×ぬら孫

紫紺……紺がかった濃い紫色の事である。
宗旦狐改め、紫紺の名の由来は、光の加減で紫や紺に見える、その瞳の虹彩であった。
そして紫紺は、その円らな目を怒りでギラギラと光らせながら、声を荒げていた。

「お主は馬鹿か!寒いのなら何故寒いと言わない!ちゃんと言わないからそんな無様なことになるんだ!」
「ゴホッ……こんな酷い風邪引くとは、ケホッ……思わなかったんだぁ。仕方ねーだろぉ……コホッ」
「ああ、もう!しゃべっていないで寝ていろ!風邪に効く薬草でも持ってきてやる」
「お前も怪我してんだろが。寝てろよここで」

屋上で寒い中ずっと座り込んでいたオレは、風邪を引いた。
ぷんすかと怒る紫紺は、自分もまだ腹に包帯を巻いていると言うのに出掛けようとする。
オレはそのもふもふの尻尾を掴んで、紫紺を布団の中に引きずり込んだ。
むぎゃっ!と悲鳴を上げて紫紺が暴れるけど、小さいからあんまり大したことない。
と言うかコイツ、誰かに似てると思ってたけど、マーモンに似てるんだ。
む、とか、むぎゃ、とか。
そこだけだけど。

「おいお主……」
「お主、じゃねーよ。オレにも名前があんだよ」
「鮫弥、離せ!」
「嫌だよ、まだこのままが良い。薬ならあるし」
「むぅう!!息苦しいぞ!」

パタパタと暴れる紫紺の体温が丁度良い湯タンポみたいで、オレはそのまま眠りについたのだった……。


 * * *


「こ、鮫弥?寝たのか!?」

我の小さな主は、風邪を引いたらしい。
この間触った時よりも高い体温と、浅い息遣いが、それを嫌でもわからせる。
全く、人とは弱くて大変だなぁ。
あの吹きっさらしの屋根の上に、ほんの四半刻いただけでこの体たらくとは。
だが、汗ばむ体に、脈打つ鼓動に、濃厚な生の匂いを感じる。
ああ、生きている。
そう思うだけで、何故だかその存在が愛おしく感じられる。
まあ、しばらくは、このままで居てやっても良いかなぁ。
我が鮫弥になされるがままになっていると、突然、部屋のドアが開いた。
入ってきたのは……匂いからして、使用人の女だなぁ。

「……鮫弥様?」

声を掛けるが、奴はもうすっかり寝ている。
反応がない鮫弥に近寄り、寝ているのを確認した女は、額にかかる髪を払ってやったり、氷嚢を変えてやったりと忙しく働いたあと、おもむろに服の内から四角い箱を取り出した。
あれは……カメラか?

「ああ……顔を赤らめて眠る鮫弥様もとてもお可愛らしいわ……!」

カメラのボタンを連打して、鮫弥の寝姿を撮る女の息が荒い。
おい鮫弥!この女を側に置いていて本当に大丈夫なのか!?
これは世に言うヘンタイという奴だぞ!
短い脚で奴の胸を叩くが、奴はちょっと動いただけで起きる気配がない。
くそぅ、もう300年ほど前なら、我もまだ大きかったのになぁ!
だが鮫弥が動いたことで、女も我に返ったのか、1つ咳払いをすると、カメラをしまって部屋を出ていった。
やれやれだ。
まったく何を考えているんだか……。

「坊っちゃん、入りますよー?」

女が出ていった少し後に入ってきたのは、体のでかい男だった。
でかいくせに気が弱そうだ。
ソイツは恐る恐る部屋に入ってきて、布団を被る鮫弥を覗き込むと、くしゃりと顔を歪めた。

「うぅ……、坊っちゃん……!息苦しそう……、顔色悪い……」

泣きそうな男に我は頷いた。
これが普通の反応だろう!
風邪は怖いからなぁ。
時に命をも落としかねないしなぁ。
あの女の行動は本当に意味不明だ。
理解不能だ!
男、お前はなかなか見所が……

「こんなところを椋井さんに見られたら大変なことに……!あっ……!駄目です椋井さん!坊っちゃんに何てことを……ああ!駄目ですよ柏木さんそんなことしたら坊っちゃんまで……うわぁぁあ!!」

見所ないぞ!
突然どうしたんだこの男!?
誰も居ないところに叫び出したぞ!?
この屋敷には変人しかいないのか!?

「うう……坊っちゃんっ!オレが外でちゃんと見張ってますからね!」

そう言って男は部屋を出ていった。
よくわからんが、この男はこのまま放っておいても大丈夫そうだなぁ。
そしてそれから半刻程して入ってきたのは、鮫弥の祖父だった。
何度もあの茶の先生に化けて茶席に出ていたからな、コイツはすぐにわかるぞ。

「鮫、寝とるのか?」

ベッドの端に腰掛けて、鮫弥の頭を撫でる。
いつもの豪快で乱暴な手付きではなく、割れ物に触れるかのように、優しく繊細な手付き。
風邪で倒れた孫を、酷く心配している様子だった。
忙しい人だったと思うのだが、仕事を置いてでも会いに来たのか。
本当に鮫弥が大切なんだなぁ……。

「早く良くなれよ、鮫」

真っ赤に熟れた頬を、節ばった指が撫でると、鮫弥の頬が安心したようにふっと緩んだ。
子供らしくない子供だと思っていたが、肉親に安心する様子は年相応で、こちらまでほっとする。

「また、来るからな」

鬼崎の大旦那が出ていく。
それと入れ代わりに、部屋に入ってきたのは羽衣狐だった。
昔見た彼女とは器が違うが、その背筋が震えるほどの畏は、羽衣狐のそれに違いない。

「……早よう目覚めや、鮫弥。お主がおらぬと、妾はつまらぬ」

ハッとするほどの美少女が、その透き通るような白い手を鮫弥の頬に添え、顔を寄せる。
相も変わらず、妖艶なお方だ。
もし鮫弥の式神になっていなければ、我もバレて殺されていたかもなぁ。
妖は式となることで妖気が変質する。
加えて我には、呪避けの石もある。
例え羽衣狐と言えども、気付きはしないだろう。

「こんなところで寝込んでいるなど、お主らしくない。……あまり妾を待たせるでない」
「……んぅ…………ん」
「鮫弥?」
「でぃ……いの……」
「……全く、哀れな子じゃ」
「……ぉと……め……」
「……ふふ」

……鮫弥に抱き締められている我に、具体的な様子を見ることは出来なかったけれど、奴はまるで泣いているような声で、誰かの名前を呟いていた。
寝言だろう。
羽衣狐は嬉しそうに笑いながらその頬を撫で、離れていく。

「待っておるぞ、鮫弥」

部屋には静けさが戻ってくる。
我は鮫弥の腕から抜け出して、奴の顔に擦り寄った。
少し濡れた目元。
水滴を舐めとってやると、鮫弥は擽ったそうに身を捩って笑った。

「お主は、不思議な子供だなぁ」

ただの子供ではない。
だがコイツが何者であろうと、我の主であることは確かなこと。

「付き合ってやるさ、どこまでも」

我は布団に潜り、奴の腹の前で丸まって眠りについた。
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