白金の福音
生徒会長こと、雲雀純也は嘆息した。
彼の頭を悩ます原因は、最近並盛及び黒曜町近辺に出没する謎の通り魔事件である。
校内には十分注意し、夜に出歩くことがないようお触れを出している。
しかし、中学生という奴は面倒なもので、注意されればされるほどに、それを破りたくなる奴がいるものである。
それでなくても、受験を目前にした塾通いの連中などは夜遅くまで塾で勉強しているわけで、結果として昨晩、また新たな被害者が出てしまった。
……とは言っても、そこまでならばこうも頭を悩ませることはなかった。
こちらは十分な注意喚起の上で、町中に生徒会や風紀の強者達を配備し、万全の警戒体制を敷いている。
それで出歩いて被害に会う奴らなど知ったことか。
塾生だって例外ではない。
勉強などは自宅でせよ。
そもそも我々は一生徒会に過ぎず、責められるべきは警察組織で、こちらは十分以上の仕事をしている。
それで文句を言う奴が居ようものなら、きっと文句を言い終わる前に、この拳が歯を三本ほど折ることになるだろう。
だから、純也がこうも頭を抱えている要因は別にある。
通り魔、と言われているそれ。
その被害があまりにも異様であった。
被害者が負った傷は、よくある刃物で切りつけられたような傷ではなくて、まるで野犬にでも襲われたかのような、痛々しく肉を抉る噛み傷。
そして皮膚を赤く腫れ上がらせる火傷の後だった。
それ以外にも、ばつ印に切られた傷跡も共通してあったので、恐らくは人の手によるものだとは思われる。
愉快犯的な動機があるのか、それとも別の理由があるのか。
とにもかくにも、犯人を捕まえて警察にでも突き出してやれば解決する、はずだった。
だが、……ここが一番の問題なのだが、通り魔犯の顔は、その被害者の誰も覚えていないのだ。
『覚えていません』という話を四度目に聞いたとき、純也は遂にキレて被害者を絞め殺しそうになったが、それは運良く未遂に終わった。
被害者の話は、どれも曖昧で、ハッキリとしないものばかりだった。
化け物、炎、大きい、足が上手く動かなくなった、大きな声で驚いて転んだ、思い切りぶつかられた、……誰の言葉にも共通してるのは、顔も……背格好も全く覚えてない、というところだ。
一つ気になるのは、炎に巻かれた気がする、という不良グループの少年の話である。
純也が絞め殺しそうになった相手であるが、掴み掛かられて息も絶え絶えな中で、『姿もおぼろ気な相手に襲われたその後、突然青黒い炎に取り囲まれた』という証言をした。
改めてそれ以前に襲われた者達に尋ねれば、同じくそういう記憶があると証言する。
どうも、気絶する直前の夢か何かと思っていたらしいが、全員がそんな記憶を持っているのは明らかに不自然だった。
薬物でも打たれているのではないかと、念のため全員を検査したが、そのような痕跡はない。
いったい全体何がどうなっているのか。
いつも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる草壁にも相談したが、少し考え込んだ後、職場に持ち帰り詳しく調査してみる、と言われた。
しかしその後、調査結果は上がってきていない。
「まったく……、どんな手を使ってるんだ」
一人夜道を歩きながら、純也は再び大きなため息をこぼす。
人気のない公園沿いの歩道に、街灯に照らされた彼の影だけがゆらゆらと揺れている。
今日もまた、通り魔のお陰で夜の巡回をしなければならない。
風紀や生徒会の連中は二人一組で動かしているが、自分だけは別だった。
足手まといに着いてこられても困る。
一人の方がよっぽど楽だ。
いくら謎の多い通り魔と言えど、あの破天荒が過ぎる父親に殴られ続けてきた自分には叶うまい。
……相手が、人間ならば。
「っ!」
突然、公園の生け垣がガサガサと音を立てた。
遂に出たかと身構える。
しかし、生け垣から現れたのは、彼の予想とはかけ離れた、まさしく『化け物』であった。
一見するとそれは犬のようであった。
ドーベルマンによく似たそれは、しかしじっくり観察すれば、明らかに犬ではないことがわかる。
硬い鎧に覆われた脚、虫のような複眼に触覚まで生えている。
その冒涜的な異形の姿に、思わず息が止まる。
パーツだけなら、どこかで見たことのあるようなもの。
しかしその全体は、これまで目にしたことのない、……『化け物』。
ぐるる、と低く唸る化け物に、はっとして下ろしかけていた腕を構え直す。
しかし素手でこの化け物に挑むのは、あまりにも無謀すぎる。
純也が軽く腕を振ると、その袖口から鉄の棒が飛び出す。
彼がそれを掴むのと、化け物が牙を剥いて飛びかかってくるのは同時だった。
異様に鋭く長い爪と、街灯を跳ね返して煌めく牙が、純也の腕を目掛けて飛び付いてくる。
それを避けて、化け物の首目掛けて鉄の棒……父から譲り受けたトンファーを振り下ろした。
「いっ……!」
だがその攻撃は敵へダメージを与えるどころか、自分に跳ね返ってくる。
化け物の皮膚はとんでもなく硬い。
黒光りする毛皮の奥には、いったいどんな強堅な筋肉が潜んでいるのだろうか。
ゴリラか何かか、と内心口汚く罵ったが、案外間違いでもないのかもしれない。
普通の犬とは比べものにならない程の、強い筋力、脚力。
化け物から距離を取り、ふと手元を見下ろした純也は、ひゅっと息を飲み込んだ。
「ワオ、やるね……」
化け物の首に叩き付けた方のトンファーは、どういうわけか、一部が風化したようにぐしゃりと歪んでおり、もう一度叩き付けたりなんかすれば、きっとポッキリと折れてしまうだろうとわかる。
恐らく、中の仕込み武器も駄目になっている。
口では余裕ぶっていても、戦力を半分削られたに等しい現状に、背筋を冷や汗が伝った。
舌打ちをしてトンファーを投げ捨てる。
使えないトンファーはただの荷物。
何とか片方でやるしかないだろう。
化け物は再びこちらへ向き直り、かしかしとその長い爪でアスファルトを引っ掻いた。
相手はすっかり、こちらを追い詰めた気でいるらしい。
「……来なよ、化け物。躾けてあげる」
「ガルルァ!!!」
凄まじいスピードで迫る化け物の牙を、紙一重で避けた。
堅かった首や、筋肉の隆起している脚はダメだ。
狙い目は、脇、関節部。
カシリと仕込んでいた棘を出し、最少の動きでトンファーを振るった、はずだった。
「が、ぁ……!?」
肩に衝撃と熱を感じる。
すぐに、どこかから攻撃されたのだと気が付いた。
自分の横を通り過ぎた化け物が、その尾を自慢げに揺らしている。
黒い根本から、先に掛けて赤毛にグラデーションがかかっているそれは、カンガルーの尾のようにしなやかで丈夫そうに見える。
その複眼で自分の背後まで見渡して、純也の肩を尾で打ったのだろう。
じくじくと熱を持ち、激しく痛み始めた肩を押さえて、地面に膝をつく。
化け物が笑ったように見えた。
このままでは殺される。
しかし抵抗する手段が見当たらない。
必死で頭を回せども、『今の自分には無理である』という以外の結論は出そうにない。
「──ゥオーーーン!!!!」
「っう……!」
化け物が空に向かって大きく吼えた。
その大音声に、今度は耳を押さえる。
体の中まで揺さぶられるような感覚。
鳴き声までが化け物なのか。
食い縛った歯がギリギリと鳴る。
相手は余裕ぶって、ちゃっちゃっ、と爪を鳴らして、純也の周りをゆったりと歩き始めた。
まるで、どこから食ってやろうかと品定めしているようにも見える。
ぴくんっと、その耳が跳ねた。
「ガァアッ!!!」
真っ赤な口と、真っ白な牙が目前に迫る。
次の瞬間、視界は真っ青に塗り潰された。
彼の頭を悩ます原因は、最近並盛及び黒曜町近辺に出没する謎の通り魔事件である。
校内には十分注意し、夜に出歩くことがないようお触れを出している。
しかし、中学生という奴は面倒なもので、注意されればされるほどに、それを破りたくなる奴がいるものである。
それでなくても、受験を目前にした塾通いの連中などは夜遅くまで塾で勉強しているわけで、結果として昨晩、また新たな被害者が出てしまった。
……とは言っても、そこまでならばこうも頭を悩ませることはなかった。
こちらは十分な注意喚起の上で、町中に生徒会や風紀の強者達を配備し、万全の警戒体制を敷いている。
それで出歩いて被害に会う奴らなど知ったことか。
塾生だって例外ではない。
勉強などは自宅でせよ。
そもそも我々は一生徒会に過ぎず、責められるべきは警察組織で、こちらは十分以上の仕事をしている。
それで文句を言う奴が居ようものなら、きっと文句を言い終わる前に、この拳が歯を三本ほど折ることになるだろう。
だから、純也がこうも頭を抱えている要因は別にある。
通り魔、と言われているそれ。
その被害があまりにも異様であった。
被害者が負った傷は、よくある刃物で切りつけられたような傷ではなくて、まるで野犬にでも襲われたかのような、痛々しく肉を抉る噛み傷。
そして皮膚を赤く腫れ上がらせる火傷の後だった。
それ以外にも、ばつ印に切られた傷跡も共通してあったので、恐らくは人の手によるものだとは思われる。
愉快犯的な動機があるのか、それとも別の理由があるのか。
とにもかくにも、犯人を捕まえて警察にでも突き出してやれば解決する、はずだった。
だが、……ここが一番の問題なのだが、通り魔犯の顔は、その被害者の誰も覚えていないのだ。
『覚えていません』という話を四度目に聞いたとき、純也は遂にキレて被害者を絞め殺しそうになったが、それは運良く未遂に終わった。
被害者の話は、どれも曖昧で、ハッキリとしないものばかりだった。
化け物、炎、大きい、足が上手く動かなくなった、大きな声で驚いて転んだ、思い切りぶつかられた、……誰の言葉にも共通してるのは、顔も……背格好も全く覚えてない、というところだ。
一つ気になるのは、炎に巻かれた気がする、という不良グループの少年の話である。
純也が絞め殺しそうになった相手であるが、掴み掛かられて息も絶え絶えな中で、『姿もおぼろ気な相手に襲われたその後、突然青黒い炎に取り囲まれた』という証言をした。
改めてそれ以前に襲われた者達に尋ねれば、同じくそういう記憶があると証言する。
どうも、気絶する直前の夢か何かと思っていたらしいが、全員がそんな記憶を持っているのは明らかに不自然だった。
薬物でも打たれているのではないかと、念のため全員を検査したが、そのような痕跡はない。
いったい全体何がどうなっているのか。
いつも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる草壁にも相談したが、少し考え込んだ後、職場に持ち帰り詳しく調査してみる、と言われた。
しかしその後、調査結果は上がってきていない。
「まったく……、どんな手を使ってるんだ」
一人夜道を歩きながら、純也は再び大きなため息をこぼす。
人気のない公園沿いの歩道に、街灯に照らされた彼の影だけがゆらゆらと揺れている。
今日もまた、通り魔のお陰で夜の巡回をしなければならない。
風紀や生徒会の連中は二人一組で動かしているが、自分だけは別だった。
足手まといに着いてこられても困る。
一人の方がよっぽど楽だ。
いくら謎の多い通り魔と言えど、あの破天荒が過ぎる父親に殴られ続けてきた自分には叶うまい。
……相手が、人間ならば。
「っ!」
突然、公園の生け垣がガサガサと音を立てた。
遂に出たかと身構える。
しかし、生け垣から現れたのは、彼の予想とはかけ離れた、まさしく『化け物』であった。
一見するとそれは犬のようであった。
ドーベルマンによく似たそれは、しかしじっくり観察すれば、明らかに犬ではないことがわかる。
硬い鎧に覆われた脚、虫のような複眼に触覚まで生えている。
その冒涜的な異形の姿に、思わず息が止まる。
パーツだけなら、どこかで見たことのあるようなもの。
しかしその全体は、これまで目にしたことのない、……『化け物』。
ぐるる、と低く唸る化け物に、はっとして下ろしかけていた腕を構え直す。
しかし素手でこの化け物に挑むのは、あまりにも無謀すぎる。
純也が軽く腕を振ると、その袖口から鉄の棒が飛び出す。
彼がそれを掴むのと、化け物が牙を剥いて飛びかかってくるのは同時だった。
異様に鋭く長い爪と、街灯を跳ね返して煌めく牙が、純也の腕を目掛けて飛び付いてくる。
それを避けて、化け物の首目掛けて鉄の棒……父から譲り受けたトンファーを振り下ろした。
「いっ……!」
だがその攻撃は敵へダメージを与えるどころか、自分に跳ね返ってくる。
化け物の皮膚はとんでもなく硬い。
黒光りする毛皮の奥には、いったいどんな強堅な筋肉が潜んでいるのだろうか。
ゴリラか何かか、と内心口汚く罵ったが、案外間違いでもないのかもしれない。
普通の犬とは比べものにならない程の、強い筋力、脚力。
化け物から距離を取り、ふと手元を見下ろした純也は、ひゅっと息を飲み込んだ。
「ワオ、やるね……」
化け物の首に叩き付けた方のトンファーは、どういうわけか、一部が風化したようにぐしゃりと歪んでおり、もう一度叩き付けたりなんかすれば、きっとポッキリと折れてしまうだろうとわかる。
恐らく、中の仕込み武器も駄目になっている。
口では余裕ぶっていても、戦力を半分削られたに等しい現状に、背筋を冷や汗が伝った。
舌打ちをしてトンファーを投げ捨てる。
使えないトンファーはただの荷物。
何とか片方でやるしかないだろう。
化け物は再びこちらへ向き直り、かしかしとその長い爪でアスファルトを引っ掻いた。
相手はすっかり、こちらを追い詰めた気でいるらしい。
「……来なよ、化け物。躾けてあげる」
「ガルルァ!!!」
凄まじいスピードで迫る化け物の牙を、紙一重で避けた。
堅かった首や、筋肉の隆起している脚はダメだ。
狙い目は、脇、関節部。
カシリと仕込んでいた棘を出し、最少の動きでトンファーを振るった、はずだった。
「が、ぁ……!?」
肩に衝撃と熱を感じる。
すぐに、どこかから攻撃されたのだと気が付いた。
自分の横を通り過ぎた化け物が、その尾を自慢げに揺らしている。
黒い根本から、先に掛けて赤毛にグラデーションがかかっているそれは、カンガルーの尾のようにしなやかで丈夫そうに見える。
その複眼で自分の背後まで見渡して、純也の肩を尾で打ったのだろう。
じくじくと熱を持ち、激しく痛み始めた肩を押さえて、地面に膝をつく。
化け物が笑ったように見えた。
このままでは殺される。
しかし抵抗する手段が見当たらない。
必死で頭を回せども、『今の自分には無理である』という以外の結論は出そうにない。
「──ゥオーーーン!!!!」
「っう……!」
化け物が空に向かって大きく吼えた。
その大音声に、今度は耳を押さえる。
体の中まで揺さぶられるような感覚。
鳴き声までが化け物なのか。
食い縛った歯がギリギリと鳴る。
相手は余裕ぶって、ちゃっちゃっ、と爪を鳴らして、純也の周りをゆったりと歩き始めた。
まるで、どこから食ってやろうかと品定めしているようにも見える。
ぴくんっと、その耳が跳ねた。
「ガァアッ!!!」
真っ赤な口と、真っ白な牙が目前に迫る。
次の瞬間、視界は真っ青に塗り潰された。