匿名希望様(朱とまじわれば)

「なあザンザス、出掛けよう」
「……はあ?」

突然、カスザメにそう誘われた。
何の脈絡もなく、本当に突然に。
今日はお互いの誕生日でもなければ、何か特別な記念日って訳でもねぇ。
強いて言えば、珍しく二人とも休日ってことくらいか。
と言っても、溜まった仕事を片付けるために、休日にも関わらず執務机に向かっていたが。
一体カスザメはどういうつもりなんだ?
首をかしげながらも、私服に着替えて外に出た。
誰もいない。
あいつ、普段は準備に時間なんてかけないくせに、自分から誘ったときに限って遅れてくるとはいい度胸じゃねぇか。

「ザンザス!悪い、遅れた‼」
「チッ、遅ぇぞ、カスザ、メ……?」

怒鳴ってやろうと振り向いた。
しかしオレは、そのまま言葉を失った。
ピッタリとした白のパンツ、胸元の広く空いた緩めのトップス。
らしくもなく髪の毛を緩い三つ編みにして、ヒールの高いサンダルを履いて、こちらに駆け寄ってくる。

「な……」
「あ"ー……似合わねぇ、か?」
「なんで、そんな格好……」
「たまにはこういう格好もした方が良いって、言われて……」
「……」
「や、やっぱ似合わねぇよな!着替えてくるから、悪いけどもうちょっと待っててくれ」

オレの顔をちらりと見て、ちょっと顔を赤くさせたカスザメは、踵を返して屋敷に戻ろうとした。
オレは慌ててその腕を掴んで引き留めた。
普段は触れることのできない素肌が熱い。
驚いて振り返ったカスザメに、言葉はすぐには出てこなかった。

「ぁ……」
「え、と……ザンザス?」
「……」
「どうか、したかぁ?」
「……その、ままで良い。き……」
「え?」
「……綺麗、だと、思う」
「へ?……え?う"わっ」

くそ、くそっ、顔がこんなに熱いなんて。
恥ずかしい、ただ女一人誉めるだけなのに、なんでこんなに緊張してやがんだ。
カスザメの腕を引っ張って、街の方へと歩を進めた。
優しくエスコートなんてしてやれねぇ。
なのに、カスザメは嬉しそうに笑っていた。
顔を見られたくなくてどんどん先に進んでいくオレを、後ろから追い掛けながらオレの腕に手を添えた。

「なあ、どこ行こうか」
「テメー、決めてねぇのか」
「うん、さっき思い付いたことだし」
「……海、見に行こう」
「海?良いぜぇ」

太陽の光を受けてキラキラと光る銀髪を見て、ふと、海岸線の光景が頭に浮かんだ。
提案すれば、当たり前のように頷かれる。
弁当を買っていこうと言うカスザメの言葉に同意して、まずは商店街へと向かった。
カスザメはオレの小指を軽く握るように持っている。
それを振り払うと、カスザメは申し訳なさそうに眉を下げて離れようとする。
その手を掴まえて、己の指を絡ませた。

「あ」
「……なんだ」
「いや、その……ありがと」
「意味わかんねぇこと言うな」
「うん」

寄り添うように隣を歩くスクアーロは、仕事上のパートナーとして見るときよりもずっと、綺麗だと思った。


 * * *


「なぁ……海に来るのに、なんで酒なんて買うんだよ」
「良いだろ、オレは酒が好きなんだ」
「持ち運ぶのオレなのによぉ……」
「テメーが持つって言ったんだろうが」
「だって、ザンザスに持たせるわけにいかねぇだろぉ……」

片手に酒瓶を持って、片手にパンの包みを抱えて、カスザメは唇を尖らせていた。
さっきの嬉しそうな顔はどこにいったのか。

「ったく、ドカスが」
「あっ!おい……」
「テメーの飲み物くらいテメーで持つ」

カスザメの腕の中から瓶を奪い取り、右手に抱えた。
海はもう目の前に見えている。

「おい、さっさとしろ」
「わかってるよ!」

オレよりも歩幅の狭いカスザメは、小走りに追い掛けてきている。
日はそろそろ落ちかけてきている。
これから行くところは、人の少ない穴場らしい。
オレのいない8年間の間に、奴が見付けた秘密のビーチだそうだ。
潮の香りが濃い。
この丘を越えれば、海はすぐに見えてくるのだろう。
すぐ後ろにカスザメを従え、丘を登りきると、そこには想像以上の雄大な景色が広がっていた。

「……!」
「綺麗だろぉ?ここ、ちょっと街から離れてるし、あんまり大きくねぇからさ、知る人ぞ知る秘密のビーチなんだよな」
「……まあ、悪くねぇな」

夕焼けを受けてオレンジ色に輝く海は、まるで絵画のように美しく、暖かな細波の音を奏でている。
先に砂浜へと降りていったカスザメが、途中で買ったビニールシートを広げてオレに手を振っていた。

「ザンザス!早くこいよ!」
「うるせぇ、オレに指図すんな」
「そう言うなって!」

さっきの不満そうな顔から一転、再び嬉しそうに笑っているカスザメの元へと大股に歩いていく。
夕陽を受けた銀髪が、海よりも一層透き通ったオレンジ色に染まっている。
酒瓶をシートに置き、オレが座るのを待ってるカスの頭に手を置いた。

「う"おっ!?」
「オレンジ色になってる」
「ん"ん?……夕陽のせいだろ?」
「ああ、そうだな」
「……あんま撫でんなよ」
「照れてんじゃねぇ、カスの癖に」
「て!照れてねぇよ!」

顔を赤くしていっても、説得力がない。
怒って海に逃げていったカスを放って、オレは酒を開けてグラスに注ぐ。
ぱしゃぱしゃと水の音が聞こえて目を向ける。
脱いだサンダルを片手に下げて、足首まで水に浸している。
手を伸ばして何かを取ろうとしているようだった。
緩いシャツの胸元が広がって、思わず凝視する。
見えそうで見えねぇ。
もう少しシャツの襟が広けりゃ……

「なあ、ザンザス!蟹いた!」
「…………ああ、そうか」
「お前はこっち来ねぇのかぁ?」
「オレは見てるだけで良い」
「そうかぁ?」

手を振ってくるカスザメに、一気に熱が冷めていく。
何が蟹だ、阿呆め。
残った袋を開けて、中からパンを取り出す。
奴が美味いと言ってただけあって、オレの舌も満足する味だった。
だが、やはり奴の作った料理の方が、ずっと美味しいと思う。

「なーあ、ザンザス。海、見るだけで良いのかぁ?」
「良いって言ってんだろ」
「冷たくて気持ちいいのに」
「うるせぇ」

残念そうに言うカスザメは、もう海で遊ぶのは飽きたのか、裸足のままでこちらへと戻ってきた。
濡れた足に砂粒がつく。
白い足が海水に濡れて、てらりと光る。

「ザンザス」
「ああ?……っぅあ!」

ぴとりと首筋に冷たい手が当てられた。
濃い潮の香りが鼻を擽る。
海の水に濡れたカスザメの手が、オレの首を、頬を撫でてくる。

「海の匂い、わかるかぁ?」
「ここに来る前からずっとわかってる。触んじゃねぇよ、鬱陶しい」
「でも、ここまで来て入らねぇなんてもったいねぇだろぉ」
「ベタベタする。それに、オレに海辺で散歩するのを楽しめとでも言う気か?」
「あ"ー、確かにそれはシュール、かも」

オレの顔を手で挟みながら、スクアーロはクスクスと笑った。
……こんなに、明るく笑う奴だったのか。
以前を思い出すと、カスザメは笑っていてもどこかに影を背負っていたように思う。
今と昔を比べれば、その影はだいぶ薄れて、背負う雰囲気は軽くなっている。
頬に当てられていた手が離れて、首に回される。
ぎゅっと柔らかく抱き締められて、肩にぐりぐりと頭を押し付けられた。

「今日、ザンザスと一緒に来られて良かった」
「……突然何を」
「初めて一緒に、ゆっくりデート出来たし」
「で……でーと……」
「女の子みたいな格好して、綺麗な海も見れて……幸せだぁ」
「今から、死ぬみてぇな言い方すんじゃねぇ」
「そんなんじゃねぇよ、ただ、ザンザスが隣にいてくれるのが、嬉しかったんだぁ」
「……」

ぎゅうぎゅうと、苦しいくらいに抱き締めてくる。
その細い背に腕を回して抱き締め返した。
まるで、二度と逃がさないとでも言うように、きつく、きつく。

「ザンザス、オレ……」

肩に息が掛かって、くぐもった声に背筋が震えた。
だがその言葉の先は聞けなかった。
ギチィ、と金属の軋む音がした。
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