雨宿り
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
男は煙草を吸い終えると、指先で灰を落とした。小さな灰色の欠片が、湿った地面に散る。
「……あんた」
突然声をかけられ、すみれは肩を跳ねさせた。
「は、はいっ」
思った以上に大きな声が出て、とっさに喉を整えるように咳払いする。
間近で見る顔は、横目に見たときよりもずっと整っていた。すみれが慌てて返事をしたことにも、特に驚いた様子はない。ただ、こちらを見ている。
「そんなに驚くことか?」
「い、いえ。すみません」
「謝るこたァねえよ」
男は口元だけで笑った。からかうような、そうでもないような、曖昧な笑い方だった。
すみれは自分の頬が熱くなるのを感じた。走ってきたせいで赤くなっているのだと思いたかった。
「雨、すごいですね」
何か言わなければと思い、口をついて出たのは、そんな当たり障りのない言葉だった。男も小屋の外へ目を向けた。
屋根から伝う雨どいから雨水が滝のように流れ落ちている。道の向こうでは、稲刈りの終わった田んぼに水が溜まり、風が吹くたびに細かな波紋が広がっていた。
「止みそうにないな」
「……はい」
会話はそこで途切れた。
すみれは膝の上の鞄に視線を落とした。鞄の端から、放送部で使っている原稿の角が覗いている。今日はコンテスト用の朗読原稿を何度も読み返した。息継ぎの位置や、言葉の抑揚、文章のどこに感情を乗せるか。顧問の先生に指摘された箇所を、放課後の教室で繰り返し練習していたのだ。
そのせいか、普段なら聞き流してしまうような音まで、妙にはっきり耳に入ってきた。
雨粒が屋根を叩く音。木の壁の隙間から吹き込む風の音。男が煙草を持ち直すときの、衣擦れのかすかな音。そして、うるさいくらいの自分の心臓の音。
すみれは妙に喉が渇いていた。隣に座っている男に話しかけられたら、まともに返事ができるだろうか。さっきのように声が裏返ったりしないだろうか。そんなことを考えている自分が、ひどく馬鹿らしく思えた。
相手はただの見知らぬ男だ。たまたま同じ雨宿りの場所に居合わせただけで、これから先、二度と会うこともないかもしれない。それなのに、どうしてこんなにも気になるのだろう。
すみれは、男の足元に置かれたボストンバッグを見た。旅行鞄だろうか。こんな辺鄙な場所に、観光に来る人間などいるのだろうか。近くに名所があるわけでもないし、温泉街があるわけでもない。少し離れたところに小さな商店街があるだけで、あとは田んぼと山ばかりだ。それとも、どこかへ帰る途中なのだろうか。
「お兄さんは、旅行ですか?」
気づけば口にしていた。男がこちらを向き、目が合う。しかし男の鋭い目にドキッとし目をそらしてしまう。
すみれは一瞬で、しまったと思った。馴れ馴れしかっただろうか。知らない人間にいきなり問いかけられるのは、迷惑かもしれない。しかし、男は気を悪くした様子もなく、手元の煙草を眺めながら答えた。
「まあ、そんなとこかな」
「どこかへ行くんですか?」
「さあね」
答えになっているようで、なっていない。すみれが困ったように笑うと、男もまた、面白がるように目を細めた。
「行き先を決めずに歩いてるんだよ」
「……え?」
「気の向くままにね」
まるで、明日の天気でも話すような口調だった。行き先を決めずに歩く。そんなことができるのだろうか。少なくとも、すみれには考えられなかった。学校行事やコンテスト、明日の夕食だって、決めなければならないことばかりだった。決まっていないものがあると不安になるし、何をするにも予定を立てて、その通りに動くのが当たり前だと思っていた。
それなのに、目の前の男は、どこへ行くのかも決めずに、こんな田舎のバス停で煙草を吸っている。
自由なのか。それとも、ただ無計画なだけなのだろうか。どちらにしても、すみれの知っている大人たちとはずいぶん違っていた。
「……すごいですね」
思わず漏れた言葉に、男が眉を上げる。
「何が?」
「行き先を決めずに旅行するなんて、私にはできないから」
「旅行ってほど大層なもんじゃねえよ」
男は短く笑った。
「ただ、ここじゃねえどこかへ行くだけさ」
その言葉が、妙に耳に残った。”ここじゃない、どこか”
すみれは、雨の向こうに広がる田んぼを見た。幼いころから見慣れた景色だった。季節が巡るたびに色を変える山も、田植えのころには水を張る田んぼも、通学路に立つ古い電柱も、明日になっても同じようにそこにあるだろう。
この村で生まれ、育ち、近くの高校へ通う。卒業したら村を出る同級生もいるだろうが、ほとんどの人間はこの村に残る選択を取るだろう。自分もすでに進路は決まっている。
”ここじゃない、どこか”そんなふうに考えたことが、なかったわけではない。でもそれはすみれにとっては、テレビドラマのような夢物語にすぎないのだ。
「何?」
「えっ?」
「さっきから、こっちを見てるだろ」
すみれは息を呑んだ。見ていたつもりはなかった。いや、実際には何度も見ていたのだろう。気づかれていないと思っていた自分が恥ずかしくて、頬が一気に熱くなる。
「す、すみません。あの、珍しいなと思って……」
「何が?」
「髪が、その……白いから」
言ってしまった。あまりに率直すぎる言葉に、すみれは自分の口を塞ぎたくなった。失礼だったかもしれない。気にしていることだったらどうしよう。慌てて言葉を続けようとしたが、男は先に笑った。
「そう」
気にしている様子も、怒っている様子もない。ただ、すみれの言葉を受け止めて、それ以上でもそれ以下でもない返事をした。
「生まれつきですか?」
「さあな」
「えっ、生まれつきかどうかもわからないんですか?」
「冗談だよ」
男は喉の奥でくつくつと笑った。すみれもつられて笑ってしまった。笑うと、さっきまでの緊張がほんの少しだけ薄れた気がした。
「……あんた」
突然声をかけられ、すみれは肩を跳ねさせた。
「は、はいっ」
思った以上に大きな声が出て、とっさに喉を整えるように咳払いする。
間近で見る顔は、横目に見たときよりもずっと整っていた。すみれが慌てて返事をしたことにも、特に驚いた様子はない。ただ、こちらを見ている。
「そんなに驚くことか?」
「い、いえ。すみません」
「謝るこたァねえよ」
男は口元だけで笑った。からかうような、そうでもないような、曖昧な笑い方だった。
すみれは自分の頬が熱くなるのを感じた。走ってきたせいで赤くなっているのだと思いたかった。
「雨、すごいですね」
何か言わなければと思い、口をついて出たのは、そんな当たり障りのない言葉だった。男も小屋の外へ目を向けた。
屋根から伝う雨どいから雨水が滝のように流れ落ちている。道の向こうでは、稲刈りの終わった田んぼに水が溜まり、風が吹くたびに細かな波紋が広がっていた。
「止みそうにないな」
「……はい」
会話はそこで途切れた。
すみれは膝の上の鞄に視線を落とした。鞄の端から、放送部で使っている原稿の角が覗いている。今日はコンテスト用の朗読原稿を何度も読み返した。息継ぎの位置や、言葉の抑揚、文章のどこに感情を乗せるか。顧問の先生に指摘された箇所を、放課後の教室で繰り返し練習していたのだ。
そのせいか、普段なら聞き流してしまうような音まで、妙にはっきり耳に入ってきた。
雨粒が屋根を叩く音。木の壁の隙間から吹き込む風の音。男が煙草を持ち直すときの、衣擦れのかすかな音。そして、うるさいくらいの自分の心臓の音。
すみれは妙に喉が渇いていた。隣に座っている男に話しかけられたら、まともに返事ができるだろうか。さっきのように声が裏返ったりしないだろうか。そんなことを考えている自分が、ひどく馬鹿らしく思えた。
相手はただの見知らぬ男だ。たまたま同じ雨宿りの場所に居合わせただけで、これから先、二度と会うこともないかもしれない。それなのに、どうしてこんなにも気になるのだろう。
すみれは、男の足元に置かれたボストンバッグを見た。旅行鞄だろうか。こんな辺鄙な場所に、観光に来る人間などいるのだろうか。近くに名所があるわけでもないし、温泉街があるわけでもない。少し離れたところに小さな商店街があるだけで、あとは田んぼと山ばかりだ。それとも、どこかへ帰る途中なのだろうか。
「お兄さんは、旅行ですか?」
気づけば口にしていた。男がこちらを向き、目が合う。しかし男の鋭い目にドキッとし目をそらしてしまう。
すみれは一瞬で、しまったと思った。馴れ馴れしかっただろうか。知らない人間にいきなり問いかけられるのは、迷惑かもしれない。しかし、男は気を悪くした様子もなく、手元の煙草を眺めながら答えた。
「まあ、そんなとこかな」
「どこかへ行くんですか?」
「さあね」
答えになっているようで、なっていない。すみれが困ったように笑うと、男もまた、面白がるように目を細めた。
「行き先を決めずに歩いてるんだよ」
「……え?」
「気の向くままにね」
まるで、明日の天気でも話すような口調だった。行き先を決めずに歩く。そんなことができるのだろうか。少なくとも、すみれには考えられなかった。学校行事やコンテスト、明日の夕食だって、決めなければならないことばかりだった。決まっていないものがあると不安になるし、何をするにも予定を立てて、その通りに動くのが当たり前だと思っていた。
それなのに、目の前の男は、どこへ行くのかも決めずに、こんな田舎のバス停で煙草を吸っている。
自由なのか。それとも、ただ無計画なだけなのだろうか。どちらにしても、すみれの知っている大人たちとはずいぶん違っていた。
「……すごいですね」
思わず漏れた言葉に、男が眉を上げる。
「何が?」
「行き先を決めずに旅行するなんて、私にはできないから」
「旅行ってほど大層なもんじゃねえよ」
男は短く笑った。
「ただ、ここじゃねえどこかへ行くだけさ」
その言葉が、妙に耳に残った。”ここじゃない、どこか”
すみれは、雨の向こうに広がる田んぼを見た。幼いころから見慣れた景色だった。季節が巡るたびに色を変える山も、田植えのころには水を張る田んぼも、通学路に立つ古い電柱も、明日になっても同じようにそこにあるだろう。
この村で生まれ、育ち、近くの高校へ通う。卒業したら村を出る同級生もいるだろうが、ほとんどの人間はこの村に残る選択を取るだろう。自分もすでに進路は決まっている。
”ここじゃない、どこか”そんなふうに考えたことが、なかったわけではない。でもそれはすみれにとっては、テレビドラマのような夢物語にすぎないのだ。
「何?」
「えっ?」
「さっきから、こっちを見てるだろ」
すみれは息を呑んだ。見ていたつもりはなかった。いや、実際には何度も見ていたのだろう。気づかれていないと思っていた自分が恥ずかしくて、頬が一気に熱くなる。
「す、すみません。あの、珍しいなと思って……」
「何が?」
「髪が、その……白いから」
言ってしまった。あまりに率直すぎる言葉に、すみれは自分の口を塞ぎたくなった。失礼だったかもしれない。気にしていることだったらどうしよう。慌てて言葉を続けようとしたが、男は先に笑った。
「そう」
気にしている様子も、怒っている様子もない。ただ、すみれの言葉を受け止めて、それ以上でもそれ以下でもない返事をした。
「生まれつきですか?」
「さあな」
「えっ、生まれつきかどうかもわからないんですか?」
「冗談だよ」
男は喉の奥でくつくつと笑った。すみれもつられて笑ってしまった。笑うと、さっきまでの緊張がほんの少しだけ薄れた気がした。
