噂話
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噂はいつも水道のそばから始まる。
「南沢さんのとこに来てる親戚の子、見た?」
「あの子、親戚の子だったのね!見た見た。無口だけど、目がきれいでねぇ」
「年のわりに落ち着いてるでしょう?」
「そうなのよ!絶対、将来女に困らない顔だわ」
洗濯物をすすぎながら、夕飯の下ごしらえをしながら、そんな言葉が、長屋の空気に溶けていく。誰かが言ったわけでもないのに、いつの間にか、その少年は―” 南沢さん家の涼しい顔した子”になっていた。
その日の夕方。西日が板塀の影を長く伸ばし、共同納屋の前のコンクリートがまだ少し温かい時間。しげるは共同水道で鍋に水を注いでいた。
「…あの」
振り向くと、同じ長屋に住む少女が立っていた。年は、しげるより一つか二つ上だろうか。薄手のセーラー服を着ていて風が吹くたび、ひらひらとスカートがたなびく。指先が、落ち着きなく裾をつまんでいた。
「急に、ごめんなさい。南沢さんの家の方、ですよね?」
言葉を探す間が長い。逃げ出さないだけで精一杯のようだった。
「…だったら?」
その一言に少女は一度、深く息を吸った。
「…前から、見かけてて…」
言葉が途切れるたび、夕方の鈴虫の声が間を埋める。少しだけ顔を上げて、意を決したように言った。
「…よかったら、少しでいいので…お話、してくれませんか」
告白というほど強い言葉ではない。けれど、それでも十分に勇気のいる申し出だった。しげるは一拍置いてから、ほんの少しだけ口の端を上げた。笑っているというより、試すような表情。
「…ふーん。なに話してほしいの?」
声は低く、淡々としている。そして少しだけ、いじわるだった。女の子は思わず背筋を伸ばす。
「あの、お、お名前教えてください!」
「赤木」
「えっと赤木くん…学校って」
「興味ない」
即答。
「あ、じゃ、じゃあ…好きなもの、とか…」
「特に」
間が空く。それでも、しげるは立ち去らない。女の子は、視線を落としたまま、最後のカードを切る。
「… 南沢さんのこと」
その瞬間、しげるの視線がわずかに動いた。
「…なに」
「南沢さんって、どんな人ですか」
しげるは少し考える。ほんの数秒。でも、それは今までで一番長い沈黙だった。
「うららさんは…ククッ。変わった人」
「えっ」
「お節介で世話焼き、放っておけばいいのに、放っておかない、そんな人」
しげるの笑顔に女の子も、思わず笑ってしまう。
「…あと」
しげるは続ける。
「飯が、うまい」
それだけ。
「…ご飯?」
「味噌汁とか、焼き魚とか…落ち着く味」
それは、褒め言葉だった。女の子は、少しだけ胸が苦しくなる。けれど同時に、納得もした。
「あの…じゃあ、私と話してて、つまらないですか」
しげるは首を振らない。でも、肯定もしない。
「…別に」
女の子の顔が、ぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「けど、期待されると困る。 オレは期待には沿えない」
静かな声でしげるは続ける。
「…だから、ここまで」
それだけ言って、しげるは踵を返す。
「…ありがとう」
背中に、小さな声が届く。しげるは振り返らないまま、言った。
「…どういたしまして」
それだけ、その数回の言葉のやり取りが彼女の心に深く沈んだ。それで終わったはずだった。だが、長屋という場所は、「それで終わり」にならないことが多い。
「ねえ、聞いた?」
「ほら、南沢さんの親戚の坊や」
「声かけられたんですって」
「そうそう!あの佐藤さんのところの明美ちゃんだったみたいよ」
「あら!美男美女でお似合いじゃない」
「でも、断ったらしいわよ」
「それ、佐藤さんの奥さんから聞いたわ。明美ちゃん、ぶっきらぼうだったけど優しかったって絶賛だったみたいね」
「へぇ…」
「今どき、珍しいわね」
「うちの子になってほしいくらいね」
大げさな話にはならない。でも、“ぶっきらぼうだったけど優しかった”という言葉は、妙に心に残って、長屋の中をゆっくり巡っていった。
「愛想はないけど、筋は通ってるわね」
「無口だけど、失礼じゃない」
「南沢さんに似てるわね」
「ええ、あの人が面倒見てるの、分かる気がするわ」
そんなふうに、評価は静かに固まっていく。本人たちの知らないところで。
数日後の夜。ちゃぶ台の上に、夕飯を並べながら、うららは何気なく言った。
「ねえ、しげるくん」
「ん?」
「…近所の人から聞いたんだけど。声、かけられたんですって?」
しげるは一瞬だけ考え、それから頷いた。
「…はい」
「それで…」
うららは、言葉を選ぶ。
「…どうしたの?」
「断りました」
あまりにも簡潔な答え。
「そう…」
うららは、それ以上踏み込まなかった。しげるは、いつも通り無表情で、味噌汁を飲んでいる。けれど、うららには分かる。この子は、逃げずに、向き合って、線を引いたのだと。
「うららさん、妬きました?」
「な、バカ!妬くわけないでしょう」
「ククッ冗談です」
「もう…変な噂にならなくて、よかったわね」
「…うん…でも」
しげるは言いかけて、やめる。
「何?」
「なんでもありません」
「??変な子ね」
静かな返事。その夜、長屋の外では、誰かが桶を伏せる音がして、遠くでラジオの歌が流れていた。うららは、しげるの横顔をそっと見つめながら思う。
この子は、この場所で少しずつ“知られる存在”になっている。
それがいいことかどうか、まだ分からない。けれど、その一歩一歩が、確かに現実だということだけは、胸に残っていた。
「南沢さんのとこに来てる親戚の子、見た?」
「あの子、親戚の子だったのね!見た見た。無口だけど、目がきれいでねぇ」
「年のわりに落ち着いてるでしょう?」
「そうなのよ!絶対、将来女に困らない顔だわ」
洗濯物をすすぎながら、夕飯の下ごしらえをしながら、そんな言葉が、長屋の空気に溶けていく。誰かが言ったわけでもないのに、いつの間にか、その少年は―” 南沢さん家の涼しい顔した子”になっていた。
その日の夕方。西日が板塀の影を長く伸ばし、共同納屋の前のコンクリートがまだ少し温かい時間。しげるは共同水道で鍋に水を注いでいた。
「…あの」
振り向くと、同じ長屋に住む少女が立っていた。年は、しげるより一つか二つ上だろうか。薄手のセーラー服を着ていて風が吹くたび、ひらひらとスカートがたなびく。指先が、落ち着きなく裾をつまんでいた。
「急に、ごめんなさい。南沢さんの家の方、ですよね?」
言葉を探す間が長い。逃げ出さないだけで精一杯のようだった。
「…だったら?」
その一言に少女は一度、深く息を吸った。
「…前から、見かけてて…」
言葉が途切れるたび、夕方の鈴虫の声が間を埋める。少しだけ顔を上げて、意を決したように言った。
「…よかったら、少しでいいので…お話、してくれませんか」
告白というほど強い言葉ではない。けれど、それでも十分に勇気のいる申し出だった。しげるは一拍置いてから、ほんの少しだけ口の端を上げた。笑っているというより、試すような表情。
「…ふーん。なに話してほしいの?」
声は低く、淡々としている。そして少しだけ、いじわるだった。女の子は思わず背筋を伸ばす。
「あの、お、お名前教えてください!」
「赤木」
「えっと赤木くん…学校って」
「興味ない」
即答。
「あ、じゃ、じゃあ…好きなもの、とか…」
「特に」
間が空く。それでも、しげるは立ち去らない。女の子は、視線を落としたまま、最後のカードを切る。
「… 南沢さんのこと」
その瞬間、しげるの視線がわずかに動いた。
「…なに」
「南沢さんって、どんな人ですか」
しげるは少し考える。ほんの数秒。でも、それは今までで一番長い沈黙だった。
「うららさんは…ククッ。変わった人」
「えっ」
「お節介で世話焼き、放っておけばいいのに、放っておかない、そんな人」
しげるの笑顔に女の子も、思わず笑ってしまう。
「…あと」
しげるは続ける。
「飯が、うまい」
それだけ。
「…ご飯?」
「味噌汁とか、焼き魚とか…落ち着く味」
それは、褒め言葉だった。女の子は、少しだけ胸が苦しくなる。けれど同時に、納得もした。
「あの…じゃあ、私と話してて、つまらないですか」
しげるは首を振らない。でも、肯定もしない。
「…別に」
女の子の顔が、ぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「けど、期待されると困る。 オレは期待には沿えない」
静かな声でしげるは続ける。
「…だから、ここまで」
それだけ言って、しげるは踵を返す。
「…ありがとう」
背中に、小さな声が届く。しげるは振り返らないまま、言った。
「…どういたしまして」
それだけ、その数回の言葉のやり取りが彼女の心に深く沈んだ。それで終わったはずだった。だが、長屋という場所は、「それで終わり」にならないことが多い。
「ねえ、聞いた?」
「ほら、南沢さんの親戚の坊や」
「声かけられたんですって」
「そうそう!あの佐藤さんのところの明美ちゃんだったみたいよ」
「あら!美男美女でお似合いじゃない」
「でも、断ったらしいわよ」
「それ、佐藤さんの奥さんから聞いたわ。明美ちゃん、ぶっきらぼうだったけど優しかったって絶賛だったみたいね」
「へぇ…」
「今どき、珍しいわね」
「うちの子になってほしいくらいね」
大げさな話にはならない。でも、“ぶっきらぼうだったけど優しかった”という言葉は、妙に心に残って、長屋の中をゆっくり巡っていった。
「愛想はないけど、筋は通ってるわね」
「無口だけど、失礼じゃない」
「南沢さんに似てるわね」
「ええ、あの人が面倒見てるの、分かる気がするわ」
そんなふうに、評価は静かに固まっていく。本人たちの知らないところで。
数日後の夜。ちゃぶ台の上に、夕飯を並べながら、うららは何気なく言った。
「ねえ、しげるくん」
「ん?」
「…近所の人から聞いたんだけど。声、かけられたんですって?」
しげるは一瞬だけ考え、それから頷いた。
「…はい」
「それで…」
うららは、言葉を選ぶ。
「…どうしたの?」
「断りました」
あまりにも簡潔な答え。
「そう…」
うららは、それ以上踏み込まなかった。しげるは、いつも通り無表情で、味噌汁を飲んでいる。けれど、うららには分かる。この子は、逃げずに、向き合って、線を引いたのだと。
「うららさん、妬きました?」
「な、バカ!妬くわけないでしょう」
「ククッ冗談です」
「もう…変な噂にならなくて、よかったわね」
「…うん…でも」
しげるは言いかけて、やめる。
「何?」
「なんでもありません」
「??変な子ね」
静かな返事。その夜、長屋の外では、誰かが桶を伏せる音がして、遠くでラジオの歌が流れていた。うららは、しげるの横顔をそっと見つめながら思う。
この子は、この場所で少しずつ“知られる存在”になっている。
それがいいことかどうか、まだ分からない。けれど、その一歩一歩が、確かに現実だということだけは、胸に残っていた。
