南郷さん、歯医者は嫌だ!
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おかしい。いつもなら遠慮というものを知らない男なのに――。
南郷は、卓へ向かうふりをしながら、店の隅に置かれたソファへちらりと目をやった。
ここは雀荘みどり。昼下がりだというのに店内には、牌をかき混ぜる乾いた音と、男たちの低い話し声が絶え間なく響いている。壁際には煙草の煙が薄く漂い、古びた空調が生ぬるい風を吐き出していた。いつもと変わらない、見慣れた雀荘の光景である。
――ただ一つ、赤木を除いて。
普段の赤木しげるなら、店に入るなり真っ先に卓へつく。誰かが打っていれば勝手に横から覗き込み、空いている席を見つければ我先にと座り、卓上に置かれた菓子を見つければ断りもなく摘まんでいく。大人相手だろうが遠慮など一切なく、麻雀のこととなれば年齢など関係ないと言わんばかりに牌を握る。
そんな赤木が、今日はソファの上で靴を脱ぎ膝を抱えていた。小さく身体を縮め、体育座りになって、じっと前を向いている。それだけなら、機嫌が悪いのかと思ったかもしれない。だが、何となく様子がおかしい。いつもの生意気な目つきにも張りがなく、時折、何かを気にするように身体をもぞもぞと動かしている。
南郷はしばらくその姿を眺めていたが、とうとう気になって声をかけた。
「あ、赤木? ……どうした? 腹でも痛いのか?」
できるだけ刺激しないよう、精一杯優しい声を出したつもりだった。
南郷が顔を覗き込むと、赤木はほんの少しだけ視線を動かした。しかし、それ以上はこちらを見ようとはせず、正面を向いたまま小さく答える。
「……別に、なんでもないです」
「なんでもないって……」
「本当に、なんでもない」
いつもの赤木なら、鋭い眼光で南郷を刺すだろう。それなのに今日は妙に静かだ。いつもの鋭さがなかった。それがかえって南郷には気味が悪い。もう一度何か聞こうとしたものの、赤木はそれ以上話すつもりがないらしく、膝に顔を埋めるようにしてしまった。
南郷は困ったように頭を掻くが、それ以上どうすることもできない。仕方なく赤木をソファに残し、卓へとついた。
じゃらじゃらと牌を混ぜ、手に取る。麻雀を始めてしまえば、少しは気が紛れるだろう。そう思った。
――ところが、まるで駄目だった。
南郷は配牌を並べながら、どうしても視界の端にいる赤木を気にしてしまう。赤木は相変わらずソファから動かない。かと思えば、しばらくすると右手で右頬を包み込むように押さえ、そのままじっとしている。手を離したかと思えば、今度は体育座りの姿勢のまま顔を膝に伏せてしまう。何かに耐えるような仕草だった。南郷は眉をひそめた。
やっぱり、どこかおかしい。
腹が痛いのか、それとも具合が悪いのか。本人は何でもないと言っているが、あの赤木が麻雀に興味を示さないというのは、どう考えても普通ではない。
「……南郷さん、ツモ」
「え?」
対面から声をかけられ、南郷は慌てて顔を戻した。
「おいおい、ちゃんと見てくれよ」
「あ、ああ……悪い」
南郷は手牌へ目を戻した。まずい。自分でも分かっている。今日はまるで麻雀に集中できていない。牌を切るたびにソファの赤木が気になる。そうしているうちに自分の手牌まで分からなくなってきた。
南郷は苛立ったように頭を振った。
――麻雀に集中しろ!今は卓についているのだ。赤木のことは後でいい。本人がなんでもないと言っているのだから、まずは自分の勝負に集中すべきだ。
そう言い聞かせ、南郷は牌を睨みつけた。だが、気持ちとは裏腹に、手元は思うように動いてくれなかった。気がつけば、オーラス。そして――。
「ロン」
「……!」
南郷の身体が固まった。数秒後、卓上に倒れた牌を見つめながら、南郷は深々とため息を吐いた。結果は散々だった。よりによって、オーラスで振り込んでしまったのである。
「南郷さん、いつも悪いね」
「ぐっ」
情けない声が漏れた。結局、南郷はそのまま負け金を支払う羽目になった。財布から札を取り出しながら、南郷は自分でも呆れていた。赤木のことが気になって仕方がないせいで、麻雀にまるで身が入らなかった。ということにしておく。金を払い終えると、南郷は大きく息を吐いた。
これ以上、赤木を気にしながら打っていても勝てる気せず、南郷は席を立つと、赤木のいるソファへ向かった。どさり、と少し乱暴に隣へ腰を下ろす。ソファが大きく沈み込み、その反動で隣に座っていた赤木の身体までわずかに揺れた。
「南郷さん……」
赤木が恨めしそうにこちらを見る。
「あんた、体大きいんだから、少しは考えて座ってほしいもんだ」
「あ、悪い」
南郷が苦笑する。だが、すぐにその顔から笑みが消えた。赤木が、また右頬を手で包み込んでいる。しかも今度は、先ほどより顔色が悪い。青白い頬に、ほんの少し脂汗まで浮かんでいるように見えた。南郷は眉を寄せた。
「……今日は本当にどうしたんだ?」
「なんでもないですって」
返事だけはいつも通りだった。だが、声に力がない。
南郷は赤木の横顔をじっと見つめる。そしてふと、テーブルの上に置かれている菓子へ目を向けた。赤木がよく食べている安っぽいチョコレートが、まだ一つ残っている。
「ほら、お前の好きな菓子もあるぞ。食わないのか?」
南郷は包装紙に包まれたチョコレートを一つ取り、赤木へ差し出した。赤木はそれを見つめた。いつもなら、こんなものは南郷が差し出すまでもない。見つけた瞬間に勝手に取って食べるくらいだ。しかし今日は、しばらくチョコレートを見つめたあと、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……いらない」
「え?」
赤木はチョコレートから目を逸らし、そっぽを向いてしまった。南郷は手にした菓子を見つめ、それから赤木を見る。
そこでようやく、南郷の中で一つの可能性が形になった。さっきから押さえている右頬。何も食べようとしないこと。そして、この落ち着かない様子。南郷は赤木の顔を覗き込んだ。
「……お前、まさか、歯が痛いのか?」
「違う」
今度の返事は早かった。
「だって、ずっと右頬押さえてるじゃないか」
「たまたまだ」
「たまたまで長時間も頬を押さえる奴がいるかよ」
「……」
赤木は頬を押さえたまま、南郷を睨みつける。だが、その顔色はやはり悪い。南郷はため息を吐いた。
「虫歯は早く治療しないと、歯がなくなっちまうぞ」
「だから違うって」
「放っといたらもっと痛くなるんだろ?」
「痛くない」
「じゃあ、その手を離してみろ」
「……」
「ほら」
「嫌だ」
「痛いんじゃねぇか」
「違う」
南郷は頭を抱えた。どう考えても痛いのだろう。しかも、ここまで頑なに否定するということは、単に歯が痛いことを隠したいのではない。
――もしかすると、歯医者そのものが嫌なのか。
そんな考えが頭をよぎった。南郷は赤木の顔を見つめる。赤木も南郷を見返している。しばらくの沈黙のあと、南郷は腹を決めた。
「歯医者に――」
「嫌だ」
返事があまりにも早かった。食い気味も食い気味。まだ歯医者しか言っていない。南郷は思わず赤木の顔を見る。赤木は俯いたまま、右頬を押さえている。声を荒らげたわけでもない。ただ、先ほどまでのどこか気だるげな様子とは違って、明らかに身体を強張らせていた。
「……そんなに嫌なのか?」
南郷が改めて尋ねると、赤木は膝を抱えたまま、小さくこくりと頷いた。
「歯医者だぞ?」
念を押すように言ってみても、返ってきたのはやはり小さな頷きだった。南郷は困ったように眉を寄せる。
「なんでそんなに嫌なんだ? 命を懸けてきたんだ。いまさら歯医者くらい――」
「音……嫌なんだよ……」
それまで俯いていた赤木が、堪えきれないように顔を上げた。その声には珍しく、はっきりとした拒絶が滲んでいた。
「……音?」
「削る音」
赤木はそれだけ言うと、思い出しただけでも嫌なのか、また顔を背けてしまう。南郷は一瞬きょとんとしたあと、呆れたように頭を掻いた。
確かに、歯医者のあの音を好んで聞きたがる人間なんて、そうそういないだろう。耳の奥まで響いてくるような、あの甲高い音を思い出せば、南郷だっていい気分にはならない。
しかし、それにしたって――。
目の前にいるのは、ついこの間までチキンランで死線をくぐり抜け、ヤクザ相手の代打ちで命を張っていた男である。そんな人間が、たかが歯医者の機械音を嫌がって、ソファの上で身体を縮めている。それがどうにも頭の中で結びつかなかった。
赤木はそっぽを向いたまま、右頬を手で覆っている。その指の隙間から覗く顔は、普段より明らかに青白い。強がってはいるものの、頬を押さえる手には妙に力が入っていた。
「でもな、赤木。歯が痛いんだろ?」
「……」
「さっきからずっと頬を押さえてるじゃないか」
「これは、癖」
「癖?」
「そう」
「お前が頬を押さえてるの、初めて見たんだが」
「今日はそういう気分なんだ」
あまりにも苦しい言い訳だった。南郷がじっと見つめていると、赤木はとうとう顔を背け、膝へ額を押しつけてしまう。
南郷は小さく息を吐いた。こいつは間違いなく歯が痛い。しかも、かなり我慢している。南郷はしばらく黙って赤木の様子を眺めていたが、やがて視線を自分の手元へ落とした。
「……まったく」
思わずこぼれたため息には、呆れだけではなく、どうしようもない心配が混じっていた。赤木の頬を押さえる手は、さっきから一度も離れていない。それどころか、先ほどよりも強く頬を包み込むようにしている。痛みが増しているのかもしれない。
「赤木」
「……何」
「……痛いんだろ?」
今度は問い詰めるような言い方をしなかった。ただ静かに尋ねる。けれど、赤木から返事はなかった。
雀荘の奥では、他の客たちが牌を混ぜる音が響いている。ジャラジャラと無数の牌が擦れ合い、ときおり卓を叩く音や、笑い声が混じる。いつもなら、あの音を聞けば赤木はすぐに顔を上げる。誰かが卓を囲んでいると知れば、興味を抑えきれずにこちらへ寄ってくる。自分も混ぜろと言わんばかりに卓を覗き込み、隙があれば勝手に牌を触り始める。
それが今日はどうだ。雀荘の中にいるというのに、赤木はソファから一歩も動かない。南郷はそんな赤木を横目で見つめた。いつも堂々とヤクザ相手にもひるまない男が、こうして大人しくしていると、やけに小さく見える。十三歳という年齢を、改めて思い知らされるようだった。
「……まあ、赤木の嫌って気持ちは分かるぞ」
南郷は少し考えてから、できるだけ穏やかな声で言った。
「あの音、怖いもんな」
「違う」
赤木がすぐに答えた。
「嫌なだけ」
「いや、怖いから嫌なんだろ」
「怖くない」
今度は赤木が顔を上げた。南郷を真っ直ぐに睨みつけている。その目だけは、いつもの赤木だった。
「怖くない」
念を押すように、もう一度言う。その顔があまりにも真剣なので、南郷は思わず口を閉じた。――そこまで否定することか。南郷は心の中で苦笑する。
麻雀卓に座れば、大人でも顔色を変えるような勝負を平然と楽しんでいる。命が懸かった場面でさえ、むしろ生き生きとした目をするような男だ。そんな赤木が、歯医者の話になった途端、こうして頬を押さえてソファから動かなくなる。その落差が、どうにも可笑しかった。
「……フフッ」
堪えようとしたものの、とうとう小さな笑いが漏れた。
「笑うな」
赤木が不機嫌そうに眉を寄せる。
「いや、悪い」
南郷は慌てて口元を押さえた。しかし、一度緩んでしまった頬はなかなか元に戻らない。
「お前も、可愛いところがあるんだなって……」
「……」
赤木の眉間に深い皺が寄ったが南郷は気にせず、少しだけ真面目な顔をする。
「でもな、赤木。放っておいたら本当にまずいぞ」
南郷は赤木の右頬を押さえた手を見ながら、諭すように言った。さっきから何度となく同じ話を繰り返している気がするが、赤木は一向に首を縦に振ろうとしない。
「……」
「虫歯ってのは、我慢してりゃ治るもんじゃない」
「……」
「俺も一緒に行ってやるから」
「嫌だ。」
「じゃあどうすりゃいいんだ」
「放っておいてくれ」
「それは無理だ」
「なんで」
「お前が痛そうだからだよ」
「痛くない」
「顔が痛いって言ってる」
「……」
赤木がむっとした顔で南郷を睨みつけた。その目つきだけはいつもの赤木に戻っている。南郷はその目つきに気おされそうになった。頬を押さえてソファに縮こまっていようが、歯医者を嫌がっていようが、こういうところだけは妙に強情である。
南郷も負けじと睨み返した。しばらくの間、二人の間に妙な沈黙が流れる。やがて、先に視線を逸らしたのは赤木だった。ほんの少しだけ顔を背け、また膝を抱え込む。
南郷は額に手を当てた。埒が明かない。これ以上言葉を重ねても、赤木は絶対に「行く」とは言わないだろう。こうなったら、説得などしている場合ではない。そこで南郷の頭に、一つの名案が浮かんだ。――連れて行ってしまえばいい。考えてみれば簡単な話だった。
赤木しげるといっても、まだ十三歳の少年である。確かにこの歳にして妙に肝が据わっているし、時には大人でも怯むような勝負に平然と身を投じる命知らずだ。しかし、それはあくまで元気なときの話。今の赤木は、歯の痛みに耐えながらソファの上で小さく身体を縮めている。ならば、この程度の少年を連れて行くくらい、南郷にとっては朝飯前だった。
「赤木。悪いな」
「え?」
次の瞬間、南郷は身を屈めた。赤木が何か言うより早く、その身体を大きな腕で抱き上げる。背中と膝裏に腕を差し入れ、そのまま軽々と持ち上げた。
「な、何すんだ、南郷さん!」
突然視界が高くなり、赤木が慌てて南郷の肩に手をつく。
「このまま歯医者に連れて行ってやる。観念しろ、赤木」
「よせ、降ろしてくれ!」
「自分の足で行く気になったか?」
「……」
赤木が黙る。南郷はその顔を見下ろした。
「なら駄目だ」
「……!」
赤木顔に驚きの色が見える。だが、いくら身を捩ってみても、南郷の腕から抜け出すことはできない。さすがに力では敵わないと悟ったのか、赤木はしばらく抵抗したあと、諦めたように身体の力を抜いた。
南郷はそのまま雀荘の出口へ向かって歩き出す。店内にいた客たちの視線が一斉にこちらへ集まった。
「おい、南郷。何してんだ?」
「ちょっと歯医者に連れてくんだよ」
「……歯医者?」
誰かが聞き返した。南郷は答えず、そのまま歩く。腕の中では、赤木が不満そうに顔をしかめていた。
「……南郷さん」
「なんだ?」
「分かった」
「お?」
「行く。……行くから降ろしてくれ」
南郷は足を止めた。
「本当か?」
「ああ」
赤木は渋々といった様子で頷く。
「よし!」
南郷は思わず声を上げた。腕の中の赤木をゆっくりと床へ降ろす。ようやく自由になった赤木は服の裾を直しながら、恨めしそうに南郷を睨んだ。
「最初からそう言ってくれりゃ、こんなことしなくて済んだんだぞ」
「……南郷さんが無理やり抱き上げたんだろ」
「お前が聞き分けないからだ」
「……」
赤木は何か言い返そうとしたようだが、結局諦めたらしい。南郷はそんな赤木を見て苦笑すると、雀荘の出口へ向かって歩き出した。
「じゃあ行くぞ。今日のうちに予約取っちまおう」
「今日?」
「ああ。当たり前だ。歯が痛いんだろ」
「……」
南郷が振り返る。先ほどまで渋々ながらも歯医者に行くことへ同意していた赤木の顔が、みるみる引きつっていく。
「南郷さん……来週にしましょう」
「駄目だ」
「週末――」
「駄目」
「明日――」
「駄目だ」
「……」
赤木は黙り込んだ。何か別の逃げ道を探しているらしいが、南郷はもう一歩も譲るつもりはなかった。やがて赤木は小さく息を吐き、観念したように肩を落とす。
「……強情な人だ」
「お前が言うか」
南郷は呆れながら笑った。赤木は不満そうにため息をつきながらも、靴を履き今度こそ自分の足で歩き始める。しかし、その横顔を見れば南郷には分かっていた。赤木の顔は、麻雀でどんな勝負をしているときにも見たことがないほど青ざめている。命を懸けることすら厭わない少年が、たかが歯医者を前にしてここまで怯えている。どうやら今日一番の勝負は、麻雀ではなかったらしい。
南郷は隣を歩く赤木を横目に見ながら、思わず苦笑した。果たしてこいつは、診察室まで辿り着けるのだろうか。そんな不安を抱えながら、南郷は雀荘の扉を開けた。
「行こう……!もう一度死線をくぐりに……!」
南郷は、卓へ向かうふりをしながら、店の隅に置かれたソファへちらりと目をやった。
ここは雀荘みどり。昼下がりだというのに店内には、牌をかき混ぜる乾いた音と、男たちの低い話し声が絶え間なく響いている。壁際には煙草の煙が薄く漂い、古びた空調が生ぬるい風を吐き出していた。いつもと変わらない、見慣れた雀荘の光景である。
――ただ一つ、赤木を除いて。
普段の赤木しげるなら、店に入るなり真っ先に卓へつく。誰かが打っていれば勝手に横から覗き込み、空いている席を見つければ我先にと座り、卓上に置かれた菓子を見つければ断りもなく摘まんでいく。大人相手だろうが遠慮など一切なく、麻雀のこととなれば年齢など関係ないと言わんばかりに牌を握る。
そんな赤木が、今日はソファの上で靴を脱ぎ膝を抱えていた。小さく身体を縮め、体育座りになって、じっと前を向いている。それだけなら、機嫌が悪いのかと思ったかもしれない。だが、何となく様子がおかしい。いつもの生意気な目つきにも張りがなく、時折、何かを気にするように身体をもぞもぞと動かしている。
南郷はしばらくその姿を眺めていたが、とうとう気になって声をかけた。
「あ、赤木? ……どうした? 腹でも痛いのか?」
できるだけ刺激しないよう、精一杯優しい声を出したつもりだった。
南郷が顔を覗き込むと、赤木はほんの少しだけ視線を動かした。しかし、それ以上はこちらを見ようとはせず、正面を向いたまま小さく答える。
「……別に、なんでもないです」
「なんでもないって……」
「本当に、なんでもない」
いつもの赤木なら、鋭い眼光で南郷を刺すだろう。それなのに今日は妙に静かだ。いつもの鋭さがなかった。それがかえって南郷には気味が悪い。もう一度何か聞こうとしたものの、赤木はそれ以上話すつもりがないらしく、膝に顔を埋めるようにしてしまった。
南郷は困ったように頭を掻くが、それ以上どうすることもできない。仕方なく赤木をソファに残し、卓へとついた。
じゃらじゃらと牌を混ぜ、手に取る。麻雀を始めてしまえば、少しは気が紛れるだろう。そう思った。
――ところが、まるで駄目だった。
南郷は配牌を並べながら、どうしても視界の端にいる赤木を気にしてしまう。赤木は相変わらずソファから動かない。かと思えば、しばらくすると右手で右頬を包み込むように押さえ、そのままじっとしている。手を離したかと思えば、今度は体育座りの姿勢のまま顔を膝に伏せてしまう。何かに耐えるような仕草だった。南郷は眉をひそめた。
やっぱり、どこかおかしい。
腹が痛いのか、それとも具合が悪いのか。本人は何でもないと言っているが、あの赤木が麻雀に興味を示さないというのは、どう考えても普通ではない。
「……南郷さん、ツモ」
「え?」
対面から声をかけられ、南郷は慌てて顔を戻した。
「おいおい、ちゃんと見てくれよ」
「あ、ああ……悪い」
南郷は手牌へ目を戻した。まずい。自分でも分かっている。今日はまるで麻雀に集中できていない。牌を切るたびにソファの赤木が気になる。そうしているうちに自分の手牌まで分からなくなってきた。
南郷は苛立ったように頭を振った。
――麻雀に集中しろ!今は卓についているのだ。赤木のことは後でいい。本人がなんでもないと言っているのだから、まずは自分の勝負に集中すべきだ。
そう言い聞かせ、南郷は牌を睨みつけた。だが、気持ちとは裏腹に、手元は思うように動いてくれなかった。気がつけば、オーラス。そして――。
「ロン」
「……!」
南郷の身体が固まった。数秒後、卓上に倒れた牌を見つめながら、南郷は深々とため息を吐いた。結果は散々だった。よりによって、オーラスで振り込んでしまったのである。
「南郷さん、いつも悪いね」
「ぐっ」
情けない声が漏れた。結局、南郷はそのまま負け金を支払う羽目になった。財布から札を取り出しながら、南郷は自分でも呆れていた。赤木のことが気になって仕方がないせいで、麻雀にまるで身が入らなかった。ということにしておく。金を払い終えると、南郷は大きく息を吐いた。
これ以上、赤木を気にしながら打っていても勝てる気せず、南郷は席を立つと、赤木のいるソファへ向かった。どさり、と少し乱暴に隣へ腰を下ろす。ソファが大きく沈み込み、その反動で隣に座っていた赤木の身体までわずかに揺れた。
「南郷さん……」
赤木が恨めしそうにこちらを見る。
「あんた、体大きいんだから、少しは考えて座ってほしいもんだ」
「あ、悪い」
南郷が苦笑する。だが、すぐにその顔から笑みが消えた。赤木が、また右頬を手で包み込んでいる。しかも今度は、先ほどより顔色が悪い。青白い頬に、ほんの少し脂汗まで浮かんでいるように見えた。南郷は眉を寄せた。
「……今日は本当にどうしたんだ?」
「なんでもないですって」
返事だけはいつも通りだった。だが、声に力がない。
南郷は赤木の横顔をじっと見つめる。そしてふと、テーブルの上に置かれている菓子へ目を向けた。赤木がよく食べている安っぽいチョコレートが、まだ一つ残っている。
「ほら、お前の好きな菓子もあるぞ。食わないのか?」
南郷は包装紙に包まれたチョコレートを一つ取り、赤木へ差し出した。赤木はそれを見つめた。いつもなら、こんなものは南郷が差し出すまでもない。見つけた瞬間に勝手に取って食べるくらいだ。しかし今日は、しばらくチョコレートを見つめたあと、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……いらない」
「え?」
赤木はチョコレートから目を逸らし、そっぽを向いてしまった。南郷は手にした菓子を見つめ、それから赤木を見る。
そこでようやく、南郷の中で一つの可能性が形になった。さっきから押さえている右頬。何も食べようとしないこと。そして、この落ち着かない様子。南郷は赤木の顔を覗き込んだ。
「……お前、まさか、歯が痛いのか?」
「違う」
今度の返事は早かった。
「だって、ずっと右頬押さえてるじゃないか」
「たまたまだ」
「たまたまで長時間も頬を押さえる奴がいるかよ」
「……」
赤木は頬を押さえたまま、南郷を睨みつける。だが、その顔色はやはり悪い。南郷はため息を吐いた。
「虫歯は早く治療しないと、歯がなくなっちまうぞ」
「だから違うって」
「放っといたらもっと痛くなるんだろ?」
「痛くない」
「じゃあ、その手を離してみろ」
「……」
「ほら」
「嫌だ」
「痛いんじゃねぇか」
「違う」
南郷は頭を抱えた。どう考えても痛いのだろう。しかも、ここまで頑なに否定するということは、単に歯が痛いことを隠したいのではない。
――もしかすると、歯医者そのものが嫌なのか。
そんな考えが頭をよぎった。南郷は赤木の顔を見つめる。赤木も南郷を見返している。しばらくの沈黙のあと、南郷は腹を決めた。
「歯医者に――」
「嫌だ」
返事があまりにも早かった。食い気味も食い気味。まだ歯医者しか言っていない。南郷は思わず赤木の顔を見る。赤木は俯いたまま、右頬を押さえている。声を荒らげたわけでもない。ただ、先ほどまでのどこか気だるげな様子とは違って、明らかに身体を強張らせていた。
「……そんなに嫌なのか?」
南郷が改めて尋ねると、赤木は膝を抱えたまま、小さくこくりと頷いた。
「歯医者だぞ?」
念を押すように言ってみても、返ってきたのはやはり小さな頷きだった。南郷は困ったように眉を寄せる。
「なんでそんなに嫌なんだ? 命を懸けてきたんだ。いまさら歯医者くらい――」
「音……嫌なんだよ……」
それまで俯いていた赤木が、堪えきれないように顔を上げた。その声には珍しく、はっきりとした拒絶が滲んでいた。
「……音?」
「削る音」
赤木はそれだけ言うと、思い出しただけでも嫌なのか、また顔を背けてしまう。南郷は一瞬きょとんとしたあと、呆れたように頭を掻いた。
確かに、歯医者のあの音を好んで聞きたがる人間なんて、そうそういないだろう。耳の奥まで響いてくるような、あの甲高い音を思い出せば、南郷だっていい気分にはならない。
しかし、それにしたって――。
目の前にいるのは、ついこの間までチキンランで死線をくぐり抜け、ヤクザ相手の代打ちで命を張っていた男である。そんな人間が、たかが歯医者の機械音を嫌がって、ソファの上で身体を縮めている。それがどうにも頭の中で結びつかなかった。
赤木はそっぽを向いたまま、右頬を手で覆っている。その指の隙間から覗く顔は、普段より明らかに青白い。強がってはいるものの、頬を押さえる手には妙に力が入っていた。
「でもな、赤木。歯が痛いんだろ?」
「……」
「さっきからずっと頬を押さえてるじゃないか」
「これは、癖」
「癖?」
「そう」
「お前が頬を押さえてるの、初めて見たんだが」
「今日はそういう気分なんだ」
あまりにも苦しい言い訳だった。南郷がじっと見つめていると、赤木はとうとう顔を背け、膝へ額を押しつけてしまう。
南郷は小さく息を吐いた。こいつは間違いなく歯が痛い。しかも、かなり我慢している。南郷はしばらく黙って赤木の様子を眺めていたが、やがて視線を自分の手元へ落とした。
「……まったく」
思わずこぼれたため息には、呆れだけではなく、どうしようもない心配が混じっていた。赤木の頬を押さえる手は、さっきから一度も離れていない。それどころか、先ほどよりも強く頬を包み込むようにしている。痛みが増しているのかもしれない。
「赤木」
「……何」
「……痛いんだろ?」
今度は問い詰めるような言い方をしなかった。ただ静かに尋ねる。けれど、赤木から返事はなかった。
雀荘の奥では、他の客たちが牌を混ぜる音が響いている。ジャラジャラと無数の牌が擦れ合い、ときおり卓を叩く音や、笑い声が混じる。いつもなら、あの音を聞けば赤木はすぐに顔を上げる。誰かが卓を囲んでいると知れば、興味を抑えきれずにこちらへ寄ってくる。自分も混ぜろと言わんばかりに卓を覗き込み、隙があれば勝手に牌を触り始める。
それが今日はどうだ。雀荘の中にいるというのに、赤木はソファから一歩も動かない。南郷はそんな赤木を横目で見つめた。いつも堂々とヤクザ相手にもひるまない男が、こうして大人しくしていると、やけに小さく見える。十三歳という年齢を、改めて思い知らされるようだった。
「……まあ、赤木の嫌って気持ちは分かるぞ」
南郷は少し考えてから、できるだけ穏やかな声で言った。
「あの音、怖いもんな」
「違う」
赤木がすぐに答えた。
「嫌なだけ」
「いや、怖いから嫌なんだろ」
「怖くない」
今度は赤木が顔を上げた。南郷を真っ直ぐに睨みつけている。その目だけは、いつもの赤木だった。
「怖くない」
念を押すように、もう一度言う。その顔があまりにも真剣なので、南郷は思わず口を閉じた。――そこまで否定することか。南郷は心の中で苦笑する。
麻雀卓に座れば、大人でも顔色を変えるような勝負を平然と楽しんでいる。命が懸かった場面でさえ、むしろ生き生きとした目をするような男だ。そんな赤木が、歯医者の話になった途端、こうして頬を押さえてソファから動かなくなる。その落差が、どうにも可笑しかった。
「……フフッ」
堪えようとしたものの、とうとう小さな笑いが漏れた。
「笑うな」
赤木が不機嫌そうに眉を寄せる。
「いや、悪い」
南郷は慌てて口元を押さえた。しかし、一度緩んでしまった頬はなかなか元に戻らない。
「お前も、可愛いところがあるんだなって……」
「……」
赤木の眉間に深い皺が寄ったが南郷は気にせず、少しだけ真面目な顔をする。
「でもな、赤木。放っておいたら本当にまずいぞ」
南郷は赤木の右頬を押さえた手を見ながら、諭すように言った。さっきから何度となく同じ話を繰り返している気がするが、赤木は一向に首を縦に振ろうとしない。
「……」
「虫歯ってのは、我慢してりゃ治るもんじゃない」
「……」
「俺も一緒に行ってやるから」
「嫌だ。」
「じゃあどうすりゃいいんだ」
「放っておいてくれ」
「それは無理だ」
「なんで」
「お前が痛そうだからだよ」
「痛くない」
「顔が痛いって言ってる」
「……」
赤木がむっとした顔で南郷を睨みつけた。その目つきだけはいつもの赤木に戻っている。南郷はその目つきに気おされそうになった。頬を押さえてソファに縮こまっていようが、歯医者を嫌がっていようが、こういうところだけは妙に強情である。
南郷も負けじと睨み返した。しばらくの間、二人の間に妙な沈黙が流れる。やがて、先に視線を逸らしたのは赤木だった。ほんの少しだけ顔を背け、また膝を抱え込む。
南郷は額に手を当てた。埒が明かない。これ以上言葉を重ねても、赤木は絶対に「行く」とは言わないだろう。こうなったら、説得などしている場合ではない。そこで南郷の頭に、一つの名案が浮かんだ。――連れて行ってしまえばいい。考えてみれば簡単な話だった。
赤木しげるといっても、まだ十三歳の少年である。確かにこの歳にして妙に肝が据わっているし、時には大人でも怯むような勝負に平然と身を投じる命知らずだ。しかし、それはあくまで元気なときの話。今の赤木は、歯の痛みに耐えながらソファの上で小さく身体を縮めている。ならば、この程度の少年を連れて行くくらい、南郷にとっては朝飯前だった。
「赤木。悪いな」
「え?」
次の瞬間、南郷は身を屈めた。赤木が何か言うより早く、その身体を大きな腕で抱き上げる。背中と膝裏に腕を差し入れ、そのまま軽々と持ち上げた。
「な、何すんだ、南郷さん!」
突然視界が高くなり、赤木が慌てて南郷の肩に手をつく。
「このまま歯医者に連れて行ってやる。観念しろ、赤木」
「よせ、降ろしてくれ!」
「自分の足で行く気になったか?」
「……」
赤木が黙る。南郷はその顔を見下ろした。
「なら駄目だ」
「……!」
赤木顔に驚きの色が見える。だが、いくら身を捩ってみても、南郷の腕から抜け出すことはできない。さすがに力では敵わないと悟ったのか、赤木はしばらく抵抗したあと、諦めたように身体の力を抜いた。
南郷はそのまま雀荘の出口へ向かって歩き出す。店内にいた客たちの視線が一斉にこちらへ集まった。
「おい、南郷。何してんだ?」
「ちょっと歯医者に連れてくんだよ」
「……歯医者?」
誰かが聞き返した。南郷は答えず、そのまま歩く。腕の中では、赤木が不満そうに顔をしかめていた。
「……南郷さん」
「なんだ?」
「分かった」
「お?」
「行く。……行くから降ろしてくれ」
南郷は足を止めた。
「本当か?」
「ああ」
赤木は渋々といった様子で頷く。
「よし!」
南郷は思わず声を上げた。腕の中の赤木をゆっくりと床へ降ろす。ようやく自由になった赤木は服の裾を直しながら、恨めしそうに南郷を睨んだ。
「最初からそう言ってくれりゃ、こんなことしなくて済んだんだぞ」
「……南郷さんが無理やり抱き上げたんだろ」
「お前が聞き分けないからだ」
「……」
赤木は何か言い返そうとしたようだが、結局諦めたらしい。南郷はそんな赤木を見て苦笑すると、雀荘の出口へ向かって歩き出した。
「じゃあ行くぞ。今日のうちに予約取っちまおう」
「今日?」
「ああ。当たり前だ。歯が痛いんだろ」
「……」
南郷が振り返る。先ほどまで渋々ながらも歯医者に行くことへ同意していた赤木の顔が、みるみる引きつっていく。
「南郷さん……来週にしましょう」
「駄目だ」
「週末――」
「駄目」
「明日――」
「駄目だ」
「……」
赤木は黙り込んだ。何か別の逃げ道を探しているらしいが、南郷はもう一歩も譲るつもりはなかった。やがて赤木は小さく息を吐き、観念したように肩を落とす。
「……強情な人だ」
「お前が言うか」
南郷は呆れながら笑った。赤木は不満そうにため息をつきながらも、靴を履き今度こそ自分の足で歩き始める。しかし、その横顔を見れば南郷には分かっていた。赤木の顔は、麻雀でどんな勝負をしているときにも見たことがないほど青ざめている。命を懸けることすら厭わない少年が、たかが歯医者を前にしてここまで怯えている。どうやら今日一番の勝負は、麻雀ではなかったらしい。
南郷は隣を歩く赤木を横目に見ながら、思わず苦笑した。果たしてこいつは、診察室まで辿り着けるのだろうか。そんな不安を抱えながら、南郷は雀荘の扉を開けた。
「行こう……!もう一度死線をくぐりに……!」
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