×ぬら孫

その日、オレはお茶会に出席していた。
祖父に連れていかれて、相国寺近くの大きな家に行って、畳の上に正座させられる。

「何事も経験だからな!」

それが祖父の言い分である。
正座、苦手なんだが、お茶会というのには興味があって、オレは二つ返事で了承して着いていったのだった。
だが、その家に入った途端、空気が変わる。
上手く言い表せないが、何かがいる。
その感覚は、家の中で感じる妖の気配によく似ていた。
だが奴らの毒々しい殺気立った気配とは違い、だいぶ気配が薄い。
単純に弱い妖なのか、それとも強い妖が気配を隠しているのか。
どっちにしろ、油断はしないようにしないとなぁ。
着物の内側、首から下げたリングを握り締める。
一番良いのは、向こうが何もしてこない事、なんだけどな。

「ああ、君が鬼崎さんのお孫さんかね?」

大人しく座って待っているオレに、誰かが声を掛けてきた。
老齢の、矍鑠(カクシャク)とした男性。
優しげに細められた目に、深いシワの刻まれた顔。
オレは首を縦に振ると、挨拶をするためにその人に向き直った。

「鬼崎鮫弥と申します。この度は……」
「ああ、そんな堅苦しい挨拶はいらないよ。気楽に楽しんでいきなさい」
「はい、ありがとうございます」

口調とか、服装とかから予想するに、たぶんこの方が、祖父の話していたお茶の先生なんだろう。
祖父がいれば聞けたんだけど、お手洗いに行っちまったからなぁ。
全く肝心なときにいないんだから。
オレは先生(仮)に頭を下げる。
黒い短髪が畳に垂れる。
オレの髪色は目立つから、外出するときはいつも、黒髪のカツラで隠している。
夏は蒸れるし、鬱陶しいけど、こればっかりは仕方がない。
そして畳と髪以外に、先生の足が視界に入り、顔を上げ掛けたときに、その帯に付いている物を見て、オレは首を傾げた。

「あの、それは?」
「うん?ああ、この根付けかい?」

朱色の紐と、その紐に編み込まれた黒い石。
ただ見ただけなら、何の変鉄もない飾りにしか見えないが、その石に何か違和感を感じて、じっと見詰める。

「昔、友人にもらってねぇ」
「そう、ですか」
「これがどうか、したのかね?」
「……いえ、綺麗な飾りだと思いまして」
「ふふ、そうかい?それは嬉しいねぇ」

ニコニコと笑う先生の目は、細い三日月のようにきゅうっと円を描く。
まるで、細い狐のような、目。
この人は……

「おう先生!お久しぶりですなぁ」
「ああ、鬼崎さん。お久しぶりですねぇ」
「っ!」

突然、祖父の声が背後から聞こえて、驚いて振り返る。
見上げるオレの頭をポンポンと撫でて(痛かった)、祖父は先生と挨拶を交わしている。
ああ、吃驚した……。

「では揃いましたし、始めましょうか」

祖父が座り、全員揃って頭を下げる。
茶席が始まり、オレは祖父に教えてもらいながら抹茶を頂いた。
その間中、先生の姿から目を逸らすことはほとんどなかった。


 * * *


「……鮫!どうだ?うまかっただろう!!」
「……はい。お茶も、お点前も」
「ああ、今日は特に素晴らしい点前だったなぁ」

お茶会が終わるまで、事件らしい事件は何も起こらなかった。
オレはちょっと拍子抜け。
あの先生も既に部屋を出ていて、部屋に残った客は口々に今日の感想を言い合っている。

「……ちょっと」
「ああ、ここで待ってるからな」

トイレに向かう、と、見せ掛けて、オレは部屋を出た先生の後を追う。
あの人が歩いた後には、まるで残り香のように妖の気配が残っている。
あれは恐らく、かなり強い妖だ。
人に化けて、なおかつバレずに人中を彷徨いている。
ほとんど走るように進み、やっと追い付いたオレは、振り向いた先生に尋ねた。

「あなたは、…………狐ですか?」

先生は戸惑うでもなく、怒るでもなく、にったりと笑ってオレに尋ね返した。

「そういう君は、何かね?」

オレも、彼ににこりと笑い返す。

「オレは、鬼崎鮫弥。羽衣狐の、兄だ」
「我の名は宗旦狐。……なるほど、羽衣狐様の依代の兄弟かね。道理で、同族の匂いがすると思った」
「羽衣狐の、兄なんだよ」
「む?それはおかしい。あの方に兄弟はおらんよ」
「でも、オレはアイツの兄なんだ」

アイツがそう思っていなくても、オレはアイツの兄なんだ。
先生の……いや、宗旦狐の目を見てそう言うと、ククッと笑って頷いた。

「ほう、ほう、そうかそうか。お主、百鬼の主を妹と呼ぶか。面白い、少し話さんかね、少年」
「……それよりも、あんた、逃げないで良いのか?」
「む?なにゆえに?」

不思議そうに問い返す宗旦狐。
もう正体を隠す気はまるでないらしい。
そしてオレは少し焦りながら、理由を口にする。

「さっきから何か、変な気配がするんだ。ん゙~……、あんたらが陰とするならば、陽の気配と呼べば良いのか……。とにかく、変な気配がするぜ」
「む、まさか陰陽師か?」

宗旦狐は視線を尖らせる。
見る間にその姿は変化していった。
人の耳は毛の生えた三角の獣の耳に。
鼻と口は尖り、鋭い犬歯が口から覗く。
気が付けば、目の前に居たのは人の良い老人ではなく、小さな豆狐だった。

「鮫弥、済まんが、少し我を隠してはくれぬか」
「……良いけど、じゃあ、背中に捕まっててくれ」
「背中か……?うむ、わかった」

宗旦狐は、手のひらに乗るくらい小さな豆狐だった。
オレの背中にも隠れるくらい小さい。
乙女みたいな、尻尾が生えてるだけなのも可愛いけど、こっちも可愛いなぁ。
宗旦狐がひしっと背中にしがみついたのを確認すると、オレは胸に下げていたリングの中から霧のリングを外して、手で握り締める。

「なんだねそれは?」
「秘密」

拳の中から溢れる霧の炎と、背中の豆狐を幻術で隠す。
幻術は得意ではないが、幻術の存在を知らない人を騙すくらいなら、何とかなるだろう。
その場に留まり、先程から感じる陽の気配が来るのを待つ。
やがて、木の板を蹴る軽い足音が聞こえてくる。
ああ、来たな。

「っ!子供……?なあ僕、お茶の先生を見なかったかな?」
「うん、見たよ。あっちの方に歩いてったよ」
「そうかそうか、ありがとな僕。でも早く皆のところに戻りなさい」

廊下の角を曲がって飛び込んできたのは、がっしりとした男だった。
男はオレに気が付くと、優しい口調で尋ねてきた。
だが、背後に引っ付いている宗旦狐には気が付かない。
一人でいるのが危険だとでも思ったんだろうか、オレに部屋に戻るように促すと、オレが指差した方に掛けていった。
べーっと舌を出してそれを見送る。
オレ程度の幻術に騙されるとは、若輩者め。

「……お主、良い根性しとるなぁ」
「助けてもらったのに文句言うなよ」

呆れ気味の宗旦狐の言葉に、クスクスと笑って返しながら、オレは元いた部屋に戻って祖父に声を掛けた。

「お祖父様、帰りましょう?」
「ああ、鮫お前、無事だったか!何でも妖怪が出たとかで、陰陽師の人間が来ているんだ」
「ああ、さっきそこでお会いしましたよ。怖いですね、妖怪なんて……」

まあ、自分の妹が妖怪達の親玉なんだけどな!
しかも陰陽師の探してるその妖怪、現在進行形でオレの背中にくっついてるしな。
祖父に連れられて家に帰る、その間に、宗旦狐は背中からいなくなっていた。


―― 宗旦狐
かつて、千宗旦という茶人に化けて、しばしば茶席に出ていたという、狐の妖。
人に混ざり、共に茶を楽しんだという、それは妙に可愛らしい妖だった。
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