君の未来を愛してる
「おかえり、以蔵さん」
「帰ってこなくていいんだぞ、クソザコナメクジ」
坂本探偵事務所のドアを開けると、応接セットの奥のデスクから龍馬が手を振った。その傍らに浮くお竜は忌々しげに以蔵を見る。
喧嘩を売られているが、それを安易に買いたくはない。以蔵はどっかりとソファに腰を下ろした。大股開きで背もたれに身を預ける以蔵に、お竜は眉をひそめる。
「汚いものを見せつけるな」
「ほたえな」
「第一、そこは客用だ。イゾーはイゾーらしく自分の席で丸まって報告書を書け」
「所長夫人様はずいぶんと肝が小そうございますな? 福利厚生ちゅう言葉はご存知ですかぁ?」
にやにや笑いながら煙草に火を点ける以蔵に、お竜は冷たい爬虫類の視線を投げた。
「リツカと楽しんできたやつに福利厚生なんていらないだろ」
「っ! 何言いゆう!」
いきなり立香の名前を出されてあわてる。しかし以蔵が立香と過ごしていたのは嘘ではないから否定もできない。
「あげな小娘と過ごして楽しいことなんぞあるか!」
「ふーん、お前の中ではそういうことになってるんだな」
「てがいなや蛇女!」
結局喧嘩を買ってしまった。
「まぁまぁ、以蔵さんもお竜さんも」
一触即発の以蔵とお竜を龍馬が取りなす。龍馬はコーヒーカップを片手に、以蔵をいたわるような口調で言った。
「今日も立香ちゃんと会ってたんだね」
「あいつが押しかけてくるき、しかたないろう。わしは来 いらぁて一言も言いやせん」
「でも、来るなとも言ってないんだろう?」
「それは……あいつはまだジャリじゃ。今はわししか見えやせんけんど、そのうち目が覚めてまともな男を好くはずじゃ。ほがな日がじきに来るき、それまでは放っといちょっても問題ないろう」
「答えになってないぞ。結局お前はリツカをキープしてるだけだ」
お竜の的確なツッコミに、以蔵はとうとう反論を失う。
「以蔵さん、突き放す優しさもあるんだよ?」
「……わかっちゅう……」
そう、以蔵もわかっている。
特殊な環境で錯覚した愛情などに振り回されては、ろくなことにならない。立香は冷静ではない。こんな男を選んだら必ず後悔する。
そう思うから、寄ってくる立香をあしらい、無愛想に接しているのだが。
いざ本当に立香が歳相応の堅気の男を選んだら、大人のふりをして抑えていた感情はストッパーをなくし、以蔵はキレ散らかすだろう。
あんだけわしを慕 うちょったがは嘘か。もうわしん方を向いてはくれんがか。ほがなモヤシみたいな男がわしよりも勝 っちゅう言うがか。
合間に汚い悪態を挟みながらそんな風に食ってかかる自分が、ありありと思い浮かべられる。
龍馬とお竜の言う通りだ。本当に立香のことを考えるのなら、今すぐ振ってしまうべきなのだ。
もうすぐ成人を迎える立香の華やぐ時間は有限だ。自分のために粧 って、好きなことをして。一日ごとに失われる時間を有効に使えるよう、大人は彼女を支えなければならない。
しかし心の中で立香への好意を持て余したまま、以蔵は立香の若さを浪費している。
弟よりも歳下の小娘に対して、まったく誠実ではない。もともと他人の気持ちを重要視していなかった以蔵でも、己を好いてくれて己が好いている女へはもう少し向き合わなければならないことはわかる。
逡巡ごと肺から煙を吐く。
龍馬が真面目な顔で以蔵を見た。
「でも実際、以蔵さんは立香ちゃんをどう思ってるんだい?」
「……」
言葉をなくす以蔵に、龍馬は笑顔で踏み込む。
「もし以蔵さんが言いづらいなら、僕から『以蔵さんは迷惑してる』って伝えてもいいけど」
頭に血が上る。
「ほがなこと、せいでえい」
なんとかこらえて言葉を絞り出す以蔵に、龍馬は困ったなとばかりに首を振った。
「以蔵さんは優しい人だから、歳下の立香ちゃんを傷つけるくらいならって我慢しちゃうだろう」
「本当か? このナメクジが?」
「そうなったらお互いにつらい。あのかっこいい以蔵さんが我慢して、あげくに可愛い女の子を傷つけるところなんて、僕は見たくない」
黒い瞳がいたわしげな光を帯びる。
「僕は以蔵さんのためなら何でもするよ」
「せいでえい言うちょる、わしは立香を迷惑には思いやせん」
以蔵の言葉に、幼馴染み兼雇い主はさわやかな笑顔を浮かべた。
「迷惑じゃないってだけなら、以蔵さんが困った時に僕が先手を打って立香ちゃんを排除してもいいわけだね?」
「しわい!」
以蔵は思わず叫んでいた。
「余計なことすなや龍馬! あいつをわしから引きはがすような真似してみぃ、おまんを寸刻みにしちゃるき!」
「冗談でも言っていいことと悪いことがあるぞ、クソザコナメクジ」
いきり立つお竜の袖を掴み、龍馬はぱっと破顔した。
「いいんだお竜さん、僕は以蔵さんの本音が聞きたかったんだ。以蔵さんは僕らの前だとなかなか本音を出さないからね。きちんと立香ちゃんのことを想ってるって言ってくれて、僕は嬉しいよ」
以蔵を見つめる表情は、不思議な自信に満ちている。以前ある依頼人が『後方保護者面』と言っていたが、以蔵はその言葉の意味を知らない。
「おまんはわしを挑発して言質 ぃ引き出したっちゅうことか」
歯ぎしりする以蔵を薄目で見て、龍馬は続ける。
「立香ちゃんは可愛いよね。真面目で善良でひたむきで。あの事件の後味がいいものだったのは彼女のおかげさ」
「おまんにそう言われるとまっことえずいがよ」
「話は最後まで聞いて。可愛い立香ちゃんは、以蔵さんのかっこよさをよくわかってる。きっと彼女は以蔵さんをよく助けてくれるだろう。そして、僕にとっても以蔵さんは大事なんだ。彼女が以蔵さんの幸せのパーツになるなら、僕はなんでもするよ」
微妙に立香の人権を損ねるようなことを言っている。
「リョーマ、そのナメクジを甘やかしたら調子に乗るぞ。『突き放す優しさもある』んじゃなかったのか」
お竜の言葉にも、龍馬は笑顔で答える。
「それは以蔵さんが立香ちゃんを好きじゃなかった時の話さ。以蔵さんの気持ちははっきりわかったんだから、僕は以蔵さんを見守るよ」
「お竜さんはイゾーの機微なんてどうでもいいが……リョーマがそれでいいならお竜さんも構わない。よかったなクソザコナメクジ、リツカとはいつ交尾するんだ?」
その言いように、以蔵は息を呑んだ。折悪しく煙を吐こうとした瞬間だったから、呼吸をしくじって咳き込んでしまう。
「こっ、こん……蛇女……」
「好き合っているニンゲンは交尾するんだろう?」
「未成年に手ぇらぁて出せるか! 大学卒業するまではほがな関係にはならん!」
喉を抑えながら以蔵は言う。ふわふわ浮いたお竜は上から龍馬を覗き見た。
「イゾーがまともなこと言ってる……明日は槍が降るな、リョーマ」
「お竜さんは知らなかったかもしれないけど、以蔵さんは真面目な人なんだ。本当に好きな子ができたら、ふさわしい時まで待てるさ」
「おまんも見てきたようにわしを語りなや……」
以蔵はソファのヘッドレストに後頭部を置き、天井に向かって煙を吐いた。
以蔵は立香の幸せを形作れるのだろうか。
坂本探偵事務所は、ターミナル駅から徒歩十五分のうら寂れた通りにある。以蔵はここで人探しや浮気調査、いじめの証拠集めなど、決して自慢できない案件で糊口をしのいでいる。給料は出来高制で、案件がなければ微々たる固定給しか支払われない。時折特殊な、実入りのいい仕事も来るが――あくまでイレギュラーと考えなければならない。
そんな以蔵と一緒になったら、立香には苦労を強いるだろう。
それでもいい、以蔵さんと一緒にいられるなら、と立香は満面の笑顔で言うはずだ。
いつでも離れられるよう、束縛せずに接せればいいのだろうが――それは無理だ。一度掴んだ宝物を手放せるほど、以蔵は謙虚ではない。
あぁ――
金色の瞳のきらめきを思い出す。
あの夜、壁際に追い詰められた立香をギリギリのタイミングで見つけ、脱法に近い得物を振るって踊りかかり、脅威を立香から引き剥がした。
立香の懐に飛び込み、身を翻すまでの一瞬、立香の強すぎる感情をその瞳でぶつけられた。
その瞬間に、以蔵の心の動きは決まったようなものだ。
「りつか」
煙草をくわえたまま、可愛い女の名を呼ぶ。
幸せにできるかどうかはわからない。
ただ、この女とともにいられれば、以蔵は間違いなく幸せになれる。
そんな利己的な愛情は許されるだろうか。
この気持ちを立香に見透かされないように――このことを知れば、立香は以蔵のベッドまで入り込んで来かねない――以蔵は煙草のフィルターを噛んだ。
「帰ってこなくていいんだぞ、クソザコナメクジ」
坂本探偵事務所のドアを開けると、応接セットの奥のデスクから龍馬が手を振った。その傍らに浮くお竜は忌々しげに以蔵を見る。
喧嘩を売られているが、それを安易に買いたくはない。以蔵はどっかりとソファに腰を下ろした。大股開きで背もたれに身を預ける以蔵に、お竜は眉をひそめる。
「汚いものを見せつけるな」
「ほたえな」
「第一、そこは客用だ。イゾーはイゾーらしく自分の席で丸まって報告書を書け」
「所長夫人様はずいぶんと肝が小そうございますな? 福利厚生ちゅう言葉はご存知ですかぁ?」
にやにや笑いながら煙草に火を点ける以蔵に、お竜は冷たい爬虫類の視線を投げた。
「リツカと楽しんできたやつに福利厚生なんていらないだろ」
「っ! 何言いゆう!」
いきなり立香の名前を出されてあわてる。しかし以蔵が立香と過ごしていたのは嘘ではないから否定もできない。
「あげな小娘と過ごして楽しいことなんぞあるか!」
「ふーん、お前の中ではそういうことになってるんだな」
「てがいなや蛇女!」
結局喧嘩を買ってしまった。
「まぁまぁ、以蔵さんもお竜さんも」
一触即発の以蔵とお竜を龍馬が取りなす。龍馬はコーヒーカップを片手に、以蔵をいたわるような口調で言った。
「今日も立香ちゃんと会ってたんだね」
「あいつが押しかけてくるき、しかたないろう。わしは
「でも、来るなとも言ってないんだろう?」
「それは……あいつはまだジャリじゃ。今はわししか見えやせんけんど、そのうち目が覚めてまともな男を好くはずじゃ。ほがな日がじきに来るき、それまでは放っといちょっても問題ないろう」
「答えになってないぞ。結局お前はリツカをキープしてるだけだ」
お竜の的確なツッコミに、以蔵はとうとう反論を失う。
「以蔵さん、突き放す優しさもあるんだよ?」
「……わかっちゅう……」
そう、以蔵もわかっている。
特殊な環境で錯覚した愛情などに振り回されては、ろくなことにならない。立香は冷静ではない。こんな男を選んだら必ず後悔する。
そう思うから、寄ってくる立香をあしらい、無愛想に接しているのだが。
いざ本当に立香が歳相応の堅気の男を選んだら、大人のふりをして抑えていた感情はストッパーをなくし、以蔵はキレ散らかすだろう。
あんだけわしを
合間に汚い悪態を挟みながらそんな風に食ってかかる自分が、ありありと思い浮かべられる。
龍馬とお竜の言う通りだ。本当に立香のことを考えるのなら、今すぐ振ってしまうべきなのだ。
もうすぐ成人を迎える立香の華やぐ時間は有限だ。自分のために
しかし心の中で立香への好意を持て余したまま、以蔵は立香の若さを浪費している。
弟よりも歳下の小娘に対して、まったく誠実ではない。もともと他人の気持ちを重要視していなかった以蔵でも、己を好いてくれて己が好いている女へはもう少し向き合わなければならないことはわかる。
逡巡ごと肺から煙を吐く。
龍馬が真面目な顔で以蔵を見た。
「でも実際、以蔵さんは立香ちゃんをどう思ってるんだい?」
「……」
言葉をなくす以蔵に、龍馬は笑顔で踏み込む。
「もし以蔵さんが言いづらいなら、僕から『以蔵さんは迷惑してる』って伝えてもいいけど」
頭に血が上る。
「ほがなこと、せいでえい」
なんとかこらえて言葉を絞り出す以蔵に、龍馬は困ったなとばかりに首を振った。
「以蔵さんは優しい人だから、歳下の立香ちゃんを傷つけるくらいならって我慢しちゃうだろう」
「本当か? このナメクジが?」
「そうなったらお互いにつらい。あのかっこいい以蔵さんが我慢して、あげくに可愛い女の子を傷つけるところなんて、僕は見たくない」
黒い瞳がいたわしげな光を帯びる。
「僕は以蔵さんのためなら何でもするよ」
「せいでえい言うちょる、わしは立香を迷惑には思いやせん」
以蔵の言葉に、幼馴染み兼雇い主はさわやかな笑顔を浮かべた。
「迷惑じゃないってだけなら、以蔵さんが困った時に僕が先手を打って立香ちゃんを排除してもいいわけだね?」
「しわい!」
以蔵は思わず叫んでいた。
「余計なことすなや龍馬! あいつをわしから引きはがすような真似してみぃ、おまんを寸刻みにしちゃるき!」
「冗談でも言っていいことと悪いことがあるぞ、クソザコナメクジ」
いきり立つお竜の袖を掴み、龍馬はぱっと破顔した。
「いいんだお竜さん、僕は以蔵さんの本音が聞きたかったんだ。以蔵さんは僕らの前だとなかなか本音を出さないからね。きちんと立香ちゃんのことを想ってるって言ってくれて、僕は嬉しいよ」
以蔵を見つめる表情は、不思議な自信に満ちている。以前ある依頼人が『後方保護者面』と言っていたが、以蔵はその言葉の意味を知らない。
「おまんはわしを挑発して
歯ぎしりする以蔵を薄目で見て、龍馬は続ける。
「立香ちゃんは可愛いよね。真面目で善良でひたむきで。あの事件の後味がいいものだったのは彼女のおかげさ」
「おまんにそう言われるとまっことえずいがよ」
「話は最後まで聞いて。可愛い立香ちゃんは、以蔵さんのかっこよさをよくわかってる。きっと彼女は以蔵さんをよく助けてくれるだろう。そして、僕にとっても以蔵さんは大事なんだ。彼女が以蔵さんの幸せのパーツになるなら、僕はなんでもするよ」
微妙に立香の人権を損ねるようなことを言っている。
「リョーマ、そのナメクジを甘やかしたら調子に乗るぞ。『突き放す優しさもある』んじゃなかったのか」
お竜の言葉にも、龍馬は笑顔で答える。
「それは以蔵さんが立香ちゃんを好きじゃなかった時の話さ。以蔵さんの気持ちははっきりわかったんだから、僕は以蔵さんを見守るよ」
「お竜さんはイゾーの機微なんてどうでもいいが……リョーマがそれでいいならお竜さんも構わない。よかったなクソザコナメクジ、リツカとはいつ交尾するんだ?」
その言いように、以蔵は息を呑んだ。折悪しく煙を吐こうとした瞬間だったから、呼吸をしくじって咳き込んでしまう。
「こっ、こん……蛇女……」
「好き合っているニンゲンは交尾するんだろう?」
「未成年に手ぇらぁて出せるか! 大学卒業するまではほがな関係にはならん!」
喉を抑えながら以蔵は言う。ふわふわ浮いたお竜は上から龍馬を覗き見た。
「イゾーがまともなこと言ってる……明日は槍が降るな、リョーマ」
「お竜さんは知らなかったかもしれないけど、以蔵さんは真面目な人なんだ。本当に好きな子ができたら、ふさわしい時まで待てるさ」
「おまんも見てきたようにわしを語りなや……」
以蔵はソファのヘッドレストに後頭部を置き、天井に向かって煙を吐いた。
以蔵は立香の幸せを形作れるのだろうか。
坂本探偵事務所は、ターミナル駅から徒歩十五分のうら寂れた通りにある。以蔵はここで人探しや浮気調査、いじめの証拠集めなど、決して自慢できない案件で糊口をしのいでいる。給料は出来高制で、案件がなければ微々たる固定給しか支払われない。時折特殊な、実入りのいい仕事も来るが――あくまでイレギュラーと考えなければならない。
そんな以蔵と一緒になったら、立香には苦労を強いるだろう。
それでもいい、以蔵さんと一緒にいられるなら、と立香は満面の笑顔で言うはずだ。
いつでも離れられるよう、束縛せずに接せればいいのだろうが――それは無理だ。一度掴んだ宝物を手放せるほど、以蔵は謙虚ではない。
あぁ――
金色の瞳のきらめきを思い出す。
あの夜、壁際に追い詰められた立香をギリギリのタイミングで見つけ、脱法に近い得物を振るって踊りかかり、脅威を立香から引き剥がした。
立香の懐に飛び込み、身を翻すまでの一瞬、立香の強すぎる感情をその瞳でぶつけられた。
その瞬間に、以蔵の心の動きは決まったようなものだ。
「りつか」
煙草をくわえたまま、可愛い女の名を呼ぶ。
幸せにできるかどうかはわからない。
ただ、この女とともにいられれば、以蔵は間違いなく幸せになれる。
そんな利己的な愛情は許されるだろうか。
この気持ちを立香に見透かされないように――このことを知れば、立香は以蔵のベッドまで入り込んで来かねない――以蔵は煙草のフィルターを噛んだ。
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