニアンのアイコンに、ため息を吐く。
『今日ものうが悪いのか』
一言のメッセージにどう返せばいいのか、十秒ほど考えあぐねる。
結局白い猫のような兎のような生き物(フォウくんという名前だ)がぐったりしているスタンプを押した。
『すみません、今日も試験勉強があって』
『無理しなや』
黒ポメラニアンが眉根を寄せているスタンプが返ってきた。
フォウくんが『ごめんなさい』と頭を下げているスタンプを送り、既読がつくのを確認してから、スマホをスリープさせる。
「……はぁ」
緊張が解けて脱力する。
金曜の大学のカフェテリアは、授業の合間に雑談に興じ、また勉強に勤 しむ学生で混雑している。週末ということで、待ち合わせてどこかへ行く集団も散見される。
まるで淡水魚に混じった海水魚のような場違い感と苦しみを覚える。
昨日あたりからずっとこうだ。
三日前、立香は二十歳を迎えた。
ようやく以蔵から子供扱いされることがなくなる、と意気込んで、お酒を買って行って以蔵の家で飲んだ。初めての飲酒は勝手がわからず、立香はカクテル缶一本で酔った。
そんな立香を以蔵は介抱し、寝室のベッドで寝かせてくれた。
しかもその際、苦しいだろうと気を回した以蔵は、服の上からブラジャーのホックを外した。
そこまでしておいて、以蔵はなんでもない顔をして寝室を出て行ったのだ!
既に相当ひびの入っていた自尊心が、完全に折れた。
以蔵のことが好きで好きで、ストーキングを働くようになった。つきまといを繰り返し、勝手に家に上がって家事もした。下着姿で帰宅を待っていたことすらある。いつ触れられてもいいように、肌のケアも欠かさなかった。
しかし以蔵にとって、立香は据え膳にもならない存在らしい。
立香は自分の身体を抱きしめて泣いた。
見返りが欲しくて恋したわけではない――とはいえ。
この悲しさが怨みつらみになりはしないだろうか、と怖くなった。
泣き疲れて寝て、朝になったらダイニングキッチンにはなぜか龍馬とお竜がいた。もちろん以蔵もいるから、かなり手狭だ。
「おはよう立香ちゃん、二日酔いにはなってないかい」
「リツカ、顔洗ってこい」
ぷかぷか浮かぶお竜に言われ、洗面所に立って己の顔を鏡で見る。
ひどい顔をしていた。目許は厚ぼったく腫れ、涙の跡が目尻に轍 を作っている。
こんな顔を二人に晒したくなかった。どうして以蔵はわざわざこんな日に二人を呼んだのか。
ダイニングキッチンに戻ると、以蔵がグラスの水とウコン飲料のボトル缶を差し出した。
「ほんまは飲む前の方がよかったけんど、ないよりはマシじゃろう」
ボトル缶の蓋は既に開いていた。水とウコンを交互に飲み、グラスとボトル缶を返すと、以蔵は目を逸らした。眉根には皺が寄っている。
「今日も学校じゃったな」
「うん」
「わしは飲んじょったき、送っちゃれん。じゃき、龍馬の車に乗っちょけ。教科書は家か?」
うなずくと、以蔵は龍馬に、
「立香の家ぇ寄りぃ」
と声をかけた。その態度がいつにも増してよそよそしく感じられたから、立香は思わず以蔵のシャツの裾を掴んだ。
「……」
以蔵は軽く目を見開き、丁寧な手つきでシャツを引っ張って立香の手をほどいた。
一度引っ込んだ涙がまたあふれそうになって、目をこする。
「やめぇ、傷になる」
そう言う以蔵だが、積極的には触ってこない。
みじめだ。
どれほど好きになっても、以蔵は振り向いてくれない。
「お仕事、今日も頑張ってね」
「おう」
以蔵はうなずいて、グラスをシンクに置いた。
「立香ちゃん、準備できたかい」
後ろから龍馬が声をかけてくる。
「はい、今行きます」
立香は以蔵に背中を向けた。
それから二日、以蔵の顔を見ていない。
毎日のように現れていた立香の姿が見えないことを、以蔵も少しは気にしているらしい。今まで以蔵の方からはろくに送られなかったLINEのメッセージが、昨日から散発的に来る。
そのたびに『試験勉強が忙しい』『元気にしている』と、嘘ではないが本当でもないことを送っているのだが、以蔵は果たして立香の欺瞞に気づいているだろうか。
(……いや)(以蔵さんにとってわたしはどうでもいい存在だし)
一年近く心のどこかでは感じ取っていたことを、改めて突きつけられている。
(わたしはいったい何をしてるんだろう)
徒労だとは思いたくない。
以蔵を好きになったことで、立香の世界の彩りは格段に増した。
以蔵の背後の景色はみずみずしく、まぶしく、生の輝きに満ちていた。
飴色の瞳に映る自分をより美しくしようと、見た目だけではなく指先一本の所作に気を配るようになった。
世界を豊かにしてくれた以蔵に感謝したい、という気持ちももちろんあるのだけれど。
「……はぁ」
悲嘆がため息となって口から出た。
今日も以蔵のところへ行かないから時間はある。以蔵に恋してからずっと押しかけ女房をしていたから、一人での時間のつぶし方がわからない。
家で動画を流しっぱなしにでもすれば、少しはつらさを忘れられるだろうか。
「リツカ」
聞き慣れた声に顔を上げれば、メイヴがテーブルの向こうに立っていた。その背後には三人ばかり男子学生が侍 っている。ミス大学のメイヴはシンプルな服装だが、どことなく華やいでセクシーに感じられる。魅力的な内面が反映されているからかもしれない。
「浮かない顔ね」
「あぁ、うん……以蔵さんのことで」
メイヴには何回も以蔵の話をしている。どうやらメイヴは以蔵をあまり好ましくは思っていないようだ。
「リツカもやっとその意気地なしを見限るのかしら」
薔薇のような笑みに、立香はあわてて首を振った。
「以蔵さんはわたしに興味がないだけだから! 別に弱気とかじゃないから!」
「どうかしらね。リツカの話を聞いてる限り、脈がないようには感じないわよ。第一、厭なら家から追い出すでしょう」
「それは、以蔵さんが優しいから……わたしが傷つかないようにしてくれてるから……」
「本当に優しかったらとっくに振ってるでしょうよ」
立香の否定にも、メイヴは意見を枉 げない。
『優しい』と、無意識に発した己の言葉が胸をちくちく刺した。
「そんなこと……」
「あぁ、もういいわ。確かなのは、リツカが落ち込んでることよ」
メイヴは背後の男子学生を振り返った。
「今日は七時からだったわね?」
メイヴの問いに、男子学生の一人が「はい」と返事する。それを確認し、メイヴは立香に向き直った。
「懇親会、来ない?」
「懇親会?」
立香が訊くと、メイヴは愉しげな顔を作る。
「普段私と話すチャンスのない男たちに機会を作ってあげてるの」
高嶺の花でありながらサービス精神も豊富なメイヴらしい会合だ。
「わたしなんかが行ったら、男の子の邪魔にならない?」
「リツカは可愛いんだから、もっと自己評価高めましょ――女の子も何人か呼んでるわ。でないと、場がギスギスしちゃうのよ。紳士協定を無視して私を手に入れようって男もいるから」
そういうものなのか。メイヴが治める国のルールを、まだ立香は完全には把握していない。
「今日はストーカーするの?」
メイヴの言葉に、立香の心に愛しい面影が蘇る。
心の中の以蔵は立香に背を向け、物憂げに煙草をふかしていた。
(以蔵さん)
呼びかけると、以蔵は振り向いた。飴色の瞳に、興味の光はない。
(好きにしぃ。おまんはわしのもんやないき)
以蔵は再び正面を向いた。それっきり、立香に見向きもしない。
――そうだ。以蔵さんはそうするに決まってる。
心象風景から現実に視界を戻し、立香はメイヴに向き直った。
「メイヴちゃん、わたし行くよ」
どうせ予定なんてない。飲み会に出れば、誰かしらと会話ができるはずだ。一人では、気が滅入るループに入ることが容易に想像できてしまう。それならば。
「たまには困らせちゃいなさい。ねぇ、リツカに今日のこと伝えて」
メイヴが背後も向かずに指示すると、男子学生の一人がスマホを見せてきた。
午後七時、ターミナル駅前の待ち合わせスポットに集合、女子は参加費なし。
多少出費がかさんでも、メイヴとの謁見にコストを払いたがる男子が来るのだろう。
幹事の男子のスマホ画面を撮り、立香は再びため息を吐いた。
「そんな顔してると幸せが逃げるわよ。嘘でも笑いなさい」
「それができればこうなってないよ……」
嘘を吐くのは得意ではない。
メイヴなりの励ましに、立香は弱気の笑顔を返した。
『今日ものうが悪いのか』
一言のメッセージにどう返せばいいのか、十秒ほど考えあぐねる。
結局白い猫のような兎のような生き物(フォウくんという名前だ)がぐったりしているスタンプを押した。
『すみません、今日も試験勉強があって』
『無理しなや』
黒ポメラニアンが眉根を寄せているスタンプが返ってきた。
フォウくんが『ごめんなさい』と頭を下げているスタンプを送り、既読がつくのを確認してから、スマホをスリープさせる。
「……はぁ」
緊張が解けて脱力する。
金曜の大学のカフェテリアは、授業の合間に雑談に興じ、また勉強に
まるで淡水魚に混じった海水魚のような場違い感と苦しみを覚える。
昨日あたりからずっとこうだ。
三日前、立香は二十歳を迎えた。
ようやく以蔵から子供扱いされることがなくなる、と意気込んで、お酒を買って行って以蔵の家で飲んだ。初めての飲酒は勝手がわからず、立香はカクテル缶一本で酔った。
そんな立香を以蔵は介抱し、寝室のベッドで寝かせてくれた。
しかもその際、苦しいだろうと気を回した以蔵は、服の上からブラジャーのホックを外した。
そこまでしておいて、以蔵はなんでもない顔をして寝室を出て行ったのだ!
既に相当ひびの入っていた自尊心が、完全に折れた。
以蔵のことが好きで好きで、ストーキングを働くようになった。つきまといを繰り返し、勝手に家に上がって家事もした。下着姿で帰宅を待っていたことすらある。いつ触れられてもいいように、肌のケアも欠かさなかった。
しかし以蔵にとって、立香は据え膳にもならない存在らしい。
立香は自分の身体を抱きしめて泣いた。
見返りが欲しくて恋したわけではない――とはいえ。
この悲しさが怨みつらみになりはしないだろうか、と怖くなった。
泣き疲れて寝て、朝になったらダイニングキッチンにはなぜか龍馬とお竜がいた。もちろん以蔵もいるから、かなり手狭だ。
「おはよう立香ちゃん、二日酔いにはなってないかい」
「リツカ、顔洗ってこい」
ぷかぷか浮かぶお竜に言われ、洗面所に立って己の顔を鏡で見る。
ひどい顔をしていた。目許は厚ぼったく腫れ、涙の跡が目尻に
こんな顔を二人に晒したくなかった。どうして以蔵はわざわざこんな日に二人を呼んだのか。
ダイニングキッチンに戻ると、以蔵がグラスの水とウコン飲料のボトル缶を差し出した。
「ほんまは飲む前の方がよかったけんど、ないよりはマシじゃろう」
ボトル缶の蓋は既に開いていた。水とウコンを交互に飲み、グラスとボトル缶を返すと、以蔵は目を逸らした。眉根には皺が寄っている。
「今日も学校じゃったな」
「うん」
「わしは飲んじょったき、送っちゃれん。じゃき、龍馬の車に乗っちょけ。教科書は家か?」
うなずくと、以蔵は龍馬に、
「立香の家ぇ寄りぃ」
と声をかけた。その態度がいつにも増してよそよそしく感じられたから、立香は思わず以蔵のシャツの裾を掴んだ。
「……」
以蔵は軽く目を見開き、丁寧な手つきでシャツを引っ張って立香の手をほどいた。
一度引っ込んだ涙がまたあふれそうになって、目をこする。
「やめぇ、傷になる」
そう言う以蔵だが、積極的には触ってこない。
みじめだ。
どれほど好きになっても、以蔵は振り向いてくれない。
「お仕事、今日も頑張ってね」
「おう」
以蔵はうなずいて、グラスをシンクに置いた。
「立香ちゃん、準備できたかい」
後ろから龍馬が声をかけてくる。
「はい、今行きます」
立香は以蔵に背中を向けた。
それから二日、以蔵の顔を見ていない。
毎日のように現れていた立香の姿が見えないことを、以蔵も少しは気にしているらしい。今まで以蔵の方からはろくに送られなかったLINEのメッセージが、昨日から散発的に来る。
そのたびに『試験勉強が忙しい』『元気にしている』と、嘘ではないが本当でもないことを送っているのだが、以蔵は果たして立香の欺瞞に気づいているだろうか。
(……いや)(以蔵さんにとってわたしはどうでもいい存在だし)
一年近く心のどこかでは感じ取っていたことを、改めて突きつけられている。
(わたしはいったい何をしてるんだろう)
徒労だとは思いたくない。
以蔵を好きになったことで、立香の世界の彩りは格段に増した。
以蔵の背後の景色はみずみずしく、まぶしく、生の輝きに満ちていた。
飴色の瞳に映る自分をより美しくしようと、見た目だけではなく指先一本の所作に気を配るようになった。
世界を豊かにしてくれた以蔵に感謝したい、という気持ちももちろんあるのだけれど。
「……はぁ」
悲嘆がため息となって口から出た。
今日も以蔵のところへ行かないから時間はある。以蔵に恋してからずっと押しかけ女房をしていたから、一人での時間のつぶし方がわからない。
家で動画を流しっぱなしにでもすれば、少しはつらさを忘れられるだろうか。
「リツカ」
聞き慣れた声に顔を上げれば、メイヴがテーブルの向こうに立っていた。その背後には三人ばかり男子学生が
「浮かない顔ね」
「あぁ、うん……以蔵さんのことで」
メイヴには何回も以蔵の話をしている。どうやらメイヴは以蔵をあまり好ましくは思っていないようだ。
「リツカもやっとその意気地なしを見限るのかしら」
薔薇のような笑みに、立香はあわてて首を振った。
「以蔵さんはわたしに興味がないだけだから! 別に弱気とかじゃないから!」
「どうかしらね。リツカの話を聞いてる限り、脈がないようには感じないわよ。第一、厭なら家から追い出すでしょう」
「それは、以蔵さんが優しいから……わたしが傷つかないようにしてくれてるから……」
「本当に優しかったらとっくに振ってるでしょうよ」
立香の否定にも、メイヴは意見を
『優しい』と、無意識に発した己の言葉が胸をちくちく刺した。
「そんなこと……」
「あぁ、もういいわ。確かなのは、リツカが落ち込んでることよ」
メイヴは背後の男子学生を振り返った。
「今日は七時からだったわね?」
メイヴの問いに、男子学生の一人が「はい」と返事する。それを確認し、メイヴは立香に向き直った。
「懇親会、来ない?」
「懇親会?」
立香が訊くと、メイヴは愉しげな顔を作る。
「普段私と話すチャンスのない男たちに機会を作ってあげてるの」
高嶺の花でありながらサービス精神も豊富なメイヴらしい会合だ。
「わたしなんかが行ったら、男の子の邪魔にならない?」
「リツカは可愛いんだから、もっと自己評価高めましょ――女の子も何人か呼んでるわ。でないと、場がギスギスしちゃうのよ。紳士協定を無視して私を手に入れようって男もいるから」
そういうものなのか。メイヴが治める国のルールを、まだ立香は完全には把握していない。
「今日はストーカーするの?」
メイヴの言葉に、立香の心に愛しい面影が蘇る。
心の中の以蔵は立香に背を向け、物憂げに煙草をふかしていた。
(以蔵さん)
呼びかけると、以蔵は振り向いた。飴色の瞳に、興味の光はない。
(好きにしぃ。おまんはわしのもんやないき)
以蔵は再び正面を向いた。それっきり、立香に見向きもしない。
――そうだ。以蔵さんはそうするに決まってる。
心象風景から現実に視界を戻し、立香はメイヴに向き直った。
「メイヴちゃん、わたし行くよ」
どうせ予定なんてない。飲み会に出れば、誰かしらと会話ができるはずだ。一人では、気が滅入るループに入ることが容易に想像できてしまう。それならば。
「たまには困らせちゃいなさい。ねぇ、リツカに今日のこと伝えて」
メイヴが背後も向かずに指示すると、男子学生の一人がスマホを見せてきた。
午後七時、ターミナル駅前の待ち合わせスポットに集合、女子は参加費なし。
多少出費がかさんでも、メイヴとの謁見にコストを払いたがる男子が来るのだろう。
幹事の男子のスマホ画面を撮り、立香は再びため息を吐いた。
「そんな顔してると幸せが逃げるわよ。嘘でも笑いなさい」
「それができればこうなってないよ……」
嘘を吐くのは得意ではない。
メイヴなりの励ましに、立香は弱気の笑顔を返した。
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