八月二日火曜日
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その日の夜、由香は懐中電灯を握りしめて、学校の前に立っていた。昼間は騒がしい校庭も、夜になるとまるで別物のように静かだった。街灯の光は届かず、校舎の黒い影だけがぼんやりと浮かんでいる。窓はどれも暗く、内側に人の気配はない。
「ほんとに来たね」
夏樹が小声で笑う。半ズボンのポケットに手を突っ込みながら、楽しそうな顔をしていた。由香は少し遅れて到着し、校門の前で足を止めた。金網の向こうにある校舎が、昼間とはまるで違って見える。
「そういえばさ、どうやって入るの?」
香織が由香に尋ねる。由香は懐中電灯を握り直して、校舎の端を指さした。
「用務員さんが泊まってる部屋の近くに、小さいドアがあるんだけど。そこ、たまに開いてるの」
「たまに?」
「うん。用務員さんが見回りに出てる間とか、空いてることがあるんだって」
夏樹が軽い調子で言った。
「その間に入ればいいだけ」
香織は眉をひそめる。
「見つからないかな?」
「大丈夫だろ」
夏樹は笑って肩をすくめた。その軽さに、由香もつられるように頷く。
「……たぶん」
校門の鍵はもちろんかかってる。そのため三人は校舎裏にある校庭へと向かう。そこはフェンスで囲われてはいるが鍵のかからない扉がある。網の扉が風に押されて、わずかに軋む音を立てる。
由香が手を伸ばし扉を押すと、思ったより簡単に開いた。ぎい、と金属が擦れる音が夜の校庭に響く。香織は思わず周囲を見回した。誰もいないはずなのに、その音だけがやけに遠くまで届いた気がした。
「ほんとに入るの?」
一瞬、足が止まる。今ならまだ帰れる。そう思うのに、足は動かなかった。幽霊なんているわけがない。も、もし本当にいたら——。
「大丈夫だって」
夏樹が先に校門をくぐった。懐中電灯をポケットから取り出し、軽く振る。
「ほら、早く」
由香もその後に続く。香織は少し遅れて、最後に校門をくぐった。金属の感触が手に残る。外の世界と内側を隔てるものが、思ったより薄いことに気づいてしまう。校庭は暗かった。昼間見慣れているはずの砂場や鉄棒が、形だけ残したまま沈んでいる。風がないせいか、すべてが止まって見えた。
「用務員室ってあっちだよね」
由香が小さく言い、校舎の端を指した。懐中電灯の光が一斉にそちらへ向く。
校舎の壁は黒く、窓はすべて暗い。反射する光もなく、ただそこに“建っているだけ”のようだった。三人は校舎の脇へ回り込む。用務員室の近くに、小さな勝手口があった。体育倉庫と並んでいて、普段はあまり意識しない場所だ。
「……あれ」
由香が息をひそめる。ドアは、少しだけ開いていた。ほんの数センチ。鍵がかかっていないというより、誰かが“忘れたまま”にしたような開き方だった。夏樹がしゃがみ込み、ドアを軽く押す。ぎ、と音がして、さらに開いた。
中は真っ暗だった。
懐中電灯の光を当てても、奥までは届かない。ただ、廊下の床だけが白く浮かび上がる。
「入れるじゃん」
夏樹が言う。香織はその暗さを見たまま、言葉が出なかった。由香が先に一歩踏み出す。
「早く行こう。見つかる前に」
その声に、香織はようやく足を動かした。
校舎の中へ足を踏み入れた途端、香織は思わず腕をさすった。
外は蒸し暑かったはずなのに、廊下には古いコンクリートの冷たさが残っていた。夏なのに少しだけ寒い。鼻をくすぐるのは、ワックスと古い木の混じった学校独特の匂いだった。
外ではまだ夏の夜の匂いがしていたのに、廊下へ足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。
昼間なら何十人もの生徒が歩いている場所だ。教室から笑い声が聞こえて、先生の声が響いて、上履きの音が絶えず鳴っている。それなのに今は、何もない。自分たちの足音だけが、やけに大きく響いていた。
「……静かすぎない?」
香織が小声で言う。
「学校なんだから静かなの当たり前だろ」
夏樹は笑いながらそう言った。けれど懐中電灯を握る手は、さっきより少しだけ強く柄を握りしめていた。懐中電灯の光が廊下を滑る。掲示板。掃除用具入れ。教室の札。見慣れたものばかりなのに、夜の中では全部が違って見えた。
「とりあえず3階に行こう」
夏樹が階段を指差す。三人は階段へ向かった。一段。また一段。履きなれないスリッパで床を踏むたびにパタパタと音を立てる。階段を上りきると、三階の廊下が広がった。
「……」
香織は思わず立ち止まる。昼間なら短く感じるはずの廊下が、妙に遠く見えた。教室の並びも、窓の位置も知っている。何度も歩いた場所なのに。端が見えない。
「ねえ……」
香織が小さく呼ぶ。
「なに?」
「三階って、こんな長かったっけ?」
由香が黙った。夏樹も一瞬だけ廊下の先を見る。けれどすぐに笑った。
「暗いからそう見えるだけだろ」
そう言って歩き出す。その背中を見て、香織と由香も慌ててついていった。窓の外には校庭が広がっている。月明かりに照らされた遊具が、遠くでぼんやり浮かんでいた。
その時。廊下の奥から、何か音がした。ぺた。ぺた。ゆっくりした足音。三人の足が止まる。
「……今、聞こえた?」
由香が囁く。誰も返事をしなかった。もう一度。ぺた。ぺた。今度ははっきり聞こえた。廊下の先の角。暗闇の中から、誰かが歩いてくる音だった。その瞬間だった。暗闇の奥で、何か白いものが揺れた。
最初は光の反射だと思った。
けれど違う。
ゆっくりと。
一歩。
また一歩。
白いものが近付いてくる。
「……っ」
香織は息を止めた。
人だった。白い髪の少年が、静かに廊下を歩いていた。次の瞬間、由香が悲鳴を上げた。
「きゃああああっ!」
夏樹も一歩後ずさり、そのまま踵を返すように走り出す。二人は懐中電灯を振り回しながら、廊下の奥へ消えていった。
香織だけがその場に残った。しりもちを付き動けなかった。下半身が、床に貼り付いたみたいに動かない。息だけがやけに早くなる。白い髪の少年が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。濡れた足跡が、廊下に点々と続いていた。
「……立てる?」
声は思ったより近かった。低くて、落ち着いていて、怖さがない声だった。気づけば、目の前にいた。その顔がはっきり見える。整いすぎていて、逆に現実味がないくらいだった。年は香織より少し上くらい、「6年生かな」と香織は思った。
だがその若さに似合わず白い髪が額に落ちている。そのまま、少年は手を伸ばした。香織は一瞬、体が固まった。けれど、その手はただ普通に、助けようとするだけの動きだった。おそるおそる、その手を取る。ひんやりと水の冷たさだけが残っていた。立ち上がると、少年は小さく息を吐いた。
「あ、ありがとう……」
礼を言った瞬間には、もう少年は香織を見ていなかった。あたりをきょろきょろと見回しながら、廊下の奥へ歩き出す。ペタペタと先ほど聞いた音が聞こえた。
それは少年が裸足で廊下を歩いている音だった。香織はなぜか、その背中から目を離せなかった。気づけば、足が動いて、後を追うように歩き出した。
「どうして裸足なの?」
「雨に濡れて気持ち悪いから」
香織は不思議に思う。今日一日中雨なんて降らなかった。だが少年が言うように彼の聞いている制服は濡れて薄く素肌を晒していた。
「待って、風邪ひいちゃう。ハンカチしかないけど使って」
香織は鞄からハンカチを取り出すと少年に差し出す。少年はそのハンカチをじっと見つめたかと思うと「ありがとう」とつぶやきハンカチを手に取った。少年は顔や腕を拭きながらまた歩き出す。
「ねえ、夜の学校で、なにしてるの?」
香織は喉が詰まりながらも、なんとか言葉を出す。少年は少しだけ首をかしげる。
「探し物」
「何を?」
間が空いた。少年は困ったような顔をしたあと、静かに言った。
「わかんねえ」
少年の回答に香織は目を点にさせる。
「わからないのに探してるの?」
「そういうこと」
「何も覚えてないの?」
「覚えてない」
「八方ふさがりね」
「ああ」
廊下の奥へ進むにつれて、教室の中を一つずつ覗いていった。
どの教室も同じだった。机は整然と並び、黒板には昼間の名残がうっすら残っている。誰もいないはずなのに、どこか“ついさっきまで誰かがいたような気配”だけが残っていた。
「ここじゃない」
少年は短く言う。
「こっちでもない」
別の教室を覗いても、同じ答えが返ってくるだけだった。香織はその後ろをついて歩きながら、次第に不思議な気持ちになっていた。
さっきまで怖かったはずなのに、今は怖くない。
むしろ、少しだけ気が抜けている。
ただ、少年の背中だけがずっと一定の距離でそこにあった。いくつ目かの教室を見終えた頃だった。遠くから足音が聞こえた。
懐中電灯の光が廊下の端に揺れる。
「おーい!」
夏樹の声だった。その後ろには、用務員の男が困ったような顔でついてきている。
「いた! 大丈夫か!」
由香も息を切らしながら駆け寄ってきた。用務員の男は周囲を見回し、眉をひそめる。
「どこ行ってたんだ……かなり探したよ」
その声を聞きながら、香織は振り返った。そこに、さっきまでいたはずの白い影がいなかった。
「……あれ?」
思わず声が出る。さっきまで隣にいたはずなのに、いない。廊下を見渡しても、階段の方にも、教室の中にも、気配がない。夏樹が心配そうに首をかしげる。
「大丈夫だった?」
「なにが?」
「幽霊がいたじゃん!」
「幽霊じゃなかったよ。普通の人間だった」
香織は言いかけて、言葉を飲み込んだ。本当にそうなのだろうか。説明できなかった。ほんの少し前まで、確かにそこにいたのに。由香が不安そうに言う。
「……香織どこにいたの?ずっと探してたんだよ」
「ずっと3階にいたよ」
「嘘! だって何回も探したのにいなかったよ。ね」
由香は夏樹と用務員のおじさんに同意を求めるように語尾を強めた。
「2時間は探したよ」
用務員のおじさんは大きなため息をつきながらそう話した。夏樹もうんうん。と強く頷き同意する。
香織の体感はせいぜい15分くらいだろう。教室を2,3室回っただけなのだ。香織はふと少年に渡したハンカチを思い出した。
急いでカバンを開き確認するが、ハンカチは入っていなかった。――やっぱり、あの子いたんだ!
だが香織は否定しようとして、やめた。廊下には、足音も、濡れた跡も残っていない。ただ、懐中電灯の光だけが、白く床を照らしていた。もしかしたら、本当に彼が幽霊だったのかもしれない。だから時間がゆがんで……
用務員のおじさんがため息をつく音で空想から呼び戻される。
「もう帰りなさい。まったく……」
三人は促されるまま、校舎の外へ向かった。
外に出ると、夜の空気が一気に押し寄せてくる。
校門の向こうには、いつもの住宅街が見えていた。さっきまでの暗さが嘘みたいだった。
香織は振り返った。校舎はただの学校だった。さっきまでの“何かがいた感じ”は、もうどこにもない。
それでも。
なぜか足だけが、少しだけ冷たかった。
「ほんとに来たね」
夏樹が小声で笑う。半ズボンのポケットに手を突っ込みながら、楽しそうな顔をしていた。由香は少し遅れて到着し、校門の前で足を止めた。金網の向こうにある校舎が、昼間とはまるで違って見える。
「そういえばさ、どうやって入るの?」
香織が由香に尋ねる。由香は懐中電灯を握り直して、校舎の端を指さした。
「用務員さんが泊まってる部屋の近くに、小さいドアがあるんだけど。そこ、たまに開いてるの」
「たまに?」
「うん。用務員さんが見回りに出てる間とか、空いてることがあるんだって」
夏樹が軽い調子で言った。
「その間に入ればいいだけ」
香織は眉をひそめる。
「見つからないかな?」
「大丈夫だろ」
夏樹は笑って肩をすくめた。その軽さに、由香もつられるように頷く。
「……たぶん」
校門の鍵はもちろんかかってる。そのため三人は校舎裏にある校庭へと向かう。そこはフェンスで囲われてはいるが鍵のかからない扉がある。網の扉が風に押されて、わずかに軋む音を立てる。
由香が手を伸ばし扉を押すと、思ったより簡単に開いた。ぎい、と金属が擦れる音が夜の校庭に響く。香織は思わず周囲を見回した。誰もいないはずなのに、その音だけがやけに遠くまで届いた気がした。
「ほんとに入るの?」
一瞬、足が止まる。今ならまだ帰れる。そう思うのに、足は動かなかった。幽霊なんているわけがない。も、もし本当にいたら——。
「大丈夫だって」
夏樹が先に校門をくぐった。懐中電灯をポケットから取り出し、軽く振る。
「ほら、早く」
由香もその後に続く。香織は少し遅れて、最後に校門をくぐった。金属の感触が手に残る。外の世界と内側を隔てるものが、思ったより薄いことに気づいてしまう。校庭は暗かった。昼間見慣れているはずの砂場や鉄棒が、形だけ残したまま沈んでいる。風がないせいか、すべてが止まって見えた。
「用務員室ってあっちだよね」
由香が小さく言い、校舎の端を指した。懐中電灯の光が一斉にそちらへ向く。
校舎の壁は黒く、窓はすべて暗い。反射する光もなく、ただそこに“建っているだけ”のようだった。三人は校舎の脇へ回り込む。用務員室の近くに、小さな勝手口があった。体育倉庫と並んでいて、普段はあまり意識しない場所だ。
「……あれ」
由香が息をひそめる。ドアは、少しだけ開いていた。ほんの数センチ。鍵がかかっていないというより、誰かが“忘れたまま”にしたような開き方だった。夏樹がしゃがみ込み、ドアを軽く押す。ぎ、と音がして、さらに開いた。
中は真っ暗だった。
懐中電灯の光を当てても、奥までは届かない。ただ、廊下の床だけが白く浮かび上がる。
「入れるじゃん」
夏樹が言う。香織はその暗さを見たまま、言葉が出なかった。由香が先に一歩踏み出す。
「早く行こう。見つかる前に」
その声に、香織はようやく足を動かした。
校舎の中へ足を踏み入れた途端、香織は思わず腕をさすった。
外は蒸し暑かったはずなのに、廊下には古いコンクリートの冷たさが残っていた。夏なのに少しだけ寒い。鼻をくすぐるのは、ワックスと古い木の混じった学校独特の匂いだった。
外ではまだ夏の夜の匂いがしていたのに、廊下へ足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。
昼間なら何十人もの生徒が歩いている場所だ。教室から笑い声が聞こえて、先生の声が響いて、上履きの音が絶えず鳴っている。それなのに今は、何もない。自分たちの足音だけが、やけに大きく響いていた。
「……静かすぎない?」
香織が小声で言う。
「学校なんだから静かなの当たり前だろ」
夏樹は笑いながらそう言った。けれど懐中電灯を握る手は、さっきより少しだけ強く柄を握りしめていた。懐中電灯の光が廊下を滑る。掲示板。掃除用具入れ。教室の札。見慣れたものばかりなのに、夜の中では全部が違って見えた。
「とりあえず3階に行こう」
夏樹が階段を指差す。三人は階段へ向かった。一段。また一段。履きなれないスリッパで床を踏むたびにパタパタと音を立てる。階段を上りきると、三階の廊下が広がった。
「……」
香織は思わず立ち止まる。昼間なら短く感じるはずの廊下が、妙に遠く見えた。教室の並びも、窓の位置も知っている。何度も歩いた場所なのに。端が見えない。
「ねえ……」
香織が小さく呼ぶ。
「なに?」
「三階って、こんな長かったっけ?」
由香が黙った。夏樹も一瞬だけ廊下の先を見る。けれどすぐに笑った。
「暗いからそう見えるだけだろ」
そう言って歩き出す。その背中を見て、香織と由香も慌ててついていった。窓の外には校庭が広がっている。月明かりに照らされた遊具が、遠くでぼんやり浮かんでいた。
その時。廊下の奥から、何か音がした。ぺた。ぺた。ゆっくりした足音。三人の足が止まる。
「……今、聞こえた?」
由香が囁く。誰も返事をしなかった。もう一度。ぺた。ぺた。今度ははっきり聞こえた。廊下の先の角。暗闇の中から、誰かが歩いてくる音だった。その瞬間だった。暗闇の奥で、何か白いものが揺れた。
最初は光の反射だと思った。
けれど違う。
ゆっくりと。
一歩。
また一歩。
白いものが近付いてくる。
「……っ」
香織は息を止めた。
人だった。白い髪の少年が、静かに廊下を歩いていた。次の瞬間、由香が悲鳴を上げた。
「きゃああああっ!」
夏樹も一歩後ずさり、そのまま踵を返すように走り出す。二人は懐中電灯を振り回しながら、廊下の奥へ消えていった。
香織だけがその場に残った。しりもちを付き動けなかった。下半身が、床に貼り付いたみたいに動かない。息だけがやけに早くなる。白い髪の少年が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。濡れた足跡が、廊下に点々と続いていた。
「……立てる?」
声は思ったより近かった。低くて、落ち着いていて、怖さがない声だった。気づけば、目の前にいた。その顔がはっきり見える。整いすぎていて、逆に現実味がないくらいだった。年は香織より少し上くらい、「6年生かな」と香織は思った。
だがその若さに似合わず白い髪が額に落ちている。そのまま、少年は手を伸ばした。香織は一瞬、体が固まった。けれど、その手はただ普通に、助けようとするだけの動きだった。おそるおそる、その手を取る。ひんやりと水の冷たさだけが残っていた。立ち上がると、少年は小さく息を吐いた。
「あ、ありがとう……」
礼を言った瞬間には、もう少年は香織を見ていなかった。あたりをきょろきょろと見回しながら、廊下の奥へ歩き出す。ペタペタと先ほど聞いた音が聞こえた。
それは少年が裸足で廊下を歩いている音だった。香織はなぜか、その背中から目を離せなかった。気づけば、足が動いて、後を追うように歩き出した。
「どうして裸足なの?」
「雨に濡れて気持ち悪いから」
香織は不思議に思う。今日一日中雨なんて降らなかった。だが少年が言うように彼の聞いている制服は濡れて薄く素肌を晒していた。
「待って、風邪ひいちゃう。ハンカチしかないけど使って」
香織は鞄からハンカチを取り出すと少年に差し出す。少年はそのハンカチをじっと見つめたかと思うと「ありがとう」とつぶやきハンカチを手に取った。少年は顔や腕を拭きながらまた歩き出す。
「ねえ、夜の学校で、なにしてるの?」
香織は喉が詰まりながらも、なんとか言葉を出す。少年は少しだけ首をかしげる。
「探し物」
「何を?」
間が空いた。少年は困ったような顔をしたあと、静かに言った。
「わかんねえ」
少年の回答に香織は目を点にさせる。
「わからないのに探してるの?」
「そういうこと」
「何も覚えてないの?」
「覚えてない」
「八方ふさがりね」
「ああ」
廊下の奥へ進むにつれて、教室の中を一つずつ覗いていった。
どの教室も同じだった。机は整然と並び、黒板には昼間の名残がうっすら残っている。誰もいないはずなのに、どこか“ついさっきまで誰かがいたような気配”だけが残っていた。
「ここじゃない」
少年は短く言う。
「こっちでもない」
別の教室を覗いても、同じ答えが返ってくるだけだった。香織はその後ろをついて歩きながら、次第に不思議な気持ちになっていた。
さっきまで怖かったはずなのに、今は怖くない。
むしろ、少しだけ気が抜けている。
ただ、少年の背中だけがずっと一定の距離でそこにあった。いくつ目かの教室を見終えた頃だった。遠くから足音が聞こえた。
懐中電灯の光が廊下の端に揺れる。
「おーい!」
夏樹の声だった。その後ろには、用務員の男が困ったような顔でついてきている。
「いた! 大丈夫か!」
由香も息を切らしながら駆け寄ってきた。用務員の男は周囲を見回し、眉をひそめる。
「どこ行ってたんだ……かなり探したよ」
その声を聞きながら、香織は振り返った。そこに、さっきまでいたはずの白い影がいなかった。
「……あれ?」
思わず声が出る。さっきまで隣にいたはずなのに、いない。廊下を見渡しても、階段の方にも、教室の中にも、気配がない。夏樹が心配そうに首をかしげる。
「大丈夫だった?」
「なにが?」
「幽霊がいたじゃん!」
「幽霊じゃなかったよ。普通の人間だった」
香織は言いかけて、言葉を飲み込んだ。本当にそうなのだろうか。説明できなかった。ほんの少し前まで、確かにそこにいたのに。由香が不安そうに言う。
「……香織どこにいたの?ずっと探してたんだよ」
「ずっと3階にいたよ」
「嘘! だって何回も探したのにいなかったよ。ね」
由香は夏樹と用務員のおじさんに同意を求めるように語尾を強めた。
「2時間は探したよ」
用務員のおじさんは大きなため息をつきながらそう話した。夏樹もうんうん。と強く頷き同意する。
香織の体感はせいぜい15分くらいだろう。教室を2,3室回っただけなのだ。香織はふと少年に渡したハンカチを思い出した。
急いでカバンを開き確認するが、ハンカチは入っていなかった。――やっぱり、あの子いたんだ!
だが香織は否定しようとして、やめた。廊下には、足音も、濡れた跡も残っていない。ただ、懐中電灯の光だけが、白く床を照らしていた。もしかしたら、本当に彼が幽霊だったのかもしれない。だから時間がゆがんで……
用務員のおじさんがため息をつく音で空想から呼び戻される。
「もう帰りなさい。まったく……」
三人は促されるまま、校舎の外へ向かった。
外に出ると、夜の空気が一気に押し寄せてくる。
校門の向こうには、いつもの住宅街が見えていた。さっきまでの暗さが嘘みたいだった。
香織は振り返った。校舎はただの学校だった。さっきまでの“何かがいた感じ”は、もうどこにもない。
それでも。
なぜか足だけが、少しだけ冷たかった。
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