×ぬら孫

「おい……何やってんだよ……。羽衣狐だろぉ?大妖怪なんだろぉ?なんで……乙女……!」
妹の体からは力が抜けきっており、ただ意思もなく、ぐったりと重力に身を任せるだけ。
名を呼ぶ声が、情けないほど震えていることは自覚していたが、それを気にするほどの余裕もない。
どうして乙女が負けた?
ここに倒れるのは、ぬらりひょんの孫だと思っていた。
必ず勝つと、信じていたのに。
「お父様……愛しい時間(とき)だった……。リクオは、成長したね……」
突如、乙女の口から零れた言葉。
ぬらりひょんの孫も、オレも、揃ってアホのように口を開けて目を見開く。
いつものアイツとはまるで違う口調、眼差し……。
まさかこれは、依代の人格、か……?
「おい!どういうことだ!!羽衣狐!!」
どういうことも何も、今のこいつは羽衣狐ではなく、その依代の人格が喋っているのだ。
この依代の娘、ぬらりひょんの血縁者か何かだったのか?
しかし、孫は何も知らないようで、訳もわからず叫び、問い掛けるだけ。
そして、ついに乙女の器から、妖気の塊が飛び出した。
「なっ……なぜじゃああああああ!ありえぬ、この依代には完全に乗り移っていたはず!なのになぜ……!!あ……頭が割れるように痛い……!!」
ずるりと飛び出たのは、着物を幾重にも纏った狐の妖怪だった。
これが……乙女の、羽衣狐の本体なのか?
徐々に狐の姿から、人に近い姿に戻っていく羽衣狐。
その容姿は恐ろしいほどに整っており、人をたぶらかす狐そのものであった。
「なぜじゃ!400年間待ちに待った……最高の依代だと言うてたではないか!!」
誰がそんなことを言ったのだろうか。
依代から離れて、頭を抱えのたうつ彼女に、ふらふらと近付く。
たぶん、今のあいつに実体はない。
生と死の狭間にいる、転生の妖怪。
羽衣狐の、真の姿。
それが、はっとして頭上を振り返り見る。
そこにいるのは、薄気味悪く笑う大きな目を持った妖怪だった。
「貴様、妾を復活させたとき……何かしおったか!?」
苦しそうに叫ぶその背後に、また記憶が映し出される。
小さな男の子、その前に妖しく微笑み立っている、小さな乙女。
彼女の後ろには、あの大きな一つ目の妖怪と、そして嫌な空気を醸し出す、狩衣を着た男達の姿がある。
あの服装、雰囲気、陰陽師か、そちらの道の人間だろう。
「せ……せいめい、お前……!」
再び乙女はこちら側に顔を向けた。
なのに、その瞳にオレの姿はまるで存在していない。
愛しい子の名前を呼び、苦しそうに呻く。
パリ、パキっと、堅く乾いた音を立てながら、鵺の繭が割れていく。
その中に、男が一人立っている姿が見えた。
「すまぬ、母上……」
……化け物が、素直に謝りやがった。
圧倒されたらしい羽衣狐は、一瞬停止して、ぎこちない様子で問い掛ける。
「うっ……晴明……お、お前が望んだことなのかえ……?」
「すまない……。"あの女児を母上に"と……地獄からあてがったのは、私です。こうなるとは、思っていなかった……」
「おお、おお……もういい……。もういいのじゃ……!!近う、近う……」
気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……!!
違和感の塊じゃないか!
鵺だか晴明だか知らないけれど、あんな気持ちの悪い畏れを持った存在なのに、それが素直に謝っている。
羽衣狐の腕の中にいる。
頭の中で、ガンガンと警告音が鳴っている。
あれはダメだ、触っちゃいけない、近付いてもいけない、側にいちゃいけない、見ることだってダメだ。
「おおぉ……晴明、やっと、やっとこの手に……」
愛しそうに鵺を抱き締める乙女……羽衣狐の、その真下。
突然、グツグツと煮え立つそれが現れた。
背筋を氷でなぞられたような、酷い悪寒が走る。
「あれが"地獄"です。私が千年間いた、妖も人も還る場所です」
「ぁ……まずいっ、ソイツから離れろぉ!」
「ヒッ!」
黒々と艶を放つ髪が、しゅるしゅると地獄へ引きずられていく。
すぐに、体ごと地獄へと引きずられ出した。
やっぱり、そうだ。
あの化け物は、羽衣狐のことを母親だなんて思っちゃいない。
いや、思っていたとしても、だからと言って大切でもないし、特別とも思っちゃいない。
傷付けることも、殺すことだって、躊躇わないだろう。
空中に札を投げつけて、強引に足場を作る。
鵺から引き剥がされ、落ちかけていた乙女の手を、ガッチリと掴んだ。
札だけでは足場が不十分、だが、足りないところはアーロ達が支えてくれる。
自分の手の中にある確かな感触に、吐き出した息が震えた。
良かった……。
依代を捨てた体でも、ちゃんと触れることが出来た。
「こう、や……お主、なぜ……」
「何故、なんて、そんなこともわかんねーのか、この馬鹿……!お前を、失いたくない……。それも、あんなに、あんなに苦しんで産んだ奴に、大切な奴に殺される、なんて……許せ、ねぇだろ……!!」
地獄の引力は、想像以上だ。
ずるり、ずるりと、握り締めていた手が落ちていく。
もう片方の手も使って、きらびやかな着物を掴む。
端正な顔が、哀しそうに歪んでいくのが視界に映って、オレまで泣きたくなってきた。
「……ふむ、飼い犬に助けられた、か。だがそれも長くは持つまい。いずれ、両方とも堕ちることになるだろうな」
「きっ……さまぁ……!」
悲しいかな、奴の言う通り、腕が震える。
このままじゃあオレもこいつも、揃って落ちていくことになるだろう。
ぎりっと歯を食い縛って奴を睨んでも、気に掛ける様子もなく母親を見下ろす。
……そういや、ヘルメット被ってるからオレが睨んでいるのはわからなかったか……。
「千年間、ありがとう……偉大なる母よ。あなたのおかげで、再び道を歩める……。あなたは私の太陽だった。希望の光、ぬくもり……」
白々しいことを……!
使うだけ使って、用が済んだら、簡単に捨てといて、どの口がそんなことを言う。
言い返したかったのに、オレはただ低く唸って、手に力を込めることしか出来ない。
乙女が、羽衣狐の手が、今にもオレの手の中から滑り落ちていきそうだった。
「お、とめ……ダメだ……こんな、別れ方……嫌だ……!」
「鮫弥……妾は……せい、せいめい……ああっ……ああぁ!!」
「う"っ……ぐぅ……」
手に、力が入らない……。
視界が滲む。
嫌だ、離したくない、助けたい……。
なのに、乙女の手はオレの意思に逆らって、ずるっと抜け落ちていく。
「せいめいッ、せェェメェエ!!愛じでるウウウウ!!!」
「あなたに背を向けてこそ、この道を歩めるのです。影なる魔道、背に光あればこそ、私は真の百鬼夜行の主となりて歩む。ゆくぞ、妖ども。私に……ついてこい」
息子の名を叫びながら、地獄へと落ちていく。
煮え立ったそこから伸びる、数多の手に掴まれて、その姿は朽ちていって、悲鳴のように尾を引く声は、消えても尚、オレの耳に残って消えることはない。
鵺が何か言っているようだった。
内容なんて知らない。
頭の中には何も入ってこなかった。
目の前が真っ赤に染まっていくようだった。
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