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夕食を済ませて部屋着に着替えると、机の前へ腰を下ろす。窓の外は、街頭や家から漏れる灯だけが光っている。カーテンを閉め、机の上のライトをつけると部屋の静けさがいっそう際立つ気がした。
放課後の騒がしさと打って変わって今は自分の衣類が擦れる音しか聞こえない。
「よし……」
小さく気合いを入れて数学のノートを開く。せっかく今日、しげるに教えてもらったのだ。忘れないうちに復習してしまおう。そう思って問題集を解き始める。
最初の数問は驚くほど順調だった。放課後に教わった解き方が、そのまま手を動かすだけで思い出せる。これなら案外いけるかもしれない。そんな手応えすら感じ始めた頃だった。
「……ん?」
シャーペンの動きが止まる。途中までは合っているはずなのに、最後だけ答えが教科書と違う。
もう一度最初から計算し直す。それでも違う。教科書を開き、参考書をめくり、問題文とにらめっこをする。それでもどうしても引っかかる。
「うーん……」
机に頬杖をつき、小さく唸る。五分ほど考えてみたものの、状況は何一つ変わらない。
……こういう時、一人で悩んでいても仕方ない。
私は迷うことなくスマートフォンへ手を伸ばした。幼い頃から、分からないことがあれば電話する。それは今さら改まるようなことでもない。メッセージアプリを開き、慣れた指で通話ボタンを押す。
呼び出し音が二回鳴った。
『なに?』
聞き慣れた声が耳に届く。それだけで、不思議と肩の力が抜けた。
「しげる、今大丈夫?」
『ん』
相変わらず短い返事。でも、それが「大丈夫」の意味だと私は知っている。
「数学分かんない。教えて」
『どこ?』
私は問題集の問の番号を指でなぞる。
「二十七ページの三番。」
電話の向こうでも紙をめくる音が聞こえた。
『ああ、そこ。さっきやったやつの応用。ほとんど同じ』
「え? 嘘」
『嘘じゃない。途中までは同じだから』
言われるまま式を書き直していく。さっきまで何度考えても分からなかった問題が、不思議なくらいあっさり解けてしまった。
「あっ、できた!」
思わず声が弾む。
『だから言ったじゃん』
「ありがとう、しげる先生」
『明日ジュース一本』
「うっ……」
思わず顔をしかめる。
「足元見るね」
受話器越しに聞こえる笑い声につられて、私まで笑ってしまった。その笑い方を聞いていると、図書館での出来事が自然と思い浮かぶ。ノートを覗き込まれたときの距離。すぐ近くでふわりと香った、しげるの甘い匂い。思い出しただけで、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
……何考えてるんだろ、私。ごまかすように、私は話題を変える。
「そういえばさ。カイジくん、今日すごく頑張ってたね。」
『ああ。カイジさんにしては珍しく集中してた』
「"全部分かんない"って即答したときは笑っちゃった」
『ククク……』
昼間のやり取りを思い出して、二人でまた笑う。ひとしきり笑ってから、私は前から気になっていたことを尋ねた。
「そういえばさ。」
『ん?』
「なんで今日、勉強会来たの?」
しげるなら絶対に断ると思っていた。だからこそ、あの「たまには勉強するのも悪くないかもな」という返事は、今でも少し不思議だった。受話器の向こうが、一瞬だけ静かになる。
『たまには付き合うのも悪くないかなって』
「へぇ」
『なに?』
「いや、珍しいなって」
少し間が空いてから、しげるが小さく笑う。
『……あんたとカイジさんだけにしといたら、どうせ勉強しないでしょ』
私は思わず吹き出した。
「確かに。しげる、私とカイジくんの保護者じゃん」
『嫌な役回りだな』
くすくす笑いながら、私はさらに図書館での光景を思い出す。
「そういえばさ、勉強するって言ったくせに、ノートの端でパラパラ漫画描いてたでしょ」
今度は電話の向こうがぴたりと静かになった。その反応がおかしくて、私は思わず笑みを深くする。
『……見てたの?』
「見えてた。あれで隠してるつもりだった?」
『ククク……』
悪びれる様子はまったくない。
「完成した?」
『それなりに』
「どんなの描いてたの?」
『棒人間が走って転ぶだけ』
しげるがノートの端にそんな落書きをしている想像して私は可笑しくなる。
「わざわざ図書館で描くものじゃないね」
『暇だったし』
「暇なら勉強しなさいよ」
『教えたから勉強したことになるでしょ』
「それは……否定できない」
本人は面倒くさそうな顔をしているくせに、どこでつまずいているのかを一目で見抜いてしまう。ああいうところを見ると、ちゃんと理解しているから教えられるんだろうなと思う。確かに今日一番勉強していたのは、案外しげるだったのかもしれない。
「書いたやつ、明日見せて」
『やだ』
「ケチ」
『ケチで結構』
そんなやり取りを境に、話題はいつの間にか勉強から離れていった。体育の先生が笛を忘れて授業にならなかったこと。購買の焼きそばパンが、今日も一時間目の休み時間には売り切れていたこと。帰り道で見かけた猫が、しげるの膝の上に勝手に乗ってきたこと。どれも明日になれば忘れてしまいそうな、たわいもない話ばかりだった。
それなのに、不思議と話題は尽きない。幼い頃から当たり前のように隣にいた相手だからだろうか。沈黙が流れても気まずくないし、思いついたことをそのまま口にできる。そんな距離感が、二人の間にはずっとあった。ふと時計へ目を向けると、短針は十を過ぎ、長針は六を指していた。
「えっもう十時半?」
思わず声が漏れる。
『一時間近く話してたね』
数学の質問なんて、最初の五分で終わっていた。残りの時間は、全部どうでもいい話ばかり。
「じゃあ、勉強戻るね」
『ん』
「また分かんなかったら電話する」
『はいはい』
当たり前のような返事。幼馴染だからこその距離感。電話を切ると、部屋はまた静かになった。けれど、さっきまで感じていた静けさとは少し違う。誰かと笑って話したあとの部屋は、不思議と寂しくなかった。
私はもう一度シャーペンを握り直し、開きっぱなしだった問題集へ視線を戻す。今度は、不思議なくらい式がすらすらと頭に入ってきた。
放課後の騒がしさと打って変わって今は自分の衣類が擦れる音しか聞こえない。
「よし……」
小さく気合いを入れて数学のノートを開く。せっかく今日、しげるに教えてもらったのだ。忘れないうちに復習してしまおう。そう思って問題集を解き始める。
最初の数問は驚くほど順調だった。放課後に教わった解き方が、そのまま手を動かすだけで思い出せる。これなら案外いけるかもしれない。そんな手応えすら感じ始めた頃だった。
「……ん?」
シャーペンの動きが止まる。途中までは合っているはずなのに、最後だけ答えが教科書と違う。
もう一度最初から計算し直す。それでも違う。教科書を開き、参考書をめくり、問題文とにらめっこをする。それでもどうしても引っかかる。
「うーん……」
机に頬杖をつき、小さく唸る。五分ほど考えてみたものの、状況は何一つ変わらない。
……こういう時、一人で悩んでいても仕方ない。
私は迷うことなくスマートフォンへ手を伸ばした。幼い頃から、分からないことがあれば電話する。それは今さら改まるようなことでもない。メッセージアプリを開き、慣れた指で通話ボタンを押す。
呼び出し音が二回鳴った。
『なに?』
聞き慣れた声が耳に届く。それだけで、不思議と肩の力が抜けた。
「しげる、今大丈夫?」
『ん』
相変わらず短い返事。でも、それが「大丈夫」の意味だと私は知っている。
「数学分かんない。教えて」
『どこ?』
私は問題集の問の番号を指でなぞる。
「二十七ページの三番。」
電話の向こうでも紙をめくる音が聞こえた。
『ああ、そこ。さっきやったやつの応用。ほとんど同じ』
「え? 嘘」
『嘘じゃない。途中までは同じだから』
言われるまま式を書き直していく。さっきまで何度考えても分からなかった問題が、不思議なくらいあっさり解けてしまった。
「あっ、できた!」
思わず声が弾む。
『だから言ったじゃん』
「ありがとう、しげる先生」
『明日ジュース一本』
「うっ……」
思わず顔をしかめる。
「足元見るね」
受話器越しに聞こえる笑い声につられて、私まで笑ってしまった。その笑い方を聞いていると、図書館での出来事が自然と思い浮かぶ。ノートを覗き込まれたときの距離。すぐ近くでふわりと香った、しげるの甘い匂い。思い出しただけで、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
……何考えてるんだろ、私。ごまかすように、私は話題を変える。
「そういえばさ。カイジくん、今日すごく頑張ってたね。」
『ああ。カイジさんにしては珍しく集中してた』
「"全部分かんない"って即答したときは笑っちゃった」
『ククク……』
昼間のやり取りを思い出して、二人でまた笑う。ひとしきり笑ってから、私は前から気になっていたことを尋ねた。
「そういえばさ。」
『ん?』
「なんで今日、勉強会来たの?」
しげるなら絶対に断ると思っていた。だからこそ、あの「たまには勉強するのも悪くないかもな」という返事は、今でも少し不思議だった。受話器の向こうが、一瞬だけ静かになる。
『たまには付き合うのも悪くないかなって』
「へぇ」
『なに?』
「いや、珍しいなって」
少し間が空いてから、しげるが小さく笑う。
『……あんたとカイジさんだけにしといたら、どうせ勉強しないでしょ』
私は思わず吹き出した。
「確かに。しげる、私とカイジくんの保護者じゃん」
『嫌な役回りだな』
くすくす笑いながら、私はさらに図書館での光景を思い出す。
「そういえばさ、勉強するって言ったくせに、ノートの端でパラパラ漫画描いてたでしょ」
今度は電話の向こうがぴたりと静かになった。その反応がおかしくて、私は思わず笑みを深くする。
『……見てたの?』
「見えてた。あれで隠してるつもりだった?」
『ククク……』
悪びれる様子はまったくない。
「完成した?」
『それなりに』
「どんなの描いてたの?」
『棒人間が走って転ぶだけ』
しげるがノートの端にそんな落書きをしている想像して私は可笑しくなる。
「わざわざ図書館で描くものじゃないね」
『暇だったし』
「暇なら勉強しなさいよ」
『教えたから勉強したことになるでしょ』
「それは……否定できない」
本人は面倒くさそうな顔をしているくせに、どこでつまずいているのかを一目で見抜いてしまう。ああいうところを見ると、ちゃんと理解しているから教えられるんだろうなと思う。確かに今日一番勉強していたのは、案外しげるだったのかもしれない。
「書いたやつ、明日見せて」
『やだ』
「ケチ」
『ケチで結構』
そんなやり取りを境に、話題はいつの間にか勉強から離れていった。体育の先生が笛を忘れて授業にならなかったこと。購買の焼きそばパンが、今日も一時間目の休み時間には売り切れていたこと。帰り道で見かけた猫が、しげるの膝の上に勝手に乗ってきたこと。どれも明日になれば忘れてしまいそうな、たわいもない話ばかりだった。
それなのに、不思議と話題は尽きない。幼い頃から当たり前のように隣にいた相手だからだろうか。沈黙が流れても気まずくないし、思いついたことをそのまま口にできる。そんな距離感が、二人の間にはずっとあった。ふと時計へ目を向けると、短針は十を過ぎ、長針は六を指していた。
「えっもう十時半?」
思わず声が漏れる。
『一時間近く話してたね』
数学の質問なんて、最初の五分で終わっていた。残りの時間は、全部どうでもいい話ばかり。
「じゃあ、勉強戻るね」
『ん』
「また分かんなかったら電話する」
『はいはい』
当たり前のような返事。幼馴染だからこその距離感。電話を切ると、部屋はまた静かになった。けれど、さっきまで感じていた静けさとは少し違う。誰かと笑って話したあとの部屋は、不思議と寂しくなかった。
私はもう一度シャーペンを握り直し、開きっぱなしだった問題集へ視線を戻す。今度は、不思議なくらい式がすらすらと頭に入ってきた。
