朱と交われば

初めて過ごす家とか、二人っきりの空間とか、不器用ながらもあれこれ手伝おうとしてくれるザンザスとか、緊張することも、嬉しいことも、驚くこともたくさんあった一日。
まさかこんなことになるなんて、予想外にも程がある。
それでもオレは、この世界を受け入れた。
夜、8時を過ぎた辺りである。
オレは一人で部屋に籠り、ベッドの縁に腰かける。
今日は移動やら何やらと、体を動かすことが多かった。
流石に少し体が重い。
目が覚めたあの時から、どうにも体力が大幅に減ってしまっているらしい。
怪我が何故か一気に治った副作用だとか、単純に寝たきりが祟った結果だとか、怪我の影響で体に不調が出てるのだとか、色んな事を言われたけれど、結論、再び元の体力を取り戻せるかはまったくわからないと言う話である。
気分まで重くなってきてしまい、とっとと切り替えようと息を吐き出した。

「まだ万全には程遠いらしいな」
「!……リボーン」

閉めていたはずの窓が空いていた。
そこから姿を現したのは、沢田綱吉の家庭教師などと名乗る、小さな殺し屋(ヒットマン)だった。
まるで気配を感じられなかったのは、自分が弱っているからか、それとも相手が上手なだけか。

「聞きたいことがある、だったか?」
「ああ、わざわざ足を運んでもらって済まない」
「怪我人の女に無理させるわけにはいかねーからな」

この殺し屋は女に優しいだなどと昔聞いた気がするが、本当なのだろうか。
女扱いしてもらわなくても結構ではあるが、今回に関しては相手に出向いてもらっているのもあって、素直にその言葉を受け止める。

「日記の事だぁ。その日記、いったい誰から受け取った?」
「?おかしな事を聞くな。ママンからだぞ。お前が渡したんだろ?」
「ママン……?沢田奈々のことか?」

聞きたいことがある。
そう書いたメモを、この殺し屋の帽子に差し入れたのは、今日挨拶に行った沢田家での一瞬だ。
ザンザスから、日記を見たのだと言われた瞬間、オレは何を言われたのかわからず首をかしげた。
あれやこれやと頭を巡らせ、それでもわからず、初めにそれを受け取った者達に話を聞く事にした。

「オレが沢田奈々に日記を渡したって?」
「……違うのか?だが確かに、あの時ママンは長い銀髪の青年から渡されたと言ってたぞ」
「あの時……オレが彼女に会わなかったのは、大空のリング争奪戦当日だ。その日の事か?」
「会わなかっただと?どういうことだスクアーロ」

そうだ、オレは沢田の母親に物を渡した覚えはない。
ましてや、日記なんて物は、『書いたこともない』のだ。

「ちょっとした覚え書きなら、ノートにつけたりもする。だが人名を入れたり、仕事の内容や、プライベートを記したノートなんて持ってない。……でも、ザンザスに見せられたノートは確かに、オレの筆跡で記されていた。それに……その内容は確かに、オレに起こった事、オレの考えたこと、そのものだった」

おかしいのだ。
最後の最後でそんな間抜けをオレは踏まない。
オレの企みに繋がる証拠は、人の記憶を消す以外、出来る限りの全てを消した。
日記だなんて、消さないわけがない。
そもそも書いてもいないのだから、消そうなんて思いもしない。

「なら……いったい誰がこんな事を?何か心当たりはねーのか?」
「それが……」

心当たりと言われて、思い浮かぶ知り合いはいない。
なのに、何故だろう、オレはそれをした人を知っている気がしてならない。

「……ずっと、誰かに助けられている気がする。日記の事も、この傷が治った不可思議な現象の事も……。相手が誰かなんてわからねぇ。でもオレは、それを知っている気がする……」
「……完璧に筆跡を真似て、日記を記すことならオレでも出来るだろーな。でも、お前の気持ちそのままを書き写すことも、ましてや瀕死の重症を一瞬で命に別状のないレベルまで治すことも、人間に出来る程度を越えている。……日記、本当にお前が書いたんじゃないんだな」
「……自分が二重人格にでもなったのかと疑ったさ。だが、確かに書いてない。それにこれが沢田奈々の手に渡った日、オレは自分の後始末のために方々を走り回ってた。そんな暇はないはずなんだぁ」

ぐっと、心臓の部分を服の上から押さえた。
困惑する気持ちとは裏腹に、今日もこの心臓は元気に動いている。
何が起こったのか、誰が何の為にそうしたのか、さっぱりわからないし、推測すらつかない。
だが特別気持ち悪さや恐怖などは感じないのが、また不思議であった。

「……つまらないことを聞いたな。わざわざ来てもらって悪い。今度何か礼を」
「気にすんな。オレも気になる案件だからな、まあ暇な時に少し調べてみるぞ」
「そう、か。……ありがとう」

礼を言うときは笑って言えと、先日ルッスーリアに言われたのを思い出す。
謝れば怒られるし、礼を言えば叱られるし、散々だったけど、その言葉には確かに納得した。
浮かべた笑顔は、きっとぎこちなかっただろう。
それでもリボーンは気にした様子もなく、窓から飛び降り、近くまで来ると、オレの頬に軽く唇を寄せてから、いつも通りのポーカーフェイスで『チャオ』とだけ言って帰っていった。

「……そろそろ、ザンザスの奴風呂から上がるかな」

時計を見れば、既に長針が下を指していて、思っていたよりも長い時間話し込んでいたようだと驚く。
自分自身はカラスの行水だけれども、ザンザスは意外にも風呂好きで、長い時間浸かってることが多い。
いつも、出てくる時間を予測して、好きな銘柄の酒やつまみを用意していた。
まだ自分の舌は麻痺しているような感覚で、味ははっきりとわからないけれど、少しずつ回復はしているみたいだ。
いつかまた、自分の手で料理を作って食べてもらいたい。
そう思って、あれこれレシピを漁ってはいるけれど、今日はひとまず買ったものを皿に移して出す。
いい顔はしないだろうけれど、しばらくの辛抱だ。

「出た」
「ん"、髪の毛乾かすから、こっち来いよ」
「ああ」

ソファーに座ってもらってから、まずは目の前に冷たいお茶を置いて、ドライヤーを手に取る。
湿った髪を乾かしながら、ぼんやりと考え事に耽る。
こうしていると、何だかまるで今までの事が全部夢みたいに思える。
あの8年間も、ザンザスを裏切ったあの日も。
全部、オレが夢に見ただけで、本当は14歳のあの日からずっと、オレはザンザスの側で尽くしてきたんじゃないか……。
でも、違う。
これまで負ってきた傷は、治ったとはいえ、色濃く跡を残していた。
オレが殺した人達は決して蘇らないし、護れなかったものも同じく……。

「カスザメ」
「っ……どうしたぁ?」
「風呂は」
「オレは、ああ、入る」

ザンザスの声に、意識を取り戻す。
粗方乾いた髪を軽く整えて、終わりの合図に肩を叩いた。
すぐに離れるはずだった手は、延びてきた武骨な手に捕まって動けなくなる。

「ザンザス?」
「……一人で大丈夫か」
「!へへ、そんくらい平気だっての。何だよ、心配してくれんのかぁ?」
「当たり前だろ」
「っ!」

当たり前だなんて言われるとは、思ってなかった。
驚いて固まってしまう。
ザンザスに手を引かれて、僅かに腰を曲げる。
何度も、何度も、この手に引かれて、この場所に戻ってきたのだなぁと思うと、酷く感慨深くて、とても愛おしく、思えてきてしまう。

「無理そうなら、言え」
「……おう」
「何だよ、その顔は」

力の抜けたオレの間抜け面を見て、ザンザスがむすりと不機嫌そうにする。
だって仕方がないじゃないか。
こんな風に気にかけてもらえたのはあんたが初めてなんだ。
ぶすくれる顔に、そうっと額を重ねた。

「好きだなぁ……ってよ」
「あ?」
「好き、ザンザスの事、好き」
「……は?」
「忠誠心と間違えてるかもしんねぇ。憧れと取り違えてるかも。でも、オレ、お前の事、すごく、好きだ」
「っ!」

ぱっとザンザスが離れた。
顔が真っ赤になっていて、らしくもない表情に、今度こそ笑いが漏れてしまう。

「っ!いきなり、分かりきったこと言ってんじゃねぇ」
「でも、言わなきゃ。オレ、いつ死ぬかわかんねーし」
「死なねーよ。オレがいるのに、死なせるわけがねぇだろ」
「でも、言わないより言っておきたいからな」
「……ちっ、とっとと風呂入ってこい、カス」

ザンザスが視線を逸らして、ソファーにどっかりと座り直す。
その拗ねたような背中までもが、愛おしく思えて仕方がない。
例え、この光景が夢だったとしても。
例え、全てが偽りであったとしても。
どんな絶望に襲われても。
どんな地獄に囚われても。
少なくとも今、オレの抱いた小さな幸せが、消えてなくなることはないのだろう。
ふと誰かに、お礼を言いたくなった。
ザンザスだろうか。
ヴァリアーの連中だろうか。
沢田達だろうか。
それとも、思い出せない、誰かに向けてか。

「ありがとう……」

誰にともなく呟いた言葉は、その誰かに届くことはないけれど、いつか直接、伝えたい。
いま、真っ赤な炎に染め上げられて、美しく照らし出されるこの世界を、大切な人と共に生きる幸せを、感謝の言葉と共に伝えたい。
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