×鰤市

いつの日かスクアーロが話していた。
「お前は強いよ」
あいつの強さは、シバタと共に駆け回ったあの件で、十分に知っていた。
その時のことは、何故か記憶がとても曖昧になっていたのだが、それでも、あいつが尋常ならざる強さを持っていることは、ちゃんと覚えている。
だからこそ不思議だった。
その言い様は、まるで自分の弱さに参っているようで、目を細めながらこちらを見上げる仕草が、らしくもなく弱々しく見えた。



「お前は、強いな」
俺の目の前で、壁に手を付きながらノロノロと歩く細い背中がピクリと反応し、不機嫌そうな顔が振り返る。
【皮肉か?】
苦心した様子でスケッチブックに文字を書き、それを俺の鼻先に突き付ける。
ただ歩くことすらまともに出来ないのが、相当苛立たしいようだった。
「どこに行くんだ?肩を貸す」
【便所】
「……余計な口出しだったか?」
【知らねぇよ】
スケッチブックを脇に抱え直して、再びずりずりと脚を引き摺り始める。
ひょこひょこと上下する頭を見下ろして、次に自身の浅黒い腕を見る。
スクアーロはきっと、助けられることは嫌がるだろう。
けれど、今は頼りないその肩に、敢えて手を貸した。
「……」
「そう不満そうな顔をするな。……傷つく」
「……」
むすりと頬を膨らませるところは、いつもの顔よりずっと幼く見える。
手洗い場の近くまで連れ立って歩き、中に入っていくのを見送る。
ふと、何故看護師が付いていなかったのかと疑問に思う。
一人で抜け出してきたのか。
らしいと言えばらしいが、こういう時くらいは、誰かに頼ってみても良いだろうに。
スクアーロという人は、どうしてそうも、強いのだろう。
どうしてこうも、強くあろうとするのだろう。
どうして無理までして、一人で戦うのだろう。
どうして、一人で強くあろうとするのだろう。
近くの壁にもたれ掛かり、しばらく待てば、まだむくれている顔が戻ってきた。
彼……いや、彼女が婦人用のトイレから出てくるのを見るのは、まだ慣れないと言うか、不思議な感じだ。
学校ではどうしていたのだろう。
しかし思えば、スクアーロは体育の授業の出席率は低かったし、トイレに行く姿や、着替えている姿を目にした覚えがない。
「病室まで送る」
不満たらたらの顔はしていたが、どうやら俺を振り切る気はないらしく(そもそも出来るとも思えないが)、スクアーロは大人しく、俺の手をとった。
病室までの道のりは酷く静かだった。
普段ならスクアーロが何かしら話を振ってくれるのだろうが、今は喋れないし、自分は積極的に話を振れるようなタイプじゃない。
交わす言葉もなく、彼女の歩調に合わせて、一歩一歩ゆっくりと進む。
自分の左手の中には、細く白い腕が収まっていて、右手を添えた背中は薄くか細い。
そうして見れば、目の前の人間が女性の体を持っていることがはっきりとわかる。
別に、友人に異性を感じたからどうなるということはない。
男だろうと女だろうと、友人は友人だし、困っているなら助けたい。
自己満足かもしれないが、それを嫌そうにされたのが、ちょっとだけ寂しかった。
「強いのはお前の良いところなんだろうが、……弱っているなら、友人を頼ってくれても良いと思う」
思わず口を突いて出た言葉は、存外子供っぽい拗ねたような色を含んでいた。
言わなきゃ良かったかと、目に被る髪の隙間からチラリとスクアーロの表情を窺う。
呆れられているかと思っていたのだが、そこにあったのは純粋な驚きの表情だった。
いつも少し不機嫌そうに細められている目は、きょとんと丸く開かれていて、それだけで顔の印象が先程以上に幼く見えるようになる。
「……」
その顔のまま、スクアーロは暫くじっと俺を眺めて、いい加減気まずくなってきた辺りで、ぐっとこちらの服の裾を下に引いてきた。
「?……しゃがめば良いのか?」
こくこくと頷いたスクアーロを見て、戸惑いながらも膝を折る。
「いたっ」
何の脈絡もなく、脳天にチョップが落ちてきた。
見上げると、したり顔のスクアーロがにまっと笑っている。
まさかチョップするために俺をしゃがませたのか。
その表情が、『俺の助けになろうなんて生意気だぞぉ』とでも言っているようで、流石に少しムカッとくる。
だが、うまい言葉が思い付く前に、更に頭の上にスケッチブックが乗せられた。
きゅ、きゅ、と何かを書く音が聞こえる。
わざわざ人の頭の上で書くな、と言いたかったが、下手に立ち上がると相手が転びそうな気がして、少し迷ったが、ため息を吐いて諦めることにした。
かちっとペンの蓋を閉める音が聞こえる。
けれど、スケッチブックはそのままで、スクアーロはよたよたと俺の背中に回り、どさっと勢いを付けて背中におぶさってきた。
「ム……」
ぺしぺしと肩を叩かれる。
これは、背負って病室まで連れていけということか……。
スケッチブックを頭から降ろして立ち上がる。
軽いとは言えないが、思っていたよりは重くない体重。
それを軽く支え直しながら、手元のスケッチブックを見た。
『Grazie amico mio.』
少しよれた筆跡のそれに、イタリア語の知識などほぼなかったが、その意味を読み取り、笑みがこぼれた。
俺の感情を察知したのか、今度は脚がべちべちと当たってきた。
素直じゃないが、これはこれでこいつらしい。
「De nada mi amiga」
そういえば、スクアーロはスペイン語を知っていただろうか。
一瞬そんな疑問が脳裏を過ったが、直後に返ってきた一番強い蹴りが脚に当たって、どうやら知っていたらしいと、また笑った。
56/58ページ
スキ