雪かき
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昭和三十四年の冬は、骨に染みる寒さだった。朝のラジオは、いつもの低くくぐもった声で「本日は各地で冷え込みが強くなるでしょう」と告げている。言葉の調子だけで、外の冷気が想像できた。
居間の隅には石炭ストーブがある。昨夜の火はとうに落ち、黒い鉄の胴体は冷え切っていた。指先で触れれば、冬そのものの温度が返ってきそうで、すみれは手を伸ばすのをやめた。
雪は夜のうちに積もったらしい。戸口を開けると、白が音もなく盛り上がっている。踏み跡ひとつない雪面は、朝の光をぼんやりと跳ね返し、まだ誰のものでもない顔をしていた。
すみれは小さく息をつき、竹の雪かきを手に取った。
長靴を履き、外へ出る。厚手のセーターの上に綿入れ半纏。首には少し古びた毛糸のマフラー。息を吐くたび、白がほどけて消える。
雑用仕事で慣れてしまった素手は、最初のうちは平気な顔をしていた。だが、雪に触れるにつれ、指先に鋭い痛みが走る。
冷たさが皮膚を突き抜け、骨に届く。雪は重たい。湿り気を含み、掻くたびに腕にずしりとくる。指は赤くなり、やがて感覚が薄れていった。そのとき、背後で戸口の開く音がする。
振り返ると、寝巻のままのしげるが立っていた。目だけが妙に冴えている。寝起きで跳ねた髪が、その視線とちぐはぐに見えた。
「おはよう。起こしちゃった?」
「おはようございます。……いえ…」
しげるは一瞬間を置いてから答えた。
「……積もりましたね」
「ええ。忙しい朝に参ったわ」
すみれが笑って返しても、しげるは笑わなかった。その視線は、すみれの手に落ちている。
しげるはいつものスニーカーを履き、戸口を出る。
「冷えちゃう」
制止も聞かず近づき、次の瞬間、何も言わずにすみれの冷えた手を取った。
雪の冷気の中で、彼の掌は驚くほど熱かった。両手で包み込まれると、指先の痛みがじわりとほどけていく。
「あったかい」
しげるは何も言わない。ただ、黙って温めている。顔を上げると、しげるはまっすぐこちらを見ていた。親指が、指の関節をそっとなぞる。雪で強張った皮膚が、熱にほどけていく。すみれは、息を飲んだ。
「……しげるくん」
名を呼ぶと、しげるはほんの少しだけ目を細めた。
「そのままにして」
しばらくして、指先に感覚が戻ってくる。その頃になって、しげるはふっと手を離した。途端に、空気が冷たい。すみれは掌を握りしめる。残った熱が、消えるのが惜しかった。
しげるは雪かきを一瞥し、短く言った。
「オレがやります」
それだけ言って、竹を取る。
「ありがとう……あ、待って」
すみれは羽織っていた半纏を脱ぎ、しげるの肩に掛けた。
「その格好だと、風邪ひいちゃうわ」
「あったけえ」
その声音は、さっきよりも柔らかい。
しげるが微笑む。その笑みに、すみれの頬も自然と緩んだ。続けて、自分の首に巻いていたマフラーも、しげるに巻いてやる。
「すみれさんの匂いがする」
「もう、変なこと言わないの」
しげるは雪を踏みしめる。雪を掻く音が、一定のリズムで響き始めた。
すみれは居間に戻り、火鉢に炭を起こす準備をしながら、そっと指先を見つめた。
やがて石炭ストーブに火が入れば、いつもの朝になる。味噌汁の湯気と、食卓と、決まりきった一日の始まり。
けれど今朝だけは。
掌に残った熱が、生活の中に溶けないまま、しばらく消えなかった。
居間の隅には石炭ストーブがある。昨夜の火はとうに落ち、黒い鉄の胴体は冷え切っていた。指先で触れれば、冬そのものの温度が返ってきそうで、すみれは手を伸ばすのをやめた。
雪は夜のうちに積もったらしい。戸口を開けると、白が音もなく盛り上がっている。踏み跡ひとつない雪面は、朝の光をぼんやりと跳ね返し、まだ誰のものでもない顔をしていた。
すみれは小さく息をつき、竹の雪かきを手に取った。
長靴を履き、外へ出る。厚手のセーターの上に綿入れ半纏。首には少し古びた毛糸のマフラー。息を吐くたび、白がほどけて消える。
雑用仕事で慣れてしまった素手は、最初のうちは平気な顔をしていた。だが、雪に触れるにつれ、指先に鋭い痛みが走る。
冷たさが皮膚を突き抜け、骨に届く。雪は重たい。湿り気を含み、掻くたびに腕にずしりとくる。指は赤くなり、やがて感覚が薄れていった。そのとき、背後で戸口の開く音がする。
振り返ると、寝巻のままのしげるが立っていた。目だけが妙に冴えている。寝起きで跳ねた髪が、その視線とちぐはぐに見えた。
「おはよう。起こしちゃった?」
「おはようございます。……いえ…」
しげるは一瞬間を置いてから答えた。
「……積もりましたね」
「ええ。忙しい朝に参ったわ」
すみれが笑って返しても、しげるは笑わなかった。その視線は、すみれの手に落ちている。
しげるはいつものスニーカーを履き、戸口を出る。
「冷えちゃう」
制止も聞かず近づき、次の瞬間、何も言わずにすみれの冷えた手を取った。
雪の冷気の中で、彼の掌は驚くほど熱かった。両手で包み込まれると、指先の痛みがじわりとほどけていく。
「あったかい」
しげるは何も言わない。ただ、黙って温めている。顔を上げると、しげるはまっすぐこちらを見ていた。親指が、指の関節をそっとなぞる。雪で強張った皮膚が、熱にほどけていく。すみれは、息を飲んだ。
「……しげるくん」
名を呼ぶと、しげるはほんの少しだけ目を細めた。
「そのままにして」
しばらくして、指先に感覚が戻ってくる。その頃になって、しげるはふっと手を離した。途端に、空気が冷たい。すみれは掌を握りしめる。残った熱が、消えるのが惜しかった。
しげるは雪かきを一瞥し、短く言った。
「オレがやります」
それだけ言って、竹を取る。
「ありがとう……あ、待って」
すみれは羽織っていた半纏を脱ぎ、しげるの肩に掛けた。
「その格好だと、風邪ひいちゃうわ」
「あったけえ」
その声音は、さっきよりも柔らかい。
しげるが微笑む。その笑みに、すみれの頬も自然と緩んだ。続けて、自分の首に巻いていたマフラーも、しげるに巻いてやる。
「すみれさんの匂いがする」
「もう、変なこと言わないの」
しげるは雪を踏みしめる。雪を掻く音が、一定のリズムで響き始めた。
すみれは居間に戻り、火鉢に炭を起こす準備をしながら、そっと指先を見つめた。
やがて石炭ストーブに火が入れば、いつもの朝になる。味噌汁の湯気と、食卓と、決まりきった一日の始まり。
けれど今朝だけは。
掌に残った熱が、生活の中に溶けないまま、しばらく消えなかった。
