×ぬら孫

「お姉様……!! 羽衣狐様をかえして!! ねえ鮫弥、聞こえてるんでしょう!? お姉様を連れてこっちに来てよ!!」

 遠くに、狂骨の声が聞こえる。
 でもそれは、水の膜の向こうから聞こえているように、朧気で頼りない。
 腕の中に抱え込んでいた乙女の体は、薬師だという男に連れ去られ、オレはただ力なく、残った城の瓦礫に身を預けていた。
 あの子が、誰それの妻だったとか、子どもが成せなかったとか、それを気に病んでい亡くなっただとか。
 話は頭に入ってきても、それを受け止める心が、死んでしまったように感じる。
 血に濡れた黒いセーラー服。ボロボロの畳の上に広がる美しい黒髪。
 その中身はもういない。
 それでも、その目はうっすらと開き、そして震えながら動く唇が、小さな小さな音を発した。

「―――」
「乙女……?」
「おい、お前も重症なんだぞ!! あんまり動くな…… 」
「妾は……やがて枯れるように、この世から消えました…… 」
 馴染みのある声は変わらなかった。けれど、その響きは羽衣狐であった彼女とはまるで違う。
 ざわめく周囲にも言葉を止めることなく。依代であった彼女は、滔々と語り続けた。

「妾は、まっくらな世界で……声を聞きました」
――この女を……反魂の術で……

 男の声はそう言ったという。
 ハッとしたように、いつの間にか崩れ落ちた弐條城の中心にいたジジイが、呆然と言いはなった。

「まさか、あんた……山吹乙女そのものなのか……?」

 山吹乙女、それが、彼女の名前なのだと言う。
 ゼイゼイと、浅く、荒く息を吐きながら、彼女は必死に言葉を紡いだ。
 気が付くと、子どもの姿になり、現世にいたこと。そこでであった、ぬらりひょんの孫と、『本物の姉弟のように』遊んだこと。かつて連れ添った鯉伴という男の口にした、古歌。
 気付かぬ内に手に持っていた日本刀で、彼を刺し貫いたこと。……全てを思い出し、絶望し、羽衣狐に体を奪われたこと。

「でも妾は、完全に消えたわけではなかった……」
「え?」

 羽衣狐の意識の奥底に、彼女はずっと息づいていた。

「鮫弥、貴方が優しく触れる度、貴方があの狐に笑い掛ける度に……、彼女の心が、柔らかく解れていくのが、わかりました…… 」
「え…… 」
「見えていたの……感じていたのよ……。……妾も貴方の、家族だった…… 」

 名を呼ばれる度に、意識がはっきりとしていくようだったと。名を呼ぶ存在がいたからこそ、自分は、消えることなく存在を保てたのだと、彼女はそう言ってくれた。

「自分を……責めないで」
「なん、で…… 」

 なんで、そんなことが言える。オレは、羽衣狐に味方して、彼女の愛したものを全部、ぶち壊した奴に味方していたのに。

「あの狐も……妾も……貴方のことを、愛している…… 」
「なんで……なに、言って…… 」
「あ、ぅ……リクオ、もっとよく、顔を見せておくれ…… 」

 震えながら、手を伸ばす乙女は、今にも倒れて死んでしまいそうで。思わずその腕を掴んで支えた。
 すがるように、リクオの体に寄り添い、その顔を見詰める。リクオもまた、彼女の顔を、しっかりと見詰めていた。

「瓜二つ……あの人に……。ねえ、鮫弥。妾に子が成せたなら、きっとこの子のような子だったのでしょうね」
「っ! ……そんなの、知らないよ。オレは、今のお前しかわからないんだ…… 」
「……ふふ、そう、そうね…… 」

 リクオの頬に触れていた手が、滑り落ちる。
 ずるずると力をなくして落ちていく体を、そっと引き寄せて、抱き締めた。
 その体は、今までにないほど冷たくて、そうっと触れた頬は、命というものを、まるで感じることが出来なかった。

「じじい、今すぐ三代目の座をよこせ」
「リクオ…… 」
「力がいる……。どんな手を使ってでも……強くなんなきゃいけなくなった。この敵は、オレが刃にかけなきゃなんねぇ…… 」

 リクオという男と、あのじじいが交わす言葉に、どことなく懐かしさを感じる。同時に、少し嬉しくもあった。
 彼女を、その死を、受け止め、背負ってくれる者がいたことに。
 その声を聞きながら、オレもまた、力の抜けていく体を支えきれずに、ゆっくりと地面に膝をついた。
 何とか、乙女の体は畳の上に横たえる。
 そしてそのまま、抗うことの出来ない眠気に屈して、どうと床に倒れ込んだ。

「え……やだ、嘘っ! 鮫弥!! 倒れないでよ……なんでっ、あんたまで死なないでよぉ!!」
「……きょ、こつ…… 」

 今にも泣きそうな声に、オレはまともに名前を呼んで返してやることも出来なかった。
 じわじわと、木の床に赤が染み入っていくのがわかる。
 ああ、これは流石に、ヤバいよなぁ。
 また、オレは死ぬんだろうか。なんだか寒くなってきた。
 慌てて駆け寄ってくる薬師の男が、手当てをしようというのか、オレを仰向けに返して、包帯を手に取っているのが見えた。
 ようやく晴れてきた空を見ながら、オレは目蓋を閉じて、深い眠りについたのだった。
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