八月一日土曜日PM14:00
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山道は木陰になっていた。公園では耳を塞ぎたくなるほどだった蝉の声も、ここまで来ると少し遠い。代わりに風が葉を揺らす音がする。
草の匂い。土の匂い。昨日降った雨がまだ地面の奥に残っているのか、湿った空気がひんやりと肌を撫でていった。
健太は足取り軽く斜面を登る。暑いことには変わりない。背中には汗が張り付き、虫かごの紐も首筋にぺたりとくっついている。それでも足が止まらない。祖父から教わった秘密の場所までもう少しだった。
不思議な兄ちゃんだった。さっきまで公園のベンチで倒れそうな顔をしていたくせに、山道に入った途端、何事もなかったように歩いている。
息も乱れていない。汗すらほとんどかいていないように見えた。――やっぱり変だ。そう思いながらも、なぜか嫌な感じはしなかった。
――そういえば健太は振り返った。
「兄ちゃん、名前なんていうの?」
兄ちゃんは少しだけ黙った。木々の隙間から落ちる木漏れ日が白い髪を照らす。忘れていた何かを探すような間だった。
「赤木」
兄ちゃんはそう答えてから、少し遅れて付け足した。
「……赤木しげる」
「オレ、健太。よろしくね、しげる兄ちゃん」
「よろしく、健太」
それだけ言って、健太はまた前を向き歩みを進めた。
目的の木にはクワガタが一匹、留まっていた。はちみつ誘われてやってきたのだ。誰にも見つかっていない、自分だけが先に見つけた宝物。健太は夢中で捕まえた。
その瞬間、祖父との約束のことなんて頭から消えていた。夜になったら一緒に来ようと言われていたこと。懐中電灯を持って探そうと言われていたこと。
全部忘れてしまうくらい、嬉しかった。
「見て、兄ちゃん! 言ったろ! クワガタいるって」
健太はクワガタの脇を摘みしげるへと差し出す。
「良かったな」
「うん!」
しげるの返事は短い言葉だったけれど、健太はそれだけで満足だった。
その後も、健太は山の中を探し続けた。木の根元を覗き込み、落ち葉をかき分け、古い切り株の裏まで確認する。もしかしたらまだいるかもしれない。もっと大きなやつが隠れているかもしれない。探せば探すほど、次の宝物がどこかに眠っている気がした。けれど、なかなか二匹目は見つからなかった。
気付けば、山の中へ差し込む光は少しずつ色を変えていた。昼間は白く眩しかった日差しが、今は木々の隙間から柔らかな橙色になって落ちている。そろそろ帰らなければならない。そう思い始めた時だった。
「……いるぞ」
突然、しげるが言った。
「え?」
健太が振り返る。しげるが見ている木には、何も変わったところはない。けれど、しげるは迷いなくその木の幹を指差した。
「そこ」
健太は近づいて目を凝らした。最初は木の色に紛れていて分からなかった。けれど、よく見ると。
「……!」
そこにいた。大きなミヤマクワガタだった。立派な刃。黒く艶のある身体。光を受けて、甲羅が金色のようにきらりと光る。
「うわっ……!」
声が出た。今まで捕まえた中で一番大きい。図鑑の中にしかいないと思っていたような、まさに山の王様みたいなクワガタだった。
健太は夢中で手を伸ばした。逃げられないように。傷つけないように。そっと捕まえる。手の中に収まった瞬間、胸の奥がいっぱいになった。
「すごい。本当にすごい。今日だけで二匹も捕まえた!」
思わず声が飛び出した。虫かごへ入れると、二匹のクワガタが中でかさりと動いた。
「すげえ……!」
歓声が山の中へ響いた。しげるはその様子を見ていた。クワガタを見るでもなく、虫かごを見るでもなく。ただ、健太の顔を見ていた。
その目はどこか穏やかだった。まるで自分が見つけたことよりも、健太が宝物を手に入れて喜んでいることの方が嬉しいみたいだった。
気付けばすっかり夕方だった。空は橙色に染まり始めている。
「じゃあオレ帰る」
健太が言うとしげるは木にもたれたまま頷いた。
「兄ちゃんは?」
「オレも帰るよ」
「また会える?」
「さあ、どうだろうな」
健太の言葉にしげるはきちんと答えない。健太は「やっぱり変な兄ちゃんだ」そう思った。でもまた会える気がした。
「じゃあ、またね!」
健太が大きく手を振りながら駆けていく。その姿を見送るようにしげるは片手だけ上げた。
草の匂い。土の匂い。昨日降った雨がまだ地面の奥に残っているのか、湿った空気がひんやりと肌を撫でていった。
健太は足取り軽く斜面を登る。暑いことには変わりない。背中には汗が張り付き、虫かごの紐も首筋にぺたりとくっついている。それでも足が止まらない。祖父から教わった秘密の場所までもう少しだった。
不思議な兄ちゃんだった。さっきまで公園のベンチで倒れそうな顔をしていたくせに、山道に入った途端、何事もなかったように歩いている。
息も乱れていない。汗すらほとんどかいていないように見えた。――やっぱり変だ。そう思いながらも、なぜか嫌な感じはしなかった。
――そういえば健太は振り返った。
「兄ちゃん、名前なんていうの?」
兄ちゃんは少しだけ黙った。木々の隙間から落ちる木漏れ日が白い髪を照らす。忘れていた何かを探すような間だった。
「赤木」
兄ちゃんはそう答えてから、少し遅れて付け足した。
「……赤木しげる」
「オレ、健太。よろしくね、しげる兄ちゃん」
「よろしく、健太」
それだけ言って、健太はまた前を向き歩みを進めた。
目的の木にはクワガタが一匹、留まっていた。はちみつ誘われてやってきたのだ。誰にも見つかっていない、自分だけが先に見つけた宝物。健太は夢中で捕まえた。
その瞬間、祖父との約束のことなんて頭から消えていた。夜になったら一緒に来ようと言われていたこと。懐中電灯を持って探そうと言われていたこと。
全部忘れてしまうくらい、嬉しかった。
「見て、兄ちゃん! 言ったろ! クワガタいるって」
健太はクワガタの脇を摘みしげるへと差し出す。
「良かったな」
「うん!」
しげるの返事は短い言葉だったけれど、健太はそれだけで満足だった。
その後も、健太は山の中を探し続けた。木の根元を覗き込み、落ち葉をかき分け、古い切り株の裏まで確認する。もしかしたらまだいるかもしれない。もっと大きなやつが隠れているかもしれない。探せば探すほど、次の宝物がどこかに眠っている気がした。けれど、なかなか二匹目は見つからなかった。
気付けば、山の中へ差し込む光は少しずつ色を変えていた。昼間は白く眩しかった日差しが、今は木々の隙間から柔らかな橙色になって落ちている。そろそろ帰らなければならない。そう思い始めた時だった。
「……いるぞ」
突然、しげるが言った。
「え?」
健太が振り返る。しげるが見ている木には、何も変わったところはない。けれど、しげるは迷いなくその木の幹を指差した。
「そこ」
健太は近づいて目を凝らした。最初は木の色に紛れていて分からなかった。けれど、よく見ると。
「……!」
そこにいた。大きなミヤマクワガタだった。立派な刃。黒く艶のある身体。光を受けて、甲羅が金色のようにきらりと光る。
「うわっ……!」
声が出た。今まで捕まえた中で一番大きい。図鑑の中にしかいないと思っていたような、まさに山の王様みたいなクワガタだった。
健太は夢中で手を伸ばした。逃げられないように。傷つけないように。そっと捕まえる。手の中に収まった瞬間、胸の奥がいっぱいになった。
「すごい。本当にすごい。今日だけで二匹も捕まえた!」
思わず声が飛び出した。虫かごへ入れると、二匹のクワガタが中でかさりと動いた。
「すげえ……!」
歓声が山の中へ響いた。しげるはその様子を見ていた。クワガタを見るでもなく、虫かごを見るでもなく。ただ、健太の顔を見ていた。
その目はどこか穏やかだった。まるで自分が見つけたことよりも、健太が宝物を手に入れて喜んでいることの方が嬉しいみたいだった。
気付けばすっかり夕方だった。空は橙色に染まり始めている。
「じゃあオレ帰る」
健太が言うとしげるは木にもたれたまま頷いた。
「兄ちゃんは?」
「オレも帰るよ」
「また会える?」
「さあ、どうだろうな」
健太の言葉にしげるはきちんと答えない。健太は「やっぱり変な兄ちゃんだ」そう思った。でもまた会える気がした。
「じゃあ、またね!」
健太が大きく手を振りながら駆けていく。その姿を見送るようにしげるは片手だけ上げた。
