雨宿り
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十月の雨は、夏の名残を洗い流すには冷たすぎた。
放課後の校舎を出たときには、まだ薄い灰色をしている空だけだったが、放送コンテストに向けた練習を終え、校門を出てしばらく歩いたところで、ぽつりと頬に冷たいものが当たった。
見上げた空からは、瞬く間に大粒の雨が降り始めたのだった。
ーーしまった、と思ったときにはもう遅い。
雨は容赦なくアスファルトを叩き、道端の草を濡らし、田んぼの向こうに広がる山々を白く煙らせていく。傘など持っていない。家まで走って帰るにしても、この調子では着くころには制服も鞄もずぶ濡れになってしまうだろう。
幸い、少し先にバスの停留所があった。と言っても、都会にあるような立派なものではない。
古びた木の板を組み合わせた小さな待合所で、屋根と三方の壁が雨風を防いでくれるだけの、粗末な小屋だった。バスが来るのは朝と夕方の二度きり。普段から利用する人間も少なく、昼間などは近所の老人が腰を下ろしていることさえ珍しい。
それでも、今は屋根があるだけありがたかった。
すみれは鞄を抱え、ぬかるみかけた道を駆けた。濡れたローファーが地面を滑り、跳ね上がった泥が白い靴下に点々と染みを作る。セーラー服の襟元に雨が入り込み、首筋を伝った冷たい雫に思わず肩をすくめた。息を切らして待合所に飛び込んだときには、肩も前髪もすっかり濡れてしまっていた。
「……っ、はあ……」
屋根の下に入った途端、雨音が少し遠くなった気がした。けれど、安心したのも束の間、先客がいたのである。待合所の隅に、一人の男が腰を下ろしていた。
男は、すみれが駆け込んできたことなど気にも留めていないようだった。壁に背を預け、長い脚を気だるげに投げ出し、指に挟んだ煙草をゆっくりと口元へ運んでいる。傍らには、使い込まれた茶色のボストンバッグが置かれていた。
そして何より、男の髪が白かった。白髪というより、初めからその色であったかのような、淡く冷たい色だった。薄暗い小屋の中で、その頭の色だけが妙にはっきりと目に入った。肌も白く整った顔立ちは、このあたりで暮らしている人間にはまず見られないものだった。
都会に出ればこういう男もいるのだろうか。いや、外に出たところで、これほど目を引く人間がそうそういるとは思えなかった。
すみれは思わず足を止めた。勢いよく駆け込んでしまったため、今さら外へ出ていくのも不自然だった。かといって、見知らぬ男に挨拶をするのも気が引ける。そもそも、こんなところに人がいるとは思っていなかったのだ。
驚いたことを悟られたくなくて、すみれは濡れた前髪を指先で押さえながら、できるだけ何事もなかったような顔を作った。
男の隣には、人ひとりがようやく腰を下ろせるだけの空間が残っていたのですみれはそこへ、そっと腰を下ろした。
木の板が、ぎしりと小さな音を立てた。雨に濡れたスカートが腿に張りついて、ひやりとした。膝の上に鞄を置き、両手で抱え込む。肩から滴った雨水が、足元の土に小さな染みを作っていた。
隣の男から、煙草の匂いがした。苦く、少し焦げたような匂いだった。学校の教師が職員室で吸っている煙草の匂いとは、どこか違う気がした。男が煙を吐き出すたび、白い煙が薄暗い小屋の中にゆるやかに広がり、湿った木材の匂いや、雨に濡れた土の匂いに混ざっていく。
すみれはなるべくそちらを見ないようにしていたが、視界の端に男の白い髪が入る。指の長い手が煙草を挟んでいるのも、膝の上に置かれた手首が思いのほか細いのも、意識しないようにすればするほど気になって仕方がなかった。
心臓がどきどきしていた。
雨の中を走ってきたせいだろうか。それとも、突然知らない人間と二人きりになったからだろうか。自分でもよくわからなかった。こんな田舎では見かけないほど綺麗な男が隣にいることに、落ち着かない気持ちになっているのかもしれない。
何しろ、こんな男は初めて見たのだ。
テレビの中の俳優なら、顔の整った人間はいくらでもいる。しかし、目の前にいる男には、そういう華やかな世界の人間とは違う雰囲気があった。身なりは特別立派というわけでもない。むしろ、着ている服はどこかくたびれていて、旅人のようにも見えた。それなのに、男の周囲だけが不思議とこの場所から浮いていた。
この小さな待合所も、雨に濡れた田舎道も、窓の外に広がる薄暗い田畑も、すべてが男には似合わないような気がした。
放課後の校舎を出たときには、まだ薄い灰色をしている空だけだったが、放送コンテストに向けた練習を終え、校門を出てしばらく歩いたところで、ぽつりと頬に冷たいものが当たった。
見上げた空からは、瞬く間に大粒の雨が降り始めたのだった。
ーーしまった、と思ったときにはもう遅い。
雨は容赦なくアスファルトを叩き、道端の草を濡らし、田んぼの向こうに広がる山々を白く煙らせていく。傘など持っていない。家まで走って帰るにしても、この調子では着くころには制服も鞄もずぶ濡れになってしまうだろう。
幸い、少し先にバスの停留所があった。と言っても、都会にあるような立派なものではない。
古びた木の板を組み合わせた小さな待合所で、屋根と三方の壁が雨風を防いでくれるだけの、粗末な小屋だった。バスが来るのは朝と夕方の二度きり。普段から利用する人間も少なく、昼間などは近所の老人が腰を下ろしていることさえ珍しい。
それでも、今は屋根があるだけありがたかった。
すみれは鞄を抱え、ぬかるみかけた道を駆けた。濡れたローファーが地面を滑り、跳ね上がった泥が白い靴下に点々と染みを作る。セーラー服の襟元に雨が入り込み、首筋を伝った冷たい雫に思わず肩をすくめた。息を切らして待合所に飛び込んだときには、肩も前髪もすっかり濡れてしまっていた。
「……っ、はあ……」
屋根の下に入った途端、雨音が少し遠くなった気がした。けれど、安心したのも束の間、先客がいたのである。待合所の隅に、一人の男が腰を下ろしていた。
男は、すみれが駆け込んできたことなど気にも留めていないようだった。壁に背を預け、長い脚を気だるげに投げ出し、指に挟んだ煙草をゆっくりと口元へ運んでいる。傍らには、使い込まれた茶色のボストンバッグが置かれていた。
そして何より、男の髪が白かった。白髪というより、初めからその色であったかのような、淡く冷たい色だった。薄暗い小屋の中で、その頭の色だけが妙にはっきりと目に入った。肌も白く整った顔立ちは、このあたりで暮らしている人間にはまず見られないものだった。
都会に出ればこういう男もいるのだろうか。いや、外に出たところで、これほど目を引く人間がそうそういるとは思えなかった。
すみれは思わず足を止めた。勢いよく駆け込んでしまったため、今さら外へ出ていくのも不自然だった。かといって、見知らぬ男に挨拶をするのも気が引ける。そもそも、こんなところに人がいるとは思っていなかったのだ。
驚いたことを悟られたくなくて、すみれは濡れた前髪を指先で押さえながら、できるだけ何事もなかったような顔を作った。
男の隣には、人ひとりがようやく腰を下ろせるだけの空間が残っていたのですみれはそこへ、そっと腰を下ろした。
木の板が、ぎしりと小さな音を立てた。雨に濡れたスカートが腿に張りついて、ひやりとした。膝の上に鞄を置き、両手で抱え込む。肩から滴った雨水が、足元の土に小さな染みを作っていた。
隣の男から、煙草の匂いがした。苦く、少し焦げたような匂いだった。学校の教師が職員室で吸っている煙草の匂いとは、どこか違う気がした。男が煙を吐き出すたび、白い煙が薄暗い小屋の中にゆるやかに広がり、湿った木材の匂いや、雨に濡れた土の匂いに混ざっていく。
すみれはなるべくそちらを見ないようにしていたが、視界の端に男の白い髪が入る。指の長い手が煙草を挟んでいるのも、膝の上に置かれた手首が思いのほか細いのも、意識しないようにすればするほど気になって仕方がなかった。
心臓がどきどきしていた。
雨の中を走ってきたせいだろうか。それとも、突然知らない人間と二人きりになったからだろうか。自分でもよくわからなかった。こんな田舎では見かけないほど綺麗な男が隣にいることに、落ち着かない気持ちになっているのかもしれない。
何しろ、こんな男は初めて見たのだ。
テレビの中の俳優なら、顔の整った人間はいくらでもいる。しかし、目の前にいる男には、そういう華やかな世界の人間とは違う雰囲気があった。身なりは特別立派というわけでもない。むしろ、着ている服はどこかくたびれていて、旅人のようにも見えた。それなのに、男の周囲だけが不思議とこの場所から浮いていた。
この小さな待合所も、雨に濡れた田舎道も、窓の外に広がる薄暗い田畑も、すべてが男には似合わないような気がした。
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