×ぬら孫

「祢々切丸とは元々、鵺切丸という銘でな……」
竜二の言う話は、花開院の家で一度だけ聞いた覚えがあった。
十三代目が何を思ってそう名付けたかは知らないが、まさしくその刀は打倒晴明という覚悟の結晶なのだろう。
代々に受け継いできた覚悟を、仇敵でもある妖怪に託すのは思うところがあるんだろうが……。
手段を選ばない強かさは、オレのやり方にも似ててやりやすい。
竜二の奴は苦い顔をしていたが、それはそれ、上手く呑み込むこととしたようだった。
とにもかくにも、今日は遅い。
気は乗らなくとも、オレ達もまたこの遠野に泊まることとなる。
すなわちまた、面倒な問題が起こるわけで。
「十分で出るから頼むぞぉ」
「……何故オレが」
「お前しかいねぇんだから、仕方ねぇだろぉ」
大体の者達が寝入ったであろう深夜に、風呂場の前でそんな会話を交わす。
要は、オレが風呂に入る間見張っててくれと頼んでいるわけである。
遠野にはどうやら大風呂しかないようで、個別の風呂がないせいでまた、こんな問題が発生したわけだった。
渋々ながらも頷いた竜二を置いて、一人急いで風呂場を覗く。
誰もいないことを確認してから、改めて服を脱いで紫紺を連れて入り直した。
「お疲れさん、紫紺。痩せたかぁ?」
「疲れた!すーっごく疲れたのだぞ!呪いを抑えるだのなんだのと、我を酷使しおって……」
「ごめんなぁ。ほら、久々にしっかり湯に浸かって暖まれよ」
「むぅ、遠野の湯か。悪くない」
呪い、を、コトリバコなどと言うふざけた都市伝説のそれを、妖力を使うことで強引に抑え込むなんて荒業を行えたのは、紫紺がいてくれたからだった。
その上で、東京じゃあ無理に化けたりさせてしまって、最近はかなり疲れきっていたようで、悪いことをしてしまった。
獣のわりに風呂好きな小狐を、嫌がらない程度に軽く洗って、桶に張った湯の中に浸けてやる。
洗われるのは好きではないが、湯に入るのは好きなのだという変わり者は、桶の淵に小さな顎を乗せて、ふにゃふにゃと小さな鼻唄を歌っている。
それを他所に、自分も頭から湯を被った。
少し冷めた残り湯だが、入り口には事情のわかってる見張りもいるし、少しだけ、ゆっくりしてもいいかな。
身体は手早く洗っちまって、ちょっとだけ、少しだけ、お湯に身体を沈めて、疲れと共に大きく息を吐き出した。



 * * *



「あーあ、疲れた疲れた」
遠野妖怪の連中に、迷い家へと入れられて試されてから、ようやくまともな家に連れてきてもらえた。
赤河童の言っていたことも気になるが、全ては明日に話すと言われては、教えてもらうこちらとしては、引っ込むより他にない。
何より、一緒に連れてきた氷麗や竜二、銀色もいなかったし、どうせなら全員揃って聞かせてもらいたい。
そう言えば、銀色と竜二の二人ははじめからこちらに泊まってたらしい。
いわく、銀色は遠野にとっちゃ恩人だからだと。
氷麗は冷麗と同じ部屋に寝てるとか。
女子会、とか言ってたけど、肝の冷える話だな……。
あんなことがあって眠気はどこかへ消え失せてしまい、与えられた部屋を出てふらりと屋敷の中を歩く。
暗いが、まあ妖怪には慣れたものだ。
その中に、一つぽつりと灯りが見えた。
何事かと気配を消して窺えば、大風呂の入り口の前に座る竜二が居た。
「よお、何してんだい」
「!…………何でもない」
こちらの存在に気付いて一瞬目を見開いて、しかし返ってきたそっけない反応に、何だかつまらない気持ちになってふぅんと首を捻る。
寝巻きに上着だけ羽織って、眠気を醒ますためか片手に本を開いている。
射し込む月明かりと蝋燭の灯で、それなりに明るさはあるものの、何故わざわざここで座っているのかはわからない。
「用がないならとっとと失せろ、ぬらりひょん」
「へえへえ、悪かったな邪魔してよ」
とまあ部屋に戻る振りをして、ちょっと本気を出して隠れれば、竜二はこっちの存在にはまるで気付かず、また本の上に目を落としてしまう。
眠そうに目を擦るのを見る限り、眠れないから散歩に、というわけではなさそうだ。
散歩だとしても、この場所は少し不自然だろう。
どちらかというと、何かを待っているという感じだろうか。
折角だ、少しここらをうろついて、面白いものでもないか見てこようか。
一番気になるのは、入ろうとすれば絶対に竜二が気が付く風呂場、だろうか。
抜き足差し足、ぬらりくらりと忍び込んでも、どうにも眠気が抜けきらないらしい野郎は、気付きもしない。
竜二の奴を出し抜いたことにちょっと得意になって、オレは心持ちだけは鼻唄でも歌いたいようになりながら、やはりこっそりと脱衣所に入っていったのだった。
……と、ふと籠の一つが目に入る。
黒ばっかりの服が雑に入れられているが、この服は確かあの銀色のものじゃなかったか。
じゃあ何か、竜二があそこに居たのは、銀色が風呂から出てくるのを待ってたのか?
こんな時間に風呂とは、変わっている……が、そういや遠野についてからも、あいつはあれこれ忙しそうに電話に出たりや何かをしていたような。
銀色は竜二が監視してると聞いてるし、それならセットで居るのもわからなくないが、そんなら脱衣所で待ってりゃいいのに。
ここになら腰掛けもあるのだから。
しかし何かと思えばただの風呂とは詰まらねぇ。
とっとと戻って寝直すかと思ったところで、風呂場に続く扉が開いた。
きいっと軋んで開いた木戸の先に、人影が一つ。
ひたりひたりと濡れた足音がして、ああ風呂から上がったのかとそちらに視線を送って、思わずあっと小さく声を上げてしまった。
「えっ」
相手も当然、予想外だったんだろうオレの姿に動揺したのだろう、短く声を上げる。
炎の色に照らされた髪が艶々と銀色の瞬きを返して、その人が予想通りの相手だったことはわかった。
けれど、火照って赤みを帯びる白い躯体には、オレと同じような厚い胸板もないし、男らしい筋や骨付きも見えない。
心許なく身体を隠すタオルから、どこか柔らかそうにも見える腰や少しだけはだけて見えた胸元に、相手が女だと気が付いた時にはもう遅かった。
風のように素早く地面を蹴ったそいつが、通り抜け様に掴み上げた上着だけを羽織って、鋭く伸ばした指先を、躊躇いなくオレの喉へと突き出していた。
ギリギリで攻撃を避けて、慌てて距離をとる。
上着を取り上げるラグがなかったら、きっと間に合わなかっただろう。
すぐに相手の影を探す、が、蝋燭の灯が消されたせいで、闇に紛れて見当たらない。
気配を探そうにも、足音どころか衣擦れの音一つ聞こえず、呼び掛けようかと口を開いた瞬間、耳元にゾッとするほど冷たい声が届いた。
「声を出したら殺す」
ぴしりと心臓が凍りついたような心地だった。
「動いたら殺す」
じわじわと足元から蛇に飲まれて居るような。
「ここで見たことを人に伝えても殺す」
これまで通ってきた戦場が優しく感じられる程の、純粋で強烈な殺気。
「大人しく出ていけ」
その言葉を最後に、気配が絶えた。
無意識に止めていた呼吸を、恐る恐る再開させる。
ふっと息を吐けば、即座に首を跳ねられそうな気さえしたが、脱衣所はまるで誰も居ないかのようにしんとしている。
強ばる脚を何とか踏み出して、気配を消すのも忘れて脱衣所を出た。
「……、……は?なんでお前がそこから!?」
「りゅ、うじ」
出た瞬間に慌てたような声が聞こえて、ぎしりと首を動かせば、珍しく驚いた顔をする竜二が居た。
思ったよりもちゃんと自分が声を出せたことに驚きつつ、今更ながら後悔する。
「悪いことしちまった……あいつに謝っといてくれ」
「何を……」
たぶん虎の尾を踏んでしまったんだろう。
そそくさとその場を立ち去って、用意された自分の部屋へと戻ってくる。
反省して、ただ、ちょっとばかし不満にも思うのだ。
「殺すってのは言いすぎじゃねーのか……」
あの殺気を思い出して、思わず上がってきた震えに、腕を擦る。
恐ろしい奴だと思うと同時に、……闇の中で炎に照らされたあの銀色の美しさが、焼き付いたように瞼の裏にちらつく。
「人間にしとくには惜しい奴だなぁ……」
縁側から見上げた夜空には、銀色の月がこちらを冷ややかに見下ろしているのだった。
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