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ハッピー・ビター・バースデイ

 もちろん、以蔵の好きなビールの銘柄は覚えている。普段は発泡酒ばかり飲んでいる以蔵が、懐具合のいい時にビールを買うのも知っている。
 以蔵の家の最寄りのコンビニに来た。
 ビールとアルコール度数の低いカクテル缶と、素焼きミックスナッツと一緒に買い物かごに入れ、レジに置く。
 缶のお酒を見たアルバイトの男性店員が、

「年齢確認できるものをお見せください」

 と声をかけてきた。
 来た!
 立香はぶち上がったテンションのまま、財布から免許証を取り出した。

「ここ! 見てください! 今日二十歳になりました!!」

 免許の生年月日欄を指差して主張する立香に、優しい店員は苦笑しながら「おめでとうございます」と言ってくれた。

「ありがとうございます!」

 笑顔でエコバッグにお酒とおつまみを詰め、立香は上機嫌でコンビニを出た。
 東の空が藍色がかってきて、西の空の紅色も濃くなってきた時間だ。以蔵はまだ仕事をしているだろう。
 昭和時代に建造されたと思しいマンション(たたずまいは団地に近い)の一階の郵便受けから合鍵を取り出し、階段で三階まで上る。端にうっすら錆の浮いたドアを開くと、廊下の先のドアにはまったガラスが光を透かしていた。
 ダイニングキッチンに入ると、テーブルに肘をついた以蔵が笑いかけてきた。

「今日は遅かったの」

 予想外だった。

「あっ、おかえりなさい。早かったね」
「おかえりってなんじゃ、おまんがもんてきたやいか」

 言われてみれば……と立香は赤面する。洗面所で手を洗ってからテーブルに着き、エコバッグの中のものを出す。

「今日は無理やり定時で上がった。ちっくと待っちょれ」

 以蔵は立ち上がり、キッチンから紙箱を持ってきた。白い箱の上部には持ち手がつき、側面に赤い装飾がなされている。

「おめでとさん」

 と言いながら以蔵が箱から出したのは、手のひらに収まりそうなほどの二つのミニタルトだった。いちごとブルーベリー、厚切りの桃がそれぞれに盛られている。
 以蔵はこの家に四枚ある皿のうち二枚にそれぞれミニタルトを載せ、コンビニでもらえるようなプラスティックフォークを添えて立香の前に差し出した。
 目の前のことが、にわかには信じられない。

「……どうしたの、これ」
「おまんが今日誕生日やうたろう」
「そうだけど……彼女でもないのに」
「祝われる気満々のやつにはこればぁするわ」

 そのはにかみはストーカーに向けられるものではない、と思う。
 立香は以蔵が大好きで、常にその感情を発露している。それは以蔵が好きだからで、見返りを求めてしていることではない。
 しかし以蔵は立香をどう思っているのだろうか。
 困っている、とは何度も言われた。それでも、決定的に拒まれたことは一度もない。その上、こんな穏やかな笑顔までくれる。
 本心を掴ませない以蔵は、立香を翻弄していることに気づいているのだろうか。
 それでも、好きな人を好きでいることはやめられない。その笑顔を見られれば、報われた気になる。

「ありがとう」

 少し震える声で言うと、以蔵は『たんじょうびおめでとう』と書かれたチョコレートプレートをいちごのタルトに挿した。

「なんでひらがな」
「読めん字ぃで祝いとうなかったき」

 以蔵は英語が得意ではない。そもそも、あまり熱心に学校の勉強をしてこなかったらしい。
 湧き上がる嬉しさを振りまきながら、立香は以蔵にビールを渡す。

「わしをいおうてどうする……まぁ、もらえるもんはもろうちょくけんど」
「一緒に飲もう? ケーキはおつまみになるかな」
「わしの経験上、案外悪うないぞ」

 二人でプルタブを引き、缶を合わせた。ぺこ、とアルミの触れ合う鈍い音が可愛い。
 立香もとうとう大人の仲間入りをするのだ。
 今まで立香を子供扱いしてあしらってきた以蔵の見方も変わるだろうか。
 初めて飲むカクテルは甘い。少し独特の刺激的な匂いがするものの、ジュースに近い感覚で飲める。

「おいしいね」
「えいことじゃにゃぁ」

 ビールをあおった以蔵は、フォークでタルトの側面を崩す。見たところ、カスタードクリームが使われているようだ。
 立香もチョコレートプレートを刺して口に運ぶ。ビターな味なのは、タルト本来の味を損ねないようにするためだろう。
 一口食べるごとに一口飲んでいたら、結構な量のカクテルが胃に消えた。

「おいしいねぇ」
「ほにほに」
「以蔵さんの顔、飽きないねぇ」
「ほうかほうか、おまん酔いゆうな」

 前髪をかき上げて笑う以蔵の顔が、いつにも増して魅力的だ。飴色の目を口に含みたい。きっと甘い。

「以蔵さん、好き」
「知っちゅうよ」
「ほんとに好きなのぉ」
「知っちゅうちや」

 呆れたような口調だが、今日はまったく迷惑そうではない。酒の力が見せる幻覚だろうか。
 だから、普段は言えないことも言ってしまう。

「以蔵さんは、わたしのことどう思ってるの?」

 以蔵が息を呑んだように見えた。その意味を、今の立香は感じ取れない。

「おまんの……こと……」
「うん、聞かせて?」
「……絡み酒じゃの」
「そうじゃなくてぇ」
可愛かいらしいち思いゆうよ」
「よかったぁ」

 顔がだらしなく崩れてしまう。
 だってしかたないだろう、本当に嬉しいのだ。
 以蔵は立香を恋愛の対象としては見ていない。そのことはよくわかっている。
 それでも、愛らしい存在ではあると言ってもらえた。そのことは素直に嬉しい。
 しかし――
 普段考えないようにしてきたことがらも、一緒に浮かんでしまう。
『愛らしい』だけで、やはり大人の女にはなり得ないのだろうか。
 立香はテーブルに突っ伏し、顔だけ上げて以蔵を見る。以蔵は眉間に皺を寄せていた。

「やっぱり、めいわく……?」

 不安になった立香がこぼすと、以蔵は首を振った。

「ほうやない……おまんに嘘はつきとうないがじゃ」
「うそ、って?」

 立香は頬を天板に押しつけて首を傾げる。以蔵はそんな立香を見て小さく嘆いた。

「……あぁっ! 立香、もう今日は帰れんろう。寝ぇ。ベッド貸いちゃるき」

 身体が熱い。ふわふわする。かたわらに立った以蔵が、立香の両脇に腕を差し入れて立たせる。

「ほれ……もう自分で立てんろう。ほがなようたんぼはざんじ寝ぇよ」

 片腕で腰を支えられて、寝室まで連れて行かれる。やっぱり腕がたくましいな……男の人だ……とふわふわ思う。
 あお向けに寝かされた立香の身体に腕を回し、以蔵は器用にブラジャーのホックを外す。同時にジーンズの前も緩められた。
 これは、そういうことなのかな……。
 期待が募り、目の前の首に腕を伸ばす。しかし以蔵はそれを無情によけた。

「酔うちょったら苦しゅうなるき」

 うまく開かない目で見れば、以蔵は視線を逸らして口に手を当てていた。頬もほんのりと赤い。

「ダメなの……?」
「ダメじゃ言いゆう。おとなしゅう寝ぇ」

 立香に毛布をかぶせると、以蔵は寝室の灯りを落として背中を向けた。
 静寂の中ひとり残される。

(やっぱり……)

 涙が込み上げてきた。

(やっぱり以蔵さんは、わたしのことを女だと思ってない……)

 知っていたことでも、改めて突きつけられると胸をえぐられる。
 何度も据え膳になった。
 何度も拒まれた。
 見返りが欲しくて好きになったわけではない。
 それでも、二十歳を迎えれば少しでも関係が変わるのではないかと思っていた。
 それなのに――。
 横向きになって枕に顔を埋めれば、煙草と以蔵の香りがした。
 少し重めの銘柄は、たぶんそれだけ癖が強い。立香は以蔵のものしか知らないから正確な判断はできないけれど。
 そして、立香を幸福にする匂い。抱きついたりくっついたりするたびに鼻をかすめ、この人に愛されたいと強く思わせる匂い。
 これらを与えてくれるくせに、以蔵は肝腎かんじんなものをくれない。
 ひどく身勝手なのはわかっている。
 わかってはいても。

(これ以上……期待したくない……)

 白い枕カバーに、涙が染みを作る。

(好き……だけど……このままだと……)

 その先を考えてはいけない。よくないことにしかならない。やめろ。
 そんなストッパーを感じながら、立香は眠りに落ちた。
 今夜は以蔵の夢を見たくない。
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