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図書館の自習室は、しんと静まり返っていた。五月も終わりに近づき、窓の外では柔らかな陽射しが若葉を照らしている。少しだけ開けられた窓から風が流れ込み、紙の匂いを含んだ空気をゆっくりと揺らしていた。けれど、その穏やかな景色とは対照的に、自習室には人の姿がない。四人掛けの机が六つ並ぶだけの部屋はとても静かだった。
「俺らの貸し切りだな」
部屋を見回したカイジくんがそう呟き、少しだけ席を吟味したあと、一番奥から二列目の机へ向かった。椅子を引く音が静かな室内に小さく響き、どかりと腰を下ろす。私としげるも自然とその机へ向かい、カイジくんの向かい側へ並んで座った。
鞄から教科書とノートを取り出し、それぞれ机へ広げる。ページをめくる音だけが静かな部屋に溶けていく。
「じゃあ、始めよっか」
私は数学の教科書を開きながらカイジくんへ向き直った。
「カイジくん、どこが分からないの?」
すると返ってきたのは、あまりにも迷いのない一言だった。
「全部」
思わず聞き返す。
「……全部?」
「全部!」
その即答ぶりに、私は思わず隣へ視線を向けた。しげるは教科書をぱらりとめくりながら、小さく肩を揺らす。
「範囲広いね」
「笑ってる場合じゃねえんだって」
カイジくんが思わず声を大きくすると、その声だけが静かな部屋に少しだけ響いた。私は教科書を開き、最初のページを指差す。
「じゃあ、とりあえず例題からやってみよう」
「うぅ……」
観念したようにシャーペンを握るカイジくん。数学の教科書とにらめっこしながら、唸ったり止まったりを繰り返している姿は、普段の強気な様子とはまるで別人だった。
その姿が微笑ましくて、自然と口角が上がるのを感じた。
数分後。
「できた!」
ようやく書き終えたノートを、カイジくんは自信満々に差し出してきた。私は受け取って途中式を追い、教科書の解答と見比べる。しばらく黙っていると、カイジくんが不安そうに顔を覗き込んできた。
「……どうだ?」
「うん」
私はゆっくり顔を上げる。
「間違ってる」
「えぇー!」
静かな部屋に似つかわしくない声が上がった。私は苦笑いしながらノートをしげるへ差し出す。
「しげる先生、教えて差し上げなさい!」
「なんで?」
「なんでって……しげる教えるの上手じゃない。それに私は私の勉強があるの。どうせしげるは勉強するつもりなかったでしょ」
机の上には教科書こそ広げられているものの、しげるのノートは真っ白なまま。さっきからノートのページをぱらぱらとめくっているだけで、勉強するそぶりはない。
「ククク……バレたか」
「バレバレ」
向かいでは、カイジくんが藁にもすがるような目でしげるを見つめている。その視線に気づいたしげるは、小さく息をつくと、観念したようにノートを受け取った。ノートへ目を落とすと、途中式を指でなぞるように確認していく。
「ここ」
短く指差した。
「単純な計算ミス」
「あ……」
カイジくんが目を丸くする。
「ほんとだ……」
しげるの説明は淡々としたものだった。必要以上の言葉はない。それでも、どこで間違えたのかが不思議なくらい分かりやすい。
そういうところは昔から変わらない。受験勉強のときも、私は何度この説明に助けられただろう。難しい問題でも、しげるの口から出ると不思議なくらい単純な話に聞こえる。本人は面倒くさそうな顔をしているくせに、頼られると結局最後まで付き合ってしまう。そんなところが、昔から変わらず優しい。
――あの受験勉強から、もう半年も経つんだ。
卒業式が昨日のことのように思えるのに、季節はもう初夏へ移り変わろうとしている。時間が経つのは、本当に早い。
……って、いけない。
私は小さく頭を振る。今日は人の勉強を見に来たんじゃない。自分自身の課題も終わらせなければ。教科書へ視線を戻し、途中式を書き進める。しかし。
「……あれ?」
答えが合わない。途中までは順調だったはずなのに、最後だけ教科書と違う数字になってしまう。消しゴムで何度も式を消しては書き直し、もう一度計算する。それでも答えは変わらない。
「うーん……」
思わず小さく唸った、そのときだった。ふいにノートへ影が落ちる。
「見せて」
低い声がすぐ耳元で聞こえ、同時に、ふわりと甘いしげる自身の香りが鼻先をかする。驚いて顔を上げると、しげるがいつの間にかすぐ隣まで身を寄せていた。肩が触れそうな距離。切れ長の目は私ではなくノートへ向けられ、長い指が途中式を追うようにゆっくり動いていく。
――近い。そう思った瞬間、胸がどくん、と一つ大きく鳴った。
今までだって隣に座ることは何度もあったし、肩がぶつかることだって珍しくない。しげるのことを異性として意識したことなんて、一度もなかった。
それなのに、こうして顔が触れそうな距離まで近づかれると、急に息の仕方がわからなくなる。ただノートを覗き込んでいるだけ。それだけなのに、心臓だけが勝手に騒がしかった。
「ここ」
しげるは一目見ただけで途中式を指さす。
「あ……」
そこには、自分でも気づかなかった単純な計算ミスが残っていた。
「ほんとだ……全然気づかなかった」
思わず苦笑すると、しげるは元の位置に戻り呆れたように肩をすくめる。
「相変わらずそそっかしい」
「うぅ……」
受験勉強の頃から何度も言われ続けた言葉だけに、反論できない。その様子を見ていたカイジくんが、にやりと笑った。
「もしかしてオレと同レベルなんじゃねえ?」
「それは嫌!」
思わず即答すると、しげるが喉の奥で小さく笑う。
「ククッ……」
「即答すんなよ!」
カイジくんが思わず声を張り上げた、その瞬間だった。
「皆さん、お静かにお願いしますね」
穏やかな声に振り向くと、いつの間にか司書さんが困ったように微笑んで立っていた。三人の動きがぴたりと止まる。
「……すみません」
声を揃えて頭を下げると、司書さんは「ふふ」と小さく笑い、そのまま静かに去っていった。再び自習室を包む静寂。窓の外では風が木々を揺らし、遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。シャーペンが紙を走る音だけが、初夏の午後に心地よく響いていた。
「俺らの貸し切りだな」
部屋を見回したカイジくんがそう呟き、少しだけ席を吟味したあと、一番奥から二列目の机へ向かった。椅子を引く音が静かな室内に小さく響き、どかりと腰を下ろす。私としげるも自然とその机へ向かい、カイジくんの向かい側へ並んで座った。
鞄から教科書とノートを取り出し、それぞれ机へ広げる。ページをめくる音だけが静かな部屋に溶けていく。
「じゃあ、始めよっか」
私は数学の教科書を開きながらカイジくんへ向き直った。
「カイジくん、どこが分からないの?」
すると返ってきたのは、あまりにも迷いのない一言だった。
「全部」
思わず聞き返す。
「……全部?」
「全部!」
その即答ぶりに、私は思わず隣へ視線を向けた。しげるは教科書をぱらりとめくりながら、小さく肩を揺らす。
「範囲広いね」
「笑ってる場合じゃねえんだって」
カイジくんが思わず声を大きくすると、その声だけが静かな部屋に少しだけ響いた。私は教科書を開き、最初のページを指差す。
「じゃあ、とりあえず例題からやってみよう」
「うぅ……」
観念したようにシャーペンを握るカイジくん。数学の教科書とにらめっこしながら、唸ったり止まったりを繰り返している姿は、普段の強気な様子とはまるで別人だった。
その姿が微笑ましくて、自然と口角が上がるのを感じた。
数分後。
「できた!」
ようやく書き終えたノートを、カイジくんは自信満々に差し出してきた。私は受け取って途中式を追い、教科書の解答と見比べる。しばらく黙っていると、カイジくんが不安そうに顔を覗き込んできた。
「……どうだ?」
「うん」
私はゆっくり顔を上げる。
「間違ってる」
「えぇー!」
静かな部屋に似つかわしくない声が上がった。私は苦笑いしながらノートをしげるへ差し出す。
「しげる先生、教えて差し上げなさい!」
「なんで?」
「なんでって……しげる教えるの上手じゃない。それに私は私の勉強があるの。どうせしげるは勉強するつもりなかったでしょ」
机の上には教科書こそ広げられているものの、しげるのノートは真っ白なまま。さっきからノートのページをぱらぱらとめくっているだけで、勉強するそぶりはない。
「ククク……バレたか」
「バレバレ」
向かいでは、カイジくんが藁にもすがるような目でしげるを見つめている。その視線に気づいたしげるは、小さく息をつくと、観念したようにノートを受け取った。ノートへ目を落とすと、途中式を指でなぞるように確認していく。
「ここ」
短く指差した。
「単純な計算ミス」
「あ……」
カイジくんが目を丸くする。
「ほんとだ……」
しげるの説明は淡々としたものだった。必要以上の言葉はない。それでも、どこで間違えたのかが不思議なくらい分かりやすい。
そういうところは昔から変わらない。受験勉強のときも、私は何度この説明に助けられただろう。難しい問題でも、しげるの口から出ると不思議なくらい単純な話に聞こえる。本人は面倒くさそうな顔をしているくせに、頼られると結局最後まで付き合ってしまう。そんなところが、昔から変わらず優しい。
――あの受験勉強から、もう半年も経つんだ。
卒業式が昨日のことのように思えるのに、季節はもう初夏へ移り変わろうとしている。時間が経つのは、本当に早い。
……って、いけない。
私は小さく頭を振る。今日は人の勉強を見に来たんじゃない。自分自身の課題も終わらせなければ。教科書へ視線を戻し、途中式を書き進める。しかし。
「……あれ?」
答えが合わない。途中までは順調だったはずなのに、最後だけ教科書と違う数字になってしまう。消しゴムで何度も式を消しては書き直し、もう一度計算する。それでも答えは変わらない。
「うーん……」
思わず小さく唸った、そのときだった。ふいにノートへ影が落ちる。
「見せて」
低い声がすぐ耳元で聞こえ、同時に、ふわりと甘いしげる自身の香りが鼻先をかする。驚いて顔を上げると、しげるがいつの間にかすぐ隣まで身を寄せていた。肩が触れそうな距離。切れ長の目は私ではなくノートへ向けられ、長い指が途中式を追うようにゆっくり動いていく。
――近い。そう思った瞬間、胸がどくん、と一つ大きく鳴った。
今までだって隣に座ることは何度もあったし、肩がぶつかることだって珍しくない。しげるのことを異性として意識したことなんて、一度もなかった。
それなのに、こうして顔が触れそうな距離まで近づかれると、急に息の仕方がわからなくなる。ただノートを覗き込んでいるだけ。それだけなのに、心臓だけが勝手に騒がしかった。
「ここ」
しげるは一目見ただけで途中式を指さす。
「あ……」
そこには、自分でも気づかなかった単純な計算ミスが残っていた。
「ほんとだ……全然気づかなかった」
思わず苦笑すると、しげるは元の位置に戻り呆れたように肩をすくめる。
「相変わらずそそっかしい」
「うぅ……」
受験勉強の頃から何度も言われ続けた言葉だけに、反論できない。その様子を見ていたカイジくんが、にやりと笑った。
「もしかしてオレと同レベルなんじゃねえ?」
「それは嫌!」
思わず即答すると、しげるが喉の奥で小さく笑う。
「ククッ……」
「即答すんなよ!」
カイジくんが思わず声を張り上げた、その瞬間だった。
「皆さん、お静かにお願いしますね」
穏やかな声に振り向くと、いつの間にか司書さんが困ったように微笑んで立っていた。三人の動きがぴたりと止まる。
「……すみません」
声を揃えて頭を下げると、司書さんは「ふふ」と小さく笑い、そのまま静かに去っていった。再び自習室を包む静寂。窓の外では風が木々を揺らし、遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。シャーペンが紙を走る音だけが、初夏の午後に心地よく響いていた。
