雨宿り
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「さっきからよく通る声してるけど、放送部か何か?」
「ど、どうしてわかったんですか」
「当たりか」
すみれは、鞄の端から覗いていた原稿を慌てて押し込んだ。見られていたのだろうか。いや、声だけでわかったのかもしれない。放送部だと当てられたことが嬉しいような、恥ずかしいような、妙な気持ちだった。
「今度、コンテストがあって、その練習をしていたんです」
「へえ」
「朗読の部門なんですけど……私、声だけはよく褒めてもらえるので」
自分で言ってしまってから、ひどく自慢げに聞こえたのではないかと不安になった。けれど、男は特に茶化すこともなく、ふうん、と相槌を打った。
「じゃあ、何か読んでみなよ」
「えっ」
「練習してたんだろ」
「で、でも……」
「俺しかいねえよ」
男は小屋の中を見回すように、顎を動かした。確かに、ここには二人しかいない。外では雨が降り続いているし、道を行く人影もなかった。
朗読原稿を取り出しかけて、手が止まった。初対面の男を前に、文章を読むのは先生や同級生の前で読むのとはわけが違う。声がうわずってしまうかもしれない。そう考えると、途端に気恥ずかしくなった。
それでも、このまま何も話さず、雨が止むのを待つだけでは、きっと後悔する。すみれは、もう一度男の顔を見ると意を決して原稿を取り出した。すみれはこの男と、少しでも接点を持ちたかったのだ。
紙の端は、雨に濡れた指先のせいで少し湿っている。何度も読み返した文章を目で追い、姿勢を正す。息を吸って、ゆっくりと吐いた。
普段、朗読をするときには、聞き手の顔を思い浮かべるようにしている。声を届ける相手がいるのだと意識することで、言葉の意味がはっきりしてくるからだ。
すみれは、隣に座る男を聞き手にした。そして、声をだす。
雨音にかき消されないよう、けれど大きすぎないように。言葉のひとつひとつを丁寧に拾い、文章の流れに合わせて声の調子を変えていく。普段、学校の教室で読むときよりも、声がよく響いているように感じた。狭い待合所の木の壁が音を受け止め、雨の降る外へと押し返してくれているのかもしれない。
読み終えたとき、すみれは少しだけ息を弾ませていた。
「……どう、でしょうか」
男はすぐには答えなかった。煙草を持った手を膝の上に置き、外の雨を眺めている。すみれは、やっぱり聞かせるんじゃなかったかもしれないと思い始めた。感想を求めるのも図々しかっただろうか。
「いい声だね」
それは、さっきと同じ言葉だった。けれど、今度は先ほどよりも少しだけ低い声で、妙にまっすぐすみれの胸に届いた。
「……ありがとうございます」
「ただ」
男はそこで言葉を切った。すみれは思わず身を乗り出した。
「ただ?」
「ちょっと、いい子ちゃんすぎるかな」
「い、いい子ちゃん……?」
「綺麗に読もうとしてるのが、わかるんだよ」
すみれは口を閉じた。男は原稿を見たわけでも、放送部の顧問のように細かな指導をしたわけでもない。ただ、聞いただけで、すみれが何を考えながら読んでいたのかを見透かしたようなことを言った。
「綺麗に読んじゃいけないんですか?」
「いけねえとは言ってねえよ」
男は煙を吐いた。
「綺麗に聞かせることばっかり考えてると、言葉が死ぬこともあるんじゃねえの」
すみれは、手元の原稿を見つめた。顧問にも、似たようなことを言われたことがあった。言葉の意味を理解すること。文章の中で起きていることを、自分の中で想像すること。ただ声に出すだけでは、聞き手の心には届かないのだと。けれど、今の男の言い方は、先生の言葉とは違っていた。
何かを教えようとしているのではなく、ただ自分が感じたことを口にしただけのようだった。
「……もう一度、読んでもいいですか?」
自分でも驚くほど自然に、そんな言葉が出た。
男は先ほど同じような声色で「好きにしなよ」とだけ言った。
すみれは原稿を持ち直す。今度は、綺麗に読もうとするのを少しだけやめてみた。文章の中にある寂しさや、登場人物の迷いを、声に乗せるつもりで読んだ。うまくできているかどうかはわからない。それでも、さっきよりも自分の声が、自分自身のものになった気がした。
読み終えると、煙草を地面に落とし、靴底で揉み消す。その沈黙が、すみれには不思議と心地よかった。
隣に座る男は、また新しい煙草を取り出していた。長い指が箱をつまみ、一本を抜き取る。火をつけると、赤い先端が小さく光った。
「お兄さん」
呼びかけると、男は顔だけを向けた。
「……名前、聞いてもいいですか?」
尋ねてから、すみれは自分の心臓がまた大きく跳ねるのを感じた。
名前を知ったところで、何が変わるわけでもない。これから先、もう会わないかもしれない人だ。けれど、名前も知らないまま別れるのは、何だか惜しい気がした。
男はしばらくすみれを眺めていた。それから、気だるげな声で答えた。
「赤木しげる」
すみれは、その名前を心の中で繰り返した。
――赤木しげる。
聞いたことのない名前。けれど、一度口の中で転がしてみると、妙にしっくりと馴染んだ。白い髪も、気だるげな眼差しも、煙草の苦い匂いも、何もかもがその名前と結びついていく。
「私は、すみれです」
「ふうん」
それだけのことだったのに、すみれの胸は、またどうしようもなく騒がしくなった。
そのとき、屋根の端から落ちる雨粒がひときわ大きな音を立てた。風が吹き込み、濡れた髪が頬に張りつく。すみれがそれを指先で払うと、赤木は煙草をくわえたまま、ふとこちらを見た。
「寒くねえの?」
「……少しだけ」
「風邪ひくよ」
そう言いながらも、赤木は特に何かをしてくれるわけではなかった。自分の上着を貸してくれるでもなく、気遣わしげに顔を覗き込んでくるでもない。ただ、そう尋ねて、返事を聞いただけだった。
すみれは、なぜかそれが嬉しかった。
優しくされたいわけではなかったのかもしれない。知らない男に親切にされるのは、きっと困ってしまう。けれど、気にかけてもらえることが、こんなにも心に残るものだとは知らなかった。
「赤木さんは、寒くないんですか?」
「別に」
「そうですか……」
会話が途切れる。すみれは、膝の上の鞄を抱き直した。濡れた制服は冷たいし、ローファーの中にも雨が染み込んでいる。
「ど、どうしてわかったんですか」
「当たりか」
すみれは、鞄の端から覗いていた原稿を慌てて押し込んだ。見られていたのだろうか。いや、声だけでわかったのかもしれない。放送部だと当てられたことが嬉しいような、恥ずかしいような、妙な気持ちだった。
「今度、コンテストがあって、その練習をしていたんです」
「へえ」
「朗読の部門なんですけど……私、声だけはよく褒めてもらえるので」
自分で言ってしまってから、ひどく自慢げに聞こえたのではないかと不安になった。けれど、男は特に茶化すこともなく、ふうん、と相槌を打った。
「じゃあ、何か読んでみなよ」
「えっ」
「練習してたんだろ」
「で、でも……」
「俺しかいねえよ」
男は小屋の中を見回すように、顎を動かした。確かに、ここには二人しかいない。外では雨が降り続いているし、道を行く人影もなかった。
朗読原稿を取り出しかけて、手が止まった。初対面の男を前に、文章を読むのは先生や同級生の前で読むのとはわけが違う。声がうわずってしまうかもしれない。そう考えると、途端に気恥ずかしくなった。
それでも、このまま何も話さず、雨が止むのを待つだけでは、きっと後悔する。すみれは、もう一度男の顔を見ると意を決して原稿を取り出した。すみれはこの男と、少しでも接点を持ちたかったのだ。
紙の端は、雨に濡れた指先のせいで少し湿っている。何度も読み返した文章を目で追い、姿勢を正す。息を吸って、ゆっくりと吐いた。
普段、朗読をするときには、聞き手の顔を思い浮かべるようにしている。声を届ける相手がいるのだと意識することで、言葉の意味がはっきりしてくるからだ。
すみれは、隣に座る男を聞き手にした。そして、声をだす。
雨音にかき消されないよう、けれど大きすぎないように。言葉のひとつひとつを丁寧に拾い、文章の流れに合わせて声の調子を変えていく。普段、学校の教室で読むときよりも、声がよく響いているように感じた。狭い待合所の木の壁が音を受け止め、雨の降る外へと押し返してくれているのかもしれない。
読み終えたとき、すみれは少しだけ息を弾ませていた。
「……どう、でしょうか」
男はすぐには答えなかった。煙草を持った手を膝の上に置き、外の雨を眺めている。すみれは、やっぱり聞かせるんじゃなかったかもしれないと思い始めた。感想を求めるのも図々しかっただろうか。
「いい声だね」
それは、さっきと同じ言葉だった。けれど、今度は先ほどよりも少しだけ低い声で、妙にまっすぐすみれの胸に届いた。
「……ありがとうございます」
「ただ」
男はそこで言葉を切った。すみれは思わず身を乗り出した。
「ただ?」
「ちょっと、いい子ちゃんすぎるかな」
「い、いい子ちゃん……?」
「綺麗に読もうとしてるのが、わかるんだよ」
すみれは口を閉じた。男は原稿を見たわけでも、放送部の顧問のように細かな指導をしたわけでもない。ただ、聞いただけで、すみれが何を考えながら読んでいたのかを見透かしたようなことを言った。
「綺麗に読んじゃいけないんですか?」
「いけねえとは言ってねえよ」
男は煙を吐いた。
「綺麗に聞かせることばっかり考えてると、言葉が死ぬこともあるんじゃねえの」
すみれは、手元の原稿を見つめた。顧問にも、似たようなことを言われたことがあった。言葉の意味を理解すること。文章の中で起きていることを、自分の中で想像すること。ただ声に出すだけでは、聞き手の心には届かないのだと。けれど、今の男の言い方は、先生の言葉とは違っていた。
何かを教えようとしているのではなく、ただ自分が感じたことを口にしただけのようだった。
「……もう一度、読んでもいいですか?」
自分でも驚くほど自然に、そんな言葉が出た。
男は先ほど同じような声色で「好きにしなよ」とだけ言った。
すみれは原稿を持ち直す。今度は、綺麗に読もうとするのを少しだけやめてみた。文章の中にある寂しさや、登場人物の迷いを、声に乗せるつもりで読んだ。うまくできているかどうかはわからない。それでも、さっきよりも自分の声が、自分自身のものになった気がした。
読み終えると、煙草を地面に落とし、靴底で揉み消す。その沈黙が、すみれには不思議と心地よかった。
隣に座る男は、また新しい煙草を取り出していた。長い指が箱をつまみ、一本を抜き取る。火をつけると、赤い先端が小さく光った。
「お兄さん」
呼びかけると、男は顔だけを向けた。
「……名前、聞いてもいいですか?」
尋ねてから、すみれは自分の心臓がまた大きく跳ねるのを感じた。
名前を知ったところで、何が変わるわけでもない。これから先、もう会わないかもしれない人だ。けれど、名前も知らないまま別れるのは、何だか惜しい気がした。
男はしばらくすみれを眺めていた。それから、気だるげな声で答えた。
「赤木しげる」
すみれは、その名前を心の中で繰り返した。
――赤木しげる。
聞いたことのない名前。けれど、一度口の中で転がしてみると、妙にしっくりと馴染んだ。白い髪も、気だるげな眼差しも、煙草の苦い匂いも、何もかもがその名前と結びついていく。
「私は、すみれです」
「ふうん」
それだけのことだったのに、すみれの胸は、またどうしようもなく騒がしくなった。
そのとき、屋根の端から落ちる雨粒がひときわ大きな音を立てた。風が吹き込み、濡れた髪が頬に張りつく。すみれがそれを指先で払うと、赤木は煙草をくわえたまま、ふとこちらを見た。
「寒くねえの?」
「……少しだけ」
「風邪ひくよ」
そう言いながらも、赤木は特に何かをしてくれるわけではなかった。自分の上着を貸してくれるでもなく、気遣わしげに顔を覗き込んでくるでもない。ただ、そう尋ねて、返事を聞いただけだった。
すみれは、なぜかそれが嬉しかった。
優しくされたいわけではなかったのかもしれない。知らない男に親切にされるのは、きっと困ってしまう。けれど、気にかけてもらえることが、こんなにも心に残るものだとは知らなかった。
「赤木さんは、寒くないんですか?」
「別に」
「そうですか……」
会話が途切れる。すみれは、膝の上の鞄を抱き直した。濡れた制服は冷たいし、ローファーの中にも雨が染み込んでいる。
