雨宿り
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雨は、いっこうに止む気配がなかった。屋根を叩く雨粒は勢いを増すばかりで、待合所の前を通る道には、いつの間にか薄く水が張っていた。風が吹くたびに細かな飛沫が吹き込み、壁際に座っているすみれの足元まで濡らしていく。
膝の上に置いた鞄を抱え直しながら、すみれは何度目かもわからない溜息を飲み込んだ。
もうしばらくすれば、バスが来る。けれど、これほどの雨では、バスが来たところで、降りてから家まで歩く間にまた濡れてしまうだろう。
赤木は先ほど吸い終えた煙草を地面に落とし、靴底で揉み消すと、彼は壁に背を預けたまま、ぼんやりと雨の向こうを眺めていた。白い髪の先が、湿気を含んだ空気の中でわずかに乱れている。
そういえば、この人は行き先を決めずに旅をしていると言っていた。ここではないどこかへ行くのだと、まるで散歩にでも出かけたような調子で話していたけれど、今夜はどこで眠るつもりなのだろう。まさか、この雨の中を歩き続けるわけにもいかないはずだ。
「……なあ、あんた」
考え込んでいたところへ声をかけられ、すみれは顔を上げた。
「はい?」
「この辺に宿はある?」
「宿、ですか?」
「そう。泊まれるところ」
赤木は雨の向こうに目を向けたまま、気だるげに続けた。
「この辺じゃ、どこに行けばいいのかもわからなくてね」
「あ……」
すみれは困ったように眉を下げた。この辺りに旅館がないわけではない。この村を出て隣町の中心まで出れば、古くから続いている小さな旅館が一軒ある。けれど、そこまでは歩いて一時間近くかかるし、今のような雨の中ではとても勧められたものではなかった。ほかにホテルなどないし、そもそも、このあたりを訪れる旅行客などほとんどいないのだ。
「この近くには、ないと思います。町まで行けば旅館はありますけど……歩くと、かなり遠いです」
「ふうん」
赤木は、それだけ言って口を閉じた。困ったような顔をするでもなく、どうしたものかと考え込む様子もない。ただ、雨の降る景色を眺めている。
すみれは彼の横顔を見つめた。
どうするつもりなのだろう。町まで歩いていくのだろうか。これほどの雨の中を、あのボストンバッグを持って。あるいは、雨が止むまでここで待つつもりなのかもしれない。けれど、雨が止むとは思えなかった。
すみれは屋根の外へ目を向けた。雨粒は地面に叩きつけられ、道の端には茶色く濁った水が流れ始めている。山の方から吹き下ろす風は冷たく、雨の匂いには、秋の深まりを思わせる湿った土の匂いが混ざっていた。
この調子では、夜まで降り続くだろう。
ーーふと、すみれの頭にひとつの考えが浮かんだ。家に泊まってもらえばいいのではないだろうか。
思いついた途端、心臓がどくんと跳ねた。
家に泊める。見知らぬ男を。それも、名前を聞いたばかりの、どこから来たのかもわからない男を。
いくら雨がひどいからといって、そんなことをしていいのだろうか。そもそも、赤木が自分の家に泊まりたいと思うかどうかもわからない。
けれど、彼は行き先を決めずに旅をしていると言った。こんな田舎に来てしまったのも、たまたまなのだろう。泊まるところを探しているのなら、家に招くのは、そうおかしなことではないのかもしれない。
すみれは、隣の白い髪を盗み見た。このまま帰ってしまったら、もう二度と会えない気がした。
そのことが、思いのほか寂しかった。今日出会ったばかりの相手なのに、どうしてそんなふうに思うのだろう。自分でもわからなかった。ただ、雨が止んで、彼がどこかへ行ってしまうところを想像すると、胸の奥が落ち着かなくなった。
せめて、もう少しだけ話をしてみたかった。
名前を聞いた。声を褒めてもらった。朗読を聞いてもらった。ほんのわずかな時間を一緒に過ごしただけなのに、すみれにとっては、今までの日常にはなかった出来事ばかりだった。
もう少しだけ、この人のことを知りたい。
その気持ちが、雨の音に紛れて大きくなっていく。
「あの……」
すみれは、鞄を抱える手に力を込めた。赤木がこちらを向いた。
「ん?」
「よかったら……うちに、泊まりませんか?」
言ってしまった。言った瞬間、頭の中が真っ白になった。自分から誘っておきながら、相手の顔を見るのが怖かった。断られたらどうしよう。変な子だと思われたら。そもそも、こんな誘い方をしたら、警戒されるに決まっている。すみれは慌てて言葉を付け足した。
「い、いえ、あの、うち、そんなに大きな家じゃないんですけど、祖母と二人暮らしで部屋は余ってます。それにこの雨だと、町まで行くのも大変だと思うので。もちろん、ご迷惑でなければ、ですけど……」
言いながら、声がだんだん小さくなっていく。最後の方は、雨音に消えてしまったのではないかと思うほどだった。
赤木は何も言わない。すみれは恐る恐る顔を上げた。
彼は、先ほどと変わらない顔をしていた。驚いた様子もなければ、疑わしげな表情もない。灰色の空を映したような目で、ただすみれを見ている。
やっぱり、余計なことを言ってしまったのか。すみれがそう思い、取り消そうと口を開きかけたときだった。赤木は、すっと立ち上がった。
壁に預けていた背を起こし、足元のボストンバッグを持ち上げる。あまりに迷いのない動作だったので、すみれはぽかんとその姿を見上げた。
立ち上がった男の白い髪が、薄暗い待合所の天井に近づいた。赤木はバッグの持ち手を握り直している。すみれは、何も言えずにいた。
「……あの?」
ようやく声を出すと、赤木は不思議そうに首を傾げた。
「何してんの?」
「えっ?」
「家、案内してよ」
あまりにもあっさりと言われて、すみれは目を瞬かせた。
「……泊まるんですか?」
「あんたが誘ったんだろ」
「そ、そうですけど……」
「じゃ、頼むよ」
赤木はそれ以上何も言わず、待合所の外へ視線を向けた。まるで、初めからそうすることが決まっていたかのようだった。すみれは、慌てて立ち上がった。膝の上に置いていた鞄を抱え、スカートについた木屑を払う。心臓が、先ほどとは比べものにならないほど大きく鳴っていた。
家に、赤木しげるが来る。今夜、自分の家で、この人が過ごす。
その事実がようやく頭の中で形になり始めると、すみれは急に、自分がとんでもないことをしてしまったような気がしてきた。
祖母は見知らぬ男を連れて帰ったら、きっと驚くだろう。彼は自分とそう離れているわけではないけれど、どう見ても、同級生や近所の青年とはまるで違っている。
「……あの、赤木さん」
「何?」
「本当に、うちでいいんですか?」
「ほかに当てがないからね」
赤木はそう言って、彼は屋根の外へ目を向けた。すみれもつられて空を見た。雨は、ますます激しくなっていた。山から吹きつける風が、道に溜まった水を波立たせている。遠くの田んぼは白く煙り、その向こうにあるはずの民家さえ、輪郭がぼやけていた。
赤木は、少しも驚いていなかった。この雨がすぐには止まないことを、初めから知っているかのようだった。
「……そうですよね」
すみれは小さく頷いた。それから、待合所の外へ一歩踏み出しかけて、足を止めた。
「でも、走らないと……」
「ん?」
「うち、ここから少しあるので。歩いてたら、もっと濡れちゃうと思います」
言いながら、すみれは自分の言葉に少しだけ笑いそうになった。
もうすでに、二人とも濡れることは避けられそうにない。雨宿りをするために駆け込んだはずなのに、今度は雨の中へ飛び出していこうとしているのだから、おかしな話だと思った。
すみれは鞄を抱え直し、思い切って雨の中へ駆け出した。
「こっちです!」
冷たい雨が、頭の上から一気に降り注ぐ。制服の肩が濡れ、頬に当たった雨粒が弾ける。足元の水が跳ね上がり、ローファーの中にまで染み込んでくる。すみれは鞄を胸に抱え、滑らないように気をつけながら、いつもの通学路を走った。
背後から、足音がついてくる。振り返ると、赤木がいた。
長い脚を伸ばして、さして急いでいないような足取りで走っている。片手には茶色いボストンバッグを提げていた。白い髪はたちまち雨に濡れ、額に張りついている。それでも彼は、顔色ひとつ変えずにすみれの後を追っていた。
「赤木さん、こっちです!」
「わかってるよ」
声が雨に溶けていく。すみれは前を向き直り、さらに足を速めた。
こんなふうに誰かと雨の中を走るのは、いつ以来だろう。子供のころ、友達とふざけて水たまりを飛び越えたことはあった。運動会の練習で、雨が降り出す前に校舎へ駆け込んだこともある。
けれど、今は違った。
隣を走るのは、見知らぬ男だった。白い髪をした、十九歳の旅人。
ついさっき名前を知ったばかりの、赤木しげる。彼がどこから来たのか、どうして旅をしているのか、何も知らない。明日になれば、またどこかへ行ってしまうのかもしれない。
それでも、今は同じ道を走っている。同じ雨に濡れながら、同じ場所へ向かっている。すみれは、胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。
雨の音に混じって、自分の笑い声がこぼれそうになった。どうして笑いたくなるのか、自分でもわからなかった。走るのが苦しいからかもしれないし、これから家に帰って何が起きるのか、まるで想像がつかないからかもしれない。あるいは、隣に赤木がいるからかもしれない。
雨の中でも、その顔には相変わらず気だるげな表情が浮かんでいた。まるで、濡れることも、見知らぬ家へ泊まることも、すべてが大した問題ではないとでもいうように。
すみれは前を向き、濡れた道を駆けた。いつもの田舎道が、今日はまるで違う場所のように思えた。
雨に霞む山も、道端の草も、見慣れた家々の屋根も、何もかもが、いつもより鮮やかに目に映る。冷たい雨が頬を打ち、濡れた制服が肌に張りついているのに、胸の奥だけは妙に熱かった。
この雨が止んだら、赤木はまた旅を続けるのだろう。
けれど、今夜だけは。
今夜だけは、この人が自分の家にいる。
十月の雨は、まだまだ止みそうになかった。
膝の上に置いた鞄を抱え直しながら、すみれは何度目かもわからない溜息を飲み込んだ。
もうしばらくすれば、バスが来る。けれど、これほどの雨では、バスが来たところで、降りてから家まで歩く間にまた濡れてしまうだろう。
赤木は先ほど吸い終えた煙草を地面に落とし、靴底で揉み消すと、彼は壁に背を預けたまま、ぼんやりと雨の向こうを眺めていた。白い髪の先が、湿気を含んだ空気の中でわずかに乱れている。
そういえば、この人は行き先を決めずに旅をしていると言っていた。ここではないどこかへ行くのだと、まるで散歩にでも出かけたような調子で話していたけれど、今夜はどこで眠るつもりなのだろう。まさか、この雨の中を歩き続けるわけにもいかないはずだ。
「……なあ、あんた」
考え込んでいたところへ声をかけられ、すみれは顔を上げた。
「はい?」
「この辺に宿はある?」
「宿、ですか?」
「そう。泊まれるところ」
赤木は雨の向こうに目を向けたまま、気だるげに続けた。
「この辺じゃ、どこに行けばいいのかもわからなくてね」
「あ……」
すみれは困ったように眉を下げた。この辺りに旅館がないわけではない。この村を出て隣町の中心まで出れば、古くから続いている小さな旅館が一軒ある。けれど、そこまでは歩いて一時間近くかかるし、今のような雨の中ではとても勧められたものではなかった。ほかにホテルなどないし、そもそも、このあたりを訪れる旅行客などほとんどいないのだ。
「この近くには、ないと思います。町まで行けば旅館はありますけど……歩くと、かなり遠いです」
「ふうん」
赤木は、それだけ言って口を閉じた。困ったような顔をするでもなく、どうしたものかと考え込む様子もない。ただ、雨の降る景色を眺めている。
すみれは彼の横顔を見つめた。
どうするつもりなのだろう。町まで歩いていくのだろうか。これほどの雨の中を、あのボストンバッグを持って。あるいは、雨が止むまでここで待つつもりなのかもしれない。けれど、雨が止むとは思えなかった。
すみれは屋根の外へ目を向けた。雨粒は地面に叩きつけられ、道の端には茶色く濁った水が流れ始めている。山の方から吹き下ろす風は冷たく、雨の匂いには、秋の深まりを思わせる湿った土の匂いが混ざっていた。
この調子では、夜まで降り続くだろう。
ーーふと、すみれの頭にひとつの考えが浮かんだ。家に泊まってもらえばいいのではないだろうか。
思いついた途端、心臓がどくんと跳ねた。
家に泊める。見知らぬ男を。それも、名前を聞いたばかりの、どこから来たのかもわからない男を。
いくら雨がひどいからといって、そんなことをしていいのだろうか。そもそも、赤木が自分の家に泊まりたいと思うかどうかもわからない。
けれど、彼は行き先を決めずに旅をしていると言った。こんな田舎に来てしまったのも、たまたまなのだろう。泊まるところを探しているのなら、家に招くのは、そうおかしなことではないのかもしれない。
すみれは、隣の白い髪を盗み見た。このまま帰ってしまったら、もう二度と会えない気がした。
そのことが、思いのほか寂しかった。今日出会ったばかりの相手なのに、どうしてそんなふうに思うのだろう。自分でもわからなかった。ただ、雨が止んで、彼がどこかへ行ってしまうところを想像すると、胸の奥が落ち着かなくなった。
せめて、もう少しだけ話をしてみたかった。
名前を聞いた。声を褒めてもらった。朗読を聞いてもらった。ほんのわずかな時間を一緒に過ごしただけなのに、すみれにとっては、今までの日常にはなかった出来事ばかりだった。
もう少しだけ、この人のことを知りたい。
その気持ちが、雨の音に紛れて大きくなっていく。
「あの……」
すみれは、鞄を抱える手に力を込めた。赤木がこちらを向いた。
「ん?」
「よかったら……うちに、泊まりませんか?」
言ってしまった。言った瞬間、頭の中が真っ白になった。自分から誘っておきながら、相手の顔を見るのが怖かった。断られたらどうしよう。変な子だと思われたら。そもそも、こんな誘い方をしたら、警戒されるに決まっている。すみれは慌てて言葉を付け足した。
「い、いえ、あの、うち、そんなに大きな家じゃないんですけど、祖母と二人暮らしで部屋は余ってます。それにこの雨だと、町まで行くのも大変だと思うので。もちろん、ご迷惑でなければ、ですけど……」
言いながら、声がだんだん小さくなっていく。最後の方は、雨音に消えてしまったのではないかと思うほどだった。
赤木は何も言わない。すみれは恐る恐る顔を上げた。
彼は、先ほどと変わらない顔をしていた。驚いた様子もなければ、疑わしげな表情もない。灰色の空を映したような目で、ただすみれを見ている。
やっぱり、余計なことを言ってしまったのか。すみれがそう思い、取り消そうと口を開きかけたときだった。赤木は、すっと立ち上がった。
壁に預けていた背を起こし、足元のボストンバッグを持ち上げる。あまりに迷いのない動作だったので、すみれはぽかんとその姿を見上げた。
立ち上がった男の白い髪が、薄暗い待合所の天井に近づいた。赤木はバッグの持ち手を握り直している。すみれは、何も言えずにいた。
「……あの?」
ようやく声を出すと、赤木は不思議そうに首を傾げた。
「何してんの?」
「えっ?」
「家、案内してよ」
あまりにもあっさりと言われて、すみれは目を瞬かせた。
「……泊まるんですか?」
「あんたが誘ったんだろ」
「そ、そうですけど……」
「じゃ、頼むよ」
赤木はそれ以上何も言わず、待合所の外へ視線を向けた。まるで、初めからそうすることが決まっていたかのようだった。すみれは、慌てて立ち上がった。膝の上に置いていた鞄を抱え、スカートについた木屑を払う。心臓が、先ほどとは比べものにならないほど大きく鳴っていた。
家に、赤木しげるが来る。今夜、自分の家で、この人が過ごす。
その事実がようやく頭の中で形になり始めると、すみれは急に、自分がとんでもないことをしてしまったような気がしてきた。
祖母は見知らぬ男を連れて帰ったら、きっと驚くだろう。彼は自分とそう離れているわけではないけれど、どう見ても、同級生や近所の青年とはまるで違っている。
「……あの、赤木さん」
「何?」
「本当に、うちでいいんですか?」
「ほかに当てがないからね」
赤木はそう言って、彼は屋根の外へ目を向けた。すみれもつられて空を見た。雨は、ますます激しくなっていた。山から吹きつける風が、道に溜まった水を波立たせている。遠くの田んぼは白く煙り、その向こうにあるはずの民家さえ、輪郭がぼやけていた。
赤木は、少しも驚いていなかった。この雨がすぐには止まないことを、初めから知っているかのようだった。
「……そうですよね」
すみれは小さく頷いた。それから、待合所の外へ一歩踏み出しかけて、足を止めた。
「でも、走らないと……」
「ん?」
「うち、ここから少しあるので。歩いてたら、もっと濡れちゃうと思います」
言いながら、すみれは自分の言葉に少しだけ笑いそうになった。
もうすでに、二人とも濡れることは避けられそうにない。雨宿りをするために駆け込んだはずなのに、今度は雨の中へ飛び出していこうとしているのだから、おかしな話だと思った。
すみれは鞄を抱え直し、思い切って雨の中へ駆け出した。
「こっちです!」
冷たい雨が、頭の上から一気に降り注ぐ。制服の肩が濡れ、頬に当たった雨粒が弾ける。足元の水が跳ね上がり、ローファーの中にまで染み込んでくる。すみれは鞄を胸に抱え、滑らないように気をつけながら、いつもの通学路を走った。
背後から、足音がついてくる。振り返ると、赤木がいた。
長い脚を伸ばして、さして急いでいないような足取りで走っている。片手には茶色いボストンバッグを提げていた。白い髪はたちまち雨に濡れ、額に張りついている。それでも彼は、顔色ひとつ変えずにすみれの後を追っていた。
「赤木さん、こっちです!」
「わかってるよ」
声が雨に溶けていく。すみれは前を向き直り、さらに足を速めた。
こんなふうに誰かと雨の中を走るのは、いつ以来だろう。子供のころ、友達とふざけて水たまりを飛び越えたことはあった。運動会の練習で、雨が降り出す前に校舎へ駆け込んだこともある。
けれど、今は違った。
隣を走るのは、見知らぬ男だった。白い髪をした、十九歳の旅人。
ついさっき名前を知ったばかりの、赤木しげる。彼がどこから来たのか、どうして旅をしているのか、何も知らない。明日になれば、またどこかへ行ってしまうのかもしれない。
それでも、今は同じ道を走っている。同じ雨に濡れながら、同じ場所へ向かっている。すみれは、胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。
雨の音に混じって、自分の笑い声がこぼれそうになった。どうして笑いたくなるのか、自分でもわからなかった。走るのが苦しいからかもしれないし、これから家に帰って何が起きるのか、まるで想像がつかないからかもしれない。あるいは、隣に赤木がいるからかもしれない。
雨の中でも、その顔には相変わらず気だるげな表情が浮かんでいた。まるで、濡れることも、見知らぬ家へ泊まることも、すべてが大した問題ではないとでもいうように。
すみれは前を向き、濡れた道を駆けた。いつもの田舎道が、今日はまるで違う場所のように思えた。
雨に霞む山も、道端の草も、見慣れた家々の屋根も、何もかもが、いつもより鮮やかに目に映る。冷たい雨が頬を打ち、濡れた制服が肌に張りついているのに、胸の奥だけは妙に熱かった。
この雨が止んだら、赤木はまた旅を続けるのだろう。
けれど、今夜だけは。
今夜だけは、この人が自分の家にいる。
十月の雨は、まだまだ止みそうになかった。
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