朱と交われば

スクアーロのことが嫌いだった。
あいつはボスに一番気に入られている。
あいつはボスの一番近くにいる。
あいつはどんな仕事も卒なくこなしてしまう。
あいつは多くの部下に慕われている。
あいつはオレを易々と上回っておいて尚、自分がまだ未熟だと考える。
何より、あのクーデターの時、最後までボスの側にいたのがあいつだということも、最後まで側にいたのにむざむざとボスを封印されて帰ってきたということも、すべてが憎かった。
隙があるならあいつを出し抜いて、次こそはオレがボスの側に立つのだと、常々よりそう企んでいた。
クーデターの後、あいつがしばらくボンゴレで囚われの身となっている間も、少しでもあいつの上に行こうと体を鍛えて、ここぞとばかりに部下に指示を出して偉ぶって、あいつの居場所を削ってやった。
きっと悔しがるだろうと思っていたのに、帰ってきたあいつは、疲れたように口の端を吊り上げながら、『ヴァリアーが無事で良かった』と言っただけだった。
ギリギリと歯噛みをしたことは、今でも記憶にハッキリと残っている。
あの日。
そうあの日、ボンゴレ本部に呼び出されたスクアーロに着いていったのも、少しでも奴を出し抜くチャンスがあればと、そう考えてのことだった。
結果オレは現実を知るはめになる。
幹部から受け取った書類やら雑用やらをあっという間に片して、ボンゴレ本部を去ろうとするスクアーロの背を睨む。
オレのやることまで片付けて、それでもなお余裕そうな顔のあいつが憎らしくて仕方がなかった。
無言のまま歩き続けて、門を一つ潜ったときだった。
ぱっとスクアーロが振り返る。
突然何だと問い質す暇もなく、唐突に突き飛ばされた。
ろくに受け身もとれずに尻餅を突き、情けない呻き声を上げる。
突然なぜ突き飛ばされなければならないのだ。
文句を言って殴り飛ばしてやろうと勢いよく立ち上がった先にいたのは、頭から泥水を被せられたスクアーロだった。
いつもそれなりに清潔にしている銀髪が、茶色い泥や緑色のヘドロのようなものにまみれていたし、少し草臥れたシャツや隊服もグショグショになって汚れていた。
何が起こったのか分からず、その時のオレはただ呆然と立ち尽くすばかりだった。
何故こいつはこんなことになってる?
いったい何が起きた?

「あ……あ~……。またかぁ」

怒るでもなく、泣くでもなく、普段と変わらない声色のスクアーロの言葉が、今でも耳にこびりついて離れない。
その時にはもう既に、あいつにとってはそれが日常となっていた。
気が付くのが遅すぎたのだとわかったのは、その日よりも随分後だったか。
とにかくその後、誰かに泥水を被せられたのだと気が付き、慌てて犯人を探した。
だが犯人は立ち去った後で、仕方なくスクアーロに持っていたハンカチを渡す。

「まったく貴様、何を考えている!避けようと思えば避けられただろうが!」
「え……?ん、ああ、でも、オレが避けたらお前にかかるだろぉ」
「何を戯けたことを……。だいたい何で泥水なんぞ掛けられねばならないのだ……」
「あー……そりゃあオレ達は……クーデター起こして、たくさん殺したもん、なぁ」
「……それはそうだが!」

それならば、正々堂々と殺しに来れば良いだろうに。
こんな陰湿なやり方でやり返してくるなんて卑怯にもほどがある。
そしてスクアーロもスクアーロだ。

「何をボーッとしてる!とっととその汚い頭を拭け!」
「……でも、ハンカチが汚れる」
「はあ!?」
「え?だって、こんな汚れがついたら、洗っても落ちないぜ」

じゃあお前についた汚れはどうするんだ、とか、ハンカチくらい汚れたって捨てれば良いだろうが、とか、様々なことを思ったが、とにかくオレはあいつとの価値観の違いに思考を手放しかけていた。
こいつにとって自分自身は汚れても良いものと言うことなのか?
それともお前のハンカチなんて使いたくないとかそんなことを言うつもりなのか?
いや、いや、違う。
こいつは自分はどうでも良いのだ。
自分より他人で、他人より同僚で、同僚の私物以下の存在が自分なんだ。
途端に目の前の男が得体の知れないものに見えてきた。
その考えは、オレにとっては唾棄に値するものだし、そんなことを考える存在があると言うことに吐き気を感じる。

「もういい、とにかくタオルか何かを……いや、シャワールームでも探した方が早いか」
「適当に外の井戸で頭洗うから良い」
「いま何月だと思ってるんだ貴様は!良いからここで待ってろ!タオルを取ってくる」

ああそう言えば、あの日は寒い冬の日だったか。
雪でも降りそうなほど寒い外で、冷たい井戸水なんて浴びたら当然風邪を引く。
動かないようにと釘を刺して、迷路のように入り組んだ廊下を歩き出した。
どうせならあいつを連れていけば良かったと、後から何度も思った。
何とか使用人からタオルを分捕って戻ってきたとき、そこにあいつは居らず、視線を下げると、先程渡したままだった自分のハンカチが落ちていた。
落ちたハンカチには誰かの足跡がついている。
スクアーロのではないだろう。
渡されたにも関わらず、汚れるからと使いもしなかった馬鹿だ。
他人からもらったハンカチを踏むなんてするわけがない。
なら誰が?
そもそも、なんでハンカチを落としたのだ。
嫌な予感がした。
よく通路を見れば、あいつが通っただろう道に、点々と泥が落ちていることに気が付く。
気配を殺し、周囲の気配を窺いながら、泥の跡を追った。
裏庭まで続いていた泥の道。
まず気が付いたのは水の音だった。
バチャバチャと水の跳ねる音が聞こえる。
次いで、ゴボっと、噎せるような音が聞こえた。
足音を立てないように注意しながら近寄る。
すぐに男の低い笑い声が聞こえてきた。
人を殴るような鈍い音も。
建物の陰から窺った景色は、想像を裏切らない、酷い光景だった。

「おら、これでちょっとは綺麗になっただろう」
「ははっ、違いない」

二人の男が、スクアーロを囲んでいた。
あいつの頭を押さえ付けて、水道から流れる冷水に浸している。
唇まで真っ青になったあいつの顔がちらりと見えた。
また、冷水に噎せるのが聞こえる。

「その小汚ぇ面見せるなって言ってんのによ、何でまたボンゴレに来てるんだ?」
「殴られ過ぎて頭バカになってんじゃねーの?」
「お前みたいなクソガキに、天下のボンゴレがクーデターを起こされたなんて、屈辱にもほどがある」
「いっそ死んでくれりゃあ良かったものを……。ボスも幹部連中も甘すぎるんじゃねーのか?」
「まさかボス達相手に弱味でも握ってんじゃねぇだろうなぁ?」
「おら、どうなんだ……よっ!」

ばきっと耳に響いた音に、明らかに手加減などされずに殴られたのだと、否応なしに理解させられる。
咳き込む音と、地面に飛び散る赤い液体が見えて、ようやくオレは動き出すことが出来た。

「貴様ら何をしている!」
「あ?」
「チッ、ヴァリアーの溝鼠がまた一匹増えやがったかよ」
「誰が溝鼠か!我らヴァリアーをなめた報い、受けてもらうぞ!」
「くそっ!」

オレに対しても殴りかかってくるかと思ったが、その予測は間違いだった。
片方の男が、スクアーロの腕を掴み、こちらに力任せに投げ付けてきた。
慌てて持っていた武器を落として、スクアーロの体を受け止める。
暗殺者としては限りなくダサい上に、下手をすれば殺される可能性のある悪手だ。
だが男達はこちらに攻撃するでもなく、あっという間に逃げ去っていった。
腕に抱えたあいつは、ぐったりとして焦点の合わない目で中空を眺めている。

「おい、スクアーロ!何をしてる!何があったんだ!」
「……?…………レ、ヴィ……?」

頬を軽く叩けば、すぐに焦点が合い、こちらを見る。
低く掠れた声は小さく、冷水に晒されたせいで体はどうしようもないほどに震えている。
暖かい場所に……、いや、まずは持ってきたタオルで包んで……。
タオルで何重にも包んだ上で、自分の隊服を巻き付けてから持ち上げる。

「だ、め……駄目だ……」
「じっとしてろ。何があったか知らんが、すぐに医者に……」
「医者は、駄目だっ……!ヴァリアーに、迷惑、かかる……。駄目だ……、ダメ……」

ああもう、本当にこいつの考えていることがわからない。
そんなことは後から考えれば良いんじゃないのか。

「おい!そこで何してる!」
「!9代目守護者の……コヨーテ・ヌガーか!!」
「お前は……ヴァリアーのレヴィ・ア・タン……?それに……スクアーロか?」
「っ!」

ハッとして、スクアーロを隠すように腕を動かす。
何をしていたのか詰問されるか?
もしかしたらオレが暴行犯だと疑われるか?

「……っ、手当てしてやる。着いてこい」
「な……」

だが、向けられたのは意外な言葉だった。
周囲を窺いながら、コヨーテ・ヌガーは背中を晒して歩き出す。
戸惑いながらも着いていったその先で、オレはこれまでスクアーロが受け続けてきた痛みを知ることになる。
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